紺地に「南部まちなみ交流館」と白く染め抜かれた大きな暖簾がかかる歴史的建造物を見かけた。
元々は江戸時代に「宇野屋」の屋号で造酒屋や米問屋として栄えた商家。
それを中津市が平成26(2014)年に文化財として保存・整備した観光拠点施設である。
柱や梁など建設当時の建材を可能な限り残し復元。
梁には「文化十二年子八月」(西暦1815年)と築年を示す墨書きが残っており、ちょうど建造から200年ほど経っていることが分かったそうだ。
館内には無料のお茶が用意されており、街歩きの途中で休憩するのに最適。
この建物は地域活動にも利用されていて、展示物などを眺めながら一服つけられる。
単なる休憩所にしては非常に贅沢な時間が流れる空間だった。
諸町通りを西、山国川に向かって歩いている。
通りが尽きる辺りに大きな寺が立っている。
自性寺、奥平藩歴代の菩提寺だ。
創建は藩祖信昌が三河国新城の領主だった時代で、当初は金剛山万松寺と称した。
その後は奥平藩の転封に付き従い、享保2(1717)年の6代藩主昌成の転封とともに中津へ。
延享2(1745)年に自性寺と改称し、現在に至る。
角を曲がってすぐのところに小さな入り口があった。
遥か先に大きな入り口が見えるので、そちらが自性寺の山門だろう。
ここは池大雅[いけのたいが]の障壁書画47点を中心に展示している美術館「大雅堂」の入り口。
大雅は与謝蕪村と並ぶ日本の文人画の大成者と評されている、江戸中期の画家・書家。
文人画とは教養ある知識人が心の赴くままに描いた雅趣に富む絵のことだ。
保存展示されている障壁書画は大雅夫妻が中津に滞在していた折、描いたもの。
「画禅一味、書禅一味」と称される芸術作品は、県重要文化財に指定されている。
しかし先を急ぎたかったので大雅堂を見ることなく裏手の墓地へ。
そもそも本命の中津城にすら、まだお目にかかっていないのだ。
墓地の前は駐車場になっていて、その奥に一基の碑が立っている。
「田原 淳[たわら すなお] 碑」
近くに説明板もあったが、目も止めずに素通りした。
墓地に入ると、狭い敷地内には様々な形状をした墓石が適度な間隔を置いて立っている。
目の前に祠のような形状をした墓。
その前に立つ説明板には「河童の墓」とある。
自性寺十三代海門和尚には、女性などに取り憑いた河童を仏縁により改心させた…という伝説が残っているそうだ。
しかも寺には河童が書いた詫び状も伝わっているという。
本当に妖怪の河童だったのか?
それとも女性にまとわりつく河童に似たストーカーを追っ払っただけなのか?
真実を知りたがるの野暮というものか。
[旅行日:2016年4月10日]