①42奥平神社

いよいよ天守閣へ…と、その前に。

正面に奥平神社、左手に中津大神宮が鎮座している。

城跡というより神社の境内に天守閣を後付けで拵えたような錯覚にとらわれる。

奥平神社は中津を治めた奥平家を祀った神社だ。

奥平家が歴史の表舞台に登場したのは初代貞能[さだよし]と貞昌[さだまさ]父子。

天正3(1575)年5月「長篠の戦い」での活躍だった。

武田勝頼軍1万5千人に長篠城が包囲され、城主貞昌はわずか500人で籠城、激しい攻撃に耐え続けた。

食料がなくなり田螺[たにし]を食べて戦い続けたことにちなみ、今でも毎年5月21日ごろ「たにし祭」を行っている。

長篠城が落城寸前、織田信長・徳川家康連合軍が到着。

長篠城の西方約3kmの設楽原で武田軍と織田・徳川連合軍が激突し、武田軍は大敗北。

この戦功で貞昌に新たな領地が与えられ、信長から「信」の一字が偏諱されて「信昌」と改名。

信昌は家康の長女亀姫を正室に迎え、家康の孫に当たる四男一女が誕生した。

長男家昌は奥平家を継ぎ、二男から四男は松平姓を賜り、四男の松平忠明は大阪城や姫路城の城主を務めている。

奥平家は長篠の戦いの後、新城城、加納城、宇都宮城、宮津城などを経て、享保2(1717)年に奥平家第七代昌成が中津十万石の領主として入封。

第15代昌邁まで155年にわたり中津を治めて明治維新を迎える。

①43中津城天守外観

奥平神社にお参りした後、いよいよ天守閣へ。

現在の天守閣は昭和39(1964)年に建設された模擬天守。

設計は東京工業大学の藤岡通夫博士で、地下1階5層5階で高さ23m、鯱1.4m、床面積延795平方m。

内部は奥平家に関する歴史的資料館。

歴代藩主が着用した甲冑や陣羽織、長篠の戦で用いられた法螺貝、織田信長から徳川家康が拝領したと伝わる白鳥鞘の槍、鳥居強右ェ衛門磔の図、徳川家康御宸筆の軍法事、徳川吉宗の花押領地目録などが展示されている。

①44中津城天守眺望

天守閣のテッペンに立ち、中津川が海へ注ぎ込む風景を眺める。
豊臣と徳川の争いに乗じて九州を制覇した黒田官兵衛孝高。

拠点としたのが、ここ中津城だった。

中津城が歴史に登場するのは天正15(1587)年、官兵衛が豊臣秀吉から豊前6郡12万石を与えられたのが始まり。

山国川の河口デルタで、海に面した城下町を築ける平野が広がる中津の地を選び、翌16年に築城をスタートした。

ここは軍事的にも西に山国川、南と東に大家川が流れ、北に周防灘が広がる要害の地。

なお、大家川は後に細川忠興の築いた金谷堤によって塞がれている。

同時に瀬戸内海を通じて畿内への海路が確保できる重要な港でもあった。

官兵衛は大坂ー鞆の浦(広島県)ー上関(山口県)に拠点を設けてリレー形式の早船を配置。

わずか3日で大坂と連絡を取れるようにしていたそうだ。


[旅行日:2016年4月10日]