①52b西連寺

さらに北進すると「西蓮寺」がある。

天正16(1588)年に光心師によって開創された浄土真宗本願寺派の寺院。

光心師は黒田官兵衛の末弟で、俗名を黒田市右衛門という。

父の黒田職隆[もとたか]が亡くなった折に出家した。

官兵衛が播州から中津に入封した際に随伴し、西蓮寺を建立して初代住職となった。

以来400年以上に亘り現在の二十代住職まで法灯を伝えている。

現在の本堂は天保4(1844)年に再建されたもの。

金剛棟札を見ると発起人は8歳の童子「播磨屋助次郎」とある。

失われた本堂を再建するため、助次郎が山国川から小石を運んでいるのを耳にした総代の小畑親民が深く感激して再建に尽力したそう。

本堂が再建された際は当時の藩主だった奥平第八代昌服が茶会を催している。

①53船場町

寺町からまっすぐ北進して港を目指すうち「船場町」という一角に入り込む。

小笠原藩時代は「侍町」と呼ばれていたが、奥平藩時代になると帆船が頻繁に出入りするようになり「運上場[うんじょうば]」(徴税所)が設置される。

この町も一部の武家屋敷を残して「港」に関係する人々が住む商人町となり「船場町」と呼ばれるようになったという。

さらに北へ向かう。

中津の古代地名は上小路(南側)、中小路(中心部)、下小路(北側)の三地区に分かれていた。

近世に入ると市町村制が敷かれ中津市も町名が割り振られたが、下小路の名称はそのまま残された。

この下小路あたりを一番地として中津市の地番が振られていったという。

①54御船寄

やがて道は堤防に突き当たり、石段を登ると眼下に船溜りが広がる。

この一番地に隣接する小さな港は藩政時代、藩主参勤の御座船「朝陽丸」と随行する御用船の係留港。 このため「御船寄[おふなより]」「御船入れ」などと呼ばれる由緒正しい港だった。

御船寄から堤防を超えて戻ると、そこは広い神社の境内。

闇無浜[くらはしはま]神社という。

①55a闇無浜神社

第十代崇神天皇の御代、天平の太宰小弐藤原広嗣謀反の折、朝廷が遣わせた征西将軍が朝敵退散を祈願したのが由来。

宝亀2(771)年の疫病、延暦9(790)年の天災、天慶4(941)年の藤原純友の乱、弘安4(1281)年の元寇など、国難に見舞われるたび祈願を捧げたところ神威が顕れたという。

このため黒田、細川、小笠原、奥平と歴代の中津藩主は社殿の造営や修復を行い、神輿や神宝などを奉献するなど崇敬の篤い神社だったそうだ。

①55b南堀川町

闇無浜神社から南へ。 途中、細い川が流れている。

細川藩時代に町割りした際、川を堀として利用したことから「堀川」と呼ばれるようになり、この一帯も「堀川町」と命名された。

奥平藩時代になると堀川町は拡張されて南と北に分割。

明治以降は堀川を埋め立て町屋を作り、現在の姿になった。


[旅行日:2016年4月11日]