2016年08月

耽よ!城下町[豊前中津城]10

①45中津城ビューポイント

天守閣を出て城井神社の横を通り抜け、中津川の川岸を辿って北側の広場へ。

以前ここには高校が立っていたそうだが現在では駐車場。

市民が三三五五レジャーシートを敷いて花見に興じている。

こちらのサイドから見る中津城天守閣はスッキリと見える。

天守閣の周囲にあるのが堀と石垣、木々の梢ぐらいで、他に余計なものが見えないからかも知れない。

黒田家が筑前国福岡に移封した後は、細川忠興が豊前一国と豊後の国東・速見の二群の領主として入部。

忠興は中津を当初の居城とし、弟の興元を小倉城に置いた。

慶長7(1602)年、忠興は居城を小倉城に変更し、大規模な小倉城築城を始めた。

元和元(1615)年に一国一城令が出され、忠興は慶長年間から続けていた中津城の普請を一旦中止。

小倉城以外に中津城も残してもらえるよう幕府の老中に働きかけた結果、翌年に中津城の残置が決まった。

元和6(1620)年に家督を忠利に譲った忠興は翌年に中津城へ移り、城郭や城下町の整備を本格的に進めた。

元和の一国一城令や忠興の隠居城としての性格ゆえ、同年に本丸と二の丸の間にある堀を埋め、天守台を周囲と同じ高さに下げるよう命じている。

①46細川←/→黒田

北側広場から石垣を眺めると、途中で積み方が変わっているのが分かる。

真ん中のy字から右側が黒田孝高(如水)時代、左側が細川忠興(三斎)時代のもの。

積み方は黒田側が野面積、細川側が打込みはぎ積。

両時代の石垣とも花崗岩が多く使われている。

また、本丸の石垣と内堀は当時のまま残され、水門から海水が入り、潮の満干で水位が増減しているそうだ。

このことから高松城、今治城とともに「日本三大水城」と謳われている。

ちなみに高松城を築いたのは生駒正親だが、縄張は黒田孝高が設計したという縁がある。

①47黒田如水

堀端に黒田如水の像が石垣を背に立っている。

いや、如水自身はあぐらをかいて座っている姿なのだが。

折あらば天下人に…という野望を抱いていたといわれる官兵衛。

ところが期待していた関ヶ原の戦いが、なにせ1日で終わったわけで。

像に浮かぶ表情を眺めていると、どこか官兵衛の無念さが感じ取れる気がした。

①48中津城外観

左側の小さな櫓は城主の馬具等を格納する大鞁櫓[だいひやぐら]。

これもまた天守閣とともに復元再建された櫓である。

明治3(1870)年、中津藩は維新政府に廃城を願い出て許された。

翌年、殿舎の一部と松の御殿を除き、城門や櫓などを取り壊す。

この裏には福澤諭吉の進言もあったと伝わっている。

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」

『学問のすゝめ』に出てくる有名な言葉だが、「人の上」の象徴たる御城の破却を進言したのは「言動一致」だったというべきか。


[旅行日:2016年4月10日]

耽よ!城下町[豊前中津城]09

①42奥平神社

いよいよ天守閣へ…と、その前に。

正面に奥平神社、左手に中津大神宮が鎮座している。

城跡というより神社の境内に天守閣を後付けで拵えたような錯覚にとらわれる。

奥平神社は中津を治めた奥平家を祀った神社だ。

奥平家が歴史の表舞台に登場したのは初代貞能[さだよし]と貞昌[さだまさ]父子。

天正3(1575)年5月「長篠の戦い」での活躍だった。

武田勝頼軍1万5千人に長篠城が包囲され、城主貞昌はわずか500人で籠城、激しい攻撃に耐え続けた。

食料がなくなり田螺[たにし]を食べて戦い続けたことにちなみ、今でも毎年5月21日ごろ「たにし祭」を行っている。

長篠城が落城寸前、織田信長・徳川家康連合軍が到着。

長篠城の西方約3kmの設楽原で武田軍と織田・徳川連合軍が激突し、武田軍は大敗北。

この戦功で貞昌に新たな領地が与えられ、信長から「信」の一字が偏諱されて「信昌」と改名。

信昌は家康の長女亀姫を正室に迎え、家康の孫に当たる四男一女が誕生した。

長男家昌は奥平家を継ぎ、二男から四男は松平姓を賜り、四男の松平忠明は大阪城や姫路城の城主を務めている。

奥平家は長篠の戦いの後、新城城、加納城、宇都宮城、宮津城などを経て、享保2(1717)年に奥平家第七代昌成が中津十万石の領主として入封。

第15代昌邁まで155年にわたり中津を治めて明治維新を迎える。

①43中津城天守外観

奥平神社にお参りした後、いよいよ天守閣へ。

現在の天守閣は昭和39(1964)年に建設された模擬天守。

設計は東京工業大学の藤岡通夫博士で、地下1階5層5階で高さ23m、鯱1.4m、床面積延795平方m。

内部は奥平家に関する歴史的資料館。

歴代藩主が着用した甲冑や陣羽織、長篠の戦で用いられた法螺貝、織田信長から徳川家康が拝領したと伝わる白鳥鞘の槍、鳥居強右ェ衛門磔の図、徳川家康御宸筆の軍法事、徳川吉宗の花押領地目録などが展示されている。

①44中津城天守眺望

天守閣のテッペンに立ち、中津川が海へ注ぎ込む風景を眺める。
豊臣と徳川の争いに乗じて九州を制覇した黒田官兵衛孝高。

拠点としたのが、ここ中津城だった。

中津城が歴史に登場するのは天正15(1587)年、官兵衛が豊臣秀吉から豊前6郡12万石を与えられたのが始まり。

山国川の河口デルタで、海に面した城下町を築ける平野が広がる中津の地を選び、翌16年に築城をスタートした。

ここは軍事的にも西に山国川、南と東に大家川が流れ、北に周防灘が広がる要害の地。

なお、大家川は後に細川忠興の築いた金谷堤によって塞がれている。

同時に瀬戸内海を通じて畿内への海路が確保できる重要な港でもあった。

官兵衛は大坂ー鞆の浦(広島県)ー上関(山口県)に拠点を設けてリレー形式の早船を配置。

わずか3日で大坂と連絡を取れるようにしていたそうだ。


[旅行日:2016年4月10日]

耽よ!城下町[豊前中津城]08

①36中津神社鳥居

天守閣の南側に中津神社の鳥居が聳立している。
 
東西に延びる石垣の真ん中を断ち切り、堀に橋を架け、参道を通した格好。

もちろん奥平藩時代には鳥居も参道もなく、明治以降新たに設けられたものだ。

①37中津城石垣左

鳥居に向かって左側の石垣。

築城当時の石垣は今より低く、幅も狭かったそう。

また、掘側だけでなく城内側にも石垣があったことも分かっている。

①38中津城石垣内

石垣の真ん中を断ち切る工事をした際、中から古い石垣が顔をのぞかせた。

16世紀末頃に築城された当時の石垣と思われ、高さは根石から約6m弱、天頂の幅は約2.4m。

17世紀になると現在と同じ7mの高さにまで積み上げられ、城内側へ拡張されていった。

従って掘に面した石垣は築城当時の面影を残しているわけだ。

①39蓬莱園
 
参道を出るとすぐ右手に「蓬莱園」という庭園がある。
 
ここには昔「蓬莱観」という、西日本屈指の大劇場があった場所。

明治15(1882)年に建築され、往時には歌舞伎役者や著名な俳優が興行を打ったという。

しかし戦時中の強制疎開で建物は取り壊され、戦後に敷地が庭園として整備されたそう。

庭園の中に劇場の名を受け継いだ喫茶スペース「ギャラリー茶論・蓬莱観」がある。

劇場時代に使われていた引き戸やケヤキの1枚戸、歌手の東海林太郎ゆかりのピアノが残されているそうだ。

①40三斎池

再び鳥居をくぐって城跡へ。

右手に「獨立自尊」と刻まれたオベリスクが立っている。

その先には小綺麗に整備された池。

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦などの功績により黒田長政は筑前五十二万石に移封となり、如水とともに中津を去った。

黒田家の後には細川忠興が豊前一国と豊後の国東・速見の二群の領主として入部。

忠興は中津を当初の居城とし、弟の興元を小倉城に置いた。

慶長7年、忠興は居城を小倉城に変更し、元和6(1620)年に家督を忠利に譲った。
 
隠居した忠興は三斎と号し、翌7年に再び中津城へ。

黒田家の後を引き継ぎ、中津城や城下町の整備を進めた。

この際、用水不足を補うため場内に水道工事を行った。

山国川の大井出堰(三口)から水道を場内まで導く大工事だった。

その水を湛えたのがこの池で、鑑賞や防火用水としても使用された。

忠興の号『三斎』の名を冠して『三斎池』と命名。

現在は中津市の上水道を引いている。

①41黒田官兵衛資料館

三斎池の隣にあるのが黒田官兵衛資料館。

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」を当て込んで建てられた施設で、平成26(2014)年1月19日に開館。

ちなみに中津で黒田家関係の施設はここのみ。

同28(2016)年3月末に一時閉館したものの、同年4月29日にリニューアルオープン。

豊前国統治時代(1587~1600)の黒田官兵衛の活躍などを紹介したパネルなどの資料館機能や市内観光地などへの誘導を促す観光情報発信機能。

それらに中津の銘菓や特産品を取り扱う土産店、湯茶などを提供する喫茶スペースが追加されている。


[旅行日:2016年4月10日]

耽よ!城下町[豊前中津城]07

①31西門跡

小倉口を通り過ぎ暫く行った先の角を左に曲がると、低い石垣が姿を表す。

ここが中津城の西南隅に位置する西門の跡だ。

西門は搦手門で、大手門と同じ櫓門型だったと思われる。

小倉口に最も近いため敵の侵攻を受けやすい門。

それを防ぐべく堀の幅を広くとり、奥に三方を巨石で囲った『桝形』を備えている。

櫓門には武器や道具類を収めていたそうだが、明治2(1869)年10月に焼失したそうだ。

小学校低学年の男の子と女の子が4〜5人ほど、桜吹雪の舞い散る石垣の前で遊んでいる。

戦に備えて設えられた舞台装置が演出する平和な光景だった。

①32汐湯銭湯

西門から桝形へ向かうと左側に「汐湯」という看板が見える。

看板の上方には「割烹」の文字、下方には温泉マーク。

しかし入り口が男湯と女湯に分かれ、見た目は完全に銭湯。

しかも建物は向かって左側がスレート張りの二階棟、右側が木造三階棟と分かれている。

①33汐湯割烹

ここは銭湯なのか? 割烹なのか? 一体何なのか?

創業は明治15(1882)年で、最初は割烹料亭としてスタート。

銭湯は明治29(1896)年ごろ「中津海水湯」の名称で始めたそうだ。

汐湯は汲み上げた海水を沸かしている珍しい銭湯。

白湯は40度でも熱く感じるが、海水湯は42度でも熱さを感じないまろやかさとか。

三階棟は大正時代、二階棟は昭和30年代に建て替えられたもの。

風呂上がりには階上の涼み台で中津川を眺めながらビールを飲みつつクールダウンできるそう。

中津城を見物した後でひとっ風呂浴びてみようか…と思いつつ、通り過ぎる。

①34鍵型

汐湯三階棟の斜向かいに桝形がある。

西門の虎口(城郭への出入口)であり、石垣は状態よく保存されている。

江戸時代は石垣の上に櫓が立っていたはずだが無論、現在では存在しない。

その代わりというか、桜の木が植栽されている。

頭上から桜吹雪が舞い落ち、汐湯の古風な木造建屋にハラハラと降り注ぐ。

城下町の春ならではの美しい光景だった。

①35中津神社社殿

桝形を通り過ぎると左手に中津神社が鎮座している。

文久2(1862)年、江戸幕府は参覲交代や江戸藩邸定住を免除する諸緩和令を出した。

これにより江戸に置かれていた大名の妻子は帰国を許されることとなった。

中津藩も江戸藩邸から帰郷する姫君たちの住まいを建てる必要性に迫られる。

文久3(1863)年8月、本丸下ノ段西側のこの地に新居を建設し「松の御殿」と命名。

以降8年間ここで生活した姫君たちは明治4(1871)年の廃藩置県で他の場所に引き移っていった。

その後「松の御殿」は小倉県や大分県の中津市庁舎として使用されたのだが。

明治10(1877)年3月に増田宗太郎隊長率いる中津隊が西南の役に乗じて襲撃し、御殿は灰燼に帰した。

それから6年後、市内の諸宮を統合して跡地に建立されたのが中津神社というわけである。


[旅行日:2016年4月10日]

耽よ!城下町[豊前中津城]06

①27小笠原長勝公墓

墓地の奥、寺の建屋の横に立派な墓が立っている。

黒田・細川の次に中津の城主となった小笠原家、その二代目藩主長勝の墓だ。

寛文8(1668)年2月、島原藩松倉家が悪行の科で幕府から改易を申し付けられた時のこと。

小笠原家は平戸藩松浦家とともに島原城受け取りの大役を命じられ、無事に御役目を完了。

その功によって長勝は豊後高田藩2万8000石を賜った。

天和2(1682)年、長勝は江戸にて37歳で病死。

これは江戸・広徳寺に建てた墓を後に移設したものだ。

①28自性寺おかこい山

墓地は山国川の近くに広がり、川と隔てる格好で小高い土手が築かれている。

堤防ではなく「おかこい山」という土塁である。

中津城は城下町の外周や場内に堀を持つ総構えの城で、外敵の侵入を阻むため外堀の本丸側に
約2.4kmにも及ぶ長大な土塁を構築。

おかこい山を切るように設置された城戸口を通過しないと城下町に入れなかった。

城戸口は先ほど通った島田口のほか、金谷口、広津口、小倉口、蛎瀬口、大塚口の6カ所にある。

①29外馬場

自性寺を出て諸町通りを西に進むと道が狭まっていく。

今度は本物の堤防に突き当たり、超えると山国川の河原に出た。

中津城築城に伴い総曲輪の西側に当たる山国川東岸一帯には鉄砲矢場、兵式調練場、外馬場が設置された。

奥平藩時代、場内の道路両側に町屋が建てられ、この地は「外馬場」と呼ばれるようになったという。

さほど護岸工事なども行われていないようで、川を包み込む風景はさほど昔と変わらないように見える。

往時、この河原で武芸に励む武士たちの姿が目に浮かぶようだ。

堤防の上を中津城に向かって歩いていくと、広い県道との交差点を渡ると右手に魚市場が見えた。

食堂でも営業しているかと思ったが、おてんと様が頭の上にある時間帯。

魚市場が動いている気配はなく、物音ひとつ聞こえてこない。

そのうち堤防から城跡方面へ下りていく道が現れた。

Y字路に立つ説明板によると江戸時代ここに山国川の船渡場「小倉口渡」があったという。

①30小倉口

この坂を下ったところにあるのが城戸口のひとつ、小倉口。

城下町外堀の西南隅にある、小倉へ続く道の起点である。

西側から小倉口へ入ると近接する西門から場内へ入ることのできる重要な入り口だった。

門の構造は二本の柱に横木を渡しただけの冠木門で、監視用の番所が設置されていた。

中津市歴史民俗史料館に所蔵されている『藩主帰還の図』には、対岸の小犬丸渡船場から山国川を渡ってきた藩主の乗る御座船を、外馬場から小倉口まで大勢の人が出迎える様子が描かれている。

往時は外堀に欄干を備えた立派な太鼓橋が掛かっていたそうだが、埋め立てられ狭い水路となった今、橋は小さくなってしまった。

[旅行日:2016年4月10日]

耽よ!城下町[豊前中津城]05

①21南部まちなみ入口

紺地に「南部まちなみ交流館」と白く染め抜かれた大きな暖簾がかかる歴史的建造物を見かけた。

元々は江戸時代に「宇野屋」の屋号で造酒屋や米問屋として栄えた商家。

それを中津市が平成26(2014)年に文化財として保存・整備した観光拠点施設である。

柱や梁など建設当時の建材を可能な限り残し復元。

梁には「文化十二年子八月」(西暦1815年)と築年を示す墨書きが残っており、ちょうど建造から200年ほど経っていることが分かったそうだ。

①22南部まちなみ内部

館内には無料のお茶が用意されており、街歩きの途中で休憩するのに最適。

この建物は地域活動にも利用されていて、展示物などを眺めながら一服つけられる。

単なる休憩所にしては非常に贅沢な時間が流れる空間だった。

①23自性寺外観

諸町通りを西、山国川に向かって歩いている。

通りが尽きる辺りに大きな寺が立っている。

自性寺、奥平藩歴代の菩提寺だ。

創建は藩祖信昌が三河国新城の領主だった時代で、当初は金剛山万松寺と称した。

その後は奥平藩の転封に付き従い、享保2(1717)年の6代藩主昌成の転封とともに中津へ。

延享2(1745)年に自性寺と改称し、現在に至る。

①24大雅堂

角を曲がってすぐのところに小さな入り口があった。

遥か先に大きな入り口が見えるので、そちらが自性寺の山門だろう。

ここは池大雅[いけのたいが]の障壁書画47点を中心に展示している美術館「大雅堂」の入り口。

大雅は与謝蕪村と並ぶ日本の文人画の大成者と評されている、江戸中期の画家・書家。

文人画とは教養ある知識人が心の赴くままに描いた雅趣に富む絵のことだ。

保存展示されている障壁書画は大雅夫妻が中津に滞在していた折、描いたもの。

「画禅一味、書禅一味」と称される芸術作品は、県重要文化財に指定されている。

しかし先を急ぎたかったので大雅堂を見ることなく裏手の墓地へ。

そもそも本命の中津城にすら、まだお目にかかっていないのだ。

①25自性寺塀

墓地の前は駐車場になっていて、その奥に一基の碑が立っている。

「田原 淳[たわら すなお] 碑」

近くに説明板もあったが、目も止めずに素通りした。

墓地に入ると、狭い敷地内には様々な形状をした墓石が適度な間隔を置いて立っている。

目の前に祠のような形状をした墓。

その前に立つ説明板には「河童の墓」とある。

自性寺十三代海門和尚には、女性などに取り憑いた河童を仏縁により改心させた…という伝説が残っているそうだ。

しかも寺には河童が書いた詫び状も伝わっているという。

本当に妖怪の河童だったのか?

それとも女性にまとわりつく河童に似たストーカーを追っ払っただけなのか?

真実を知りたがるの野暮というものか。

①26河童の墓

[旅行日:2016年4月10日]

耽よ!城下町[豊前中津城]04

①17高野長英蔵外

「裏に蔵がありますが、ご覧になりますか?」

ドラミちゃんからお誘いを受けた。

普段は鍵が掛かっているため、内部を見学するには開錠してもらう必要があるそうだ。

白壁で二階建ての土蔵で、入り口の前に小さな看板が立っている。

この蔵に幕末の一時期、シーボルト事件で追われていた高野長英が匿われていたという。

中に入ると江戸時代から伝わる医学関連和書の数々が、ガラスケースに収められ丁寧に陳列されている。

その中に、高野長英が持参したと伝わる蘭文(オランダ文字)の学問訓が掲げられている。

「水滴は石をも穿つ」

最後までやり抜かなければ、最初からやらないほうがよい…現代でも通じる学問訓だ。

二階へ通じる階段の先に薄い格子戸があり、その奥の部屋に長英は匿われていた。

長英は江戸後期の蘭学者、思想家で、若くしてオランダ医学を修めた秀才だった。

文政8(1825)年に長崎へ赴任し、ドイツ人医師シーボルトの鳴滝塾に入門。

ところが文政11(1828)年、シーボルトが帰国する折に御禁制の日本地図などを海外に持ち出そうとしたことが発覚。

翌12(1829)年にシーボルトは追放され、大勢いた門下生たちはことごとく捕縛、断罪された。

そんな中、長英は長崎から何とか脱出に成功。

逃亡の途中、この土蔵に潜伏していたのだろう。

①18高野長英蔵内

土蔵から出、ドラミちゃんに礼を言い、史料館を後にした。

諸町通りを歩きつつ、高野長英について引き続き考えてみる。

長英は天保9(1838)年に出版した『戊戌[ぼじゅつ]夢物語』で幕府の異国船撃攘策を批判。

翌10(1939)年の蛮社の獄で北町奉行所に自首し、幕政批判の罪で永牢[えいろう](無期禁固刑)のお裁きを受ける。

ところが弘化元(1844)年、40歳の時に自ら画策した放火に乗じて小伝馬町の牢舎から脱獄に成功。

その後は宇和島藩主伊達宗城に蘭学を教授したり、江戸で高橋柳助や沢三伯の名で医業を営んだりしていた。

嘉永3(1850)年10月、長英は家宅で幕府の捕史に踏み込まれ自刃する、47歳のことだった。

①19村上記念病院

諸町通りを歩きながら長英のことを考えていると「村上記念病院」という看板が目に止まった。

無論ここは村上医家が経営する病院。

江戸時代から現代へと続く、まさに医療の「大河ドラマ」的な存在だ。

諸町通りで「むろや醬油」の看板を掲げた古い商家を見かける。

板戸は閉ざされ、とっくに現役を引退した歴史的建造物か…と思いきや。

日曜でお休みしていただけで、現在でも現役バリバリのお醬油屋さんなのだ。

初代菊池安之丞が開業したのは享保元(1716)年というから、ちょうど今年で創業300周年という老舗中の老舗。

小笠原家、細川家、奥平家と代々の藩主に献上されてきた「中津の味」である。

むろや醬油の特徴は機械化で生み出される量産品ではなく、江戸時代から受け継いできた製法で手作りされていること。

国産の大豆と小麦から仕込んだ種麹を生醤油に1年間漬け込み、発酵させた諸味(醪)を圧搾して生揚[きあげ]醬油を作る「再仕込み醸造」という製法だ。

製造から瓶詰めまで全工程手作業という前近代的な醸造メーカーが、よく生き延びていられるものと思う。

周防灘から水揚げされる新鮮な海の幸や、ソウルフード「中津からあげ」の味わいに欠くべからざる存在なのだろう。

これぞ理想的な「地産地消」ではないかと思える。

①20むろや醤油


[旅行日:2016年4月10日]

耽よ!城下町[豊前中津城]03

①10日出橋

日豊本線に沿って歩くと、細い水路が高架と交差している。

江戸時代からある水路で、当時は島田口のあったあたり。

橋を渡って木戸をくぐると、その先が中津の御城下となる。

その橋…日出橋があった場所が、この周辺だったそうだ。

①11上博多町

日出橋を渡って島田口へ至る場所は昔「出小屋」と呼ばれていた。

往時ここは新博多町の商人が露天で営業していたところで、繁盛するうちに町屋を建てるようになり、やがて一町を形成するまでになったという。

最初は新博多町の上(かみ)に当たることから「上博多町」と呼ばれたが、後に「新諸町」となり、現在では再び「上博多町」と呼ばれている。

島田口から御城下に入ると「勢溜[せいだまる]」という広場になっていた。

勢溜は戦や火事などの災害時には人々の避難所となる大切な場所で、城下町の町割に不可欠な要所である。

①12新博多町

ここから中津城方面にアーケードが伸びている。

新博多町商店街。

細川時代に「十助堀」を埋めて造られた町で、城下町が形成された初期の町屋14町のうちの一町という歴史を誇る。

この先、中津城側に伸びる「博多町」に対して「新博多町」と命名されたそうだ。

アーケードの中に入ると「日ノ出町商店街」と同様、こちらも見事なまでのシャッター通り。

ことごとく閉ざされた商店の壁の中を進むうち、店を開けている洋品店を見かけた。

店主の表情からは「最後の一店になっても、この商店街を支え続ける」たという矜持を感じた…気がする。

①13諸町通り

新博多町商店街を勢溜まで引き返し、今度は西へ伸びる諸町通りへ。

城下町の風情を今に伝える古風な商店街で、新博多町と同様ここも初期町屋14町のうちの一町。

一部に武家屋敷もあったが、住人の大半は諸々の職業の職人たち。
そこから「諸町」という町名になったのだそうだ。

諸町通りには中津に所縁のある偉人たちの業績を記した立て看板が延々と立っている。

ひとつひとつ読み進めていくだけで、中津の歴史を丸わかりした気分になれる。

①14村上医家全景

通りの中ほどに中津市歴史民俗資料館の分館、村上医家史料館がある。

村上医家の初代宗伯が寛永17(1640)年、この地に医院を開業。

その建物を元に、同家に伝わる数千点もの資料類が展示されている。
建物そのものは江戸時代以来の古民家。

受付にはドラミちゃんみたいに可愛くて頭が良さそうな女性がおり、丁寧に案内される。

内部には書物や医療器具などが所狭しと陳列されていた。

村上家七代目玄水は九州で初めて人体解剖を行った医者で、詳細を記した「解臓記」も展示されている。

見かけは小さいが中に入れば江戸から明治へと日本の医学がたどった軌跡を見渡せるほど茫洋と広い史料館といえよう。

①16村上医家内部


[旅行日:2016年4月10日]

耽よ!城下町[豊前中津城]02

①05日ノ出町入口

駅前のシティホテルに荷物を預け、さっそく街中の散策に出る。

まずは中津駅北口から左手に見える「日ノ出町商店街」へ。


先述の映画「サブイボマスク」の舞台、道半町商店街のモデルはここ日ノ出町商店街なのだそう。


日ノ出町商店街はアーケード商店街だが、昼でも薄暗くて人影が少ない。


全国各地の駅前商店街の例に漏れずシャッター通り化が進行しているように見える。


ただ、飲み屋さんが多いので夜になると賑わうのかもしれない。


①07お花見街コン

商店街の真ん中あたりに紅白の垂れ幕で仕切られた一角がある。


桜の造花で装飾された掲示板を見れば「お花見街コン」と記されている。


どうやら全国で流行している男と女の出会いの場「街コン」の会場らしい。


掲示板の開催要項を読むと、実施されるのは今夜。
一瞬「参加したい!」という欲望が脳裏を掠める。


だが、地元の人間でもないのに参加したところで詮無い話、諦めて(?)通り過ぎた。


①06日の出町


それにしても、人影を見ない。


当方としては誰もいないほうが、ストレスを感じずに済むのでありがたい。


郊外型の巨大ショッピングモールをウロつくより、こうした寂れたアーケード街を歩いているほうが、たとえ店舗が一軒も空いていなくても心が落ち着く。


ことに城下町は昔ながらの老舗が多く軒を連ねているので、シンパシーはひとしおだ。


①08日の出町出口

「日ノ出町商店街」のアーケードを抜けると仲町通りとの交差点。

仲町通りの中ほどに佇む一軒の割烹料理店に目が止まった。


その名は「瑠璃京」、鱧[はも]料理の店とある。

というか鱧そのものが中津の名物なのだ。


新たな中津の主となった細川忠興は慶長9(1604)年、今井浦(現・福岡県行橋市今井)から腕利きの漁師たちを強制的に中津小祝へ移住させた。


その結果、あまり他の地方では食されない鱧が、中津では盛んに食べられるようになった。


次第に中津の料理人たちの手で次々と新しい鱧料理が開発され、同時に中津における鱧の漁獲量も飛躍的に向上。


こうした鱧料理の技術は中津から西日本へ広がりを見せていった。


例えば河豚漁発祥の地で知られる粭島[すくもじま](山口県周南市徳山)の漁師たちの間では「はも漁、はもの骨ぎりの開祖は、豊前中津小祝の漁師たち」との口伝が残されているという。


数ある鱧料理の中でも鍋料理「はもチリ」は中津市民から愛されていて、はもチリを食べるお膳のことを特に「チリ台」と呼ぶほどとか。


それにしても、なぜ中津で「はもチリ」が愛されたのか?
理由は幾つか上げられる。


・各家庭に「橙[だいだい]」の木が植えられ、秋口に絞って保存していた「橙酢」が「チリ酢」として利用された。


・座興唄「大津絵」に高須人参、湯屋根深(葱)、相原大根、和間白菜といった材料が唄い込まれ、親しまれていた。


・中津藩が生産制限を出すほど豆腐の消費量が著しかった。


・甘口が主流な九州の醬油に比べ、中津の醬油は少し塩味が強くチリに最適だった。

①09瑠璃京

[旅行日:2016年4月10日]

耽よ!城下町[豊前中津城]01

①00a羽田空港

江戸時代の日本には徳川将軍家を筆頭に三百諸侯の大名がおり、その数だけ御城や御殿や陣屋があり、周辺に城下町が広がっていた。

その御城を中心に構築された“小宇宙”城下町を、公共交通機関(旅客機/鉄道/バス/船舶)だけで訪ね歩く旅に出ようと思う。

皮切りは豊前・豊後の二国(現在の大分県)に割拠する7つの城下町だ。

大分空港行きのJAL661便は午前8時ごろ、ほぼ定刻通り羽田空港を離陸した。

①00bJAL661

最初に目指すは大分県と福岡県の県境にある海沿いの町、中津である。

平成26(2014)年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の舞台の一つとなったことでもおなじみ。

その黒田“如水”官兵衛が開き、後を受けた細川“三斎”忠興が築き、奥平家が150年にわたって治めた町だ。

また、中津は蘭学と医学の町でもあり、市内には医学の史料館が2つも存在する。

日本の近代医学が花開く過程を、実際に存在した資料や道具を通じて知見できる。

そして中津といえば(?)福澤諭吉。

彼自身は中津に思い入れがあったどうかは知らないが、中津側は熱烈ラブコール!

少年時代を過ごした旧居が保存され、隣には業績を俯瞰できる記念館が立っている。

さらに中津の名物料理といえば鱧[はも]料理と唐揚げ。

戦国ロマンと維新の息吹に触れ、ご当地グルメを味わう…そんな旅になればいいのだが。

①01大分空港


午前9時半過ぎ、JAL661便は大分空港へ到着した。

初めての大分空港、思っていたよりこじんまりしている。

空港バスの出発まで時間があったので、ビル内をウロウロしてみた。

1階が到着ロビー、2階の出発ロビーではカフェテリアが営業中。

3階のレストラン街は4軒あるうち2軒のみ営業している。

店頭のガラスケースに並べられた地元の特産品メニューが旨そうだ。

その先の扉を出ると展望デッキ。

今しがたまで搭乗していた旅客機を暫し眺める。

天気は薄曇り。だが雨に降られる心配はなさそう。

双六の降り出しにしてはマァマァのコンディションだ。

①02空港バス

10時20分、中津行きの空港バスに乗車する。

運行しているのは大分交通の子会社、大交北部バス。

乗客は他に数人しかおらず、採算は厳しそうに見える。

分社化も頷ける話だ。

かつてホバークラフトがアクセス交通として大分空港と大分市や別府市を結んでいた。

一度乗りたいと思っていたのだが、残念ながら2009年に廃止されてしまった。

しかしバスですらこれほど利用者が少ないのだ。

さらにコストの嵩むホバークラフト、廃止もやむを得なかったのだろう。

空港バスは豊後高田、宇佐神宮を経由していく。

宇佐神宮、さすが八幡宮の総本社だけあって立派な出で立ち。

車窓に広がる農地は稲田ではなく、一面の麦畑。

青々とした穂が実をつけている。

さすが麦焼酎の本場だけあるなと感心。

やがてバスは中津市内へ入っていく。

郊外のロードサイドは、どこも似たような風景が広がる。

牛丼家、ハンバーガーショップ、家電量販店、ベビー洋品店…。

全国チェーン店が幅を利かせ、利益を中央へと簒奪していく。

そんな風景に辟易しているうち、正午過ぎに中津駅へ到着した。

①03中津駅

中津駅は思っていたほど大きくもなく、小さくもない。

高架ホームを降りて改札を出ると、名店街がありお土産品などを販売している。

そこに映画のポスターが貼ってあった。

「サブイボマスク」。

寂れた地方都市に元気を取り戻すため、地元の熱血青年団員が孤軍奮闘。

しかし、その活動がSNSで拡散し、思いもかけない大混乱に巻き込まれていくという話。

主演は元FUNKY MONKEY BABYSのファンキー加藤。

共演は小池徹平、平愛梨、温水洋一、斉木しげる、いとうあさこ、泉谷しげる、大和田伸也ほか。

この映画、実は中津市と隣の杵築市でロケが行われた。

なので、ポスターが掲げられていたという次第である。

①04サブイボマスク

[旅行日:2016年4月10日]

ご無沙汰しております

①48中津城外観

ご愛読ありがとうございます、「RAMBLE JAPAN」管理人です。

昨年10月18日からお休みしておりました当ブログ。

約10カ月間のブランクを経て、明日から再開いたします。

しかも「一巡せしもの」に続く新シリーズ「耽よ!城下町」をスタートさせます。

「耽よ!城下町」は全国各地の城下町に身を沈め、魅力を堪能しようという企画。

その第一弾は「豊国編」。

豊前豊後の両国…大分県内にある7つの城下町を巡ります。

最初に訪れるのは豊前国中津藩。

黒田“軍師官兵衛”如水が築き、譜代大名奥平家が長らく治めた中津城。

その城下町に“耽り”ます。

ご期待ください!
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