森ノ宮駅の方角に向かうと、そこは大阪城公園の入り口。

中に入ると一直線に伸びる噴水の周囲では、好天に恵まれたせいか家族連れやカップルが思い思いに寛いでいる。

木立の中を通り抜け、大阪城音楽堂の前を過ぎ、東外堀と南外堀の間にある玉造口へ向かう。

大阪前R31

南外堀を挟んだ向かい側には一番櫓(いちばんやぐら)が見える。

二の丸南面の石垣の上には隅櫓が東から西へ7棟立っていた。

そのうち最も東側に位置しているので「一番櫓」の名が付いたそうだ。

ちなみに7つあった櫓のうち現存しているのは一番櫓と六番櫓のみ。

玉造門は江戸時代、石垣造りの枡形が作られ、その上には多門櫓が立っていたという。

しかし幕末の動乱で多聞櫓は焼失し、維新後に大阪城を管理下に置いた陸軍の手で玉造門そのものと枡形が撤去された。

このため現在でも残っているのは入口両脇の石組みだけという。

玉造口から中に入り左折すると、城壁には鉄砲狭間が横一列に穿たれている。

外国人観光客が面白がって銃眼を覗いているが、「loophole(銃眼)」だと分かっているのだろうか?

内堀に向かって直進すると、突き当った右側に巨大な石碑が聳立している。

「蓮如上人碑」

かつてこの地に石山本願寺が存在したことを記したものだ。

大阪前R32

天文元(1532)年に京都の山科から移ってきた本願寺は、大坂の地を一大宗教都市に仕立て上げた。

しかし織田信長との間に対立が深まり、元亀元(1570)年から11年間に亘って「石山合戦」を繰り広げることに。

天正8(1580)年、両者は勅により和議に至るが、本願寺は大坂からの退去を余儀なくされて京都に移転。

天正11(1583)年、その本願寺と寺内町の跡地に豊臣秀吉は大阪城を築いた。

大阪の今に至る繁華は太閤殿下の築城に端を発するように思われがちだが、それより前に本願寺の門前町として繁栄していた“下地”があったことは意外と忘れられているようだ。

その石山本願寺の遺構は地中に埋まったままで、未だ確認されていない。

大阪前R33

石碑の前に小さな木の根っこが、コンクリートブロックに囲まれてヒッソリ保存されている。

この「蓮如上人袈裟懸の松」と伝わる木の根っ子だけが、石山本願寺が存在した唯一の証と言えるのかも知れない。

[旅行日:2014年6月23日]