①27小笠原長勝公墓

墓地の奥、寺の建屋の横に立派な墓が立っている。

黒田・細川の次に中津の城主となった小笠原家、その二代目藩主長勝の墓だ。

寛文8(1668)年2月、島原藩松倉家が悪行の科で幕府から改易を申し付けられた時のこと。

小笠原家は平戸藩松浦家とともに島原城受け取りの大役を命じられ、無事に御役目を完了。

その功によって長勝は豊後高田藩2万8000石を賜った。

天和2(1682)年、長勝は江戸にて37歳で病死。

これは江戸・広徳寺に建てた墓を後に移設したものだ。

①28自性寺おかこい山

墓地は山国川の近くに広がり、川と隔てる格好で小高い土手が築かれている。

堤防ではなく「おかこい山」という土塁である。

中津城は城下町の外周や場内に堀を持つ総構えの城で、外敵の侵入を阻むため外堀の本丸側に
約2.4kmにも及ぶ長大な土塁を構築。

おかこい山を切るように設置された城戸口を通過しないと城下町に入れなかった。

城戸口は先ほど通った島田口のほか、金谷口、広津口、小倉口、蛎瀬口、大塚口の6カ所にある。

①29外馬場

自性寺を出て諸町通りを西に進むと道が狭まっていく。

今度は本物の堤防に突き当たり、超えると山国川の河原に出た。

中津城築城に伴い総曲輪の西側に当たる山国川東岸一帯には鉄砲矢場、兵式調練場、外馬場が設置された。

奥平藩時代、場内の道路両側に町屋が建てられ、この地は「外馬場」と呼ばれるようになったという。

さほど護岸工事なども行われていないようで、川を包み込む風景はさほど昔と変わらないように見える。

往時、この河原で武芸に励む武士たちの姿が目に浮かぶようだ。

堤防の上を中津城に向かって歩いていくと、広い県道との交差点を渡ると右手に魚市場が見えた。

食堂でも営業しているかと思ったが、おてんと様が頭の上にある時間帯。

魚市場が動いている気配はなく、物音ひとつ聞こえてこない。

そのうち堤防から城跡方面へ下りていく道が現れた。

Y字路に立つ説明板によると江戸時代ここに山国川の船渡場「小倉口渡」があったという。

①30小倉口

この坂を下ったところにあるのが城戸口のひとつ、小倉口。

城下町外堀の西南隅にある、小倉へ続く道の起点である。

西側から小倉口へ入ると近接する西門から場内へ入ることのできる重要な入り口だった。

門の構造は二本の柱に横木を渡しただけの冠木門で、監視用の番所が設置されていた。

中津市歴史民俗史料館に所蔵されている『藩主帰還の図』には、対岸の小犬丸渡船場から山国川を渡ってきた藩主の乗る御座船を、外馬場から小倉口まで大勢の人が出迎える様子が描かれている。

往時は外堀に欄干を備えた立派な太鼓橋が掛かっていたそうだが、埋め立てられ狭い水路となった今、橋は小さくなってしまった。

[旅行日:2016年4月10日]