堀川に架かる橋とも呼ぶにはためらうほどの小さな橋を渡り、北堀川町から南堀川町へ入った。
碁盤の目のように整然と区切られた城下町ならではの街並みを歩く。
ただ、諸町通りのような江戸時代の商家や武家屋敷は見かけない。
古い家屋は結構あるが、どれも明治以降に建てられたと思しきものばかり。
やはり福澤諭吉が中津城の破却を進言した顰みに倣い、中津の人々は江戸時代の建物を惜しげもなく建て替えたのだろうか?
そんなことを考えているうち「留守居町」という町に出た。
小笠原時代からの町名で、藩の役職名「留守居役」に由来しているそう。
道の右側に連なる臙脂色の重厚な土塀の向こう側には立派なビルが。
その先には古民家の茅葺き屋根が土塀の上に顔を覗かせている。
ここが福澤諭吉の記念館と旧宅。
残念ながら開館時間の午前9時には少し早い。
記念館の前を素通りし、道を挟んだ向かい側の福澤公園で時間を潰す。
公園の面積は5200平方m(約1576坪)。
公園の横には観光バスを何台も収容できる広大な駐車場が広がる。
その先にレストハウス「福澤茶屋」の幟[のぼり]がはためいている。
食事処兼土産物屋だが、時間的に人の気配は全く感じない。
オンシーズンには駐車場も茶屋も観光客で溢れ返るのだろう、きっと。
視線を公園に戻すと幾つかの四角形を組み合わせた文様を、地面に石で描いた一角がある。
この地は福澤一家が大坂から中津に戻って最初に住んだ家が立っていた場所。
今残っている旧居は後年になって移り住んだものという。
その最初に住んだ家の間取りを、ここに石組で復元。
しかも明治10(1877)年、諭吉自身が記憶を紐解いて図面を引いたそうだ。
昭和46(1971)年、この宅跡と旧宅が国史跡文化財の指定を受けている。
しかし石で間取りを再現することにどんな意味があるのかよく分からない。
福澤諭吉に対する中津市民の篤信ぶりの顕れなのだろうか?
午前9時、開館したので門の中に入る。
ところが受付に誰もいない。
庭の掃除をしてる人が何人かいるが、こちらに見向きもしない。
月曜の朝イチからやって来る客など迷惑な存在なのだろうか。
そのうち掃除している人が気付いて近寄ってきた。
中に受付の担当者を呼びに行ったが見当たらなかった様子。
結局その庭掃除していた女性が受付で捥りをすることに。
これはもう全く以って時間の無駄と言うほかない。
まぁ、先ほど見た大型観光バスの駐車場を例に取るまでもなく。
普段はドッと押し寄せるツアー客と校祖所縁の地を巡礼する慶大関係者だけで運営費を余裕で賄える裕福な施設なのだろう。
福澤諭吉と何の縁もゆかりもない一介の個人旅行者が冷たくあしらわれるのも自明の理。
福沢諭吉は封建社会を親の仇のごとく憎悪していたが、どうやら福澤記念館は殿様商売のようだ。
[旅行日:2016年4月11日]