①59福沢旧居内部

有難いことに中へ入れてもらえたので、さっそく旧宅へ向かい外観を眺める。

木造藁葺きの平屋建てで間口二間半、奥行十五間ほど。

旧宅と言いつつもピッカピカに整備されている。

屋根は藁葺きだが軒先は瓦葺き 土壁はまるでプリンのように滑らかなクリーム色をしている。

ここは大坂から来た諭吉が少年から青年時代まで過ごした家。

諭吉は早くから学問を志して中津を出たので十数年しかいなかったのだが。

福澤家自体も明治初頭に東京へ転居。

その後は親戚の渡辺氏が居住し、次いで旧藩主奥平家の所有となった。

明治43(1910)年に同家から寄贈を受けた中津市が、以来管理している。

中へ入れば今でも誰かが住んでいるんじゃないかと錯覚するほどの小綺麗さ。

なぜか縁側に糸車が置かれていて、思わずガンジーを連想してしまった。

福澤諭吉の旧宅でガンジーを連想するとは、その思想に共通項でもあるのだろうか?

①60福沢土蔵外観

少年の頃、勉強部屋に使っていたという土蔵が庭に立っている。

諭吉が自ら手直ししたそうで安政元(1854)年に長崎へ遊学する19歳ごろまで、中で米を搗いたり、二階の窓辺で勉強していたそうだ。

土蔵の中に入ると左側に急傾斜の梯子段。

エッチラオッチラ上っていくと、薄暗い屋根裏部屋で窓の明かりを頼りに勉学に勤しむ諭吉少年の像があった。

ただし、手前に柵があって像には近寄れない。

①61福沢土蔵二階

賽銭のつもりか書見台との間に小銭が散らばっている。

福澤諭吉は神様ではないし、拝んだところでどれだけご利益があるのかは分からない。

しかし「学問のすゝめ』の著者に神頼みするとは筋違いもいいところ。

諭吉少年像に心があるなら(俺を拝むぐらいなら勉強しろ)と思っているに違いない。

①63福沢中庭銅像

旧宅と福澤記念館の間に銅像が立っている。

オリジナルは諭吉を敬愛する彫刻家の和田嘉平治が昭和5(1930)年に制作。

当初は交詢社の談話室や慶應義塾の会議室に設置されていたそう。

昭和9(1934)年に中津へ引き取られ、現在地に据えられたという。

ところが戦時中、何と金属供出の憂き目にあって消失!

現在の銅像は終戦後の昭和23(1948)年、和田の手で改めて作られ、同じ台座の上に設置されたものだ。

それにしても明治維新の生んだ偉人の一人ともいうべき福澤諭吉の胸像すら砲弾に変えてしまった大東亜戦争とは一体なんだったのだろう。

慶大の校章は2本のペンの打っ違い。

だが胸像の供出は皮肉なことに「ペンは剣よりも弱し」を証明してしまったことにならないか?

アレコレ考えながら福澤記念館の入口をくぐると、またしても正面に福澤翁の胸像。

①64福沢記念館銅像

そういえば駅前広場にも銅像が立っていたし、ビジネスホテルの屋上にも像らしきものの影が。

これじゃ中津は奥平藩ではなく、まるで福澤藩だったようではないか?

そんな戯言はさておき、福澤記念館の中を見て回る。


[旅行日:2016年4月11日]