「堺は大阪の陣で焼け野原になったので、秀吉時代の町並みは残っていないんです」
案内書に着くと中では数名の職員が勤務中で、堺の歴史について色々と教えてくれた。
「堺は天領で家康が碁盤の目のように町割りしたんです。今の堺は家康が作ったんですよ」
どうやら家康は相当な堺贔屓だったようだ。
家康嫌いの大阪とは対照的に、堺は家康好きの町に見える。
「南宗寺(なんしゅうじ)には家康の墓まであるんですよ、ぜひご覧になって下さい」
その話は歴史のミステリーとして小耳に挟んだことがある。
今から丁度400年前の慶長20(1615)年、大阪夏の陣で家康は真田幸村から強烈な痛手を喰らった。
『南宗寺史』には、こう記されているそうだ。
家康が大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れ駕籠で逃げる途中、後藤又兵衛の槍に突かれた。
辛くも堺まで落ち延びたが、駕籠を開けてみると既に事切れていた。
遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した。
後藤又兵衛は黒田如水の家臣で、如水の死後に当主の長政と対立して黒田家から出奔。
長政の手配によりどこの家からも召し抱えられることのないまま、大阪夏の陣で真田幸村の元に馳せ参じたという。
また、家康は本能寺の変の折にも堺に滞在していた。
決死の脱出劇を敢行し、伊賀の地を抜けて三河へと戻ったのは有名な逸話。
この折に家康、実は明智光秀の刺客に討ち取られていたのでは? との説もある。
死は極秘に処され、伊賀を抜ける間に影武者とすり替わった…という内容。
もしこれが本当だとしたら家康は堺で2度死に、2度生き返った(?)ことになる。
イエス・キリストですら1度しか“復活”していないのに。
家康はイエスをも凌駕したのだろうか?
[旅行日:2014年3月18日]