4t下鴨016

鏡絵馬の棚の前に簡素な庵がポツネンと佇んでいる。

棚から発せられる女たちの美への執念とは真逆で、欲望の象徴ともいえる一切の虚飾が剥ぎ取られている。

対照的な両者が間隔を空けずに対峙している光景は、なかなか興味深いものがある。

この草庵は名随筆「方丈記」でおなじみ、鴨長明の住まい「方丈の庵」を復元したものだ。

鴨長明は仁平3(1153)年、河合神社の禰宜[ねぎ]長継の次男として誕生。

幼少時から和歌や琵琶などの才能に恵まれ、その学才が後鳥羽上皇に見い出される。

上皇が設立した御和歌所[おうたどころ]の寄人[よりうど]に抜擢。

藤原定家らとともに宮廷歌人として活躍し、まさに出世街道を驀進する。

さらに長明が20歳のころ父長継が死去し、その跡を継いで河合神社の禰宜になることを決意。

後鳥羽上皇の内諾も取り付け、悲願が成就しようとしたその矢先、まさに好事魔多し。

賀茂社のトップで一族の祐兼[すけかね]から思いもよらぬ横槍が入る。

祐兼の言い分は「長明は歌人の活動を優先して賀茂社の仕事を疎かにしていたので禰宜になる資格なし」というもの。

まんざら現代の企業社会でもあり得ないことではない事例にも思える。

本業と無関係の分野で派手に立ち回ると、それが災いして出世の妨げになるとか。

現代なら「会社のPRになるから」という逃げ道もないことはなかろうが、それも程度によるだろう。

ただ長明のケースには裏があったようで、本当は祐兼が長男の祐頼[すけより]を禰宜に据えるのが目的だったらしい。

祐兼が賀茂大神の御神意まで持ち出す強引な運動のおかげで、祐頼は無事に“就職”が叶う。

社長がドラ息子を取締役に引き上げるため、有能な役員に難癖をつけて放逐する様子とどこか似ているような。

[旅行日:2014年3月20日]