楽屋を過ぎると正面に二つの社殿が左右に並んでいる。
右に土屋、左に細殿。
両者の真ん中奥に橋殿が立っている。
土屋は寛永5年造替の国重要文化財。
昔は神主ら社司の著到殿として機能し、現在では祓所に使用されている。
[旅行日:2014年3月20日]
楽屋を過ぎると正面に二つの社殿が左右に並んでいる。
右に土屋、左に細殿。
両者の真ん中奥に橋殿が立っている。
土屋は寛永5年造替の国重要文化財。
昔は神主ら社司の著到殿として機能し、現在では祓所に使用されている。
[旅行日:2014年3月20日]
鳥居をくぐると右前方に御所屋と同様、壁がなく屋根と柱で構成された木造の構造物が現れる。
「楽屋[がくのや]」、別名を一切経楽屋という寛永5年造替の国重要文化財。
楽屋といっても芸能人の控え室ではなく、神仏習合の時代に供僧[ぐそう]方が使用していた仏教色の強い建物だ。
供僧とは神宮寺を管理していた僧のこと。
ちなみに上賀茂神社の神宮寺は先出の賀茂山口神社の東側に鎮座する「二葉姫稲荷神社」の場所にあったそう。
ただ正確に言うと上賀茂神社のではなく、その楼門右側に鎮座している筆頭摂社片岡神社の神宮寺。
それが明治維新の廃仏毀釈で取り潰され、境内にあったお稲荷さんだけが現存しているという次第である。
[旅行日:2014年3月20日]
二ノ鳥居もまた普通の明神鳥居だが、よく見ると注連縄が珍しい形状をしている。
左綯[な]いと左綯いの二本の縄を上下に並べて柱の間を渡してある。
遠目には刺繍で言う「チェーンステッチ」のようにも見える。
これは陰陽道の思想に則り右と左、陰と陽を合体させた形状なのだそうだ。
[旅行日:2014年3月20日]
山口神社の側を流れる小川に沿って楼門の方角へ歩いていくと、大きな岩石の上に小さな社が鎮まっている。
岩本社。
住吉大社の祭神でもある底筒男神、中筒男神、表筒男神の三神を祀っている末社だ。
このまま直進すると二ノ鳥居をくぐらず楼門の前に出てしまうため、来た道を引き返す。
[旅行日:2014年3月20日]
上賀茂神社の境内には摂社末社が数多く鎮座している。
そのうち陰陽石に隣接する賀茂山口神社は、古代信仰の田の神、山の神を祀った摂社。
上賀茂神社の神田を守護する神として祀られたと考えられている。
その伝承に基づいてか、上賀茂神社の御田植祭では奉饌奉幣の儀が行われるそうだ。
[旅行日:2014年3月20日]
渉渓園は昔、龍が住む池のあった場所と伝わっている。
その池の底から出土したのが「陰陽石」。
多くの神社で陰陽石は陰と陽の石2つを組み合わせた場合が多いが、ここは1個の石で陰陽を象っている。
元は2つの石が地中の圧力で押し潰されて1つになったという。
安房国一之宮洲崎神社にあった「御神石[ごしんせき]」が思い起こされる。
この石に両手で同時に触れてから隣の賀茂山口神社に参拝すれば願い事が叶うと伝わることから「願い石」とも呼ばれているそうだ。
[旅行日:2014年3月20日]
庁ノ舎から北に向かうと「渉渓園」という、程度良く手入れされた庭が広がっている。
昭和34(1959)年、今上天皇の皇太子時代に御成婚記念として造園された美しい庭園だ。
開園時、ここで「曲水の宴」が開催されていた。
「きょくすいのうたげ」とか「ごくすいのえん」と呼ばれるこのイベント。
平安時代に朝廷や貴族の間で行われていた“優雅な遊戯”だ。
上賀茂神社では寿永元(1182)年に神主重保[しげやす]が行った宴が起源。
「曲水」とは樹林や庭園を曲がりくねって流れる水のこと。
装束を身につけてカーブのところに着座した参加者の前に、上流から酒で満ちた盃が流れて来る。
その盃が目の前へ来る前まで、参加者は五・七・五・七・七の短歌を一首詠む。
詠めなかったら1杯その酒を飲み、盃を下流へ流す。
というのが平安時代に行われていた本来の姿という。
話を開園時に戻すと昭和30年代という時代のせいか、なかなか参加者が集まらず。
残念ながら2年ほどで中止と相成り、その後ずっと放ったらかしにされていた。
時代が平成の世に変わった同5(1993)年、現在の皇太子が御成婚。
それを記念して「曲水の宴」が34年ぶりに復活し、現在でも毎年4月に行われている。
今は儀式化されたので、短歌を詠んだ人が酒を飲んで盃を流すスタイルに変わっているそうだ。
[旅行日:2014年3月20日]
庁ノ舎の南側に高床式で校倉造の建物が立っている。
北神饌所が機能していた時代に米倉として使われていた。
もちろん現在では中に米など保管されていない。
神饌所の米倉だけに誰も近寄らなかったため現在まで残ったという。
今や米倉としても使われておらず、単なる「空き倉庫」に過ぎないが。
重要な建造物だけに周囲に柵を廻らせて人が入れないようにしてある。
[旅行日:2014年3月20日]
奈良神社の奥には奥行きのある長方形の建造物が立っている。
北神饌所で、これもまた寛永5年に造替された重要文化財。
その名の通り昔は神への食事を整える「神饌調進所」として使用されていた。
奈良神社が料理飲食の守護神だけに神饌所が奥に控えているのも当然だろう。
また、古くは政庁も兼ねていたことから庁ノ屋[ちょうのや]とも呼ばれている。
現在では能舞台等として使用されているとか。
この庁ノ屋が1年で最も注目を集める時期が7月末から8月初頭にかけて。
毎年ここで開催される「上賀茂神社アートプロジェクト」の展示会場となるからだ。
日本文化の良さを子どもたちに伝えるのが目的のイベント。
庁ノ屋には若い作家が伝統工芸の技巧を凝らした作品が多数展示される。
若い感性で生み出された伝統工芸作品で重要文化財を埋め尽くす…
まさに温故知新ならぬ「用故使新」か。
神事橋を渡り鳥居をくぐると、目の前に奈良神社が鎮座している。
奈良といっても平城京とは関係無く、神饌饗膳に関する一切を司る神「奈良刀自神」を祀る摂社。
その昔、神饌の盛り付けに楢[なら]の葉を用いたことが、神号「奈良」の由来という。
こうした由緒から奈良刀自神は料理飲食業者から、料理飲食の守護神として篤く信仰されている。
また、葵祭では本殿祭に先駆けて神職が出向し、特別に神饌を奉献する慣例もあるそうだ。
社殿の隣に杭と縄で四角く囲まれた一角がある。
「権地[ごんち]」といって、社殿を修復する際に神様を移す仮宮を建てるための場所。
ちなみに「権」とは2番目、英語で言えばセカンドという意味だ。
その御子が元服したとき、賀茂一族の長で祖父の賀茂建角身命が多くの神々を招いて祝宴を催した。
御子の父が不明だったことから、その席で賀茂建角身命は御子に「父と思う神に盃を捧げよ」と言って盃を渡した。
御子が「我が父は天津神なり」と答えるや、手に持った盃が屋根を突き破って天空へ飛んで行き、轟く雷鳴とともに御子も天へ昇っていった。
この時、初めて「別雷神」という神号を戴いたという。
「雷鳴とともに別れた神」だから「別雷神」なのだ。
一方、御子との再会を願っていた賀茂玉依姫命の夢枕にある夜、御子が現れて玉依姫命に御神託を告げた。
「私に逢いたいのなら馬に鈴を掛けて走らせ、葵楓[あおいかつら]の蘰[かづら]を造り荘厳に飾って私を待ちなさい」
御神託の通り神迎の祭を行ったところ、天上より神としてご降臨された。
その御子神こそ賀茂別雷大神というわけだ。
御所屋の裏手に回ると細い川が流れている。
「ならの小川」というが、下鴨神社の境内を流れる同名の川と流れは繋がっていないようだ。
「神事橋」という古い石橋の先に、大きな鳥居が見える。
この橋を通って、ならの小川を渡る。
川と賀茂社は切っても切れない関係にある。
下鴨神社のところで山城国風土記に賀茂社の創建にまつわる重要な逸話「丹塗矢の伝説」について触れた。
瀬見の小川で水遊びをしていた玉依姫命のもとに流れてきた丹塗矢の御霊力により御子を授かったという伝説。
上賀茂神社の境内には摂社末社が数多く鎮座している。
そのうち陰陽石に隣接する賀茂山口神社は、古代信仰の田の神、山の神を祀った摂社。
上賀茂神社の神田を守護する神として祀られたと考えられている。
その伝承に基づいてか、上賀茂神社の御田植祭では奉饌奉幣の儀が行われるそうだ。
[旅行日:2014年3月20日]
参道を進むと右手の先に一棟の社殿が見える。
壁がなく屋根と柱で構成された木造の構造物で「外幣殿(御所屋)」という。
寛永5(1628)年の造替で、国の重要文化財に指定されている。
かつては法皇や上皇の御幸、摂政関白の賀茂詣の際に著到殿として用いられていた。
また、現在でも競馬会の神事や葵祭に使用されている。
境内に鎮座する社殿は本殿と権殿[ごんでん]が文久3(1863)年、他は概ね寛永5年に造替されたもの。
そのほとんどが重要文化財に指定されている。
寛永5年といえば徳川三代将軍家光の治世で、幕藩体制が安定期に入った時代。
一方の文久3年といえば攘夷か開国かで幕藩体制が崩壊の兆しを見せ始めた時代。
徳川十四代将軍家茂が将軍として229年振りに上洛し、孝明天皇に攘夷を誓ったのもこの年のことだ。
このように上賀茂神社の社殿群は殆どが江戸時代に建立されたもの。
だが、平安時代の建築様式を今に伝えていることが評価され、世界文化遺産に登録されたという。
毎年5月15日、葵祭こと賀茂祭は下鴨神社だけでなく、ここ上賀茂神社でも行われる。
葵祭については下鴨神社の項で先述したので、ここでは賀茂祭に先立つ5月12日の夜に斎行される御阿礼神事[みあれじんじ]について考えてみたい。
御阿礼神事とは上賀茂神社で行われる祭典の中で最古かつ最重要な神事。
どれほど重要かというと、その一切が秘儀とされ、一般の奉拝が許されていないほど。
神事は「御生所[みあれどころ]」で行われる。
場所は上賀茂神社本殿と、神山(立砂のところで後述)の頂上に鎮座する石座[いわくら]を結ぶ線上。
本殿の後方約八町(500m)の場所に設えた神籬[ひもろぎ]が御生所だ。
祭儀は非公開なので内容の仔細は良く分からないが、行事そのものは神の降臨を祈願するものと云われている 。
つまり賀茂大神の出現、再現を願う神事として斉行されているようだ。
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