2014年12月

一巡せしもの[住吉大社]16

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路面電車なので改札口は当然ながら存在しないのだが。

無いのは改札だけではなく利用者の姿も見当たらない。

そもそもホームの照明が落とされて周囲は真っ暗闇だ。

ホームの入り口に、人の進入を阻むかのように立つ時刻表に張り紙がしてある。

「上記時刻以外 住吉鳥居前から ご乗車願います」

見れば電車が発着するのは朝7時台と8時台しかない。

しかも8時台は3本、7時台は平日2本で土休日1本。

これでは駅としての機能を殆ど果たしてないではないか!?

住吉公園駅は100年以上も前の大正2(1913)年に開業した。

最盛期だった昭和30年代には最短1分間隔で列車が発着。

当時は1日に約200本もの電車が運行されていたそうだ。

それが今では日に4~5本という体たらくである。

いつ廃止されても不思議ではなさそう。

だが、実は無くならない。

毎年正月三が日は住吉大社に参拝客を送迎する臨時列車のために大活躍しているのだ。

年に一度、スポットライトを浴びる古老の駅…なかなかロマンティックな話ではないか。

できれば駅全体を普段はチンチン電車の博物館みたいに活用して欲しい。

そして正月だけは参拝列車のため“生きている”駅として命を吹き込む。

これぞ住吉大社のために存在する駅らしい生き方のような気がする。

そんなことを考えながら、住吉大社駅の高架ホームへ続く階段を登っていった。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]15

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誕生石を後にし、神馬舎の前を通り過ぎ、御神苑へ。

木立を貫く小径の両側にも巨大な石灯籠が延々と続いている。

ひとつづつ、礎石に刻まれた奉納主を眺めていく。

刻まれた名は海運業者や廻船問屋だけでない。

荷主である様々な業種が奉納していることが分かる。

レーダーやGPSといった航法装置など存在しなかった昔。

神や仏からの御加護こそ、現代科学技術の役割を担わされていたのだろう。

御神苑から鳥居をくぐり、境内から外に出る。

目の前を通り過ぎる阪堺電軌の路面電車を見遣りながら住吉大社駅へ。

高架橋の隣に「驛園公吉住」と掲げた小さな建物がある。

ここが阪堺電軌上町線の始発駅、住吉公園駅なのか。

駅名が右から左へ表記されているということは、戦前からこのままなのだろう。

小さな入口から中へ入ってみる。

狭い通路は左側にコインロッカーと、南海線住吉大社駅への連絡口。

右側は居酒屋と串揚げ屋が営業している。

真っ昼間から営業しているところが、なかなか大阪っぽい。

シャッターを降ろしている店が一軒ある。

夜ともなれば営業を始めるのだろうか?

それら店の前を突っ切って奥のプラットホームへ向かう。

このあたりの雰囲気、どこかで見たことがある。

東京に残る唯一の都電、荒川線の三ノ輪橋駅の雰囲気と似ているのだ。

三ノ輪橋駅もまた、梅沢写真会館という超レトロなビルの中を鳥居のようにくぐり、三ノ輪橋商店街を通り抜ける。

だが、三ノ輪橋の駅前のほうが規模は大きい。

むしろ駅の規模でいえば、同じ東京にあるもう一つの路面電車、東急世田谷線三軒茶屋駅。

その改装する前の駅舎のほうが似ているかもしれない。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]14

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祈祷殿の前には自動車のお祓い所がある。

そこに立つ電話ボックスの屋根にも千木と鰹木が据えられている。

まるで社殿群の一部のように。

千木は外削ぎ、鰹木は三本。

どうやら“祭神”の公衆電話は男神のようだ。

そこから少し離れたところに「丸に十字」の提灯がぶら下がった一角を見つける。

石製の低い玉垣に囲まれたスペースの中央には、ラグビーボール大の石が幾つか寄せ集まっている。

正面入口の横にある標識には「誕生石」の文字。

「丸に十字」は薩摩藩島津家の紋所、なにか関わりがあるのだろうか?

入り口の門は固く閉ざされていて中に入れず、外から覗き込むしかない。

住吉大社の由緒に説明があった。

ここは源頼朝の寵愛を受けた丹後局[たんごのつぼね]が出産した場所という。

懐妊した丹後局は嫉妬深い北条政子に捕えられ、殺害されることになった。

家臣の本田次郎親経[ほんだじろうちかつね]に危ういところを救われ、逃亡。

摂津住吉の辺りまで来た時に日が暮れ、不幸にも雷雨に遭い前後不覚に陥った。

そこで不思議な出来事が起こる。数多の狐火が灯り、局らを住吉の松原まで導いて行ったのだ。

一行が住吉大社の社頭へ至った時、局が産気づいた。

本田次郎が住吉三神に安産を祈る中、局は傍らの大石を抱きながら男児を出産した。

このことを知った頼朝は本田次郎を褒賞。

男児は若君に成長した暁に薩摩と大隅の二か国を充てられた。

その子こそ薩摩藩島津家の始祖、島津忠久公だと伝えられている。

この故事から力石が存在する場所は島津氏発祥の地とされた。

島津氏は聖地「誕生石」を垣で囲み、代々にわたって篤く護持してきた。

現在でも「安産」にご利益があると、祈願する向きが絶えないそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]13

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五所御前から各社殿の右側を通り抜け第四本宮の前に出た。

ここに翡翠[ひすい]で出来た撫でウサギの像が立っている。

手水舎のところで記した通り、ウサギは住吉大神のお使い。

像の五体を撫でれば無病息災の御利益に与れるそう。

ここぞとばかりに翡翠のウサギを撫で回した。

ウサギ像から視線を右側に向けると風格のある大きな門が目に入った。

近づいて見ると看板に「神館」と墨書されている。

神館[しんかん]は大正4(1945)年に建立された歴史的建造物。

中には南向きの玉座(天皇陛下がお控えになる部屋)が設えられている。

その造形美は木造建築の粋を極め、国から登録有形文化財に指定されているほど。

現在は小規模な宴会場として用いられている。

ただ、その姿は白壁に阻まれて伺うことは叶わない。

池の前に出、傍の小径を通って南側から北側へ向かう。

その小径には巨大な燈籠がズラリと立ち並んでいる。

優雅で大きな形をしたものが多く「池大雅灯籠」と呼ばれている。

燈籠は全国の様々な業者から海上守護の祈願を込めて奉納されたもので、その数は約600基。

広告塔としての意味合いも強く、題字は名筆家に刻字してもらったという。

社殿群の北側に巨大な和風建築群が立ち並んでいる。

祈祷殿、社務所、そして参集所だ。

住吉大神は伊邪那岐命が禊祓[みそぎはらい]をした際に現れた神様。

なので住吉大神は神道で最も大切な「祓[はらえ]」を司っている。

夏祭りの「住吉祭」が単に「おはらい」と呼ばれていることこそ、その証。

その御神威には摂河泉はもとより日本中を禊祓するだけの力があるわけだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]12

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一方、末社は次の6社。
  • 侍者社[おもとしゃ]
  • 楠■(■=王偏+君)社[なんくんしゃ]
  • 種貸社
  • 大歳神社
  • 浅沢神社
  • 市戎大国社

うち、第一本宮の裏手にある楠■社に参拝した。

境内奥の樹齢千年を超える楠[くすのき]の大木を御神木とした稲荷社。

江戸時代、神秘的な霊力があるとされる楠に人々は祈りを捧げていた。

その後、根元に設けられていた社に稲荷神を祀るようになったのが創始という。

商売繁盛のご利益があり、現在では大阪はおろか全国の商人から篤く信仰を集めるているそう。

ちなみに、この楠は大阪市から保存樹に指定されている。

楠■社から再び住吉大社の社殿群へ戻る。

第一本宮の裏手に広がる木立の中に、二棟の建物が立っている。

板校倉造[いたあぜくらづくり]という工法を用いた「高庫」で、かつては御神宝が納められていた。

室町時代の建物と伝わり、現在では大阪府から文化財に指定されている。

板校倉造は地面から建物を持ち上げ、板を組み合わせて壁面を構成する工法。

保管に万全の注意を払うため、高床や板校倉を採用することで風雨や湿気からの被害を避けたものと思われる。

高庫から境内をグルリと回りこむと、第一本宮と若宮八幡宮の間に「五所御前」という場所がある。

石でできた玉垣の中に杉の木が立っている。

その昔、神功皇后が住吉大神を祀る土地を探していたら、この杉に3羽の白鷺が止まった。

住吉大神の御思召と感じた神宮皇后は、ここを鎮座地に定めたと伝わっているそうだ。

別名「高天原[たかまがはら]」とも呼ばれ、神霊を迎える御生[みあれ]所(神の来臨する場所)でもある。

玉垣内にある砂利の中に「五・大・力」と書かれた小石があり、これを探して集めてお守りにすると心願成就のご利益があるそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]11

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社殿群の西側に「住吉文華館」がある。

所蔵する宝物や文化財を保護し、一般公開を通じて住吉大社の歴史や文化財への認識を深めるための施設。

しかし開館は毎週日曜日の午前10時~午後3時と“狭き門”なので見学することは叶わない。

ここで住吉三神に共通する“筒”という文字について考えてみた。

意味するところは諸説あるが有力な説は「津」…船が出入りする港湾を意味する。

三重県の県庁所在地「津」の由来が、まさにそう。

古事記では伊邪那岐命から生まれてきた住吉三神を「墨江之三前大神[すみのえのみまえのおおかみ]」と呼んでいる。

この神様、もとは「住吉津[すみのえつ]」の守護神として祀られていたと考えられている。

祀っていたのは住吉津を守る職務を以ってヤマト王権に仕えていた摂津の名族、津守氏。

天火明命[あめのほあかりのみこと]の子孫と伝わり、住吉大社の神主職を連綿と努めてきた。

日本書紀には遣唐使として派遣された旨の記録が残り、明治維新では男爵位を授与され華族となった。

それほどの長きにわたって家系が継承されてきたことに驚かされる。

また、津守氏第39代当主の国基[くにもと]が和歌の天才として名を馳せていた。

このことから住吉大社は「和歌の神」としての崇敬も集めるようになったという。

瑞垣に囲まれたエリアを裏口から出ると摂社末社が数多く鎮座している。

ひとつひとつお参りするが、沢山あり過ぎて個々に覚えてはいない。

由緒書によると摂社が4社(大海神社/船玉神社/若宮八幡宮/志賀神社)。

このうち大海神社は重要文化財に指定されている。

また、志賀神社には住吉三神と同時に生まれた三柱の海神「綿津見神」が祭神。

綿津見神とは次の三神の総称だ。
  • 底津少童命[そこつわだつみのみこと]
  • 中津少童命[なかつわだつみのみこと]
  • 表津少童命[うわつわだつみのみこと]

綿津見三神は住吉三神と一緒に生まれた神々なのだが、住吉三神のように後に古事記に再び現れることはない。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]10

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建造されたのは全て文化7(1810)年というから、それほど古いものではない。

国宝指定は、代々にわたる遷宮を通じて住吉造の様式を後世へ忠実に伝えたことに対する評価だろう。

その住吉造は3つの特徴から構成されている。

1つ目は朱(丹)と白と黒の三色を中心に彩られた色彩。

柱、垂木、破風板は朱塗り、羽目板壁は白色の胡粉[ごふん]塗り。

そこへ黄金の金具を用いることでゴージャス感を演出している。

2つ目は檜皮葺(ひわだぶき=ヒノキの皮を敷き詰めたもの)の屋根。

切妻(屋根の端を切り揃えた形)が直線的な力強さを感じさせる。

3つ目は直線型妻入り式の出入り口。

屋根の両端(つま)が正面に向いているのが特徴的。

まるで開いた本を上からかぶせたようだ。

最後に最も奥に鎮座する第一本宮に参拝する。

祀られているのは底筒男命[そこつつのおのみこと]。

もちろん川の底で身体を濯いだ時に生まれたので“底”筒男命だ。

さすが第一本宮だけあって、拝殿前のスペースは他に比べて広め。

拝殿の大きさも他に比べると大きいように見える。

ここで、とある注意書きが目に入った。

「参拝は第一本宮から第四本宮へ向けて参拝すること」

にもかかわらす、第四本宮から参拝してしまったのだ。

予め知らなかったとはいえ、これは大失態!

ここから第四本宮へ向けて再度参拝したのは言うまでもない。

手前からではなく、真っ先に最奥の第一本宮へ!

住吉大社へ参ったら、この鉄則をお忘れなきよう。

ちなみに「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」とは筑前一宮住吉神社のことではないかとの推測もあるそう。

なので、住吉三神については筑前一宮住吉神社を参拝する折に改めて勉強したいと思う。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]09

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左側にある第三本宮の前に立つ。

主祭神は表筒男命[うわつつのおのみこと]。

水面の上に出て身体を濯いだ時に生まれたので“表”筒男命の名が付いた。

参拝を終え、社殿の構造をジロジロ観察する。

社殿の構造は「住吉造」と呼ばれ、伊勢神宮の神明造り、出雲大社の大社造りと並ぶ神社建築史上最古の特殊な様式。

手前に拝殿があり本殿との間を幣殿がつないでいる。

拝殿の奥には木造で朱塗りの住吉鳥居が聳立しているのが見える。

本殿内部は2室に分かれ、正面から見て前部が外陣。

一段高くなっている後部の内陣に神座が設えてある。

また、本殿の周囲を巡る迴廊がない。

その代わりなのかどうか本殿の周囲は板玉垣で覆われ、更にその外側を荒忌垣が囲んでいる。

屋根には置千木と5本の堅魚木が据えてある。

千木は女神の神功皇后を祀った第四本宮のみ内削ぎで、あとはすべて外削ぎ。

堅魚木はよく見かける円筒状のものではなく、珍しい四角い形状。

第四本宮の堅魚木も他の社殿と同様5本である。

第三本殿の裏へ回り第二本宮へ。

ここは中筒男命[なかつつのおのみこと]を祀っている。

水の中で身体を濯いだ時に生まれたので“中”筒男命という。

そういえば伊勢一宮の都波岐奈加等神社には、なぜか中筒男命だけが祀られていた。

住吉三神をバラして一神のみ祀った神社は他にもあるのだろうか?

だとしても、なぜ表筒男命でも底筒男命でもなく中筒男命なのだろう?

その理由は…よく分からない。

話を住吉造の本殿に戻そう。

ここにある4つの本殿は昭和28(1953)年11月14日、国宝に指定されている。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]08

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また、社殿は「拝殿-幣殿-本殿」で構成されている。

大きな神社だと本殿は玉垣で囲われ近づくことはできないが。

ここ住吉大社は本殿が剥き出しで容易に近づくことができる。

住吉大社に昔から慣れ親しんでいる地元の方々にとっては、ごく当たり前の光景かも知れない。

だが諸国の一之宮を巡礼して来た者の目には初めて見る社殿の配置と形状がどこか異様に映る。

これら本殿はすべて西…つまり大阪湾の方角を向いている。

この配置は航海する船団をイメージしたとも、兵法「三社の縦に進むは魚鱗の備え 一社のひらくは鶴翼の構えあり よって八陣の法をあらわす」に基づくとも伝えられている。

手前に横列で並ぶ社殿は右が第四本宮、左が第三本宮。

第四本宮には神功皇后が祀られている。

神功皇后、古事記では息長足姫命[おきながたらしひめのみこと]。

第十四代仲哀天皇の妃であるとともに第十五代応神天皇の母でもある。

応神天皇、又の名を誉田別命[ほんだわけのみこと]は八幡神として知られる。

なので誉田別命と神功皇后を母子セットで祀っている八幡神社が多い。

古事記と日本書紀には神功皇后の伝説が結構なスペースを割いて詳述されている。

三韓征伐に乗り出して新羅を平定した“武神”としての姿。

遠征中に産気づいたものの征伐が終わるまで出産を抑えた魔力。

筑紫へ帰還後に出産した御子(応神天皇)が八幡神へと成長していく過程など。

神功皇后は戦前こうした伝説を基に実在の人物として国家神道の喧伝に利用されていた。

戦後になると研究が進み、現在では実在の人物をモデルにした伝説上の人物との説が定着している。

ただ一之宮の住吉神社は長門国にもあるので、神功皇后についてはそちらで勉強することとしよう。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]07

rj07住吉4t17

反橋は午後9時までライトアップされ、夜景の名所としても名が知られているところ。

そのせいかどうかは分からないが、それにしても外国人観光客の数が多い。

特に白人の西洋系が目立ち、あまり東洋系外国人の姿は目立たない。

いつものことなのか? それとも、この日たまたま多いだけなのか?

そんなことを考えていたら、ブロンドの美女に声を掛けられた。

「エクスキューズ・ミー!」

そう言うとカメラを手渡され、撮影を頼まれる。

サングラスをかけ、長身でダイナミックなプロポーション。

そんなファッションモデルのような彼女が反橋の前でポーズをとる。

秀麗な橋のデザインと肉感的な彼女のボディが魅せる絶妙の調和。

ひょっとしたら神功皇后も彼女のようにダイナミックな女性だったのだろうか。

反橋を渡ると左側に手水舎が立っている。

水の注ぎ口は
石像のウサギ

神功皇后を祀った日が卯歳[うのとし]、卯月[うづき]、卯日[うのひ]だったことに因んだもの。

ウサギといえば大国主命の神話「因幡の白兎」で見るように国津神にまつわる動物かと思っていたら。

天津神の世界でも愛玩されていたわけだ。

石段を登ると四角い柱が特徴的な鳥居が立っている。

「角鳥居[かくとりい]」とも呼ばれ、四角い柱は古い様式で大変珍しいもの。

本殿と拝殿の間に建つ木造朱塗りの鳥居が原形という。

扁額は陶製で、揮毫は有栖川宮幟仁親王の筆による。

鳥居を通りぬけて幸寿門をくぐり境内に入る。

中には同じ大きさ、同じ形状の社殿が4棟。

手前に2棟が左右並列で並び、左側の社殿の後方に2棟が縦列で配置されている。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]06

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一ノ鳥居と太鼓橋の中間あたり、両側に絵馬堂が立っている。

堂内には巨大な絵がいくつも掲げられている。

昔から神社には馬がつきもの。

現に“神馬”として境内に生きた馬を繋留している神社もある。

しかし馬の世話は大変な作業、なかなか出来るものではない。

なので馬の像を立てたり、馬の絵を描いた額を御堂に納めたり。

こうして絵馬は生きた馬の代役を務めているわけだ。

絵馬堂から参道を先へ進むと目の前に巨大な太鼓橋が聳え立つ。

住吉大社の象徴「反橋[そりはし]」。

長さ約20m、幅約5.8m。

石製の橋脚は慶長年間に淀君が奉納したと伝わっている。

「さらに時代を遡れば、住吉大社の前まで海だったのかも知れない」

高灯籠史料館のところで呈した疑問は、やはり本当だった。

架橋当時この近くまで海岸線が迫り、本来の目的は本殿と対岸の入り江を結ぶためだったとか。

橋の下に広がる池は入り江の名残とも言われている。

それにしても神社に太鼓橋は付き物とはいえ、ここまで反り返っている橋はなかなかお目にかからない。

橋中央部の高さは4.4m、最大傾斜角度は約48度もある。

高角度アーチの理由は地上の人の国と天上の神の国をつなぐ掛け橋として虹をイメージしたからとのこと。

また、神と触れ合う前にアーチ橋を渡ることで罪や穢[けが]れを祓[はら]い清める目的もあるそうだ。

この太鼓橋の名を世に広めたのは川端康成の小説『反橋』(1948年)。

「反橋は上るよりもおりる方がこはいものです」

この一節が刻まれた文学碑が、橋の南東に設えてある。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]05

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参道入口の右側に聳立する巨大な標柱に、深々と刻まれた「住吉大社」の社号。

津々浦々に鎮座する住吉神社の総本社に相応しい堂々たる社号標だ。

全国各地に分布する住吉神社の数は優に2300社を超えるそうだ。

中でも代表格が摂津国の住吉大社、長門国と筑前国の住吉神社。

これら「三大住吉」は、すべて各国の一之宮。

壱岐国の住吉神社と合わせた4社は、すべて神功皇后[じんぐうこうごう]の三韓征伐に由来している。

また4社は互いに独立しており、本社と分社の関係にはない。

そして全国の住吉神社のほとんどは、これら4社いずれかの分霊を祀ったものだという。

一ノ鳥居は石造りの明神鳥居。

ただし柱は円柱で、四角い柱が特徴的な住吉鳥居ではない。

住吉大社の由緒は古事記にキッパリと明記されており甚だ明快だ。

第十四代仲哀天皇の妃である神功皇后は、新羅(三韓)征伐に乗り出すよう神からの教示を得た。

その神とは底筒男命[そこつつのおのみこと]、中筒男命[なかつつのおのみこと]、表筒男命[うわつつのおのみこと]の三神。

伊邪那岐命[いざなぎのみこと]が黄泉の国から戻り「筑紫の日向の小戸の橘の檍原[あはぎはら]」で穢れを禊いだ時に生まれた神々。

ちなみに「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」とは筑前一宮住吉神社のことではないかとの推測もあるそうだ。

新羅を平定して帰還した神功皇后は三神から教示を受け、住吉の地に「住吉大神」として祀ったことが起源とされている。

皇后摂政十一辛卯[かのとうの]年、今から約1800年も前の話と由緒書には記されている。

鳥居をくぐって境内に入ると、住吉公園から列を為しているかのように夥しい数の石灯籠が立ち並んでいる。

霊験あらたかな“海神”として航海関係者や漁民の間で古くから崇敬されてきた証。

遡れば奈良時代、遣唐使は出港の前に必ず立ち寄り、海上の無事を祈願したという。

「住吉に 斎く祝[はふり]が神言と 行くとも来とも 船は早けん」

(住吉にお仕えする神官のお告げでは行きも帰りも船は速かろうとのこと)

万葉集に収められたこの歌は、遣唐使に無事の帰還を約束した住吉大神のお告げを伝えたものだという。

江戸時代に入り大坂を中心とする海上輸送が隆盛を迎えると、廻船業社から航海安全への信仰もピークに。

境内に存在する約600基もの石燈籠の多くは、当時の廻船業者関係から奉納されたものだそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]04

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南海線の高架をくぐり、住吉大社の参道を進む。

大きな神社の門前ながら参道の町並みはありふれた感じ。

立ち並ぶ石灯籠が他の一之宮と雰囲気を大きく変えている。

ところで平成25(2013)年秋、伊勢神宮で式年遷宮が行われ大きな話題を呼んだ。

ここ住吉大社もまた、20年ごとに本殿を新しく建て替える遷宮を行っているという。

ただ伊勢神宮のように完全に建て替えるのではなく、本殿を修繕・改修する程度に留まっているそうだ。

本殿の改修では国宝社殿の丹による塗替えや、ヒノキの樹皮を加工した桧皮[ひはだ]による屋根の葺替えが行われる。

平成20~21(2008~09)年にかけて斎行された第49回式年遷宮が至近のものだそうだ。

短い商店街が尽き、住吉大社の参道正面に出た。

門前には立浪部屋の幟がはためいている。

境内に春場所用の部屋を構えているせいだろう。

実は住吉大社と大相撲は切っても切れない縁で結ばれている。

特に横綱の起源説話は住吉大社と深い関わりがある。

弘仁年間(810~823)の相撲会[すもうえ]で近江国(滋賀県)の力士「ハジカミ」が最強を誇っていた。

その強さは半端なく相手になる者が誰一人いなかったため、行司の志賀清林が一興を案じる。

神前の注連縄を外し、ハジカミの腰にグルリと纏わせたのだ。

そして注連縄に手を掛けることができた者が勝ち、ハジカミの負けとする「ローカルルール」を実施。

それでも、やはり誰も注連縄に触わることすらできなかったという。

これが横綱の起源だと今に伝わっているが、史実かどうかは不明の由。

ただこの故事に因み、今でも横綱が注連縄を第一本宮前の御神木に奉納しているそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]03

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高燈籠から汐掛道を引き返し住吉大社駅まで戻る。

ここ住吉大社は紫式部「源氏物語」の第14帖「澪標[みおつくし]」の舞台でもある。

主人公の明石君[あかしのきみ]は光源氏の明石時代の愛人で、源氏の一人娘を出産。

身分が低く田舎育ちの明石君は引け目を感じ、源氏や娘と離れて暮らしていた。

そんなある日、住吉大社へ参った明石君は同じ日に偶然、源氏の盛大な参詣に出くわす。

きらびやかな様子に気圧された明石君は改めて身分の差を思い知らされた。

そして源氏に会うこともなくその場から静かに立ち去った。

その事実を後に知った源氏は明石君を憐れみ、使いを出して歌を贈った。

『みをつくし 恋ふるしるしに ここまでも めぐり逢ひける えには深しな


(身を尽くして恋い慕っていた甲斐のあるここで めぐり逢えたとは縁は深いのですね)

これに明石君は歌を返す。

『数ならで 難波のことも かひなきに などみをつくし 思ひそめけむ』

(とるに足らない身の上で 何もかもあきらめておりましたのに どうして身を尽くしてまで お慕い申し上げることになったのでしょう)

返歌に登場する「みをつくし[身を尽くし]」とは昔、大阪湾の浅瀬に立てられていた水路標識「澪標[みおつくし]」と掛けたもの。

この標識のデザインは明治27(1894)年4月に大阪市の市章となり、現在に至っている。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]02

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「汐掛道の記」の碑文を続ける。

『松原を東西に貫く道は大社の参道』

この道こそ住吉大社の表参道。

海岸線は至近から消滅しても、参道が埋もれることはなかった。

『浜で浄めた神輿が通る為「汐掛道」と称され』

ここでの「浜で浄めた神楽」とは「神輿洗神事」で洗い浄められたみこしのこと。

「神輿洗神事」とは大阪夏の風物詩「住吉祭」に先立って行われる神事。

まだ浜辺が近かった頃は社前から神輿を担ぎ出し、そのまま出見の浜へ入って行ったそうだ。

「汐掛道」は井見の浜で浄められた神輿が通る、250mにも及ぶ道。

海岸線が遠ざかった今では沖合で汲んだ海水を運び込み、ここ住吉公園で行われている。

参道の両側に灯籠が延々立ち並んでいる。

住友家の当主が代々寄進したものとか。

汐掛道を突き当たると、そこに古めかしくも巨大な燈台が立っていた。

創建は鎌倉時代とも伝わる、日本初の燈台「住吉の高燈籠」。

江戸時代“天下の台所”大坂は昼夜問わず船が行き来するようになった。

本来は住吉大社への奉納物だった燈籠が、夜間航行の船から目印にされるように。

そのうち神社の施設より航路標識としての役割が大きくなっていったそうだ。

幸い空襲にも遭わず戦後を迎えた高燈籠。

たが、昭和25(1950)年のジェーン台風で上部の木造部分が破損し解体。

残された下部の石垣部分も同47(1972)年に道路拡張のため撤去された。

2年後の同49(1974)年12月、元あった場所から200mほど東に移動。

現在地に外形は元のまま、鉄筋コンクリート造りで再建された。

平成17(2005)年8月には内部を改装し、史料館としてオープン。

ただし開館は第1・第3日曜日の10時から16時までの月2回。

もちろん、この日は開いていなかった。

200mほど西といえば、ちょうど阪神高速堺線が通っているあたり。

江戸時代は、そのあたりまで海岸線が入り込んでいたわけか。

さらに時代を遡れば、住吉大社の前まで遠浅の海だったかも知れない。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]01

4t住吉01

羽衣駅から乗車した南海電車は20分ほどで住吉大社駅に到着した。

改札を出ると正面に大きな案内図が掲げてある。

太鼓橋の写真を中央に右側が境内図、左側が周辺図。

内容が懇切丁寧で非常に分かりやすい。

初めて来た参拝者にも、これなら迷いようがないだろう。

境内は駅の東側だが、まずは西側に広がる住吉公園に行ってみた。

駅前に「真住吉し 住吉の国」という碑が立っている。

この「住吉」という地名は神功皇后が得た「真住吉」という託宣に由来する。

文字通り「住むのに吉し」という意味、神様が「真に住み吉い」土地ということだ。

古事記の「墨江[すみのえ]」という神名は“よい”を“ええ”と言う関西弁が由来。

つまり「すみいい」が「すみええ」となり「すみのえ」に変化していった。

古事記が編纂された時代に「いい」を「ええ」と言う関西弁が存在したかどうかは知らない。

とはいえ鎮座地住吉区の隣は住之江区、「すみよし」と「すみええ」が隣り合っている。

決して古事記時代の昔話ではないのだ。

公園内を広い道が西へ向かって一直線に延びている。

傍らに立つ碑「汐掛道の記」の説明板には、こうある。

『ここは昔、住吉大社の神事の馬場として使われた場所』

明治4(1871)年に国の所有となり、同6年8月に大阪府へ移管された府下最古の公園なのだそうだ。

『社前から松原が続き、すぐに井見[いでみ]の浜に出る名勝の地』

往時は松原を過ぎれば遠浅の海岸が開けていたが、今の海岸線は遥か10km近くも先。

浜辺は遠くまで埋め立てられ、ここからは当然ながら海岸線は見えない。

歩いていると左側に選挙の候補者掲示板が立っていた。

時は折しも大阪市長選挙戦の真っ只中。

とはいえ12ある枠のうち埋まっているのは右上のひと枠のみ。

前職のポスターだけがポツネンと貼られていた。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]19

rj19大鳥4t039

裏手の石鳥居から境内を出、日本武尊に分かれを告げた。

大鳥大社境内の敷地面積は現在1万5千余坪(約14万9500平方m)と広大。

だが古図を見れば往時は現在の比ではなく、鎮座地一帯の丘陵すべてが敷地だったかのよう。

境内には「大鳥大社全景図」という巨大な案内板が立っているのだが。

なにぶん古ぼけているうえ、手前の灌木に邪魔されて全く用を為していない。

元禄時代の古図と比較して見れば、社殿と南側に広がる心字池の位置は今と変わらないように見える。

両者の位置が元禄時代から動いていないと仮定すれば、神鳳寺があったのは現在の大鳥美波比神社から東側一帯だったことになる。

いや、神鳳寺の本堂と五重塔の跡に大鳥美波比神社を移建したことになるのか。

それにしても古図に描かれた神鳳寺の寺領は相当に広大だ。

それが失われてから、たかだか100年程度しか経っていないことに驚かされる。

廃仏毀釈のムーブメントが、それほど凄まじいものだった証かも知れない。

裏口から出た格好になるので、境内の外側ををグルリと回り込む形で一ノ鳥居へ向かう。

一ノ鳥居から海に向かって一直線に延びる参道を行き当たると南海本線浜寺公園駅がある。

明治40年(1907)6月に建てられた駅舎は東京駅の設計で知られる、辰野金吾博士が所属した辰野・片岡建築事務所によるもの。

平成10年(1998)9月には大手私鉄の駅では初めて国の登録文化財に指定された。

1.5km程度と歩いて歩けない距離ではなかったのだが、いかんせん宿酔で体調悪しき状態。

止む無く鳳駅へ戻り、羽衣線で南海線羽衣駅という往路を逆に辿ることにした。

昨日から羽衣線を都合一往復半したことになる。

石鳥居を出て駅への道を歩いていると、昨日電車の中から見かけた看板があった。

祀った側の人間の都合で祭神が替わったり、境内がくたびれたり。

日本武尊よ、ごめんな…そう心の中でつぶやいたのだった。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]18

rj18大鳥4t037

行基が生涯のうちに建てた寺は生家の家原寺(えばらじ)を含めて49もある。

この家原寺と並び、神鳳寺は大伽藍を設えた大寺院だったと伝わっている。

だが神仏分離令により本堂・不動堂・五重塔・方丈・経蔵・中門など悉く破却。

梵鐘が大鳥大社の北隣りにある専光寺、本尊が堺市百舌鳥の光明院に、辛うじて現存している。

大鳥美波比神社の社殿横には割と広めのスペースが広がっている。

金網で仕切られた中には鳥居こそ立っているが社殿は存在しない。

立ち入りも許されておらず、まるで禁足地のようだ。

ここに今でも神鳳寺の跡を保全しているのだろうか?

大鳥美波比神社の鳥居を出て、右手に折れる。

方角としては北に向う形になる。

真っ直ぐ進むと突き当りで参道が左右に分かれている。

右手は境内の外側への出口へ。

左手には石鳥居が立ち、さらに奥へと誘っている。

鳥居の隣に掲げられた粗末な説明板には「歯の神社」と記されている。

鳥居をくぐって先へ向かうと、そこに小さな祠が立っていた。

小さな屋根の付いた玉垣の中には、石柱で囲まれた巨石が鎮座している。

しかし由緒略記の境内神社に、その名は影も形もない。

玉垣には扁額もなく、何という名の神社なのか分からない。

それどころか、本当に歯の神様なのかも定かではない。

歯の神社を出て参道を直進し、境内の外へ向かった。

全体の印象としては、境内そのものがくたびれた感じを受ける。

ここは「大鳥」という社号から、近隣の関西国際空港からパイロットやキャビンアテンダントが参拝に訪れるそう。

ならば各航空会社は大鳥大社に幾許かの寄進を施し、境内の整備や新調に一役買ってもよかろうに…と思う。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]17

rj17大鳥4t035

鳥居を出て左に曲がると、正面に摂社の大鳥美波比神社が鎮座している。

主祭神は天照大御神で、なぜか相殿は菅原道真公。

もとは北王子村に鎮座していたのを、明治12(1879)年に当地へ遷宮したのだそうだ。

北王子村とは境内の東側に広がる、現在の鳳東町一帯。

この際、境内社の摂社末社七神を合祀したという。

北王子村時代は天神様だったのが、遷座に伴い首座を天津神に取って代わられたのだろうか。
それはともかく。

鳥居の前で真っ昼間からバナナを肴にカップ酒を飲んでいるオヤジがいる。

まだカップ酒は分かる(というのもヘンだ)が、なぜ肴がバナナなのか?

カップ酒とバナナのマリアージュは試したことはないが、マッチするのか?

やはり大鳥大社は無法地帯なのだろうか?

大鳥大社には大鳥美波比神社以外にも摂社が4つある。

他の3社は堺市内に散在しており、それぞれ日本武尊の“三妃”を祀っている。

  • 大鳥北濱神社=吉備穴戸武媛命(きびあなとのたけひめ)
  • 大鳥濱神社=両道入媛命(ふたじのいりひめ)
  • 大鳥井瀬神社=弟橘媛命(おとたちばなひめ)

斉衡2(855)年の「大鳥五社大明神并神鳳寺縁起帳」には、こう記されている。

慶雲三丙午(706)年「始めて三妃を祭り神宮造営、大鳥五社大明神と名付け奉る」

これが旧社号標の件で触れた「大鳥大社」総称の説の根拠である。

「大鳥五社大明神并神鳳寺縁起帳」の神鳳寺とは、和銅元(708)年に行基が創建した神宮寺のこと。

正式には大鳥山勧學院神鳳寺という。

堺出身の行基は諸国を布教して巡りながら、民衆と共に道路や堤防、橋や寺院をを建設。

ところが朝廷からの資格を得ていない“モグリ”だったため、僧としての活動を禁止された。

しかし民衆からの人気が高かったことから、後に聖武天皇の帰依を受ける。

そして東大寺や国分寺の建立に協力し、日本で初めて大僧正の位を授けられた。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]16

rj16大鳥4t031

社殿は戦国時代の兵乱で炎上、荒廃した。

世の中が落ち着きを取り戻した慶長7(1602)年、豊臣秀頼によって再興される。

ところが慶長19~20(1614~15)年の大阪の陣に巻き込まれて再び炎上し、またしても荒廃する憂き目に。

再再建されたのは時代が下ること約半世紀後の寛文2(1662)年。

徳川四代将軍家綱の命を受け、堺町奉行石河土佐守利政の手によるものだった。

社殿は江戸期を恙無く過ごし、明治35(1902)年には建造物の国宝たる「特別保護建造物」に指定された。

これでもう戦に巻き込まれて焼失することはない…と思った矢先、まさに好事魔多し!

同38(1905)年に落雷のため3度目の炎上。

しかしさすが特別保護建造物、4年後の同42(1909)年には従来の様式通りに再建されている。

第二次大戦末期の堺大空襲でも市街地の外れに位置していたせいか幸い被害も少なく。

昭和36(1961)年には日本武尊命御増祀のため、原型解体に近い大修理が行われた。

同時に内部の模様替えも行われ、現在に至っている。

境内には堺市出身の女流歌人、与謝野晶子の歌碑が立っている。

研究者やファンによる市民団体「与謝野晶子倶楽部」の設立10周年を記念して建立されたもの。

除幕された平成18(2006)年12月7日は晶子の誕生日という。

「和泉なる わがうぶすなの大鳥の 宮居の杉の 青き一むら」

大鳥大社が晶子の産土神だった縁から、この句が碑に刻まれている。

揮毫は同倶楽部の名誉会長を務めていた故・田辺聖子。

「おせいどん」の愛称で親しまれた彼女は大阪を体現していた女流作家だった。

また、境内には平清盛と重盛父子の歌碑も立っている。

「かひこぞよ かへりはてなば 飛びかけり はぐくみたてよ大鳥の神」

平治元(1159)年12月、熊野参詣の途中で立ち寄った際に詠んだもの。

これ以外に清盛の和歌は歴史上存在しないので非常に貴重なのだそうだ。

揮毫は明治時代初期に大宮司を務めていた“最後の文人”富岡鉄斎の手による。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]15

rj15大鳥4t034

さっそく使いの早馬が仕立てられ、その訃報は都へと伝えられた。

后や御子らは都から能褒野へ赴き、その周囲で泣きに泣いたという。

そして日本武尊は八尋もある白鳥に姿を変え、大空へ羽ばたき海の方角へ飛んでいった。

古事記によると、白鳥は河内国の志幾に舞い降りたとある。

その土地に陵(はか)を造営して魂を祀り「白鳥の御陵(しらとりのみささぎ)」と名づけた。

現在、大阪府羽曳野市の古市古墳群にある「白鳥陵」だと比定されている。

ただ、日本書紀だと能褒野と河内国旧市(ふるいち)村の間にある大和国琴弾の原に立ち寄っている。

奈良県御所市富田の辺りで、JR和歌山線玉手駅から県道116号線を真南へ1kmほど行ったところ。

そして今から1850余年ほど前、最後に飛来したのがここ大鳥大社の鎮座地だったと由緒略記にはある。

その後、日本武尊の生まれ変わりである白鳥は全国各地に飛来した。

「大鳥」「鳳」「鷲」「白鳥」などの名を冠した神社は日本武尊が祭神。

こうした「大鳥信仰」の総本社がここ、大鳥大社だと言われている。

日本武尊の魂は稲の守り神、つまり「穀霊」として全国に広まっていったのだろう。

拝殿の裏手に回り、外から本殿を覗く。

だが、見えそうでいて意外と見えない。

玉垣の上から飛び出た屋根が覗ける程度だ。

本殿は拝殿に対して垂直に立ち、奥に長い。

図形で例えれば手前に長方形の短辺が向いている格好だ。

切妻造の妻入りで正面に昇殿用の階段が右側に設置された様式は「大鳥造」という。

出雲の大社造に酷似し、それに次ぐ古い形式を受け継いでいるそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]14

rj14大鳥4t033

今の三重県四日市市采女町あたりまで来た時、急な坂に遭遇。

非常に疲れたので杖を突きながら歩いたので、この坂の名が「杖衝坂(つえつきざか)」に。

さらに歩を進めるも足が浮腫んで三重にくびれた鏡餅みたいな状態になった。

なので、この地方は「三重」と呼ばれるようになり県名の由来になったという。

参道を直進した奥に鳥居と社殿が鎮座している。

しかし一之宮のそれにしては、ちょっと小さ目。

奥へ歩を進めると途中の左側に、大き目の鳥居が立っている。

こちらが大鳥神社の二ノ鳥居と社殿だった。

なお、奥に鎮座するのは摂社の大鳥美波比神社。

このように大鳥神社の境内は他所の一之宮の配置が当てはまらず、非常に分かりづらい。

二ノ鳥居も一ノ鳥居と同様の春日鳥居。

ところが、この二ノ鳥居の前まで乗用車が入り込み、堂々と駐車している。

ここは無法地帯か? と思いきや。

中からドライバーが出てきてブーンと去っていった。

単にお祓いを受けに来ただけの車らしい。

大きな神社には自動車専用の祓い所が設えてあるものだが、ここにはない。

それもあってか、なんとなく境内の雰囲気が全体的にユルい印象を受けた。

二ノ鳥居をくぐって拝殿へ。

屋根は瓦ではなく茅で葺かれており、千木と鰹木が据えられている。

その前に立ち、手を合わせ、日本武尊の生涯に思いを馳せてみる。

日本武尊は鈴鹿山脈の東側にある「能褒野(のぼの)」という土地まで来た時。

遠い故郷を偲んで歌を詠んだ。

嬢子の 床の辺に
(をとめの とこのべに)
我が置きし つるきの太刀 その太刀はや
(わがおきし つるきのたち そのたちはや)

美夜受比売と草薙剣に最後まで思いを馳せた辞世の句を残し、日本武尊は病没した。

その場所は現在の三重県亀山市、能褒野王塚古墳とされている。

隣に鎮座する加佐登神社は日本武尊の笠と杖を祀ってあるそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]13

rj13大鳥4tttl

そうして地方の反乱分子を鎮圧し、ようやく大和へ戻った日本武尊。

だがしかし休む間もなく、今度は東国征伐を命じられる。

自分が父から嫌われていると悟った日本武尊は東国へ向かう前に伊勢神宮へ立ち寄った。

そこで斎宮を務める叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)に号泣しながら窮状を直訴。

黙って聞いていた倭姫命は日本武尊が出立する直前、餞に草薙剣と謎の小袋を手渡す。

「窮地に陥った時、この小袋を開けなさい」

相武国で国造の騙し討ちに遭ったが、小袋に入っていた火打ち石のおかげで九死に一生を得。

返す刀で相武国造を成敗した…という逸話は相模国一之宮寒川神社のところでも触れた。

東国を平定して大和へ戻る途中、日本武尊は尾張国造の祖先である美夜受比売(みやずひめ)を娶る。

そして今度は伊服岐(いぶき)の山に跋扈する神を討ちに向かった。

伊服岐の山とは滋賀と岐阜の境にある伊吹山のこと。

この程度の相手なら素手で十分と、美夜受比売に草薙剣を預けたまま出立したのが命取り。

日本武尊は山の麓で牛ほども大きな白い猪と出くわす。

「こいつは山の神の使者だろうから、帰りがけに退治してやろう」

こう言って伊吹山に登った日本武尊を巨大な雹(ひょう)が直撃。

実はその猪こそ、伊吹山に跋扈する神そのものだったのだ。

激甚なダメージを喰らった日本武尊は、ほうほうの体で下山。

麓に湧く玉倉部の清水を口にし、ようやく正気を取り戻した。

故郷へ帰ろうと大和に向かう途中、美濃と伊勢の国境近辺まで来た時。

「普段から空を飛んで行きたい気持ちなのに、今じゃたぎたぎしくて足が前に進まない」

たぎたぎしいとは道がデコボコしているといった意味。

それでこの土地は「当芸(たぎ)」と呼ばれるようになったそうだ。

現在の岐阜県大垣市南部から養老町にかけてのあたりだろうか?

昔あった地名「多芸郡」とは、その名残だろう。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]12

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突き当りに参集殿と崇敬会館があり、左側が社殿へ続く参道だ。

途中、左側に瑞垣で囲まれた祓所を見かける。

その隣には我らがスーパーヒーロー、日本武尊命の像が聳立していた。

日本武尊は第十二代景行天皇の御子で、幼少時の名は小碓命(をうすのみこと)。

古事記によると、齢15~16にして兄の大碓命(おほうすのみこと)を格別の恨みもないのに八つ裂きにするほどの粗暴さを見せていた。

そんな小碓命に景行天皇は西国に跋扈する逆賊の征伐を命じる。

サイコパスっぽい性格を怖れたのか、都から追い払う意味もあったかも知れない。

しかも部隊を付けることもなく、与えた戦力はごくわずかな一団。

これでは小碓命を見殺しにするための命令と思われても仕方ない。

ところが、この絶望的な状況が逆に“戦術家”としての才能を目覚めさせることに。

日本武尊は熊曾建(くまそたける)兄弟を女装して騙し討つ奇策に出る。

そして目論見通り討ち果たすと、熊曾建は死ぬ直前こう小碓命に言った。

「あなたはヤマトの国で並ぶ者のない勇者だからヤマトタケルの名を捧げよう」

というわけで、この時から「ヤマトタケル」と呼ばれるようになったのだそうだ。

日本武尊は大和へ帰る途中、出雲国の出雲建(いずもたける)を討伐した。

それも互いに親友の誓いを立てた上、出雲建の刀を木刀とすり替えて斬殺。

こうした騙し討ちの手口に“卑怯”さを覚えないわけでもないが。

部族同士が丸ごと激突して大勢の死人が出ていた時代が終わりを告げ。

偉い人同士が戦って犠牲者が少なく済む時代に移行したと思えば。

日本武尊の“卑怯”さは逆に“知略”だと思えてくる。

源義経の“鵯越”や織田信長の“桶狭間”など小が大を制する戦術。

その原型は日本武尊に求められるのではないかと思えるほどだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]11

rj11大鳥4t023

一ノ鳥居は笠木に僅かな反りがあり、柱の内側への傾き(転び)がない。

木目をそのまま生かした形の春日鳥居。

もう一柱の主祭神、大鳥連祖神(おほとりむらじのみおやのかみ)は中臣氏→藤原氏と祖先を同じくする部族、大鳥連の先祖。

春日鳥居は最初に大鳥連が祀ったのが中臣氏の氏神、天児屋根命(あめのこやねのみこと)だったことの証か。

さらに遡れば、元々は大鳥連が信仰していた農耕神だったという説もある。

明治9(1876)年の官社祭神考証で大鳥大社の主祭神は大鳥連祖神だとされ、日本武尊は外されてしまった。

一方、日本武尊は地方の様々な伝承を、一人の皇族将軍の名の下に集約したのが定説となっている。

国家神道としては日本武尊の“武神”ぶりも魅力的だろうが、やはり存在がハッキリしている神を主祭神に据えるべきと判断したのだろう。

だが、これに歴代宮司は反発し、粘り強く抗議するも覆ることはなく。

明治19(1886)年に内務省社寺局長から発せられた通達で祭神の変更は確定した。

時代は下って昭和32(1957)年、ようやく日本武尊増祀の許可が降り。

同36(1961)年に日本武尊が復活し、以来二柱が並立して祀られることとなった。

鳥居をくぐって参道を奥へ進む。

境内には様々な樹叢が繁殖し、別名「千種の森」と呼ばれている。

由来は白鳥が飛来した際、一夜にして種々の樹木が繁ったという伝説から。

染井吉野や天の川といった桜や平戸つつじ、花菖蒲など、一年を通じて様々な花が咲く様子を楽しめるそうだ。

参道の突き当りに境内案内用の標識が立っている。

右は参集殿と崇敬会館、左は御本殿に祈祷書。

右に折れると絵馬堂があった。

といっても受験や恋愛事など即物的な願望の絵馬を掛ける場所ではなく。

太神楽など戦前に奉納された巨大な額が数多く掲げられている。

ここが和泉国一帯の産土神だったことを強く感じさせてくれる空間だ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]10

rj10大鳥4t022

西口から出て小径を北へ向かう。

駅前なのに、どこか町並みが地味。

たぶん繁華街と反対側に出たからだろう。

途中、小学校から賑やかなアナウンスが聞こえてきた。

どうやら運動会をしているらしい。

春に運動会とは珍しいと思う一方、今日が快晴で良かったと思う。

その先に大鳥大社の境内が見えてきた。

ちょうど角に当たる部所に社号標が立っていた。

そこには「官幣大社大鳥神社」と刻まれている。

実は「大鳥神社」こそ正式な名称で、「大鳥大社」とは摂社を合わせた総称との説もある。

瑞垣越しに緑あふれる境内を右手に見つつ、先へ進むうち正門に到着した。

そこへ一台の車が寄ってきて鳥居の前に駐車。

一人の男が降りてきて境内に消えていった。

ナンバープレートを見れば「所沢」と記されている。

自家用車で一之宮巡りをしているのだろうか?

というか自家用車で巡礼するほうが一般的なんだろうけど。

個人的には、自家用車で一之宮を巡るのは営業車で得意先を回ると何ら変わらないように思える。

ある程度の“束縛”がないと、巡礼に有り難みは生まれてこないのではなかろうか?

まぁ、他人がどのようなスタイルで巡礼しようと、それはその人の自由には違いないが。

大鳥大社の主祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)。

日本武尊とは日本書紀の呼称で、古事記だと倭建命とある。

ここは由緒略記に従い日本武尊で通すことにしよう。

大鳥大社は元来、日本武尊の魂が白鳥となって飛来したという伝説に基いて創建された神社。

その時期は天武天皇から元明天皇の時代と推測されている。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[大鳥大社]09

rj09大鳥4t021

宿泊したホテルで災難に近いほど不愉快な目に遭ったので、験直しに堺の町へ飲みに出た。

堺市の繁華街は堺駅近辺ではなく南海高野線堺東駅近辺。

堺市と堺東駅は「大小路(おおしょうじ)」という通りで結ばれている。

自由都市時代から存在し、当時は大小路を境に北が摂津国、南が和泉国に分かれていた。

文字通り「堺」の町の由来ともなった歴史的に由緒ある道である。

堺東駅前の商店街にある立ち飲み屋に入ったところまでは覚えているのだが。

その後どんな店で飲んだのか、生憎と記憶がない。

覚えていたら飲み食いした店の記録を書き綴るのだが。

何軒かハシゴした覚えはあるものの、なにせ痛飲の度が過ぎた。

酔いに任せて堺東駅近辺から、家康の手による碁盤の目の街をフラフラ彷徨い歩く。

そのうち「天神センター街」という狭くて怪しげなアーケード街に行き当たった。

一軒のバーに入った記憶は朧げに残っているが、なにぶん詳細は不明。

たまたま写真を撮影していたので後から思い出せたほどの酩酊ぶり。

ようやくホテルにたどり着いたのは午前3時近かった。

翌朝、起床して即オレンジジュースを一気飲み。

さすがに二日酔いで食欲が湧かないが、それでもラウンジで新聞を読みながら朝食。

つい5~6時間前まで飲み続けていた割には、それほど二日酔いは酷くなさそうだ。

ホテルを出て堺駅から南海電車に乗り、昨日のルートを逆にたどる。

羽衣駅で下車して再びテクテク歩き、JR東羽衣駅で“羽衣線”に乗り換え。

昨日見た風景を巻き戻すかのように鳳駅へ到着。

ちなみに駅名のアナウンスは昔いた漫才師の故・鳳啓助の「お→お→と→り→」ではなく。

今いる漫才コンビのオードリーみたいな「お↑お→と→り↓」っぽいイントネーション。

中学校の卒業式なのだろうか、ホームでは母娘連れの姿を数多く見かけた。

年度末ならではの光景というべきか。

[旅行日:2014年3月18~19日]

一巡せしもの[大鳥大社]08

rj08大鳥4t015

遥拝所を辞し、JR阪和線上野芝駅へ10分ほどブラブラ歩く。

そして歩きながら改めて考えてみる。

巨大歴史的建造物と隣合って暮らす気分、いかほどのものだろう。

水木しげるの漫画の影響からか、墓場と聞けば反射的に恐怖感しか浮かばない。

しかし、ここまで墓も巨大だと恐怖より畏怖の念しか湧いてこなくなる。

そもそも墓と祟りは、あまり関係ないらしい。

多くの人々から念を集める神を粗略に扱うと荒御魂が暴れ出して祟りが起こる。

人間の関係性が一対多の神社だからこそ、祟りとして多くの人々に災いをもたらすのだ。

一方、墓陵と人間の関係性は個対個であり、祟りなど起きようもない。

霊感商法の方々の常套句は「祖先を粗末に扱ったから祟られている」とか。

「今の禍いは何代前の誰それが祟っているせい」などと言う。

今現在生きている子孫に祖先が祟って災禍に引き込むことなど、現実に起こり得るのだろうか?

確かに現実社会では親が子を殺したり、子が親を、孫が祖父母を殺める事件が起こってはいる。

でもそれは、あくまでも特殊な例に過ぎない。

死んだ後まで生きている子孫にわざわざ災禍を及ぼす祖先など、いるわけがない。

霊感商法の戯言に惑わされる人のほうが、よほど祖先を冒涜しているように思える。

上野芝は都市近郊型の通勤通学駅で、百舌鳥古墳巡りの玄関口っぽさはない。

和歌山方面行きの電車に乗っていると、鳳駅の手前で車窓から「大鳥大社」と大書きされた看板を見かけた。

その鳳駅で電車を降りる。

和泉国一之宮大鳥大社の最寄り駅は文字通り、ここ鳳駅なのだ。

しかし既に日が暮れかけているので参拝は明日にする。

阪和線支線、通称“羽衣線”に乗り換え終点の東羽衣駅へ。

たったひと駅間の運行距離は1.7kmで、所要時間は僅か3分。

これはJR旅客6社の中で運転区間が最も短いうちのひとつ。

東羽衣駅から歩いて数分の南海本線羽衣駅までトコトコ歩く。

南海線は高架化の工事中で、羽衣駅も新駅舎を建設中だった。

線路沿いの路地然とした小径には小さな商店が軒を連ね、味わい深い風情を醸している。

羽衣駅から電車に乗り、11分ほどで堺駅に到着。

この夜は駅に隣接するホテルに投宿した。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大鳥大社]07

rj07大鳥4t014

西側の堀端を歩くうち、南西の角に到達。

陵丘の周囲には一重の盾形周濠と堤が巡らされている。

大仙陵と異なり歩道と陵丘の間に木立がなく、とても見晴らしが良い。

平成6(1994)年には幅10mほどのニ重目の周濠が発見されたそうだ。

しかし水を湛えているわけではなく、歩道からは一重の堀にしか見えない。

履中陵は大仙陵に比べてひとまわり小さく、なんとなく身近な感じがする。

それでも大きさでは日本第3位の規模。

なにぶん大仙陵が大き過ぎるから、比べれば小さく見えるのだろう。

墳丘の規模は全長約365m、後円部径205m、高さ約27.6m、前方部幅約235m、高さ約25.3m。

大仙陵と同じ3段築成で、造出しは西側のくびれ部だけに存在している。

履中陵の南側の縁は民有地で遊歩道になっておらず、堀の脇を歩くことは出来ない。

両側を民家で挟まれた細い路地を歩きつつ、正面遥拝所に向かう。

履中陵の遥拝所は大仙陵より小規模だが、鳥居から陵丘までの距離が近いのでインティメートな雰囲気がする。

主体部の構造や副葬品などは不明だが、葺石と埴輪の存在は確認されている。

江戸時代の記録には後円部中央に大きな窪みの存在が伝わっており、既に盗掘を受けた可能性もあるそうだ。

かつては10基ほどの陪塚を従えていたが、現在は七観音古墳と寺山南山古墳の2基が残るのみ。

陵丘の形状や出土した埴輪、陪塚の出土品などから、5世紀前半頃に築造されたことが判明。

築造時期は5世紀後半の大仙陵より古く、仁徳天皇の後が履中天皇という在位順とも矛盾していることに。

実際に誰が葬られているのかより、ここが誰の陵墓かという「看板」を護ることが大切なのだろう。


[旅行日:2014年3月18日]
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