2015年08月

一巡せしもの[下鴨神社]35

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禍々しい霊力を持った神がウヨウヨいる熊野の山中を通り抜けるため、高木大神(高御産巣日神)が神武天皇に道案内のため派遣したのが八咫烏。

これが日本書紀になると高木大神ではなく天照大神になる。

この八咫烏に化身となったのが賀茂建角身命というわけだ。

ただ、記紀どちらにも賀茂建角身命の具体名は登場しない。

なぜ八咫烏=賀茂建角身命となったのかはよく分からないのだ。

両者を結びつける根拠を探すのも詮無い話ではあるが、八咫烏はお導きの神だけに賀茂建角身命は方除、厄除け、試験合格、交通、旅行、操業の安全などに御神徳があるそうだ。

一方、西殿に鎮座する玉依媛命の御神徳は上総国一之宮玉前神社の主祭神玉依媛命と、ほぼ同じ。

同じ玉依姫命という神号ながら各々が別の神様であることは既に触れたが、御神徳は共通しているのだ。

また、縁結びの御利益は「男と女」に限ったものではなく、人と人の縁を結ぶ商売や事業に関わる祈願も多いそうだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]34

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ようやく下鴨神社の核心、幣殿へたどりついた。

他の神社で言うところの拝殿に当たる建物。

正面口から中を覗き込むと突き当たりに御幣が立ち、その後ろに鏡が置かれている。

そこから廊下は左右に分かれ、東西それぞれの本殿につながっている。

本殿に祀られているのは東に玉依姫命、西に賀茂建角身命。

代表的な流造りの東西本殿は文久3(1863)年に造替されたもので、いずれも国宝に指定されている。

幣殿の左右には御簾と菱格子が設えられ、こちら側と奥の本殿エリアを仕切っている。

本来なら隙間から本殿が透けて見えるはずだが、建物が白いヴェールで覆われ姿が伺えない。

実は式年遷宮に向けた修繕工事の真っ最中で、現在のところ御神体は裏手の仮本殿に遷座しているそうだ。

東殿に鎮座する賀茂建角身命は『古事記』『日本書紀』の神武東征に登場する金鵄八咫烏[きんしやたがらす]のことだと伝わっている。。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]33

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中門をくぐって中に入ると、東西に伸びる幣殿が正面に立ちはだかる。

しかも幣殿手前の狭い敷地に小さな御社がチマチマと並び、印象は非常に窮屈だ。

それら小社は中門を入って正面に2社、右側に2社、左側に3社の計7つが鎮座。

これら7社は総称して「言社[ことしゃ]」と呼ばれている。

昔から干支の守護神として有名で、各御社ごとの御神徳が干支で表現されている。

祭神は全て「大國さん」こと大国主命なのだが、個々の御社によって神号がそれぞれ異なる。

幣殿の真向かいに2社並列で鎮座するのが「一言社」。

東側が大国魂命[おおくにたまのみこと]で、干支は巳[へび]年と未[ひつじ]年。

隣の西側は顕國魂命[うつしくにたまのみこと]で、干支は午[うま]年。

幣殿から見て左側に2社並列で鎮座するのは「二言社」。

幣殿に近い北側は大物主命で、干支は丑[うし]年と亥[いのしし]年。

隣の南側は大国主命で、干支は子[ねずみ]年。

幣殿から見て右側に3社並列で鎮座するのは「三言社」。

幣殿に近い北側は志固男命[しこおのみこと]で、干支は卯[うさぎ]年と酉[とり]年。

隣の真ん中は大己貴命[おおなむちのみころ]で、干支は寅[とら]年と戌[いぬ]年。

最も遠い南側は八千矛命[やちほこのみこと]で、干支は辰[たつ]年と申[さる]年。

それにしても天津神「賀茂建角身命」を7柱もの国津神「大国主命」が包囲する、この構図。

大国主命と対峙する賀茂建角身命という「国譲り神話」を表現しているのか?

それとも賀茂建角身命に付き従う従順な大国主命という図式なのだろうか?

自分の干支が祀られている三言社に拝礼し、これらの疑問を心の中で反芻してみる。

無論、大國さまから正答が返ってくるわけもないのだが。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]32

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現在では斎王代が葵祭の主役みたいなものだが、実は斎王代が葵祭の主役になったのはつい最近のこと。

長い歴史を誇る葵祭だが過去3回、16世紀初頭の室町時代、19世紀中庸の幕末、そして太平洋戦争末期の昭和19(1944)年に途切れたことがある。

葵祭は戦中戦後の中断から同28(1953)年に復活し、斎王代が登場するのは同31(1956)年になってからのこと。

昔の賀茂祭で斎王は住居の斎院から出御し、勅使の行列と一条大宮で合流する習いだった。

その華やかな行列を一目見ようと、こぞって都人たちは見物に集まったという。

戦後復活した葵祭の目玉として往時の華麗な行列を再現させるべく設定したのが「斎王代」というニューヒロインだったわけだ。

とはいえ昔の斎王と違って現在の斎王代を皇族の内親王が務めることはない。

京都にゆかりがあって和装に慣れた未婚の一般女性から選ばれている。

橋殿の横に架かる小さな橋を渡り、中門へ。

この門をくぐると、その先に幣殿と本殿が鎮座している。

中門の正式な名称は四脚中門。

舞殿や橋殿と同じ重要文化財で、寛永5年の式年遷宮で造替された点も同様だ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]31

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葵祭のプリンセス「斎王代」。

そのセレクションは全国紙が報じられるほどの注目を集める。

では、そもそも「斎王代」とは何か?

読んで字のごとく斎王の代理である。

斎王の「斎」は「潔斎して神に仕えること」という意味。

つまり斎王とは昔、伊勢神宮と賀茂社で天皇の代わりに仕えた未婚の内親王、女王のこと。

天皇が即位すると「卜定[ぼくじょう]」という儀式で選ばれ、その天皇一代の間のみ務めるのが原則だった。

伊勢神宮は「斎宮」、賀茂社は「斎院」といい、両者を総称した呼称を「斎王」というそうだ。

起源は伊勢神宮を建立した倭姫命にまで遡ると伝わるが、神話の域を出ない。

具体的な制度として確立したのは天武天皇2(673)年、娘の大来皇女[おおくのひめみこ]の初代斎王就任。

元弘3(1333)年、後醍醐天皇の建武の新政で崩壊するまで約660年ほど続き、その間に斎王を務めたのは60人余に及ぶとの記録が残っている。

一方の賀茂社では弘仁元(810)年、嵯峨天皇が伊勢神宮に倣って賀茂社にも斎王を置いたのが始まり。

同年4月に嵯峨天皇第八皇女の有智子内親王が卜定で初代斎王に。

鎌倉時代初頭の礼子内親王(後鳥羽院皇女)まで約400年続いたが、後鳥羽院と鎌倉幕府が争った「承久の乱」で途絶。

以後、斎王制が復活することはなかった。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]30

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井上社の前に広がる御手洗池。

ここからの湧水が輪橋と橋殿の下を通って糺の森へと流れていく。

毎年5月15日の葵祭、ここで行われる斎王代の御契の儀は、ニュース映像としてテレビのネットワークに乗って全国へ伝播していく。

ちなみに御契の儀は下鴨神社と上賀茂神社で毎年交互に行われることになっている。

葵祭は祇園祭、時代祭と並ぶ京都の三大祭。

といっても1200年余の歴史を誇る京都だけに祭の数は年300を越えるそうで、この三大祭は近年になって言われ始めたこと。

今でこそ年300超の祭礼が行われているが、かつて京の祭りといえば「葵祭」を指していたそうだ。

葵祭は京の先住民族ともいえる賀茂氏の神社「賀茂社」で行われていた五穀豊穣を祈願する祭礼が起源。

「山城国風土記」逸文によると欽明天皇御世(539~571年)、天候不順で荒作に見舞われた農民の間で騒擾の危機が高まっていた。

欽明天皇が神官に占わせたところ賀茂大神の祟りだと判明。

直ちに賀茂大神を祀ったところ、天候不順が回復して五穀豊穣に恵まれ、騒擾の機運は去っていったという。

まだ京に都が遷る以前のことながら、この賀茂(葵)祭は大層な人気を呼んでいたそうだ。

「続日本記」によると文武天皇2(698)年、賀茂祭で行われた騎射に見物客が大挙して押しかけたため、騎射に三度も禁止令が発令されたほど。

その後、鳴くよウグイス平安遷都を機に賀茂社は朝廷から王城鎮護の神として篤く祀られたのを機に、賀茂祭は国家的祭礼に発展していったわけだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]29

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細殿と直会所の間に「解除所[げじょしょ]」がある。

解除とはお祓いのことで、ここは樹下神事[じゅげしんじ]が斉行される場所。

樹下神事とは目の前にある御手洗池の流れに沿って行われる解除のことだ。

玉砂利の中に横長の石畳が2列、設えてある。

解除の際は石畳の上に神職たちが池に向かって並んで座り、お祓いを行う。

御手洗池は御手洗川の源泉であり、神聖な湧水口の上には小さな御社が聳立している。

もとは唐崎社に御手洗社と神社が2つ存在したが室町時代後期に合祀され、現在では井上社の神名で呼ばれている。

井戸の井筒の上に祀られているのが名の由来だ。

もともと唐崎社は高野川と鴨川の合流地東岸に鎮座していたが、文明の乱に巻き込まれ文明2(1470)年に焼亡。

文禄年間(1592~96)この地に再興されることになった。

御手洗社と合祀されて井上社になったのも、この時ではないかと思われる。

両社とも祭神が同じ瀬織津姫命[せおりつひめのみこと]だったことから、合祀もスムーズに捗ったのではなかろうか。

瀬織津姫命は滝や川の流れなど水流の穢れを清める治水女神。

祀られている神社は日本中に存在し、武蔵国一之宮小野神社のところでも登場した。

井上社は御手洗川の源泉である御手洗池の最も上流にある、いわば奥宮的な存在。

葵祭でも斎王代の御契の儀が行われるなど、下鴨神社の中でも相当な重きを為す神社のはず。

その割に社殿は小さく、あまりその重みが感じられない。

しかし「山高きが故に貴からず」。

井上社、なりこそ小さいが糺の森を束ねる扇の要と考えれば、その小ささ故に尊さを覚える。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]28

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細殿の奥というか裏側に築地塀が横へと延びている。

その真ん中に小さな門。

門柱に「鴨社直会殿泉聲」と読みにくい崩字で記されている。

幸いなことに反対側の門柱横に解説板が立っており、そこに「かもしゃなおらいでんせんせい」と振り仮名が打ってあった。

かといって、ここが何に使われる神殿なのか見当が皆目つかないのだが。

説明板によると平安時代に大嘗祭で用いられる饗応殿が下賜され、ここへ直会殿として移築し、式年遷宮ごとに造替してきたという。

ところが昭和23(1948)年ごろに老朽化のため撤去され、その後は再建されることがなかったそうだ。

それから時代が下ること45年後の平成5(1993)年、伊勢神宮第61回式年遷宮の折に五丈殿の払い下げを受けた。

それを平成27(2015)年の第34回式年遷宮事業の一環として、伝統に従ってここに再興したのだそうだ。

五丈殿は雨天時にお祓いや遙拝などの儀式や、遷宮関係の諸祭で饗膳(儀式としての祝宴)が行われる建物。

ここでも同様の施設として使われているのかと、門から中を覗いて確認してみた。

確かに五丈殿っぽい建物が立ってはいるが、木製の壁が設えられ大きなガラス窓が嵌め込まれている。

内部には豪奢な椅子が配置され、確かに饗膳が行われる建物っぽい雰囲気が漂っている。

だが、伊勢神宮の五丈殿は屋根と柱だけで、壁などなく吹き抜け状態のはず。

なぜだろうと思った時、目に入ったのが車止めに掲げてある小さな注意書き。

「挙式関係者以外の立入はご遠慮下さい」

なるほど、饗膳といっても結婚式のほうだったか。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]27

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光琳の梅の左側に太鼓橋がかかっている。

ここでは「輪橋[そりはし]」と呼んでいるが、これは太鼓橋の一般的な別称でもある。

輪橋を渡った先には大きな明神鳥居。

その下をくぐって右へ向かうと細殿御所[ほそどのごしょ]、左に進むと御手洗池と御手洗社がある。

細殿御所は平安時代編纂の賀茂社『神殿記』にも「細殿」と記載されているほどの昔から存在していた。

歴代天皇の行幸時、法皇や上皇の御幸の際に行在所として用いられてきた。

天明8(1788)年に洛中の大火で京都御所が回禄(火災)に遭った際は、内侍所(賢所)の奉安所となった。

ちなみに内侍所(賢所)とは三種の神器「神鏡八咫鏡[やたのかがみ]」を安置している場所のこと。

文久年間(1861~64)の御所回禄では、後に明治天皇となる祐宮[さちのみや]の行在所に。

文久3(1863)年3月11日に孝明天皇が攘夷祈願のため行幸された際は徳川十四代将軍家茂の侍所[さむらいどころ]になるなど、幕末の動乱期には少なからぬ役割を果たしている。

現在の建物は舞殿や橋殿と同様、寛永五年の式年遷宮で造替されたものを21年ごとに解体修理を施し、維持されてきたものだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]26

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橋殿の下を流れる川に沿って上流の方角へ向かう。

川の名は「御手洗川[みたらしがわ]」。

北にある宝ヶ池の辺りから細々と流れきて、糺の森の東端を下っていく川と同じ名称だ。

塀の内側から湧き出た御手洗川は橋殿の下を通って外側に出、もうひとつの御手洗川と合流した後、奈良の小川と泉川の2つの川に再び分裂する。

いつもは水が流れていない涸れ川だが、土用の丑の日が近づくと水がコンコンと湧き出るところから「京の七不思議」の一つとされていたそう。

ただ、目の前の川には豊かとはいえないまでも水流があるので、昔の話かも知れない。

土用の丑の日、ここ御手洗川では足を浸して疫病などの災い除けを祈願する「足つけ神事」が昔から行なわれている。

ひょっとしたら涸れ川のエピソード、この神事をPRするために拵えられたコマーシャルなのかも知れない。

川沿いの一角に正方形の小振りな石板が置かれている。

四隅には細い柱が立てられ、紙垂を下げた注連縄が巡らされている。

明らかに何らかの宗教的設備なのだが、近くの立て札に説明はない。

石板を持ち上げると下が井戸になっていて、底から湧き出る水で禊を行うのだろうか? 

石板の隣には燃えるような花を咲かせている紅梅の木。

「光琳の梅」と呼ばれている。

この辺りを尾形光琳が描いた国宝「紅白梅図屏風[こうはくばいずびょうぶ]」に由来するそうだ。

全面金地の中央に銀地で御手洗川の流れを描き、川を挟んで紅白の梅を左右に配する大胆な構図。

この光琳の最高傑作にして琳派様式の頂点ともいえる傑作は、静岡県熱海市にあるMOA美術館で鑑賞することができる。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]25

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今度は反対に舞殿の右側へ行ってみる。

川の上に橋が架けられ、その上に舞殿と良く似た建物が乗っている。

「橋殿」というそうだ。

入母屋造、檜皮葺、桁行四間、梁間三間とあるから、構造も大きさも舞殿とほぼ同じ。

現在の建物は寛永5年の式年遷宮で造替されたもの。

以降21年ごとに解体修理が行わてきたのも舞殿と一緒である。

ここは葵祭の前祭「御蔭祭[みかげまつり]で御神宝を奉安する御殿。

昔は御戸代会神事[みとしろえしんじ]が行われ、里神楽や泰楽、倭舞が演じられていた。

御戸代会神事とは田植えの後に害虫の予防を祈願をする神事のこと。

神への祈りの代わりに農薬を大量に散布してオシマイという現代では、すっかり廃れてしまった。

…かに思えるが、上賀茂神社では現在でも行われている。

もちろん害虫予防のためではなく、伝統神事の継承としてなのだろうが。

また、ここは天皇行幸の際、公卿や殿上人の控え場所と定められていた。

舞殿と橋殿、同じ構造・様式の社殿が2つ用意してあるのは、それだけ天皇や上皇と一緒に参詣する公家や殿上人の数が多く、とても一つの社殿に収まり切らなかったせいか?

しかも格上の方々は舞殿へ、格下の皆さんは橋殿に案内されたんじゃないか、そんな気がする。

川の上にある橋殿は暑い夏の盛りだと涼しくて結構だが、底冷えのする冬の最中には辛かったに違いない。

なお、現在では各月の管絃祭や正月神事といった年中催事の際、神事芸能の奉納に用いられているそうだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]24

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楼門をくぐると、すぐ正面に舞殿が立ちはだかる。

河合神社も同様だったし、他の一之宮でも時おり見かける配置。

現在の建物も楼門と同様、寛永5年の式年遷宮で造替されたもの。

以降21年ごとに解体修理されるのもまた、楼門と同じだ。

入母屋造で屋根は檜皮葺き。

横幅(梁間)3間、奥行(桁行)4間という長方形の形状をしている。

黒々とした屋根と白塗りの壁上、屋根を支える黒い柱と吹き抜けの殿上。

白と黒のコントラストが全体の印象をキリッと引き締めている。

小雨の中で眺めたこともまた、落ち着いた印象を受ける要因だろうか。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]23

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楼門の前に立ち、眺める。

朱塗りで高さが30メートルあるという二層の秀麗な建物だ。

現在の楼門は江戸時代の寛永五(1628)年に行われた遷宮造替の際に造営されたもの。

かつては式年遷宮の21年ごとに造替されてきたそうだが、この造替を最後に解体修理を重ねながら保存される方式に変わった。

楼門と左右に伸びる長い廻廊は古代の神社様式を現代に伝えていることから重要文化財に指定されている。

鹿島神宮(常陸国)や香取神宮(下総国)、氷川神社(武蔵国)といった東国の一之宮に比べると、どこか優しげな表情を浮かべているようだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]22

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二の鳥居…正式には南口鳥居をくぐって中へ。

朱塗りのシンプルな明神鳥居だが、両足の下部から真横に玉垣が伸びている。

両部鳥居で例えれば袖柱の位置に横へ伸びる柵がくっついているようなものだ。

目の前には楼門が聳立し、左側には社務所が控える。

授与所の隣に「連理の賢木」が生えている。

2本の木幹が途中から1本につながっている木で、ここだけでなく他の神社でもたまに見かける。

縁結びに御利益があると信仰を集めているせいか木の前には立派な鳥居が建てられている。

その隣には縁結びに御利益がある末社「相生社」が聳立している。

裏手にある棚には良縁を願う絵馬がビッシリ。

良縁に恵まれない不幸な女性が世の中こんなに溢れているのだろうか?

それとも大して太ってもいない女性が「痩せなきゃ!」と踊らされている昨今のダイエットブームのように、ソコソコの良縁に恵まれているのに「もっといい人がいるはず!」と欲を掻いているのだろうか?

どちらもアリだろうが、神が気を利かせるのは前者のような気がしてならない。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]21

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石橋を渡ると少し広めの空間が広がり、向こう側に二の鳥居が聳立している。

その広場の右手に大きめの手水舍があった。

中に据えられているのは木製の舟に載せられた横長の巨石。

内側がくり抜かれていて石鉢のようになっている。

この形状は賀茂建角身命の神話に登場する舟形磐座[いわくら]石に因んだもの。

上には屋根が架けられ、御手洗の反対側は透塀で仕切られている。

崇神天皇7年(紀元前90年ごろ)、糺の森に瑞垣の造替を賜った記録をもとに再現したという。

室町時代に編纂された「諸社根元記」には「浮島[うきしま]の里、直澄[ただす]」と記録されていて、これもまた「糺」の語源のひとつと考えられているそうだ。

二の鳥居の両脇に石が小山のように積み上げられている。

石の大きさは握り拳大から赤ちゃんの頭部大まで様々だ。

これらは式年遷宮に伴う「石拾神事」のために集められたもの。

本殿の周囲に敷かれる磐座の御石を3年間ここで清め、さらなる生命力アップを願い乞う行事。

最初に執行される行事で、本殿の周囲に氏子や崇敬者が清浄な御石を奉献するそうだ。

式年遷宮が終了すればこの石山も消滅するわけで、なかなか貴重なものを見ることができた。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]20

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ようやく二の鳥居の前まで来た。

瀬見の小川に小さな石橋が架かっており、その右手に看板が立っている。

この石橋から西側が瀬見の小川で、東側は奈良の小川と呼称が変わる。

看板には、奈良の小川とは上流にある楢の林から流れて来ることに由来していると記されている。

また別の看板によると、最近の発掘調査で発見された平安時代の流路の一部が現在の流路とは別に復元されたとある。

石橋の上から奈良の小川を眺める。

こちらも川よりせせらぎと呼ぶに相応しく、清らかな水面が風にサラサラと揺れていた。

ここまで来るのに参道は一本道だったが、まだ糺の森が広大だった時代は「烏の縄手[からすのなわて]」と呼ばれる参道が幾筋も通っていたそうだ。

烏とは祭神賀茂建角身命の別名「八咫烏[やたがらす]」に由来。

縄手とは細くて狭くて長い道のこと。

八咫烏の神様にお参りする人々の足跡が生んだ踏み分け道が次第に幾筋ものあぜ道に成長。

時代が下るにつれて「烏の縄手」と呼ばれるようになったのだろう。

あぜ道そのものは現存していないが、往時の姿が森の中で部分的に復元されている。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]19

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表参道をそぞろ歩くうち、遠い先に鳥居が見えてきた。

水の流れに恵まれた糺の森は夏の蒸し暑い京都でも涼しく、納涼の名所として京の都人たちから愛されてきた。

江戸時代には初夏の到来とともに団子や心太[ところてん]、真桑瓜[まくわうり]などを売る茶店が立ち並んだそうだ。

都人たちは涼しげな木陰に毛氈を敷き、日の出から日没まで花見ならぬ「納涼[すずしみ]」を楽しんでいたという。

周囲をグルリと見回してみる。

現在の糺の森も十分に広いのだが、屋台が林立するには狭い感じがする。

江戸時代は鴨川と高野川に挟まれた土地すべてが森だったに違いない。

木漏れ日がこぼれる森の中、涼しげなせせらぎの音色をBGMに賞味する心太や真桑瓜の味はいかばかりだったろう。

コンビニに行けばソコソコ美味いスイーツが簡単に手に入る現代ではあるが、贅沢という点では江戸時代に軍配が上がるようだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]18

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表参道の左側には瀬見の小川、右側には泉川が流れている。

ただ、瀬見の小川には川と呼べるほどの水量はなく、丹塗矢が流れて来れるとは到底思えない。

それもそのはず、現在の流れは平成6(1994)年に下鴨神社が世界遺産に登録されたのを機に整備されたものだ。

それまで川筋はあっても水は流れておらず、まさに「瀬見の水無川」状態だったそうだ。

現在の流路になったのは元禄7(1694)年、賀茂祭の儀式用に馬場が整備された時。

それ以前は現在ある馬場の西側を流れていたことが調査の結果判明しているという。

時代とともに瀬見の小川も流路を変遷させてきたのだ。

風土記の時代と今の流れが同じ位置にあるわけもない。

表参道から外れ、河原の落ち葉を踏み分けて泉川の畔へ近寄ってみる。

余程こちらのほうが水量豊かなのだが、丹塗矢が流れてきたのはこの川ではない。

というか、神話と現実を強引に結びつけようとする行為が野暮というものだろう。

賀茂川と高野川の合流点に位置する糺の森は、川が運んだ土砂の堆積した洲の上にある。

なので「糺」という地名は「只洲[ただす]」「蓼洲[たです]」に由来するのだとか。

ちなみに「糺」という字には「偽りを正す」という意味がある。

賀茂族を率いて初めて京都盆地に移住した賀茂建角身命は、ここで人々からの訴えを聞き、それぞれに審判を下したという伝説がある。

それで、いつしか「糺の森」は「偽りを正す神の坐す森」という信仰が集まることになった。

ちなみに目と鼻の先に京都家庭裁判所が立っているが、これは糺の森の「偽りを正す」信仰とは関係ない。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]17

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表参道の左側、馬場との間に「瀬見の小川」という名の細いせせらぎが流れている。

名付け親は賀茂建角身命だと山城国風土記逸文には記されているそうだ。

また、風土記には賀茂社の創建にまつわる重要な逸話がある。

いわゆる「丹塗矢[にぬりや]」の伝説だ。

玉依姫命が瀬見の小川で水遊びをしていると上流から綺麗な朱色の矢が流れてきた。

これを拾い上げた玉依姫命が寝床の近くに挿して飾っておいたところ、なぜか懐妊。

その矢、実は火雷神[ほのいかずちのかみ]の化身だったのだ。

火雷神は亡くなった伊弉冉尊[いざなみのみこと]が黄泉国で産んだ、雷を司る神。

そして生まれてきた男子は賀茂別雷命[かもわけいかずちのみこと]、賀茂別雷(上賀茂)神社の祭神である。

ところでこの逸話、どこかで聞いたことがあると思ったら古事記の中に似たような話があった。

大和国橿原で神倭伊波禮毘古命[かむやまといわれひこのみこと]が初代神武天皇として即位した時のこと。

大后候補を探していたところ、神の御子と言われている富登多多良伊須須岐比売[ほとたたらいすすきひめ]の噂を聞いた。

伊須須岐比売は大和国一之宮大神神社の祭神大物主神が、勢夜陀多良比売[せやだたらひめ]という美女に産ませた娘である。

勢夜陀多良比売の余りの美しさに恋い焦がれた大物主神は自身の姿を丹塗矢に変え、彼女が厠に入ったところを見計らって下から陰部[ほと]を突き上げるという荒技を繰り出した。

驚いた比売はオロオロし、右へ左へ走り回って大騒ぎ。

その丹塗矢を持ち帰って床に置いたところ、あら不思議。

丹塗矢はパッと偉丈夫の色男に変身し、やがて比売を妻に娶ることに。

偉丈夫たる大物主神と勢夜陀多良比売の間に生まれたのが伊須須岐比売であり、初代神武天皇とともに世を治める大后となったわけだ。

古事記と山城国風土記、それぞれ登場する神こそ違えど設定は大いに似通っているのが面白い。

しかも両記とも成立はほぼ同時期なので、どちらがどちらを真似したという話でもなさそうだ。

昔から伝承されていた説話を雛形にして、両記それぞれが独自に取り込んだのかも知れない。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]16

4t下鴨019

河合神社の境内を出て表参道へ。

その手前、表参道とは別に鳥居の前から一本の道が北へスーッと伸びている。

この道は馬場で、葵祭の前に行われる儀式「流鏑馬神事」は毎年ここで行われるそうだ。

「糺の森」の中央を貫く表参道を二ノ鳥居へ向かって歩く。

鬱蒼とした大木が埋め尽くす森の中を、両脇に杉や檜の大木を従えた表参道が貫通する。

そうした風景の多い大きな神社の境内風景と「糺の森」のそれは全く趣が異なる。

なにせ紀元前3世紀ごろ山背[やましろ]原野の原生林を構成していたのと同じ植生が、今も大都市のド真ん中に残っているのだ。

欅、榎、椋木といった広葉樹を中心に樹齢600年から200年ほどの樹木が約600本も自生しているだけに、森林生態学や環境学といった学術分野の面でも非常に貴重な存在なのだ。

表参道を歩きながら左右を見渡せば、木々が疎らに群生し、悪く言えば単なる雑木林のようでもある。

しかし、それが針葉樹の多い他の大神社に比べれば、逆に優しげな雰囲気を醸している要因だろうか。

現在の広さは約3万6千坪程度だが往時は150万坪にも及んでいたそうだ。

上賀茂神社や宝ヶ池あたりもまた、糺の森の中にあったのだろう。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]15

4t下鴨018

日野に結んだ方一丈の草庵で「方丈記」を執筆するわけだ。

一丈とは広さの単位で約3m四方、坪数だと約2.73、畳だと約5帖半ほどの広さ。

間口も奥行きも一丈四方なので「方丈」の名が付いた。

組み立て式で折り畳める構造になっており、大八車に積めばどこへなりとも移動できる。

現代でいうキャンピングカーみたいなものか。

大原から日野へと至る年月の間、長明が工夫を重ね「栖[すみか]」として仕上げたのだろう。

よく見ると柱の下に土台状のものが置かれている。

これは下鴨神社の本殿の構造「土居桁」と似ている。

下鴨神社もまた式年遷宮で21年ごとに社殿が造替される。

このため「土居桁」構造は建物の移動を念頭に置いた設計方式。

方丈は、この自在な建築様式をヒントにしたのではないかと推測されている。

建暦2(1212)年、長明は日野の方丈で「方丈記」と「無名抄」を執筆。

それから4年後の建保4(1216)年6月8日、62歳でこの世を去った。

高校の古典の授業で必ずといっていいほど学ぶ「方丈記」。

だが明るい未来が待ち受けている若い世代に、人生の儚さや諦念が詰め込まれた「方丈記」の世界など理解できないのではないか?

人生の辛苦を経て、長明が遁世したのと同じ50歳絡みになった頃合いに読んでこそ、そこに込められた世界の真髄が理解できるのではないか?

一見あばら家然としていながら、何物にも代え難い“自由”を具現化した建物を眺めつつ、そんなことを考えた。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]14

4t下鴨017

それはさておき。

上皇の抜擢を受けてから数年後の元久元(1204)年。

長明は突然、一切を投げ捨てて大原に隠棲してしまった。

寄人の座はもちろん、勅命だった「新古今和歌集」の編纂作業も。

身内からの妨害という思いもよらぬ事態を前に、何もかも嫌になったのかも知れない。

当時、世間の人々は相当「なぜ?」と不思議がったそうだ。

賀茂社内での人事抗争など知らないから無理もなかろうけど。

ただ、上皇は長明の遁走に怒るどころか、手の内から逃げていった才能を惜しんでいた。

長明が放り出した新古今和歌集にも長明作の和歌十首が採録されている。

しかも上皇は賀茂社の摂社を官社に昇格させ、そこの禰宜に任じるから京に戻るよう伝えた。

しかしこうした破格の恩寵も、世の儚さを前に全てを悟った長明の前には無力だったようだ。

長明が隠棲したのは齢50の時、当時の平均寿命からすれば既に相当な老齢だったことになる。

その後、大原から方々を転々とした長明は承元2(1208)年、日野の外山へ落ち着いた。

現在の伏見区日野の辺りだから河合神社から見たら地の果てみたいな場所である。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]13

4t下鴨016

鏡絵馬の棚の前に簡素な庵がポツネンと佇んでいる。

棚から発せられる女たちの美への執念とは真逆で、欲望の象徴ともいえる一切の虚飾が剥ぎ取られている。

対照的な両者が間隔を空けずに対峙している光景は、なかなか興味深いものがある。

この草庵は名随筆「方丈記」でおなじみ、鴨長明の住まい「方丈の庵」を復元したものだ。

鴨長明は仁平3(1153)年、河合神社の禰宜[ねぎ]長継の次男として誕生。

幼少時から和歌や琵琶などの才能に恵まれ、その学才が後鳥羽上皇に見い出される。

上皇が設立した御和歌所[おうたどころ]の寄人[よりうど]に抜擢。

藤原定家らとともに宮廷歌人として活躍し、まさに出世街道を驀進する。

さらに長明が20歳のころ父長継が死去し、その跡を継いで河合神社の禰宜になることを決意。

後鳥羽上皇の内諾も取り付け、悲願が成就しようとしたその矢先、まさに好事魔多し。

賀茂社のトップで一族の祐兼[すけかね]から思いもよらぬ横槍が入る。

祐兼の言い分は「長明は歌人の活動を優先して賀茂社の仕事を疎かにしていたので禰宜になる資格なし」というもの。

まんざら現代の企業社会でもあり得ないことではない事例にも思える。

本業と無関係の分野で派手に立ち回ると、それが災いして出世の妨げになるとか。

現代なら「会社のPRになるから」という逃げ道もないことはなかろうが、それも程度によるだろう。

ただ長明のケースには裏があったようで、本当は祐兼が長男の祐頼[すけより]を禰宜に据えるのが目的だったらしい。

祐兼が賀茂大神の御神意まで持ち出す強引な運動のおかげで、祐頼は無事に“就職”が叶う。

社長がドラ息子を取締役に引き上げるため、有能な役員に難癖をつけて放逐する様子とどこか似ているような。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]12

4t下鴨015

しとしと降り続く小雨の中、ひっそりと佇む拝殿を眺める。

黒々とした檜皮葺(ひわだぶき)の屋根と白壁のコントラストが美しい。

奥に構える本殿は延宝7(1679)年の式年遷宮で造替された古殿舎を修理建造したもの。

拝殿の右端に視線を向けると、絵馬を奉納する木枠の棚があった。

ここの絵馬は一風変わった形状をしている。

円盤に取っ手を付けた形状は、まるで卓球のラケットのよう。

この手鏡の形をした絵馬は「鏡絵馬」と呼ばれ、女性の“美”に対する願いを叶えてくれるそう。

玉依姫命は縁結びに始まり月経、妊娠、出産、育児といった女性の心身にまつわる神秘的な作用を司る神といわれている。

それだけに女性からは「美人の神さま」として篤く信仰され、そうした美麗への祈願に応えるための鏡絵馬なのだ。

まずは円盤の表面に描かれた女性の顔に、いつも当人が使っている化粧品でメイク。
そして裏側に願いを書き入れ、奉納するという次第。

表面では外見的な美貌を、裏面では内面的な美しさを、この絵馬に模した「鏡」で磨きましょう…という意図が込められているそうだ。

鏡絵馬は表面だけ向けて並べられており、奉納した女性たちが裏面に記した「内面」は窺い知ることはできない。

神社に現世御利益ばかり求める風潮が吹き荒れている現代社会で、この「内面を磨く」行為がどれだけ認知されているのか測りかねるけど。

ただ、鏡絵馬に描かれた女性たちの表情をひとつひとつ眺めていると、美容とは縁が一切ない当方にも必死さが伝わってくるようだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]11

4t下鴨014

石碑を過ぎて表参道を奥へ向かう。

ここから先は世に言う「糺の森」だ。

少し先の左側に摂社が立っている。

だが、摂社にしてはやけに堂々とした風格。

社号標を見ると「河合神社」と記されていた。

なるほど、鴨川と高野川の二つの“河”が“合”うから河合神社なのかと思ったが、これは単なる思いつきだ。

隣の説明板によると今でこそ下鴨神社の摂社に甘んじているが、元は延喜式に名神大社として名を連ねるほど社格の高い神社だったとある。

社号標の横に明神鳥居が立っている。

ただ、その奥に社殿はなく、ちょうど境内の反対側に同じ形をした明神鳥居が立っている。

東西それぞれに出入口があり、中に入って北側を向けば楼門が待ち構える格好だ。

楼門をくぐって境内に入る。

目の前に舞殿、向こう側に拝殿、さらにその奥に本殿という並び。

河合神社の主祭神は多々須玉依姫命[ただすたまよりのみこと]。

玉依姫命とは特定の神号ではなく「霊(たま)の憑(よ)りつく巫女」を指す普通名詞とのこと。

これは民俗学者、柳田国男の解釈。

上総国一之宮玉前神社の祭神もまた、玉依姫命だった。

こちらは神武天皇の母として古事記と日本書紀にも登場している。

一方、河合神社のほうは記紀ではなく山城国風土記逸文に登場。

下鴨神社の祭神賀茂建角身命[かもたけつぬみのみこと]と丹波の伊古夜日売[いかこやひめ]の間に生まれた娘だ。

玉依姫命は“普通名詞”だけに、他と区別するため「多々須」という”冠詞”を付したのだろうか?

この多々須が変化して「糺」となった…かどうかは分からない。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]10

4t下鴨012

車止めを超えて鬱蒼とした緑に包まれた細い道を進んで行く。

せせらぎに架かる小さな石橋を渡ると先に広い通りが見える。

この御蔭通を渡ると「糺(ただす)の森」が口を開けて待っていた。

糺の森は下鴨神社の境内を含めた広大な森。

その面積は3万6000坪(約11万9000平方m)、東京ドームの約2.5倍にも及ぶ。

それでもまだ、時代が下がるにつれて狭まったのだとか。

往時は150万坪(約500万平方m弱)にも及んでいたというから、賀茂社の権勢が伺える。

入り口に一基の石碑が立っている。

そこに記されている文字は「世界文化遺産 賀茂御祖神社」。

ここ下鴨神社は平成6(1994)年「古都京都の文化財」として日本で5番目の世界遺産に登録された。

「古都京都の文化財」は京都府の京都市と宇治市、滋賀県大津市に散在する17か所の寺社から構成されている。

ちなみに神社は賀茂御祖神社と賀茂別雷神社、それに宇治上神社の3カ所しかない。

京都市内の神社は賀茂社だけで八坂神社も松尾大社も選ばれていない。

それだけ京都に於ける存在感の重さが際立っているということだろう。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]09

4t下鴨010

社号標の左隣りに立つのは一の鳥居。

朱色も鮮やかなシンプルな明神鳥居。

思っていたほど大きくはない。

それどころか柱が道幅ギリギリに建てられ、貫と島木、笠置が隣接する建物の敷地にはみ出している。

これほど余裕のない建てられ方をした一の鳥居を初めて見た。

しかし、ここは千二百年余の歴史を誇る王城の地。

もともと鳥居が先にあって、後に市街地化が進んだ結果こうなったと考えれば不思議ではない。

鳥居をくぐって奥へ進む。

下鴨神社は朝廷から平安遷都にあたり国家鎮護の神社として崇敬を集め、11世紀初頭にはほぼ現在の構成に整えられた。

しかし、15世紀後半に勃発した応仁・文明の乱(1467~1477)の戦火に巻き込まれ、広大な糺の森の樹林ともどもほとんどの社殿群が焼亡。

その後は境内全体の整備が細々と進められ、百年以上が過ぎた天正9(1581)年に平安時代の構成が再び蘇ったそうだ。

せせらぎに小さな石橋が架かっている。

渡ったところに井桁の車止めが埋め込まれている。

この先、自動車は進入禁止だ。

こうした車止めの彩色は黄色と黒が一般的。

だが、ここは朱色と黒の組み合わせ。

単なる交通標識とはまた何か異なる“意志”を感じさせる。

進入を食い止めているのは自動車だけでなく、目に見えない“悪意”をも遮っているかのようだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]08

4t下鴨007

出町橋を渡り切り、逆三角形の下端を経て河合橋を渡る。

橋の向こうには出町柳駅。

京阪本線と叡山電車が発着する大きなターミナル駅だ。

ホームは京阪線が地下、叡山電車が地上と分かれている。

叡山電車の本線は八瀬比叡山口が終着駅。

叡山ケーブルと叡山ロープウェイを乗り継げば比叡山の山頂へたどり着ける。

しかし叡山電車にもケーブルカーにもロープウェイにも乗ることなく、河合橋を引き返した。

河合橋を渡り切り右折する。

下鴨東通を進むと三叉路になっている。

突き当りには朱塗りの玉垣で囲まれた石灯籠。

その左側に社号標と、朱塗りの明神鳥居。

更に奥には濃い緑に包まれた深い森が顔を覗かせている。

大きな石造りの社号標には「賀茂御祖神社」と刻まれている。

読み方は「かもみおやじんじゃ」で、下鴨神社は通称である。

とはいえ「賀茂御祖神社」では少々堅苦しいので、ここでは原則として「下鴨神社」と呼び通したい。

また、下鴨神社と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両社を総じて一つの神社と見なす際は「賀茂社」と呼ぶことにしよう。

下鴨神社の創建時期は不明だが、崇神天皇2(紀元前90)年に瑞垣を修造した旨の記録が残っており、それ以前から祀られていたと思われる。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]07

4t下鴨006

築地塀が尽き、北東の角に行き当たった。

「猿ヶ辻」といって、ここだけ角が凹んでいる。

あえて鬼門の東北角を欠き、日吉山王社の神使“猿”が祀られている。

しかし金網で覆われ、あまりクッキリ見えない。

この猿が夜な夜な抜け出しては通行人に悪戯したため、金網で封じ込めたという。

そのまま北へ突き当たると中山邸跡と桂宮邸跡。

桂宮邸跡は築地塀で囲まれ、表門と勅使門の二つの門が残る。

しかし内部は非公開。

というのも内側に立っているのは宮邸ではなく宮内庁職員の公務員宿舎。

要は、ごく普通の平屋の家が立っているだけなのだ。

桂宮邸跡の右側を北へ抜け、今出川口から今出川通に出る。

通勤時間帯だけあって車道も歩道も前を向いて進んでいる人たちで一杯だ。

霧雨が舞う薄曇りの今出川通を歩くうち、先方に鴨川が姿を見せた。

賀茂大橋の手前で左手に折れ、上流に向かって緑地帯を歩く。

その少し先に2つの川が合流する地点がある。

西の賀茂川に架かるのが出町橋、東の高野川に架かるのが河合橋。

両橋の間にある三角形状の土地が賀茂社の社域ということになる。

出町橋の上から川面を眺める。

肌寒い初春、しかも朝方ということもあり、川縁を歩く人の姿はない。

その代わりというか。

緩やかに流れる川面の上を、鴉たちが我が庭のように舞っていた。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]06

4t下鴨005

真正面に立つ建礼門まで近寄り、築地塀に沿って反時計回りにグルリと歩いてみる。

東南の角を北へ向かうと、土塀の間に「建春門」という小ぶりな門が姿を現した。

道を挟んだ東側には「学習院跡」の石碑。

建春門と学習院跡の間の道を北側に歩いて行く。

御所の周辺明治維新までは約200軒もの公家屋敷が立ち並ぶ公家町だった。

明治2(1869)年、明治天皇の東京遷幸に伴って多くの公家達も東京に移住。

このため公家町は急速に荒廃していくこととなった。

明治10(1877)年、京都に還幸された明治天皇は荒れ果てた光景を悲嘆。

京都府に対して御所保存と旧観維持の御沙汰を下された。

この御沙汰に基づく「大内保存事業」で整備されたのが京都御所の始まり。

屋敷の撤去、外周石垣土塁工事、道路工事、樹木植栽などが行われ、明治16(1883)年に完了。

大正4(1915)年の「大正大礼」に際して改修工事が施され、ほぼ現在の姿に整ったという。

昭和22(1947)年の閣議決定で、京都御苑は新宿御苑、皇居外苑とともに国民公園になった。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]05

4t下鴨004

園内をフラフラ歩いているうち京都御所の正面、建礼門の前に出た。

歴史の教科書にある通り、桓武天皇が長岡京から平安京に遷都したのは延暦13(794)年のこと。

当時の内裏は現在の場所から約1.7kmほど西に位置していた。

何度か焼失を繰り返し、嘉禄3(1227)年の火災を最後に内裏の再建は途絶える。

その代わり摂政や関白などの館に仮の御所を置く「里内裏」が設けられることになった。

里内裏は何度か移転し、南北朝時代に土御門東洞院殿[つちみかどひがしのとういんどの]が光明天皇
の里内裏に。

代々の北朝天皇が居住し続け、南北朝が合体した明徳3(1392)年この地が正式に御所となった。

以降、明治維新で皇居が東京へ遷都するまでの約500年間、ここに歴代天皇が住まわれ、儀式や公務を執行していた。

当時の広さは約4500坪(1万5000平方m弱)。

現在の建造物で例えれば甲子園球場のグラウンドと同程度の広さだったようだ。

その後、足利幕府による敷地の拡大、応仁の乱を契機とした戦国時代の荒廃、織豊政権による復興、徳川幕府の造営…。

時代が下るにつれて御所は拡大整備されていく。

もちろん幾度も火災などで滅失し、現存する京都御所は嘉永7(1855)年の安政造営で再建されたものだ。

[旅行日:2014年3月20日]
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