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枚岡駅から乗車した近鉄電車は布施駅から大阪線に入り、難波線を経て大阪難波駅に到着。

ビジネスパーソンとショッピング客でごった返すミナミの地下街を南海難波駅まで歩く。

乗車した高野線の準急電車は、まだ帰宅ラッシュの時間までは間があるせいか閑散としていた。

三国ヶ丘駅で下車すると駅舎は工事中で出口が良く分からない。

当てずっぽうで出てみたら逆方向の出口だったらしく、反対側へグルリと周り込む。

国道310号線(高野街道)を歩いてJR阪和線を跨ぎ、少し進むと左側に突然その入口が現れた。

こんもりとした森に沿う形で、細い路地が左手の奥へと続いている。

標識も看板もないこの路地に向かって歩を進めた。

道の右側は黒い柵で仕切られ、内側には灌木が生い茂り、その奥では堀が水を湛えている。

更にその向こう側には、どこまで続くのか端が見えないほど巨大な森が果てしなく横たわっている。

ここは「大仙陵古墳」、個人的には「仁徳(にんとく)天皇陵」のほうが耳に馴染む。

宮内庁による正式な名称は「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」。

北側の反正(はんぜい)天皇陵古墳、南側の履中(りちゅう)天皇陵古墳とともに「百舌鳥耳原三陵」を形成している。

御陵名の由来が日本書紀に記してある。

仁徳天皇67年の冬10月5日、河内国の石津原に行幸して陵地を定め、同月18日から工事を開始。

そんなある日、野原から走ってきた一頭の鹿が工事現場に乱入しパタンと倒れた。

人夫たちが鹿を調べたところ、その耳の中から一羽の百舌鳥が飛び去って行った。

見てみると内部が百舌鳥に食い散らかされていたという。

それが「百舌鳥耳原」と呼ばれるようになった由縁だそうだ。

それから20年後の87年に仁徳天皇は崩御し、ここに葬られた。

[旅行日:2014年3月18日]