①51寺町

ホテルのチェックアウトタイムは午前11時。

早起きし、それまでの間に再び中津の町を散策する。

月曜の朝8時、既に町は動き出している。

日ノ出町商店街を通り、裏路地をくぐり抜け、寺町へ。

寺町はどこの城下町にもある共通の都市施設。

都市周辺部に多くの寺院を固めて配置することにより、敵が攻め込んできた際に町を防御する役割を担うとともに、前線の拠点としての機能を担っていた。

中津城の場合は総曲輪の東側にあり、島田口から北東方面の蛎瀬口にかけての城下防備を目的に設けられている。

黒田入封以前からある地蔵院・安随寺。
黒田藩時代に開基の合元寺・大法寺・円応寺・西蓮寺。
細川藩時代の普門院・宝蓮寺・本伝寺。
小笠原藩時代の円竜寺・浄安寺。
そして奥平藩時代の松厳寺と計12寺が建立されている。

ちょうど通学時間帯ということもあり、子供たちが集団を組んで小学校へ向かっている。

年長者のリーダーが年少者たちを率いて道を進む姿は、昔も今も変わらないのだろう。

①52合元寺

そんな寺町の中でひときわ目を引く寺があった。

「合元寺」、別名「赤壁寺」。

天正15(1587)年、黒田孝高が姫路から恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来を移し、空誉上人を開山に迎えて建立した浄土宗西山派の寺院だ。

天正17年4月、黒田氏の入国に反対した前領主の宇都宮鎮房が中津城内で謀殺された。

その際に中津城を脱出した鎮房の従臣たちは、この合元寺を拠点に黒田の手勢相手に奮戦。

しかし従臣たちは片っ端から斬り伏せられ、その血で壁一面が赤く染まった。

以来、門前の壁は何度白く塗っても血が染み出してくるため、ついに赤く塗ったという。

今でも庫裏の大黒柱に刀痕が点々と残され、激戦の様子を今に伝えているそうだ。

戦士した宇都宮家の家臣たちは合葬され、寺内の延命地蔵菩薩堂に祀られている。

ちなみに空誉上人は宇都宮鎮房の庶子であったと伝わり、文武の道に秀で、世人の崇敬が篤かった。

このため後事を恐れた黒田長政は慶長16(1611)年、空誉上人を福岡城内で誘殺した。

いずれにせよ、壁の色そのままに因縁めいた寺に違いない。

合号寺から北に進むと、またも大きな寺がある。

「円応寺」。 天正15(1587)年に黒田官兵衛の開基によって建立された浄土宗の寺院だ。 開山は真誉上人見道大和尚。

慶長5(1600)年、見道和尚は黒田氏に従って福岡へ移り、同名の円応寺を開いている。

ここで有名なのは境内の「河童の墓」と伝わる五輪塔。

この墓、実は河童ではなく、宇都宮鎮房に一の太刀を浴びせた野村太郎兵衛祐勝のものだと伝わっている。

ちなみに野村祐勝は黒田二十四騎の一人で「黒田節」母里多兵衛の異母弟である。


[旅行日:2016年4月11日]