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入り口には左右に看板が掛けられている。

右側には「坐摩神社社務所」、左側には「大阪府神社庁」。

つまり、このビル自体が大阪府神社庁のビルということか。

坐摩神社、まさしく現在の「大阪府一之宮」だったわけだ。

ちなみにお手洗いは神社の施設のレベルを超え、オフィスビル仕様の快適なそれだった。

社務所正面から右手に向かうと、そこに小さな碑が立っている。

黒色の石碑に白色で「上方落語寄席発祥の地」と刻まれている。

これは「上方落語中興の祖」初代桂文治の功績を讃えたものだ。

噺家として初代文治の評判が高まったのは寛政6(1794)年ごろ。

船場の南西にある新町遊郭で落語を演じていた時代のことだ。

同10(1798)年ごろ、境内に大阪初の寄席を建てて移ってきた。

従来の大道芸然としていた落語を専用の建物で演じるように。

現在のような興行形式が始まったのが「寄席発祥」の由来となったわけだ。

初代文治は道具や鳴物を用いた「芝居噺」が“名人”と称されるほど上手かったそう。

上方落語の定番「芝居噺」とは、歌舞伎の雰囲気を取り入れた賑やかな落語のことだ。

「文治」の名跡は三代目の時、上方と江戸に分裂することとなった。

上方の文治は五代目で途絶するも、東京で襲名した七代目が一度大阪へ戻ってきた。

文治の名跡は八代目から再び東京へ戻るが、七代目の弟子たちが上方で桂派の流れを受け継ぐ
ことに。

桂派は現在、人間国宝の桂米朝や上方落語協会会会長の桂文枝ら、上方落語の一大勢力となっている。

一方、東京の文治は現在十一代目が健在だ。


[旅行日:2014年3月19日]