天守閣を出て城井神社の横を通り抜け、中津川の川岸を辿って北側の広場へ。
以前ここには高校が立っていたそうだが現在では駐車場。
市民が三三五五レジャーシートを敷いて花見に興じている。
こちらのサイドから見る中津城天守閣はスッキリと見える。
天守閣の周囲にあるのが堀と石垣、木々の梢ぐらいで、他に余計なものが見えないからかも知れない。
黒田家が筑前国福岡に移封した後は、細川忠興が豊前一国と豊後の国東・速見の二群の領主として入部。
忠興は中津を当初の居城とし、弟の興元を小倉城に置いた。
慶長7(1602)年、忠興は居城を小倉城に変更し、大規模な小倉城築城を始めた。
元和元(1615)年に一国一城令が出され、忠興は慶長年間から続けていた中津城の普請を一旦中止。
小倉城以外に中津城も残してもらえるよう幕府の老中に働きかけた結果、翌年に中津城の残置が決まった。
元和6(1620)年に家督を忠利に譲った忠興は翌年に中津城へ移り、城郭や城下町の整備を本格的に進めた。
元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格ゆえ、同年に本丸と二の丸の間にある堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。
北側広場から石垣を眺めると、途中で積み方が変わっているのが分かる。
真ん中のy字から右側が黒田孝高(如水)時代、左側が細川忠興(三斎)時代のもの。
積み方は黒田側が野面積、細川側が打込みはぎ積。
両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。
また、本丸の石垣と内堀は当時のまま残され、水門から海水が入り、潮の満干で水位が増減しているそうだ。
このことから高松城、今治城とともに「日本三大水城」と謳われている。
ちなみに高松城を築いたのは生駒正親だが、縄張は黒田孝高が設計したという縁がある。
堀端に黒田如水の像が石垣を背に立っている。
いや、如水自身はあぐらをかいて座っている姿なのだが。
折あらば天下人に…という野望を抱いていたといわれる官兵衛。
ところが期待していた関ヶ原の戦いが、なにせ1日で終わったわけで。
像に浮かぶ表情を眺めていると、どこか官兵衛の無念さが感じ取れる気がした。
左側の小さな櫓は城主の馬具等を格納する大鞁櫓[だいひやぐら]。
これもまた天守閣とともに復元再建された櫓である。
明治3(1870)年、中津藩は維新政府に廃城を願い出て許された。
翌年、殿舎の一部と松の御殿を除き、城門や櫓などを取り壊す。
この裏には福澤諭吉の進言もあったと伝わっている。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」
『学問のすゝめ』に出てくる有名な言葉だが、「人の上」の象徴たる御城の破却を進言したのは「言動一致」だったというべきか。
[旅行日:2016年4月10日]