②14杵築城正面

中へ入ると受付奥の控え室で数人の小母さんが談笑していた。

「いらっしゃいませ」

そのうちの一人が受付へ出てきて、共通観覧券の購入を勧めてきた。

「杵築城のほか、いろんな施設の入場料が一括で割引になりますよ」

それはいいと購入したところ、小母さんは各施設の場所と回り方を地図に書き込みながら説明してくれた。

天守閣の館内を見て回る。
どうやら他に客はいないらしい。

建造から半世紀近く経つだけに、古びた感じのするのは否めない。

杵築に限らず、戦後、全国各地に雨後の筍の如く生まれた復興天守や模擬天守も似たようなものだ。

たとえ模擬天守といっても、本を正せば単なるコンクリート製のビル。

老朽化が進めば取り壊しされることとて有りえない話ではなかろう。

文化財っぽく見えながらも実はそうではない…模擬天守の持つ悲しい定めなのか。

内部は能見松平家の歴史を中心とした資料館になっている。

能見松平家は徳川将軍家の譜代大名。

愛知県岡崎市能見町の領主だったのでこう呼ばれている。

大坂の陣などで挙げた数々の軍功により、元和2(1616)年に下総関宿藩2万6千石の大名に。

その後は転封を重ね、正保2(1645)年に七代目の英親が杵築に移封、そのまま定着した。

②15杵築城展示

館内には藩主が実際に着用した甲冑が展示されている。

大した学歴もない若者が小さな会社に入り、必死に仕事に励んで業績を上げ、全国に築いた支店網の支店長を歴任するまで出世し、最後は社長となって遂に一国一城の主となった…。

この甲冑を眺めていると、そんな日本ならではの「立身出世物語」が脳裏に浮かんできた。

杵築城が一国一城令により破却されたのは皮肉な話ではあるけれど。

②16杵築城法大

展示資料を見て回っているうち、2葉の古びた人物写真に目が止まった。

明治時代の法律家、伊藤修と金丸鉄の肖像である。

隣の中津出身の福沢諭吉が慶應義塾大学を創設したのは有名な話。

だが、同じ東京六大学の法政大学を創設したのが杵築藩士だったことは、あまり知られていない。

法大は明治13(1880)年に伊藤や金丸ら、在野の法律家が東京駿河台に設立した「東京法学社」が始まり。

ここは両氏の功績を展示したスペースなのだ。
中津と杵築…意外なところにライバル関係があったものだ。

②17天守閣遠景

最後に最上階の展望台へ上がり、茫洋とした大海原を眺めながら考えた。

最初は「木付」だった地名が、なぜ後に「杵築」となったのか? 正徳2(1712)年、能見松平家六代重休(杵築藩三代藩主)のときのこと。

徳川六代将軍家宣から下賜された朱印状で「木付」が「杵築」と誤記されていた。

どうやら幕府が木付藩と、出雲大社の別名「杵築大社」を混同したことが原因らしい。

そこで木付藩が幕府にお伺いを立てたところ、木付を杵築と改めることが許された。

以降「杵築藩」が正式な名称となり、現在の杵築市へと至っている。

大友義統が喰らった豊臣秀吉の怒りのとばっちりが飛んできて木付氏は滅亡。

その名を冠した地名も徳川幕府の些細なミスで紙切れのように吹き飛んでしまった。

自ら与り知らぬところで豊臣と徳川に粉々にされ、歴史の渦へ飲み込まれた木付氏。

これはこれで歴史の持つ面白さだと言えよう…木付氏には悪いけど。


[旅行日:2016年4月11日]