時代は下って昭和20(1945)年、空襲で坐摩神社もろとも丸焼けとなる。
昭和26(1951)年6月、陶器神社は坐摩神社の境内から遷座。
西横堀川西側(現在の江戸堀~新町)の瀬戸物町[せともんちょう]近くに再建される。
ところが昭和46(1971)年、今度は阪神高速道路の建設用地となり再び立ち退く憂き目に。
しかし、文字通り「捨てる神あれば拾う神あり」。
西横堀問屋街の陶器商からの寄付や全国の陶芸作家から賛同が寄せられ。
同年11月に坐摩神社の境内へ再び遷宮鎮座されることと相成った。
この際に寄贈された豪華な陶器の皿が20枚ほど、本殿の天井に取り付けられているそうだ。
ちなみに本殿内は原則非公開なので、残念ながら参拝客の目に触れる機会はない。
裏門の向かいにある高速道路の下に入り口があったので、試しに中へ入ってみた。
そこは商店街のような造りになっている。
しかしそこにはコンビニと立喰うどん屋があるだけで、どこかガランとしている。
しかも、うどん屋は店を開けているのに店員がいない。
午後の昼下がりというアイドルタイムだけに止むを得ない気もするが、それにしても老婆心ながら不用心過ぎる。
高架下から出て本町駅へ向かうと、高速道路が交差する十字路の下に陶器神社への案内看板を見かけた。
大阪における陶磁器商のルーツは肥前鍋島家の上屋敷に送られてきた伊万里焼を捌いた商人に端を発する。
後に尾張産の“瀬戸物”を扱うようになると市場が拡大し、西横堀川沿いに問屋街が形成されることに。
遂には延宝8(1680)年、西横堀川西岸が先述の「瀬戸物町」と呼ばれるまでに急成長を遂げる。
幕末から明治期にかけて、この一帯は200以上の陶器商が軒を連ねていたそうだ。
[旅行日:2014年3月19日]