2019年05月

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]26

諏訪上本45高島城4

2階の資料室を見学しながら諏訪藩の歴史について学ぶ。

まず、領主は諏訪氏なのに、なぜ高島城は日根野高吉が築城したのか?

天正18(1590)年、領主だった諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に伴い武蔵国へ付き従ったのが、その理由。

後釜に豊臣秀吉の家臣だった高吉が転封し、2万7千石を以って諏訪の領主に。

高吉は安土城や大阪城の築城にも携わった築城の名手。

転封の翌年、天正19(1591)年には既に城地の見立てと設計を終えていたそう。

文禄元年(1592)に着工し、慶長3(1598)年まで7年ほどかけて築城したという。

高吉は本丸に三層三階の望楼型天守を建造。

天守をはじめ主要建造物の屋根が瓦葺きではなく杮葺きだったことが特徴だ。

湖畔のため地盤が軟弱で重い瓦が使えなかった、寒冷地の諏訪で瓦は凍って割れてしまうから…などと言われているがハッキリした理由は不明の由。

その後、関ヶ原の戦いで徳川軍に属した諏訪頼水(頼忠の子)が慶長6(1601)年、家康の恩恵で旧領の諏訪へ再転封となり諏訪氏が藩主に返り咲く。

以後、諏訪氏は10代藩主忠礼に至るまで270年間にわたり諏訪の領主に君臨したという次第。

諏訪上本26-3高島公園

高島城は明治4(1871)年、新政府の意向により破却が決定し、同8(1875)年に撤去が完了。

翌9(1876)年に本丸跡が高島公園として一般に開放された。

3階へ上がり、展望台から諏訪の街を見渡してみる。

諏訪湖と幾つかの川に囲まれ、水を防御の盾とする難攻不落で名を馳せた高島城。

遠く離れた諏訪湖畔との間に広がる諏訪の街並みを眺めていると戦国戦乱の匂いなど微塵もなく、時おり吹き抜ける柔らかな風が平穏な歴史を感じさせてくれる。

諏訪上本26-4諏訪市街

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]25

諏訪上本25-1丸高

並木通りは正面に突き当たると右に折れ、暫く進むと今度は左へ曲がる。

このようなクランク状の道筋は縄手の時代からあったもの。

敵兵の侵入を防ぐためにあり、諏訪に限らず城下町ではよく見かける。

2番目の角のあたりに藩政時代は大手門が立ち、その先にある衣之渡[えのど]郭から城郭になる。

衣之渡川を渡ると「丸高」という巨大な味噌蔵があり、その前に「三之丸跡」の解説板が立っている。

味噌のナショナルブランド「神州一」は、ここが本店で、寛文2(1662)年に酒造業を始めたのがルーツ。

ちなみにその酒蔵とは今も諏訪を代表する銘酒「真澄」の蔵元、宮坂醸造のことだ。

諏訪上本25-2三之丸湯

中門川(藩政時代は三之丸川)を渡ると二の丸跡。

だが藩政時代の建物は殆ど残っておらず、現在では普通の住宅が立ち並んでいる。

道の正面に石垣が見え、やがて高島城の天守閣が姿を現した。

このように北から南へ廓が一直線に並んだ形式を「連郭式」と呼ぶそうだ。

堀をまたぐ冠木橋を渡り、冠木門をくぐるとかつての本丸に出る。

昨夜、月光に照らされて乳白色に包まれていた天守閣、今は小糠雨の中でしっとりとした壁肌を晒している。

諏訪上本43高島城2

本丸の北西にポコリという感じで突き出した天守閣は、昭和45(1970)年5月に再建された復興天守で、屋根は瓦でも柿でもない銅板葺き。

城内はコンクリ天守によくある資料館で、幾ばくかの入場料を支払い入“城”する。

1階は「郷土資料室」と「企画展示室」。

2階は「築城」「藩主」「藩士」「藩政」とテーマごとに遺品や資料を展示する「高島城資料室」。

3階も「高島城資料室」と、外側が展望台になっている。

[旅行日:2016年12月13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]24

諏訪上本23-2天守閣

南西の角を曲がり、西側の縁を北へ向かって歩く。

相変わらず堀はなく、どんどん石垣も低くなり簡単によじ登れる程度にまでなった。

なぜ高島城本丸は北側と東側にしか堀がないのか?

その理由は単純で、南側は最初から堀がなく、道路を挟んで武家屋敷が続いていたから。

西側は本丸ギリギリまで諏訪湖畔が迫り、天然の堀の役割を果たしていたため。

今でこそ西側は広大な土地が続いているが、これは江戸時代に干拓されたためで、南側と西側には築城当初から堀などなかったのだ。

再び天守閣の麓へ戻ってきた。

見上げれば天守閣は頭上に煌々と輝く月光を浴び、柔らかな乳白色に包まれている。

ちょっと一杯やりたくなり、再び「縄手」へ足を向けた。

諏訪上本42高島城1

翌朝、出立の前にホテルで朝食を摂る。

よくあるバイキングではあるが、並んでいる料理の種類が豊富だし美味。

昨夜の天然温泉もそうだが“企業城下町”のビジネスホテルはサービスが充実している。

昔は諏訪氏の城下町、今はセイコーエプソンなど精密機械産業が集積した“企業城下町”。

ビジネスマンをリピーターとして取り込むためにはサービス面の充実が欠かせないというわけか。

この傾向は伊勢一宮椿大神社が鎮座し、ホンダや旭化成の大工場が立ち並ぶ三重県鈴鹿市でも体験したことだ。

これからホテルを出て上社本宮を再訪するのだが、その前に諏訪高島城まで歩いてみる。

薄曇りで小雨が時折パラつく中、かつての「縄手」こと今の「並木通り」を散策。

宵闇の中で見た、街路樹の梢がライトアップされた幻想的な光景も素敵だったが。

朝露に彩られて静かにマイナスイオンを放出し続ける姿もまた、美しい。

[旅行日:2016年12月12〜13日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]23

上諏訪駅の南側から高島城方面に向かって「並木通り」という道が通っている。

車道こそ上下1車線ずつだが両脇に街路樹、その外側に歩道と道幅そのものは広い。

この道は諏訪藩政時代に「縄手」と呼ばれた、高島城と甲州街道を結ぶ唯一の道。

その面影には風格があり、江戸時代以来の歴史が木々の梢から降り注いでくるようだ。

鍵手を折れ曲り、細い川を渡り、二之丸の跡を通り抜けると、正面に高島城が姿を現した。

しかし天守閣に入館できる時間は既に過ぎ、今宵は堀端をグルリと周回するのみ。

まずは東の市役所方面へ向かい、時計回りに一周してみる。

諏訪上本23-1天守閣

高島城は慶長3(1598)年に豊臣秀吉の家臣、日根野織部高吉[ひねのおりべたかよし]により築城された。

当時この一帯は諏訪湖に突き出た島状の土地で、地名も「浮島」と呼ばれていたそう。

高吉は漁業を営んでいた村落を丸ごと移転させ、城を築いたという。

北東角の交差点から南へ向かう。

本丸の敷地は縦長の長方形で、それほど広くもないので散歩するには手頃な大きさ。

石垣に高さは無く勾配も緩やかで、石の積み方もキッチリしておらず隙間だらけ。

築城当時、城の周囲は湖水と湿地に囲まれ、諏訪湖面に浮かぶように見えたことから別名「諏訪の浮城[うきじろ]」と称されていた。

裏を返せばそれだけ地盤が脆弱だったわけで、あまり強大な石垣が築けなかったのも頷ける。

ちなみに諏訪高島城は松江城、膳所城とともに「日本三大湖城」のひとつに数えられているそうだ。

南へ向かううち、そこそこ幅のあった堀が次第に狭くなっていく。

南東角の交差点を西へ曲がると、ついに堀は姿を消してしまった。

本丸南側の縁が堀から道路になり、その外側に一般の住宅が立ち並んでいる。

堀が埋め立てられて道路にされたのだろうか?

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]22

それらを眺めながら緩やかな勾配を東参道に向かって歩くうち、勅使殿の裏側に聳える巨木の存在に気がついた。

境内で最古の樹木のひとつ「大欅[おおけやき]」。
樹齢なんと一千年! 諏訪市の天然記念物にも指定されている。

昔は贄[にえ](神への捧げる物)や御狩[みかり]の獲物(お供え物)を掛けて祈願したことから「贄掛けの欅」とも呼ばれていたという。

樹齢千年といえば信長の焼き討ちをも凌ぎ生き残った計算になる。
諏訪大社の生き証人ともいえる大木の聳立を眺めていると、たかだか百年にも満たない人間の寿命など如何に儚いものか…との囁きが聞こえてくるかのようだ。

諏訪上本22-1大欅

勾配を上り切り、再び東参道口へ戻ってきた。
既に陽も傾き、一帯は逢魔時に特有の胸をザワつかせる不安感に満ちている。

宵闇に包まれ始めた境内の外周道路をグルリと回り込み、博物館前のバス停へ。
その前に北参道の先にある「宮町通り 社乃風[やしろのかぜ]」へ立ち寄ってみた。

以前あった門前町を壊して人工的に造営された商店街。
信州の物産を中心としたお土産品や食事処が立ち並んでいる。

だが閑散期で平日で逢魔時とあっては開いている店も殆どない。
冷やかす状況にすら至らないまま社乃風を後にして、市内へ戻るバスに乗った。

諏訪上本41社乃風

すっかり陽も落ち、車窓からは暗闇の中で時折ネオンの灯りが遠くで瞬くのが見える。
次第に灯りの割合が増え始め、暗闇が消えた頃に上諏訪の駅に到着。

西口のビジネスホテルに戻り、最上階にある天然温泉に身を沈めて心を落ち着かせる。
上諏訪もまた温泉場であり、大小さまざまな温泉宿が諏訪湖畔に軒を連ねている。

ビジネスホテルが天然温泉を備えているのもまた、宜なるかなだろう。
ノボせる前に風呂場を後にし、夜風に当たろうと街へ出た。


[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]21

諏訪上本36筒粥殿

天流水舎の右横に簡易な木柵で囲われた正方形のスペースがあり「上社筒粥殿跡」と表示されている。

筒粥殿といえば「筒粥神事」を行うための社殿。

下社春宮にもあり、そちらで「筒粥神事」の詳細は既述している。

上社本宮には跡地しかなく、現在「筒粥神事」は下社春宮でのみ行われている。

ということは、かつては上社本宮でも行われていたということか?

だとしたら、上社と下社は各々独立した神社だったということか?

四宮が「諏訪大社」の名のもとに統合された折、筒粥神事は下社春宮に一本化されたのだろうか?

諏訪上本50勅使殿

天流水舎から石段を挟んだ隣側に高低二つの建物が並んで立っている。

名称は高い方が勅使殿、低い方が五間廊といい、両者は繋がって一体化している。

勅使殿は元和年間(1620年)頃の建立で、後に改築されたものが現存。

中世の記録には「御門戸屋」「帝屋」とも記されている。

朝廷からの勅使が着座した場所だったことが名称の由来で、様々な神事が執り行われたものと思われる。

建武2(1335)年に大祝が即位した神事の記録によると、御門戸屋に敷いた布の上に五穀を供え、そこへ大祝が着座したと記されている。

当時の勅使殿は現在の神楽殿の前あたりにあり、拝殿の性格を持っていたようだ。

一方の五間廊は安永2(1773)年に建てられ、こちらも後に改築。

こちらは勅使参詣の際に神長官以下の神職が着座した建物と伝わっている。

諏訪上本48五間楼

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]20

諏訪上本31神楽殿

建立は文政10(1827)年で、現在は諏訪市の指定文化財。

往時は太々神楽や湯立神事が毎日行われていた記録が残っている。

だが、それらの神楽は残念ながら今に伝わっていない。

諏訪上本20-2大太鼓

袖から中を覗いてみると、これまた舞台の上には巨大な太鼓が威容を誇っている。

奉納されたのは神楽殿の建立と同時というから江戸時代か。

胴は樽と同じ製法の「合わせ木作り」で、堂々たる神龍が描かれている。

皮は牛の一枚皮が用いられ、直径1m80cmは一枚皮として日本一の大きさとか。

ただ、連日連夜こんなデカ大鼓を打たれたら周辺住民は堪ったものではない。

そのせいか、現在は元日の朝にのみ打たれているそうだ。

それにしても、ここまで特徴的な太鼓を吹きさらしの神楽殿に置きっ放しというのは勿体ない話。

恒久的な専用太鼓櫓を組み上げテッペンに据えれば、新たな名物が一つ加わると思うのだが。

諏訪上本33神楽殿門

神楽殿と土俵の間から境内の外へ小さな石段が通じている。

そこに立っているのは鳥居ではなく冠木門、注連縄もシンプルな前垂注連だ。

古地図には大昔このあたりに「拝所御門屋」があったとの記録がある。

また、近くには延べ百二十間(約220m弱)にも及ぶ廊下があり、そこから参詣者は御山(神体山)を拝していたという。

幣拝殿のところに登場した下壇「厳の拝所」とは、この長廊下のことと思われる。

拝所御門屋から入って境内を突っ切れば、勅使門へ続く石段に行き当たる。

その横には屋根に煙突のようなものが付いた、妙な形状をした建物の姿。

「天流水舎」、俗に「御天水」とも。

どんな晴天の日でも建物の中に雫が入り、「宝殿の天滴」と共に中の井戸へ溜まると伝わっている。

雨乞いの折、この御天水を青竹に入れて持ち帰り、神事に用いると必ず雨が降るそう。

今なお近郷近県から祈願の依頼があるが、途中で休むとそこで雨が降るので昔は若者たちがリレー式に運んだとか。

また、この御天水は天竜川の水源とも言われている。

なんとも気宇壮大な言い伝えだ。

諏訪上本35天流水舎

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]19

諏訪上本30清祓池

旧社号標の隣に「清祓池」という小さな池が広がっている。

毎年6月30日に夏越の祓をし、半年間の罪穢を祓い清め、後半の無事息災を祈るという。

池の真ん中には「宮嶋」という小島があり、鶴の像が口から水を噴き出している。

池の手前側、地面に空いた丸く小さな穴が柵で囲われている。

「五穀の種池」という小さな池で、毎年春になると種籾を浸し、その浮き沈みによって豊凶を占う。

現在でも近郷農家の人々に親しまれているそうだ。

諏訪上本29雷電

旧社号標と清祓池の間に堂々とした力士像が立っている。

信州が生んだ江戸中期の強豪大関、雷電為右衛門[らいでんためえもん]像。

諏訪大神に正対して拝礼の誠を捧げている姿が描かれている。

茅野市出身の彫刻家、矢崎虎夫氏が文部大臣賞受賞を記念し、昭和41(1966)年10月に奉納したものでモデルは横綱柏戸の由。

日本人が総じて小柄だった江戸時代、雷電は6尺6寸(197cm),45貫(169kg)という飛び抜けた巨漢だった。

その怪力ゆえに張り手、鉄砲(突っ張り)、かんぬきの3手を禁じられたという伝説が残っている。

「清祓池」の右側に大きな神楽殿、その右隣には土俵。

諏訪大神の起源が建甕槌神と建御名方神の国譲りを巡るガチンコ対決にあるせいか、昔から力の強い神様として信仰を集めてきた。

とりわけ相撲との関係が深く毎年相撲神事が行われ、多くの力士が参拝しているという。

土俵の隣に入母屋造の神楽殿が立っている。

一之宮クラスの大きな神社に神楽殿は付き物だが、これほど巨大なものは見たことがない。

下社両宮の神楽殿は四方を壁と扉で覆われていたが、ここは柱だけで扉も壁もなく吹きさらし。

神楽殿というより能舞台のような佇まいさえ感じられる。

諏訪上本32土俵

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]18

諏訪上本15北参道正面

また、同風土記には「伊賀の穴石神社に坐す神は出雲の神の子、出雲建子命[いずもたけこのみこと]、又の名を伊勢都彦命、又の名を櫛玉命」との記述もある。

さらに本居宣長は『古事記伝』の中で「伊勢津彦は建御名方神の別名」とまで記している。

出雲を追われた建御名方神は先ず伊勢へ逃げるも、そこへも攻め込まれ遂には諏訪へ去って行ったという。

一体、建御名方神とは何者なのか? 

なぜ、最後に落ち着いた先が諏訪だったのか?

建御名方神の名が古事記にのみ現れ、日本書紀に登場しないのは何故か?

伊勢津彦の存在と何か関係があるのか?

考古学者でも何でもない一介の旅行者としては、建御名方神の正体が誰かを突き止めることにさしたる意味を感じない。

むしろ建御名方神が出雲から伊賀、伊勢、そして信濃へと流転していく過程から、古代日本が形成されていくロマンを感じ取ることに、よほど興味をそそられる。

こうして日本中の一之宮を巡っていると、教科書に綴られた通り一遍の歴史とは全く異なる歴史が、表からは見えない地下深くで幾層にも折り重なっていることに気付かされる。

そうした歴史が僅かながら顔を覗かせる、地表に生じた亀裂…それが一之宮なのだと思う。

諏訪上本16明神湯

再び境内に戻り狛犬の裏手にある手水舎の、さらに裏手にある「明神湯」へ。

これもまた手水舎なのだが下社秋宮と同様、流れ出る水が温泉なのだ。

「明神湯」こそが諏訪温泉郷の源泉とも伝わり、昔から諏訪明神と所縁があるという。

手水社の裏側に戦前の社号標が立っていた。

明治政府の近代社格制度で諏訪大明神は官幣大社諏訪神社となった。

しかし戦後、近代社格制度が廃止されるとともに旧社号標の「官幣」も消えて無くなった。

諏訪上本28旧社号標

[旅行日:2016年12月12日]

一巡せしもの[諏訪大社上社本宮]17

諏訪上本47社号標

西参道から境内の外側をグルリと回り込んで北参道側の正面に出る。

どデカイ社号標には太々と刻まれた「諏訪大社本宮」の文字。

諏訪大社に四宮ある中、我こそが“中心”だと主張しているかのよう。

右隣に立つ石造りの巨大な明神鳥居を眺めつつ、諏訪大神の正体について考えてみた。

もちろん主祭神は建御名方神だが、神橋のところでは全く関係なさそうな甲賀三郎が出現。

建御名方神の背後には別々の“神々”が幾つも、まるで影のようにチラチラと姿を伺わせているのだ。

中でも、特に伊勢津彦[いせつひこ]について触れないわけにはいくまい。

伊勢津彦とは「伊勢国風土記」逸文に登場する豪族。

神武天皇の東征に付き従っていた天日別命[あめのひわけのみこと]が伊勢国へ攻め入った際、そこを支配者していた国津神のことだ。

天日別命が伊勢国を天孫に献じるよう迫ると、それを伊勢津彦は拒否。

天日別命が大軍を率いて再び脅迫すると、今度は承服した。

伊勢を去る証を示すよう言われると「大風を起こして海潮を吹き上げ、大波に乗って東国へ行く」と返答。

本当か否か天日別命が様子を窺っていると、深夜近くなって突然強風が吹き始めて波飛沫が舞い上がり、伊勢津彦は光輝く中を波頭に乗って東へ去って行った。

ちなみに「神風の伊勢国、常世の浪寄する国」という古語は、これに由来している。

この逸話、古事記に出てくる出雲の国譲り、武甕槌神との力競べに負けて洲羽(諏訪)へと追いやられた建御名方神の神話とオーバーラップして見える。

なお、天日別命は伊勢津彦を放逐した後、伊勢を統治。

皇太神宮(伊勢神宮内宮)の大神主、伊勢氏の祖になったと伝わっている。

諏訪上本61大鳥居

[旅行日:2016年12月12日]
プロフィール

ramblejapan

カテゴリー
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
メッセージ

名前
メール
本文
記事検索
QRコード
QRコード











発刊!電子書籍

東海道諸国を巡礼したブログを電子書籍にまとめました。

下記リンクより一部500円にて販売中! ぜひご一読下さい!



一巡せしもの―
東海道・東国編

by 経堂 薫
forkN


一巡せしもの―
東海道・西国編

by 経堂 薫
forkN

福岡から大阪へ…御城と野球場を巡ったブログを電子書籍化!

下記リンクより一部500円にて販売中!  ぜひご一読下さい!



キャッスル&ボールパーク

by 経堂 薫
forkN



CLICK↓お願いします!















オーディオブック

耳で読むドラマ!


人気演劇集団キャラメルボックスとコラボした、舞台と同一キャストでのオーディオドラマ!


ドラマ化・映画化された書籍のオーディオブック。映像とは一味違った演出が魅力的!


耳で読む吉川英治の名作「三国志」!

  • ライブドアブログ