t4u28鹿島rj22壁の目立つところに大きな一枚板を切り抜いて描いた「流鏑馬(やぶさめ)」の板絵が掲げてある。

毎年5月1日に行われる神事で、説明書には約150年前に拝領したとある。

別の説明書きには、江戸時代までは「宿長」という名の旅籠だったそうで、蕎麦屋に転じたのは明治以降のこと。

往時には鹿島神宮に参拝する講中(参拝者の団体)の本陣として大いに賑わったそう。

件の板絵も旅籠時代に鹿島神宮から下賜されたものなのだろうか。

そんなことをボンヤリ考えているうち、天ざるが来た。

とびきり美味いわけではないが、手打ちの九割蕎麦と謳ってるだけあって、さほど不味くもない

そんな中庸な味わいの蕎麦をズルズルすすりながら顔を上げると、今度は幕末の「天狗党事件」縁の店と手書きされた由緒書きが目に入った。

天狗党とは幕末の水戸藩で藩主徳川“烈公”斉昭の藩政改革を機に結成された尊王攘夷の急進派のこと。

天狗党は元治元(1864)年、幕府に攘夷の実行を促すため筑波山で挙兵。

しかし藩内保守派との内戦に破れ、京都にいた一橋慶喜を頼り上洛。

その途中、諸藩の討伐軍に敗れ、越前で加賀藩に降伏。

諸幹部をはじめ党員の大半が処刑され、残りは遠島・追放などの処分を受け、天狗党は消滅した。

もう少し蜂起が遅ければ薩長の維新勢とタイミングが合い、新政府への参画もあり得たのだろうか?

そうなれば天狗党が一橋慶喜と薩長の橋渡し役となり、慶喜が新政府の一員にもなり得たのだろうか?

そもそも、天狗党は徳川幕府を倒して朝廷中心の国家を打ち立てるビジョンを持っていたのだろうか?

それ以前に、天狗党は何をしたかったのだろうか?

蕎麦猪口に蕎麦湯を満たしてズズッとすすりながら、食後のひとときを天狗党への思索に費やした。

(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]