現在立っている天守閣は三代目に当たる。

初代は天正13(1585)年に豊臣秀吉が建立し、慶長20(1615)年に大坂夏の陣で焼失した。

戦後の学術調査によると太閤天守は今より東側、現在配水池のある場所に立っていたことが判明している。

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二代目は寛永3(1626)年に徳川幕府が現在の場所に建立。

この折、幕府は天守閣だけでなく、秀吉が築いた城郭に土を盛ってこれを埋め、その上に新たな城郭を築いた。

つまり世間一般では徳川が建てた城を見て「さすが秀吉は大層な城を作ったものだ」と“錯覚”しているわけだ。

ところが、これがどうにも大阪人には我慢ならない様子と見える。

そこで現在の城郭を掘り起こし、秀吉時代の石垣を発掘する作業が進行中。

大坂夏の陣で豊臣家が滅亡してから400年を迎える2015年、その一部が公開されるそうだ。

徳川幕府が建てた二代目天守閣も、寛文5(1665)年に落雷を受けて焼失。

その後、長きに亘って天守閣が再建されることはなかった。

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三代目が建立されたのは先述の通り昭和6(1931)年。

昭和3(1928)年に当時の関一(せきはじめ)市長が復興を提案し、議会の賛同を得て推進委員会が発足。

すると市民からの寄付の申し込みが殺到、わずか半年で目標額150万円に達したそうだ。

当時の大阪城址には陸軍の司令部や大阪砲兵工廠など軍事施設が密集していた。

このため戦争を毛嫌いする大阪市民の気持ちが、天守閣再建を熱狂的に後押しした一面もあったのではないか。

三代目は恒久的建造物にするため木造ではなく、当時の最新建築工法だった鉄骨鉄筋コンクリート造りを採用。

今でこそ超高層ビルは珍しくもなんともないが、地上55メートルというスケールは当時としては空前絶後の超高層建築だった。

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モデルとなったのは徳川幕府が建立した二代目ではなく、豊臣時代の大天守。

しかし豊臣時代の資料は殆ど残されていなかったため「大坂夏の陣図屏風」を根拠にデザイン。

その裏付けのため全国に残る桃山時代の建物などを調べ歩き、細かい部分に関する資料を集め歩いたのだとか。

デザインにせよ設計にせよ幾多の困難を乗り越えた甲斐あってか、工事のほうは順調に進捗。

こうして完成した天守閣は、近代建築による初めての復興天守閣となった。

しかも開城当初から内部は郷土歴史博物館として利用されている。

このコンクリート製の博物館というコンセプトは戦後、日本中にポコポコ建てられた復興・復元天守閣のモデルにもなっているのだ。

[旅行日:2014年6月23日]