ただ野村の忠告が持つ意味は、それだけではなかった。
プロの選手として門田の体格はさほど大きくなく、一発狙いの打撃フォームが肉体に与える負荷が大きい。
このようなバッティングを続けていれば、いつか大きな怪我につながる懸念もあったろう。
その懸念は的中し、昭和54(1979)年2月のキャンプ中に右足のアキレス腱を断裂。
3ヶ月間の入院と半年間のリハビリで1年を棒に振る羽目に。
翌55(1980)年には1軍に復帰するも、足を怪我したため俊足と堅守は影を潜めてしまった。
やむなく指名代打専業になるも、そこは門田。
「ホームランなら足に負担がかからないから全打席で狙うよ」
負けず嫌いか天邪鬼か? いずれにせよ長打狙いの打撃に、ますます磨きをかけていく。
この結果、昭和56(1981)、同58(1983)、同63(1988)年と3度も本塁打王に輝くことに。
特に63年は打点王との二冠王、しかも“不惑”の40歳で獲得したもの。
当時は40歳を超えての本塁打王など前代未聞の出来事。
チームが優勝していないにもかかわらずパ・リーグの最優秀選手(MVP)を獲得した。
ヘソ曲がりっぷりは翌年のホークス売却でも遺憾なく発揮された。
福岡への“移転”を拒否し、これまた同年に阪急の身売りで誕生したオリックス・ブレーブスへ志願のトレード。
ただ、このトレードでオリックス側に放出を余儀なくされる選手も出てくるため、門田に対して“身勝手”との批判も一部にあった。
平成3(1991)年、門田は福岡の地に渡り、再びホークスに復帰する。
今度はトレードではなく、オリックスを自由契約(解雇)になった上での移籍である。
翌年のシーズン終了後、門田は現役を引退する。
現役時代に積み重ねたホームランの数は567本。
在りし日に門田を2人がかりで説得した王(868本)と野村(657本)に続く歴代3位の記録に達していた。
それにしても、ここまで波瀾万丈なプロ野球人生を送った選手など他にいないだろう。
そう思って右側に並ぶサインバットを見たら、ここにいた。
山本和範。またの名をカズ山本。
彼のプロ野球人生は波瀾万丈に加えて劇的という要素も多分に加わっている。
[旅行日:2014年6月23日]