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その最終戦が行われたのは昭和39(1964)年10月10日、つまり東京オリンピックの開会式が行われた日の夜のこと。

甲子園球場で始まった試合は18時59分のプレイボールから2時間7分後の21時6分、南海の勝利でゲームセットを迎えた。

この試合の公式入場者数は1万5172人。

日本一が決定するシリーズ最終戦の観客動員数としては史上最低の数字である。

阪神ファンで溢れかえる現在の甲子園からは想像もつかない話だ。

とはいえ試合が行われた時代背景を考慮してみると、この数字の持つ凄みが逆に伝わっている。

今なお語り継がれている東京五輪の開会式が終わって興奮冷めやらぬ中を、1万5千人もの観客が甲子園に訪れたのだ。

もちろん南海や阪神のファンが多数を占めていたのだろうが。

五輪なんて国家的プロジェクトと喧伝しているが、所詮は東京で行われている大きな運動会。

その程度にしか考えていない“反中央”的な感情を抱いた人々も大勢詰めかけたのではなかろうか。

それを思えば甲子園に集った1万5172人もの観客は、東京一極主義に抗う真の反逆者たちであったのではないか。

その“司祭”たる鶴岡親分が、こうして大阪ミナミのド真ん中に祀られているのも至極当然のことと思われる。

鶴岡親分は昭和43(1968)年に監督を勇退。

NHKで解説者を長らく務めた後、平成12(2000)年3月7日に83年の生涯を閉じた。

南海は昭和42(1966)年にパ・リーグで優勝した後、同48(1973)年に1度優勝したきりで福岡に移転している。

いかに鶴岡監督時代の南海が強いチームだったか、こうして過去の記録を眺めているだけでも如実に伝わってくる。

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右側のボックスには南海ホークス最後の、そして福岡ダイエー最初の監督である杉浦忠のユニフォームが飾られている。

杉浦は入口のペナントのところでも触れた南海の大エース。

立教大学で長嶋茂雄と同期生で、2人は在学中から大学の先輩で南海の選手だった大沢昌芳に南海への入団を口説かれる。

大沢昌芳とは後に「喝!」でお馴染みになる故・大沢啓示親分のこと。

もちろん大沢“子分”は鶴岡“親分”の指示の元に動いていたのだが。

南海行きを示唆していた長嶋は直前に翻意して巨人へ入団。

それに対して杉浦は“忠義”を守り、親分との約束通り南海へ入団する。

昭和45(1970)年に現役を引退。実働13年間で577試合に登板し、187勝106敗。

あと13勝で200勝投手になれたところ。記録より記憶に残る投手と呼ぶに相応しいのかも知れない。

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[旅行日:2014年6月23日]