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現在の社号は明治40(1907)年7月、付近一帯に祀られていた神社を合祀することとなり、従前の社号「氷川社」を「中山神社」と改称。

鎮座地中川の「中」と、江戸期の新田開発から氏子付き合いを続けてきた上山口新田の「山」を合わせたものだ。

参道を直進し、狛犬の間を抜けた辺りの右側に「御火塚」がある。

御火塚は毎年12月8日に行われる「鎮火祭」の重要な舞台。

鎮火祭は古くから伝わる重要な祭りで、御火塚の前に薪を積み火渡り神事が行われる。

素足で火渡りをすると火防けや無病息災などの御神徳に預かれると伝わり、祭日の境内は氏子をはじめ多くの参拝客で賑わうそう。

ちなみに鎮座地の「中川」という地名は旧社号「中氷川神社」の「氷」が「鎮火祭」の炎で溶けたもの…という説もある。

御火塚の横を通り、拝殿の前へと進む。

中山神社は氷川神社と氷川女體神社を結ぶ直線上の、ほぼ中間地点に位置していることは広く知られている。

中山神社から見て太陽は夏至に氷川神社方向の西北西に沈み、冬至には氷川女體神社方向の東南東から昇る。

氷川三社は、こうして太陽の公転を神社の配置に記録しておく「自然暦」でもあったのだ。

現代なら衛星写真を見れば一目で分かるが、航空機すら存在しない大昔よくそのような芸当ができたものだ。

いや、無いなら無いなりに知恵を絞り尽くし、あらゆる手段を駆使したのだろう。

なにしろ稲作にとって太陽の動きを把握することは必要不可欠。

しかし、誰が何時どのように三社の位置を決定したのか、その記録は詳らかでない。

大量の農民を動員して気の遠くなるような測量作業を地道に行ったのだろうか?

[旅行日:2013年5月20日]