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千年の時を超えて世に姿を顕した寒川大明神…その正体は一体何者なのか?

紀元600~700年の飛鳥時代、ヤマト王権は地方支配のため全国に「国造」(くにのみやつこ)という現地雇用の役人を配置した。

当時の相模国は相武(さがむ)国と磯長(しなが)国に分かれており、寒川神社一帯の相模川流域は相武国造の支配下。

古事記には景行天皇の御代、東国征伐に赴いた倭武(ヤマトタケル)命を相武国造が罠に嵌めて暗殺しようとしたとある。

しかし、すんでのところで難を逃れた倭武命は相武国造一族を成敗し、この一帯を焼き払ったそうだ。

この相武国造こそ寒川比古命であり、その妻が寒川比女命ではないか? という説がある。

確かに倭武命に歯向かった人物が記紀に登場するはずはない。

それでも相模国では寒川大明神として崇められ続け、鎌倉に鶴岡八幡宮という日本政府そのもののような一之宮が誕生しても廃れることがなかったという事実は、よほど地元の人々から慕われていたのか。

相武国造、ヤマト王権に歯向かったため単に歴史上から抹殺されただけで、実は傑出した人物だったのかも知れない。

なぜか、急に無性に会ってみたい気がしてきた。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]