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突き当りに参集殿と崇敬会館があり、左側が社殿へ続く参道だ。

途中、左側に瑞垣で囲まれた祓所を見かける。

その隣には我らがスーパーヒーロー、日本武尊命の像が聳立していた。

日本武尊は第十二代景行天皇の御子で、幼少時の名は小碓命(をうすのみこと)。

古事記によると、齢15~16にして兄の大碓命(おほうすのみこと)を格別の恨みもないのに八つ裂きにするほどの粗暴さを見せていた。

そんな小碓命に景行天皇は西国に跋扈する逆賊の征伐を命じる。

サイコパスっぽい性格を怖れたのか、都から追い払う意味もあったかも知れない。

しかも部隊を付けることもなく、与えた戦力はごくわずかな一団。

これでは小碓命を見殺しにするための命令と思われても仕方ない。

ところが、この絶望的な状況が逆に“戦術家”としての才能を目覚めさせることに。

日本武尊は熊曾建(くまそたける)兄弟を女装して騙し討つ奇策に出る。

そして目論見通り討ち果たすと、熊曾建は死ぬ直前こう小碓命に言った。

「あなたはヤマトの国で並ぶ者のない勇者だからヤマトタケルの名を捧げよう」

というわけで、この時から「ヤマトタケル」と呼ばれるようになったのだそうだ。

日本武尊は大和へ帰る途中、出雲国の出雲建(いずもたける)を討伐した。

それも互いに親友の誓いを立てた上、出雲建の刀を木刀とすり替えて斬殺。

こうした騙し討ちの手口に“卑怯”さを覚えないわけでもないが。

部族同士が丸ごと激突して大勢の死人が出ていた時代が終わりを告げ。

偉い人同士が戦って犠牲者が少なく済む時代に移行したと思えば。

日本武尊の“卑怯”さは逆に“知略”だと思えてくる。

源義経の“鵯越”や織田信長の“桶狭間”など小が大を制する戦術。

その原型は日本武尊に求められるのではないかと思えるほどだ。

[旅行日:2014年3月19日]