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日本書紀によると即位3年前の2月11日、神武天皇は吉備国を出立して海路を東進。

陸地が近づくと潮の流れが速かったので、この地を「浪速(なみはや)」と命名。

浪速は浪花(なみはな)とも呼ばれ、やがて「難波(なにわ)」へと変化していった。

東征軍は川を遡り、草香(くさか)村にある白肩(しらかた)の港に上陸。

草香村とはここから北へ2キロほどのところにある東大阪市日下町の辺りか。

当初は生駒山南の竜田を超えて大和国へ入ろうとしたものの地形が険しく断念。

草香村に戻った東征軍、今度は生駒山越えを目論むことに。

それを察知した登美の豪族、長髄彦(ながすねひこ)は侵入を阻止しようと動く。

生駒山を挟んだ奈良側には登美ケ丘や富雄(とみお)という地名がある。

この一帯が長髄彦の縄張りだったのだろう。

長髄彦は大軍を組織して孔舎衛(くさえ)の坂に布陣し、東征軍に襲いかかった。

孔舎衛という地名は存在しないが、孔舎衙(くさか)を冠した学校なら日下町内に存在する。

この僅かな違いには日本書紀の編者が孔舎衙を孔舎衛と誤記した説もあるそうだ。

両軍の戦闘は激烈を極め、兄君五瀬命(いつせのみこと)が流れ矢で負傷するなど東征軍は大打撃を食らった。

「天照大御神の子孫なのに東へ向かい太陽に面して敵を討つのは天の道に外れている」

そう悟った神武天皇は草香村から撤退し、敗走するとカムフラージュする作戦を取る。

[旅行日:2014年3月18日]