①17高野長英蔵外

「裏に蔵がありますが、ご覧になりますか?」

ドラミちゃんからお誘いを受けた。

普段は鍵が掛かっているため、内部を見学するには開錠してもらう必要があるそうだ。

白壁で二階建ての土蔵で、入り口の前に小さな看板が立っている。

この蔵に幕末の一時期、シーボルト事件で追われていた高野長英が匿われていたという。

中に入ると江戸時代から伝わる医学関連和書の数々が、ガラスケースに収められ丁寧に陳列されている。

その中に、高野長英が持参したと伝わる蘭文(オランダ文字)の学問訓が掲げられている。

「水滴は石をも穿つ」

最後までやり抜かなければ、最初からやらないほうがよい…現代でも通じる学問訓だ。

二階へ通じる階段の先に薄い格子戸があり、その奥の部屋に長英は匿われていた。

長英は江戸後期の蘭学者、思想家で、若くしてオランダ医学を修めた秀才だった。

文政8(1825)年に長崎へ赴任し、ドイツ人医師シーボルトの鳴滝塾に入門。

ところが文政11(1828)年、シーボルトが帰国する折に御禁制の日本地図などを海外に持ち出そうとしたことが発覚。

翌12(1829)年にシーボルトは追放され、大勢いた門下生たちはことごとく捕縛、断罪された。

そんな中、長英は長崎から何とか脱出に成功。

逃亡の途中、この土蔵に潜伏していたのだろう。

①18高野長英蔵内

土蔵から出、ドラミちゃんに礼を言い、史料館を後にした。

諸町通りを歩きつつ、高野長英について引き続き考えてみる。

長英は天保9(1838)年に出版した『戊戌[ぼじゅつ]夢物語』で幕府の異国船撃攘策を批判。

翌10(1939)年の蛮社の獄で北町奉行所に自首し、幕政批判の罪で永牢[えいろう](無期禁固刑)のお裁きを受ける。

ところが弘化元(1844)年、40歳の時に自ら画策した放火に乗じて小伝馬町の牢舎から脱獄に成功。

その後は宇和島藩主伊達宗城に蘭学を教授したり、江戸で高橋柳助や沢三伯の名で医業を営んだりしていた。

嘉永3(1850)年10月、長英は家宅で幕府の捕史に踏み込まれ自刃する、47歳のことだった。

①19村上記念病院

諸町通りを歩きながら長英のことを考えていると「村上記念病院」という看板が目に止まった。

無論ここは村上医家が経営する病院。

江戸時代から現代へと続く、まさに医療の「大河ドラマ」的な存在だ。

諸町通りで「むろや醬油」の看板を掲げた古い商家を見かける。

板戸は閉ざされ、とっくに現役を引退した歴史的建造物か…と思いきや。

日曜でお休みしていただけで、現在でも現役バリバリのお醬油屋さんなのだ。

初代菊池安之丞が開業したのは享保元(1716)年というから、ちょうど今年で創業300周年という老舗中の老舗。

小笠原家、細川家、奥平家と代々の藩主に献上されてきた「中津の味」である。

むろや醬油の特徴は機械化で生み出される量産品ではなく、江戸時代から受け継いできた製法で手作りされていること。

国産の大豆と小麦から仕込んだ種麹を生醤油に1年間漬け込み、発酵させた諸味(醪)を圧搾して生揚[きあげ]醬油を作る「再仕込み醸造」という製法だ。

製造から瓶詰めまで全工程手作業という前近代的な醸造メーカーが、よく生き延びていられるものと思う。

周防灘から水揚げされる新鮮な海の幸や、ソウルフード「中津からあげ」の味わいに欠くべからざる存在なのだろう。

これぞ理想的な「地産地消」ではないかと思える。

①20むろや醤油


[旅行日:2016年4月10日]