2017年10月

一巡せしもの[水無神社]32

水無64*061

国分寺は天平13(741)年、聖武天皇が仏教による国家鎮護のため勅願を発して各国ごとに建てた官寺。

だが、今でも諸国に存在する一之宮に対し、国分寺は結構な数が既に消滅している。

もともと国分寺は疫病や飢饉、反乱などの厄災を、仏教の力で封じ込めるために生まれたもの。

時代が貴族社会から武家社会に移り、権力者が変転するにつれて国分寺の存在意義も薄れていく。

中には廃寺になるものが現れても不思議ではない。

なお、現存する国分寺の中で創立当初の建築を保存しているものは一つもない。

それどころか、国宝や重文クラスの建築物を有しているのは総国分寺の東大寺を除くと飛騨、信濃、讃岐、土佐のたった4寺しかないのだ。

水無65-062

飛騨国分寺の大銀杏は葉が殆ど枯れ落ちていたが、伝承とは裏腹に積雪はなく、激しい降雪に見舞われることもなかった。

幸いではあったが、いくぶん風情に欠けた感があるのも否めない…そんなことを言ったらバチが当たるか。

いや、雪に邪魔されることなく水無神社へ滞りなく参詣できたのも、水無大神の御加護があってのことか。

そんな適当な考え事をツラツラと脳裏に思い浮かべつつ、高山駅前の濃飛バスターミナルへ戻ってきた。

短いようでいて、体感速度は更にアッという間だった高山滞在。

「今度は、もっとゆっくりいらっしゃい」

旅館いろはから去り際、老女将が掛けてくれた言葉を心の中で噛み締めつつ、高速バスに乗り込んだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]31

水無63-060

境内の西側に三重塔が立っている。

礎石上端から宝珠上端まで高さ22 mという小柄な塔。

だが、飛騨国内で唯一の塔建築だ。

初代七重塔が建立されたのは飛騨国分寺が誕生した天平13(741)年。

弘仁10(819)年に炎上し、斎衡年間(845〜857)に二代目五重塔を建設。

応永年間(1394〜1428)に兵火で焼失し、三代目五重塔が再建されるも、金森長近の松倉城攻めに遭い損傷。

元和元(1615)年、金森可重が四代目五重塔を再建した。

天和年間(1681~1684)に五重から三重に改築され、現在のスタイルに。

四代目も寛政3(1791)年、烈風で吹き倒されてしまった。

その後、庶民から喜捨浄財800両が寄せられ、約5500人もの大工の手により、文政4(1821)年に五代目となる三重塔が竣工、現在に至る。

塔内には本尊の大日如来が安置され、心柱には仏舎利が納めてある。

この塔の北側には初代七重塔の中心礎石だった跡が残されている。

直径約1。8メートル、地上全高約1メートルという巨大な花崗岩製の円筒だ。

中心には直径58センチ、深さ28センチの円孔が開けられている。

ここに仏舎利を納め、穴を石で塞ぎ、その上に塔の心柱が置かれていた。

この飛騨国分寺塔址は昭和4(1929)年、国の史跡に指定されている。

飛騨国に限らず国分寺の一般的な認知度は一之宮に比べて遥かに高いように思われる。

創設の経緯が歴史の教科書に記載され、試験勉強の中で覚えるからだろう。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]30

水無61-058

幹にポッカリ空いた洞 [うろ]に石仏が祀られている。

天平時代、七重の塔が建てられた時のこと。

大工の棟梁が柱の寸法を誤って短く切ってしまい、とても悩んでいた。

一人娘の八重菊は、柱の上に枡組を作って長さを補うことを提案。

塔は無事に完成し、枡組は装飾の役割も果たし、その出来栄えは評判を呼んだ。

しかし父親は「枡組」の真相が漏れて自身の名誉が損なわれることを危惧。

八重菊を口封じのため殺し、人柱として境内に埋めてしまった。

その塚の上に植えられたのが、この大銀杏だと伝承されている。

ただ、そのような事実が本当にあったのかは定かではない。

仕事のためには最愛の娘すら犠牲を厭わないという飛騨匠の謹厳さを喧伝するために創作されたエピソード…というのが真相のようだ。

水無62-059

境内の最奥に、国の重要文化財に指定されている本堂がデンと構えている。

現在の本堂は単層入母屋造りで屋根は銅版葺、昔は杮葺きだった。

昭和29(1951)年に本堂を解体修理した際、室町時代中期以前に建てられたことが判明。

また、正面向拝と東側は桃山時代に修理されていたことも分かった。

本尊の薬師如来像は行基の作と伝わり、国の重要文化財に指定されている。

また、旧国分尼寺の本尊で国重要文化財の聖観世音菩薩も国分寺に所蔵されている。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]29

水無59-056

山門をくぐって境内に入ると、正面に鐘楼堂、その左奥に大銀杏、突き当たりに本堂。

大銀杏の左側には庫裏と太子堂、右側には三重塔と枯山水の庭が広がっている。

飛騨国分寺は天平18(746)年に創建された飛騨国最古のお寺さん。

開基は行基菩薩と伝わっている。

創建時は境内に七重塔、金堂、仁王門などが立ち並ぶ壮大な伽藍が広がっていたそう。

だが天正13(1585)年、金森長近の飛騨松倉城攻略に巻き込まれ被災。

その後、飛騨の領主となった長近は高山城を築城する際に国分寺の再興にも助力した。

本堂を大修理し、境内地を寄進、五重塔を再建したという。

水無60*057

参道を進んで鐘楼門を仰ぎ見る。

高山市の有形文化財に指定され、入母屋造りで上下二層に分かれている。

下層は旧高山城の遺構の一部を移築したもの、つまり戦国時代の建物。

上層は宝暦11#(1761)年、梵鐘を改鋳した際に増築されたもの。

上層と下層は全く別の時代に拵えられたものだが、そうは思えないほどの調和を見せている。

鐘楼門の隣に国の天然記念物、樹齢約千二百年という大銀杏[いちょう]が聳えている。

銀杏の葉が落ちれば高山に雪が降る…と昔から言い慣らされているほど、市民から愛されている老木。

樹間に乳のような気根が数多く垂れており、その姿から「乳イチョウ」の異名を持つ。

乳の出ない母親が願かけすると乳の出が良くなるとの俗信があり、今もお参りするご婦人の姿が絶えない。

ただ、この大銀杏は雄[おす]の木なので銀杏の実は出来ないそうだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]28

水無57-054

平日の真っ昼間だというのに三町重伝建地区は国内外の観光客でごった返している。

江戸時代と変わらない道幅に大勢の観光客が押し寄せているので、明らかにオーバーフロー気味。

ゆっくりと建造物を見て回るどころの話ではない。

高山駅へ引き上げるべく橋を渡ろうとした刹那、袂に佇む石碑が目に止まった。

「高山の夜」と刻まれたその石碑は、昭和45(1969)年に発売された御当地ソングの記念碑。

岐阜県を地盤に活動する演歌歌手、しいの実[みのる]のデビュー曲だ。

作詞作曲は地元高山の人だが、しいの自身は九州の出身である。

それも大分県宇佐市…豊前一宮宇佐神宮の鎮座地。

飛騨と豊前の一之宮の間に結ばれた見えない絆が「高山の夜」を生んだ…というのは、こじつけ過ぎるか。

水無58-055

宮川を渡ると人の群れはまるで霧が晴れたかのようにスーッと消え去った。

「国分寺通り」こと国道158号線を駅の方角へ歩いていくと、右側に寺の入り口が見える。

飛騨国分寺、正式な名称を「金光明四天王護国之寺」という。

山門は国道から一歩奥まったところにあり、よくある普通の寺だと見誤れば何気なく通り過ぎてしまったろう。

この山門が建てられたのは元文4(1739)年、飛騨の名匠松田太右衞門の手によるものと棟札にはある。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]27

水無55-052

現在、三町には6つの造り酒屋が軒を連ねている。

そのいずれもが現役の酒蔵として、古ぼけた重伝建の街並みに生命の息吹を与えている。

ただ、扱う酒は清酒がほとんどで、あってもにごり酒かおり酒、水無神社の特区にあった濁酒はない。

それにしても決して米どころではない飛騨で、なぜ酒造りが盛んになったのだろうか?

酒造りには寒冷地が適していること、飛騨山脈=北アルプスの良質な水に恵まれたこと。

商業が産業の基軸だけに近隣の米どころから余剰米の調達も可能だったろう。

それでも米は貴重品に違いなく、酒にして保存する技術が発達したと思われる。

こうした条件が都合良くマッチし、良質で独特な地酒を生み出すことができたのではなかろうか。

水無56-053

三町重伝建地区の南端に風格のある和風建築が立っている。

明治28(1895)年から昭和43(1968)年まで町役場〜市役所として使用されていた「高山市政記念館」という公共施設。

当時の名工坂下甚吉が棟梁として最上級の官材を相手に腕を振るった総檜造りの建物というから豪奢な代物だ。

市役所としての役割を終えた後は公民館として利用されていたものをリニューアルし、昭和61(1986)年に高山市政記念館としてオープンした。

館内では明治期以降の高山地域の歴史と、平成17(2005)年に平成の大合併で誕生した面積日本一の大都市、新高山市誕生の経緯を紹介している。

悪代官大原親子の時代を例に紐解くまでもなく、江戸から明治にかけて飛騨地方の村々は概ね貧しかった。

そんな中、政治経済の中心地として大いに賑わっていた高山は明治時代初期、人口1万4000人を擁する岐阜県下最大の都市だったという。

その一方、なかなか交通網が整備されなかったため、都市の近代化は県内の他地区より大幅に遅れた。

高山が近代化に着手するのは昭和9(1934)年の高山本線全線開通と高山駅開業まで待たねばならなかったのである。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]26

水無52-049

濃尾バスで再び高山駅に戻る。

昨夜は暗くて分からなかったが、陽光の下で見る駅舎の外観はモダンな印象。

随分と前に訪れた際の記憶に残る駅舎の面目は、どこにも見当たらない。

やはり外国人観光客を意識してのデザインなのだろうか?

次の目的地へはJRを利用しないので、このまま高山駅とはサヨナラだ。

水無53-050

せっかく飛騨高山まで足を運んだことだし、まだ時間にも若干の余裕がある。

そこで三町伝統的建造物群(重伝建)保存地区を散策してみることにした。

駅前から伸びる中央通りを東へ向かってズンズン進むうち、水無神社の前で別れを告げた宮川が再び現れた。

橋を渡った東側が三町重伝建保存地区になる。

高山は臥龍桜の項に登場した武将、金森長近が築いた高山城の城下町として生まれた町。

城郭の周囲を武家屋敷で固め、一段低い場所を町人の町とした。

城下町は一般に武家地が広く、町人地が狭いものだが、逆に高山は町人地のほうが武家地より2割も広いという。

しかも城下町には東西南北から街道が引き込まれ、経済に加えて政治などの面でも飛騨国の“首府”として機能。

狭隘で耕作地に乏しい飛騨だけに、長近は農業より商人の経済力を産業の中心に据えようとしたのかもしれない。

その町人地の一部が重伝建地区として現在にまで遺されているわけだ。

水無54-051

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]25

水無50-047

水無神社を後にし、再びバス停に戻ってきた。

悪代官といえば「水戸黄門」などの時代劇で欠かせない存在。

だが、こうして現実的な存在感を目前に突きつけられると、物語の一要素に過ぎない“敵役”という認識を改めざるを得ない。

というか、現代社会でも社会的地位を利用して私腹を肥やす政治家や官僚は後を絶たないし、むしろ江戸時代に比べても「悪政」に対する罪の意識が薄いのではなかろうか?

切腹とか打首といった命を取られる過酷な処罰がない、執行猶予で何年か我慢すればチャラになる現代のほうが、政治に向き合う姿勢が甘くなるのも無理ないように思える。

水無51-048


バスを待ちながら停留所の窓から国道41号線を眺める。

先ほど訪れた飛騨一ノ宮の駅前から線路沿いを西へ5分ほど歩くと、「御旅山」という標高約20mの古墳状の丘陵がある。

実は人工の丘陵で別名「御座山」といい、古くから位山の遙拝所とされてきた。

一帯は公園として整備され、毎年5月2日の例祭では水無神社の御旅所として神興の御神幸が行われる。

ここで神事芸能(神代踊り、闘鶏楽、獅子舞など)が奉納され、その後は参拝者に御神酒「濁酒[どぶろく]」が振る舞われる。

ちなみに例祭で水無神社の濁酒を使用するのが公認されたのは昭和7(1932)年11月1日のこと。

現在は「構造改革特別区域法による酒税法の特例」という長ったらしい名の法律下で「臥龍桜の里・一之宮どぶろく特区」に認定されている。

ちなみに、どぶろく特区の認定は平成16(2004)年12月と、ごく最近のこと。

だが、飛騨高山における濁酒造りの歴史は“特区”という小手先の政策で括られるほどチッポケなものではない。

水無大神と飛騨国人の間を結ぶ“絆”ともいうべき存在なのだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]24

水無48-045

大原騒動を引き起こした悪政は彦四郎の息子、大原亀五郎正純へと引き継がれた。

しかも職権濫用によるワルさの度合いがパワーアップ。

例えば過納金(農民に米一俵につき30~50文を過納させ、後で返す金)を返さないとか。

幕府が天明の大飢饉対策として農民に免除した分の年貢を取り上げて私腹を肥やすとか。

あげくに飛騨三郡の村々から総額6000両という大金を借り上げた。

借りた…というより、ハナから返す気などサラサラなかったのだろう。

これには農民はおろか名主や役人も怒りを募らせ、悪代官正純との戦いを激化させていく。

水無49-046

天明7(1787)年、クビにされた役人や失業した名主たちは何度も江戸に代表を派遣。

老中松平定信をはじめ幕閣に密訴状の投入や老中宅の門への訴状の添付を繰り返した。

さすがに幕府も看過できなくなったのか同年12月、代官所のナンバーツーである本締の田中要助が勘定奉行に呼び出されて江戸へ出向く。

そして寛政元(1789)年5月、飛騨に入った料所廻りの巡見史に対し農民が直訴して正純の悪行を糾弾。

さらに江戸で松平定信にも駕籠訴を行い念押し。

同年6月、ようやく重い腰を上げた幕府は高山に検見役を派遣するなど実状の調査に当たるが、ここでも正純は書類を改竄するなど不正を働いたという。

そして同年8月、今度は正純自身が勘定奉行から呼び出しを喰らい江戸表へ。

同年12月、ついに御沙汰が下り、今度は正純に“年貢の納め時”が来た。

まず、郡代大原正純は八丈島へ流罪。

もちろんグルだった他の役人も処罰された。

内訳は本締田中要助の打首をはじめ死罪2人、流罪1人、追放8人。

一方の農民側は駕籠訴の実行者こそ死罪になったものの、他の者はおしなべて軽い罰で済んだそうだ。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]23

水無45-042

来た道を引き返し、大鳥居の前をグルリと回り込み、絵馬殿の裏を抜けて境内の北側へと向かう。

奥の駐車場から来る場合この北参道を抜けると、わざわざ正面に回ることなく楼門の前に出ることができる。

参道には資材を積んだ軽トラックが停まり、業者の男衆が来るべき正月の初詣に向けて黙々と作業を続けている。

だが北参道には進まず、山の方角へ続く道に向かう。

水無46-043

ここまでたびたび登場している“聖地”位山。

その名称は樫の木の一種「櫟[いちい]」に由来する。

位山には櫟の原生林があり、天然記念物に指定されている。

その昔、この櫟で謹製した笏[しゃく]を朝廷に献上。

笏というのは束帯で威儀を整えるため右手に持つ細長い板のこと。

聖徳太子の肖像画で手に持っているアレだ。

すると、朝廷から櫟の木に対して一位の官位が下賜された。

そこから木は一位、山は位山と呼ばれるようになったという。

現在でも天皇即位と伊勢神宮式年遷宮には、水無神社から位山の櫟製の笏が献上されているそうだ。

本殿北側にある境内林の散策を続ける。

そこに異形の樹相を呈している木を見つけた。

一つの根から3本の幹が空に向かって伸び、根元には無数の脇芽が噴き出している。

樹齢は推定450年、目通り7。2m、樹高30mとソコソコ大きい。

安永年間に大原騒動で荒廃した社殿を修繕する際、元木の一部を伐採して用材にしたとも伝わる。

その折に裏山が切り開かれ、元木が現在の場所に植え替えられたという。

水無47-044

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]22

水無43-040

大祭の看板や賽銭箱を眺めているうち、いつしか境内から出ていた。

鳥居をくぐった先を左手に向かうと、道標[みちしるべ]が立っている。

    右 位山道
    左 宮峠道

幾度か登場している位山は日本を表裏に分かつ分水嶺。

ここから「水の主」水無大神の坐す聖域と見做され、奥宮が鎮座している。

古来から霊山として名高い位山の山中には巨石群が存在する。

人為的に築かれた遺跡という見方もあるなど、かつては神秘的な霊場だったと考えられている。

これまた幾度も登場している両面宿儺は位山の主。

天舟に乗り雲海を掻き分けて位山に降臨したという古伝説もあるそう。

位山が持っていた宗教的神秘性が「両面宿儺」という伝説上の怪人に具現化されたという見方もあるという。

水無44-041

目の前で左右に別れた道のうち、左の宮峠道を進んでみた。

細い道の境内側には幅の広い側溝のような川が流れている。

木立の向こう側に、うっすらと本殿が見える。

明治時代に飛騨国一之宮と認定された水無神社は、昭和12(1937)年から神祇院の国営工事として莫大な国費を投入し前社殿の大造営を開始した。

昭和14(1939)年に第一期工事が完了するも、昭和20(1945)年の第二次大戦敗戦により造営途中で国家の管理下を離れることに。

神祗院官制の廃止や宗教法人への移行など紆余曲折を経て、ようやく造営工事が完成したのは昭和24年(1949)年のことだった。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]21

水無138

そのルーツは、やはり「大原騒動」。

安永8(1779)年、一揆で荒廃した社殿の大造営竣工を記念して行われた遷座奉祝祭にある。

飛騨国中の代表神社から神輿や祭り行列を招請し、3日間にわたって催行された。

天下泰平や五穀豊穣などを祈願する一方、大原騒動で疲弊した飛騨の人々の心機を奮い起こしたそうだ。

「世相の凶[あ]しきを吉に返す世直しの大まつり」

この謳い文句こそ「飛騨の大祭」の本質を現しているだろう。

以来、飛騨各地の神社で凶時や異変の折に斎行され、今日に至っている。

字が掠れて読みにくい看板に、なぜ「大祭」と書かれているか分かったのか?

それは、全く同じ看板が鳥居の前に立っていたから。

違うのは日付が「平成二十九年五月三日より六日まで」となっていること。

平成二十九年…つまり次の大祭は来年開催される。

前回開催されたのは昭和35(1960)年というから、27年ぶりの斎行になるわけだ。

水無41-039

「大祭」の看板の隣には古い社号標が立っている。

いや、正確には社号標ではなく、表には「國幣小社」と刻まれているのみ。

通り水無神社は明治4(1871)年、近代社格制度の国幣小社に列格した。

翌年には世襲神主である社家を廃絶し、戦後の神社制度改正まで官選の宮司が任命されてきた。

島崎藤村の父正樹も、この官選宮司として赴任してきたことになる。

その隣には古びた木製の賽銭箱。

正面には神紋があしらわれている。

6つの瓢箪を「水」の字に合わせた形状。

安永年間に梶原大宮司が考案したと伝わっている。

瓢箪は古事記にも登場するほど、神代の昔から水を汲む器として用いられてきた。

主祭神の水無大神は水を司る神。

いかにも瓢箪は似つかわしい。

水無42*0039

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]20

水無37-035

境内へ入ってすぐ左側に大きな建物がある。

絵馬殿。

その名の通り内壁には数多くの絵馬が掲げられている。

縦6本×横5本の柱が巨大な屋根を支えている。

壁は上部にしかなく、下部は吹き抜けだ。

棟札によると建造は慶長12(1607)年。

当時の高山城主、金森長近が造営したと記されている。

水無38-036

大原騒動の後遺症で両部神道が唯一神道に改められた際、仏教関係の一切が破却、移転、改築された。

そんな中、取り壊しを免れたのが拝殿だった。

江戸時代が終わって明治3(1870)年、当時の高山県知事は飛騨の国中から醵金[きょきん]を募って新たに社殿を造営。

その際、建築様式を神明造りに統一したため、従来の入母屋造りだった拝殿が不釣合いになり、取り壊されてしまった。

これを惜しんだ氏子衆は解体後の建材を保管。

明治12(1878)年、拝殿の再建を願い出た氏子衆は広く浄財を募り、保管していた建材を用いて元の位置へ復元したという。

その後、昭和に入ると政府の管理下で大造営が行われたが、第二次世界大戦の敗戦で中断。

さらに戦後の昭和29(1954)年、境内を拡張するため前に社家(山本家)の屋敷があった場所に移築。

昭和53(1978)年には柿[こけら]葺きだった屋根が銅板に葺き替えられ、高山市に編入される前の宮村重要文化財に指定されている。

水無39-037

絵馬殿の中に、ひときわ大きな看板が掲げられている。

絵は描かれていないので絵馬ではない。

墨書で大きく「大祭」と書かれているが、古い看板らしく字が掠れて読みにくい。

この大祭とは「飛騨の大祭」のこと。

飛騨地方独特の祭礼で、全国でも他に類を見ない神事という。

[旅行日:2016年12月11日]

一巡せしもの[水無神社]19

水無35-031

楼門の向こう側、左手すぐのところに巨大な老木が立っている。

推定樹齢およそ800年という銀杏[いちょう]の大木だ。

落雷によって上部が欠損しているが、折れた場所から若枝が繁茂。

櫟[いちい]などの宿り木を抱え、もう何の木やら分からないほどの枝ぶりだ。

枝からは銀杏特有の乳[ちち]が垂れ、その姿は優しげな母親の面影を連想させる。

そのせいか古くから子授け、安産、縁結びに霊感あらたかな御神木として信仰されているという。

樹齢800年といえば西暦1200年頃から、この地に根を張っていることになる。

大原騒動の顛末はもちろん、鎌倉時代の神仏習合の頃から水無神社の歴史を見守ってきたのだろう。

余談だが、銀杏の乳は女性の乳房に見立てたもの。

ここだけではなく全国各地の神社で銀杏の乳が同様の信仰を集めている。

ちなみに銀杏の乳は英語でも「ChiChi」というそうだ。

水無36-034

楼門の前を離れ、再び鳥居の方を眺める。

乳白色の雲が空一面を覆い、時折り舞い散る小雪の彼方には、幾重にも連なる飛騨の山並み。

苦難に満ちた江戸時代を思えば、世界中から観光客が押し寄せる現代の飛騨地方は隔世の感がある。

水無神社が飛驒国一之宮に比定されたのは、実は明治維新以降のこと。

実は、どの神社が飛騨国の一之宮なのか記した江戸時代以前の史料が散逸しているため。

明治政府による神仏判然令により、数多くの仏像や仏教関係の古文書などが“廃仏毀釈”された。

[旅行日:2016年12月11日]
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