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堀の内側にある森の中には、未だ見たことのない「お宝」の数々が潜んでいる。

実は大仙陵、江戸時代の中頃まで十分な管理が施されていなかったという。

そうした惨状を憂いた時の堺奉行川村修就(ながたか)が嘉永6(1853)年、整備に乗り出す。

まず後円部上にあった勤番所を裏門へ移設し、天皇を埋葬したと伝わる後円部200坪に高さ3尺(約9m強)の石柵を設置した。

明治5(1872)年9月には前方部部正面第2段の上が崩れ、竪穴式の石室に収められた長持形石棺が露出。

また、石室面の間から金銅製の刀剣や甲冑の断片20個、ガラス製の壺と皿が出土した。

これらは埋め戻されたと伝わるが、石棺や甲冑は精密に写した絵図が残っているそうだ。

米ボストン美術館には出土品と伝わる「細線文獣帯鏡」や「単鳳環頭太刀」などが所蔵されている。

どういう経緯で流出したのかは良く分からない。

そもそも大仙陵から出土したものかどうかも不確かなのだとか。

一方、昭和30年代と最近の調査では須恵器の甕が出土。

古墳が造られた年代を知る貴重な資料として話題になった。

大仙陵は日本最大の前方後円墳にふさわしく、周囲に陪塚(ばいちょう)と考えられる古墳が10基以上ある。

だが塚廻古墳を除き、主体部の構造や副葬品が分かっている古墳はほとんどない。

ここ大仙陵も4世紀前半に没したという「古事記」の記述と、5世紀後半の建造時期が合致していない。

山川出版社の日本史教科書にも、学術的には「大仙陵古墳」と呼び「仁徳天皇陵」は使われない…と記載されている。

では一体誰の墓なのだろう?

今のところ、東アジア世界に進出した「倭の五王」の中の一人を葬った墓といわれている。

倭の五王とは中国の六朝時代の史書「宋書」「南斉書」「梁書」などに記された、倭国の讃・珍・済・興・武の5人の王を指す。

だが、具体的に誰のことを意味しているのかは諸説あり特定されていない。

[旅行日:2014年3月18日]