大阪後R161

転機が訪れたのは平成6(1994)年。

それまで山本はドラキュラに似た風貌から「ドラ」というニックネームで呼ばれていた。

しかし「ドラじゃ子どもがいじめられる」と、シーズン途中にもかかわらず選手登録名をカズ山本に変更した。

改名効果もあってかシーズン打率は自己最高の3割1分7厘を記録し、パ・リーグの打撃成績で2位に輝く。

ちなみに首位打者はオリックスのイチローで打率は当時のパ・リーグ新記録となる3割8分5厘。

イチローが鈴木一朗から改名したのも同じ1994年だが、彼は開幕から使用していた。さすが改名の先輩だけある。

それはともかく、近鉄をクビになって10余年。

カズ山本は年俸2億円を突破し、球界の頂上へと上り詰めた。

しかし「好事魔多し」とは、よく言ったもの。

ところが翌7(1995)年の開幕早々、試合中に右肩を亜脱臼する怪我を負い、ホークス移籍後最低の成績でシーズンを終える。

しかも頂上に立ったはずの2億円という高額年俸が逆に仇となり、38歳という高齢と相俟って、なんと山本は生涯2度目に自由契約に。

2年間のうちに天国と地国の両方を味わうという、神も仏もビックリな体験である。

ところが「拾う神あれば捨てる神あり」とは、よく言ったもの。

翌8(1996)年、山本を拾ったのは14年前にクビを斬った近鉄バファローズだった。

再び大阪に戻ってきた山本は“天国”福岡時代を封印すべく、登録名を元の山本和範に戻す。

生まれ故郷の川へ成長して帰えって来た鮭の如く、古巣へ復帰した山本を近鉄ファンも暖かく迎え入れた。

福岡ダイエーのファンと新たな近鉄のファンの熱意が融合したのか、この年のオールスターゲームに初めてファン投票で出場。

これに応えるかのごとく山本は故郷の福岡ドームで行われた第1戦に代打で登場、決勝ホームランを放ちMVPに輝く。

地獄の釜の蓋が少し開き、その隙間から天国が垣間見えた瞬間だった。

なかなか神様も粋な計らいをしてくれるものである。

とはいえ高齢で移籍してきた山本にとって、シーズン通じてのフル出場は難しいところ。

平成11(1999)年オフ、当季1度も1軍に上がることのなかった山本に、近鉄は生涯3度目となる戦力外通告を行う。

まだまだ現役続行への意欲を見せていた山本だったが、42歳という年齢がネックとなってか今度は獲得の意志を示す球団は現れなかった。
 
[旅行日:2014年6月23日]