2014年11月

一巡せしもの[大鳥大社]06

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「自由都市時代の遺構では、掘割が今でも残ってます」

堺は西側が海に面し、東南北が堀で囲まれた環濠都市。

この堀は土居川(どいがわ)と呼ばれているそうだ。

「穴場スポットは市役所21階にある無料展望ロビーですね」

夜9時まで開いており、工業地帯の夜景がキレイとのこと。

こうした情報は地元に足を運ばないと、なかなか耳に入らないものだ。

ガイドさんに礼を述べ、職員の皆さんに見送られつつ観光案内所を後にする。

大仙公園を突っ切り、履中天皇陵古墳へ。

大仙公園は「日本の歴史公園100選」のひとつ。

公園内には堺市博物館、日本庭園、堺市茶室(伸庵/黄梅庵)などがある。

茶室といっても市営なので気軽に抹茶を楽しめる施設とのこと。

しかし日も暮れかけて全て閉館しており、いずれにも寄らずに通り抜ける。

大仙公園を出ると履中天皇陵の後円墳部分の先端が姿を見せた。

履中陵は前方部を南に向けた巨大な前方後円墳。

円の先端から右へ曲がり、外周をなぞるように南側へと進む。

すると陵墓と道を挟んだ向かい側に大層立派な和風建築の民家を発見。

玄関に大きな表札が掲げられている。

どんな人が住んでいるのか興味を惹かれて見たところ、表札ではなく「シマノ記念館」という看板。

ここはシマノ創業者、島野庄三郎の生家を記念館として保存している。

しかし記念館といっても博物館ではなく、原則として非公開。

あくまでも文字通り“記念”館として保存してあるだけの様子だ。

その代わりというか、大仙公園の北西部に「自転車博物館サイクルセンター」が隣接している。

堺の自転車産業の歴史を展示した日本唯一の自転車博物館である。

堺は戦国時代から鉄砲の一大生産地。

そこで蓄積された鍛冶の技術が後に自転車製造に生かされることとなった。

シマノ記念館の左隣りから西へ一直線に延びる道を進めばシマノの本社に至る。

シマノは自転車部品や釣具のリールなどを製造している精密機械会社。

特に自転車のパーツメーカーとしては世界最大の企業である。

「ツール・ド・フランス」など耐久レースの中継を見ていると、ほとんどの競技用自転車に「SHIMANO」のロゴが垣間見える。


[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大鳥大社]05

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「堺は大阪の陣で焼け野原になったので、秀吉時代の町並みは残っていないんです」

案内書に着くと中では数名の職員が勤務中で、堺の歴史について色々と教えてくれた。

「堺は天領で家康が碁盤の目のように町割りしたんです。今の堺は家康が作ったんですよ」

どうやら家康は相当な堺贔屓だったようだ。

家康嫌いの大阪とは対照的に、堺は家康好きの町に見える。

「南宗寺(なんしゅうじ)には家康の墓まであるんですよ、ぜひご覧になって下さい」

その話は歴史のミステリーとして小耳に挟んだことがある。

今から丁度400年前の慶長20(1615)年、大阪夏の陣で家康は真田幸村から強烈な痛手を喰らった。

『南宗寺史』には、
こう記されているそうだ。

家康が大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れ駕籠で逃げる途中、後藤又兵衛の槍に突かれた。
辛くも堺まで落ち延びたが、駕籠を開けてみると既に事切れていた。
遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した。


後藤又兵衛は黒田如水の家臣で、如水の死後に当主の長政と対立して黒田家から出奔。

長政の手配によりどこの家からも召し抱えられることのないまま、大阪夏の陣で真田幸村の元に馳せ参じたという。

また、家康は本能寺の変の折にも堺に滞在していた。

決死の脱出劇を敢行し、伊賀の地を抜けて三河へと戻ったのは有名な逸話。

この折に家康、実は明智光秀の刺客に討ち取られていたのでは? との説もある。

死は極秘に処され、伊賀を抜ける間に影武者とすり替わった…という内容。

もしこれが本当だとしたら家康は堺で2度死に、2度生き返った(?)ことになる。

イエス・キリストですら1度しか“復活”していないのに。

家康はイエスをも凌駕したのだろうか?

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大鳥大社]04

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三国ヶ丘駅から1km以上歩き、ようやく正面に到着。

ここには清廉かつ厳粛な雰囲気に包まれた遥拝所がある。

その近くに人影が見えた。

中年女性のボランティアガイドさん。

話しかけてきたので暫し立ち話をする。

「仁徳天皇陵にはね、ときどき出るんですよ…狸が!」

これほど大きな森なら狸や狐の一匹や二匹姿を見せても不思議じゃないですよね…と答える。

それより、ガイドさんが大仙陵古墳ではなく仁徳天皇陵と言い続けていることが気になった。

たとえ学術的には「大仙陵古墳」となっても、堺の市民感覚では依然「仁徳天皇陵」なのだ。

正面にある鳥居の前に立つ。

「堀が三重に掘られていますが、入れるのは一番外の堤までです」

自然災害による損傷の調査などで中に立ち入ることはあるという。

「しかし2番目の堀から中へは入れません。今上陛下でもです」

天皇陛下が参詣される際も、全ての堀を超えて奥深くまで入ることはない。

それはそうだろう、何百年も手が入っていない原生林なのだ。

どんな動物が棲息しているか分かったものではなく、危険極まりない。

「現在、堺市では仁徳天皇陵を世界遺産に登録するよう申請してるんですよ」

しかし、誰が埋葬されているのか分からない陵墓が世界遺産に認められるものだろうか。

宮内庁が大仙陵の発掘調査を一切認めていない以上、難しいような気もする。

それより、世界自然遺産として申請したほうが、より可能性が高いかもしれない。

つまり。世界文化遺産として認められた富士山とは真逆の手法で。

そろそろ業務時間が終了とのこと。

ガイドさんも大仙公園内にある観光案内所へ戻るという。

そこで彼女と一緒に付いて行くことにした。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大鳥大社]03

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堀の内側にある森の中には、未だ見たことのない「お宝」の数々が潜んでいる。

実は大仙陵、江戸時代の中頃まで十分な管理が施されていなかったという。

そうした惨状を憂いた時の堺奉行川村修就(ながたか)が嘉永6(1853)年、整備に乗り出す。

まず後円部上にあった勤番所を裏門へ移設し、天皇を埋葬したと伝わる後円部200坪に高さ3尺(約9m強)の石柵を設置した。

明治5(1872)年9月には前方部部正面第2段の上が崩れ、竪穴式の石室に収められた長持形石棺が露出。

また、石室面の間から金銅製の刀剣や甲冑の断片20個、ガラス製の壺と皿が出土した。

これらは埋め戻されたと伝わるが、石棺や甲冑は精密に写した絵図が残っているそうだ。

米ボストン美術館には出土品と伝わる「細線文獣帯鏡」や「単鳳環頭太刀」などが所蔵されている。

どういう経緯で流出したのかは良く分からない。

そもそも大仙陵から出土したものかどうかも不確かなのだとか。

一方、昭和30年代と最近の調査では須恵器の甕が出土。

古墳が造られた年代を知る貴重な資料として話題になった。

大仙陵は日本最大の前方後円墳にふさわしく、周囲に陪塚(ばいちょう)と考えられる古墳が10基以上ある。

だが塚廻古墳を除き、主体部の構造や副葬品が分かっている古墳はほとんどない。

ここ大仙陵も4世紀前半に没したという「古事記」の記述と、5世紀後半の建造時期が合致していない。

山川出版社の日本史教科書にも、学術的には「大仙陵古墳」と呼び「仁徳天皇陵」は使われない…と記載されている。

では一体誰の墓なのだろう?

今のところ、東アジア世界に進出した「倭の五王」の中の一人を葬った墓といわれている。

倭の五王とは中国の六朝時代の史書「宋書」「南斉書」「梁書」などに記された、倭国の讃・珍・済・興・武の5人の王を指す。

だが、具体的に誰のことを意味しているのかは諸説あり特定されていない。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大鳥大社]02

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路地は左側から来た車道と合流し、車がすれ違えるほどの広さになった。

大仙陵の外周は2.8kmの周遊路として整備されている。

今歩いている東側の道、路面は石畳だが車道と歩道が未分離の一般道。

南側前方部と西側には遊歩道、南側の車道には桜並木が設えられている。

途中、車道側から内部へ入るのを妨げるべく築かれた壁を発見。

内部への立ち入りは禁止されているが、巨大さは堀の外からでも存分に味わえる。

ちょうど南東の角まで来た。

大仙陵を南北に長い長方形に見立てれば、東側の長辺を歩ききったことになるわけだ。

今から1700年ほど前の西暦3世紀から7世紀にかけての約400年間は「古墳時代」と呼ばれている。

大王や豪族が亡くなると土と石を高く盛った大きな墓「古墳」が造られていたからだが。

全国に20万基以上あるとされるそれら古墳の中でも大仙陵は日本最大。

日本どころかクフ王のピラミッドや秦の始皇帝陵よりも大きく、両者とともに世界三大墳墓の一つに数えられている。

その昔、学習雑誌に「ピサの斜塔」や「万里の長城」などとともに「世界三大不思議建築物」と紹介されていたことを思い出す。

角を曲がって南側の遊歩道を歩く。

大仙陵は5世紀の中ごろ、約20年をかけて築造されたと推定されている。

上空から見ると円と四角を合体させた「前方後円墳」という日本独自の形をしている。

また、合体部分の左右のくびれには造出(つくりだ)しという壇状の施設がある。

三段に築造された墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約35.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9m。

周囲には水を湛えた濠が三重に巡らされ、陵域は濠を含めて47万平方mと甲子園球場が12個も入る広さ。

ちなみに現在の外濠は明治時代に掘り直されたものだという。

墳丘に並べる葺石(ふきいし)の運搬、2万個以上に及ぶという埴輪の調達など、造営には莫大な労力が費やされた。

毎日2000人が働いても15年以上かかる計算というから驚きだ。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大鳥大社]01

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枚岡駅から乗車した近鉄電車は布施駅から大阪線に入り、難波線を経て大阪難波駅に到着。

ビジネスパーソンとショッピング客でごった返すミナミの地下街を南海難波駅まで歩く。

乗車した高野線の準急電車は、まだ帰宅ラッシュの時間までは間があるせいか閑散としていた。

三国ヶ丘駅で下車すると駅舎は工事中で出口が良く分からない。

当てずっぽうで出てみたら逆方向の出口だったらしく、反対側へグルリと周り込む。

国道310号線(高野街道)を歩いてJR阪和線を跨ぎ、少し進むと左側に突然その入口が現れた。

こんもりとした森に沿う形で、細い路地が左手の奥へと続いている。

標識も看板もないこの路地に向かって歩を進めた。

道の右側は黒い柵で仕切られ、内側には灌木が生い茂り、その奥では堀が水を湛えている。

更にその向こう側には、どこまで続くのか端が見えないほど巨大な森が果てしなく横たわっている。

ここは「大仙陵古墳」、個人的には「仁徳(にんとく)天皇陵」のほうが耳に馴染む。

宮内庁による正式な名称は「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」。

北側の反正(はんぜい)天皇陵古墳、南側の履中(りちゅう)天皇陵古墳とともに「百舌鳥耳原三陵」を形成している。

御陵名の由来が日本書紀に記してある。

仁徳天皇67年の冬10月5日、河内国の石津原に行幸して陵地を定め、同月18日から工事を開始。

そんなある日、野原から走ってきた一頭の鹿が工事現場に乱入しパタンと倒れた。

人夫たちが鹿を調べたところ、その耳の中から一羽の百舌鳥が飛び去って行った。

見てみると内部が百舌鳥に食い散らかされていたという。

それが「百舌鳥耳原」と呼ばれるようになった由縁だそうだ。

それから20年後の87年に仁徳天皇は崩御し、ここに葬られた。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]12

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そして紀州路熊野から吉野を抜け、日輪を背負って大和国へ進むことを決意。

この時、作戦の成功を祈願して祀られたのが霊地神津嶽の二神だったわけだ。

東征軍は盾をズラリと並べて雄叫びを挙げつつ、敵に悟られないよう撤退していった。

そこで、この地が「盾津」と呼ばれるようになったとある。

現在この地名は存在しないが、日下町の西側に「盾津」を冠した中学校が2校ある。

この「盾津」神話に基づいた校名なのだろうか?

ただ日本書紀や古事記に記載されている地名が、現在ある地名に直結しているとは毛頭思ってはいないが。

二ノ鳥居を出て右手の方角を見れば奥に大きな鳥居が立っている。

昭和15(1940)年、皇紀2600年を記念して新築された石鳥居だ。

皇紀とは神武天皇が即位した年を基準とした日本独自の暦。

鳥居自体は何の変哲もないごく普通の明神鳥居なのだが。

枚岡神社と神武天皇の関わりを考えると存在の重さが伝わってくる。

石段を降りて注連縄掛柱の間を通ると目の前に近鉄枚岡駅がある。

これまで訪れた中で駅から最も近い一之宮なのは間違いない。

周囲は市街地化が進んでいるが、社域は侵食されることなく昔ながらの姿を留めている。

背後に広がる生駒山という自然と、眼前に広がる大阪のベッドタウン。

その端間で息づく太古からの神域。

この先、生駒山が都市化に侵食されていっても、枚岡神社は今の姿を保ち続けて欲しい。

そんなことを祈りつつ難波行きの近鉄電車に乗り込んだ。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]11

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日本書紀によると即位3年前の2月11日、神武天皇は吉備国を出立して海路を東進。

陸地が近づくと潮の流れが速かったので、この地を「浪速(なみはや)」と命名。

浪速は浪花(なみはな)とも呼ばれ、やがて「難波(なにわ)」へと変化していった。

東征軍は川を遡り、草香(くさか)村にある白肩(しらかた)の港に上陸。

草香村とはここから北へ2キロほどのところにある東大阪市日下町の辺りか。

当初は生駒山南の竜田を超えて大和国へ入ろうとしたものの地形が険しく断念。

草香村に戻った東征軍、今度は生駒山越えを目論むことに。

それを察知した登美の豪族、長髄彦(ながすねひこ)は侵入を阻止しようと動く。

生駒山を挟んだ奈良側には登美ケ丘や富雄(とみお)という地名がある。

この一帯が長髄彦の縄張りだったのだろう。

長髄彦は大軍を組織して孔舎衛(くさえ)の坂に布陣し、東征軍に襲いかかった。

孔舎衛という地名は存在しないが、孔舎衙(くさか)を冠した学校なら日下町内に存在する。

この僅かな違いには日本書紀の編者が孔舎衙を孔舎衛と誤記した説もあるそうだ。

両軍の戦闘は激烈を極め、兄君五瀬命(いつせのみこと)が流れ矢で負傷するなど東征軍は大打撃を食らった。

「天照大御神の子孫なのに東へ向かい太陽に面して敵を討つのは天の道に外れている」

そう悟った神武天皇は草香村から撤退し、敗走するとカムフラージュする作戦を取る。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]10

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枚岡梅園から再び拝殿の前へ戻ると、往路の参道とは別に、左下へ細い階段が続いている。

降りて行くと、その先に禊場があった。

手前に白木の板で建てられた小さな小屋が立ち、奥には注連縄が設えられた白木の高い塀。

塀の上からはうず高く積まれた石垣が覗け、てっぺんから水が濤々と流れ落ちている。

ここは参拝前に心身を清めるためのお滝場なのだ。

小屋にはドアがあり、ここからお滝場へ向かうのだろう。

ノブを回してみると施錠されておらず、誰でも自由に入れる様子。

この小屋はお滝場へ入る前の脱衣所だった。

衣服を脱ぐことナシで、お滝場の中へ入ってみる。

10メートルは軽くあるだろうか。

スベスベした石の床に向かって、大量の水が相当な高さから落ちている。

中門と透き塀の向こう側、本殿の前に「照沢池(てるさわのいけ)」という神池がある。

神の坐森から湧出する聖水が伏流水として出雲井や照沢池へ湧き出し、その水を禊場へ引いているわけだ。

水道の蛇口を開けっ放しにしているわけではなかろうから、それぐらい自然水が豊富だということか。

照沢池の水面は日光を鏡のように反射し、透き塀の内側すみずみに至るまでキラキラと照らし出しているという。

第2殿に祀られている后神の名「あめのみづたまてるひめのみこと」は、天から差す日の光が水面に照り映えている様子に由来しているという説もあるほどだ。

禊場から参道広場へ戻り、今度は社殿を背にして表参道の方角を眺めてみる。

枚岡神社は神武東征の折、天種子命が霊地神津嶽に天児屋根命と比売御神を祀ったのが起源だと述べた。

高千穂の宮にいた神武天皇は今いる場所が西に偏り過ぎているからと東方へ遠征する。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]09

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遥拝所の右側には摂社の若宮社が鎮座している。

祭神は天児屋根命と比売御神の間に生まれた御子、天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)。

天児屋根命に命じられて「天の二上」(奈良県と大阪府の境にある二上山のこと)に登り、皇御孫尊(すめみまのみこと=天孫瓊々杵命のこと)に捧げる御膳水(みけつみず)を汲んできた神と伝わる。

水と関係のある神様ゆえ、社殿の左奥には古くから神聖な水が湧き続ける井戸「出雲井」(いずもい)がある。

枚岡神社の鎮座地名「出雲井町」は出雲大社と関係なく、この井戸の名称に由来するものと考えられている。

社家のひとつ「水走」姓には「水利権の管理人」という意味があるそうだ。

霊地神津嶽の遷宮先が、なぜこの場所だったのか?

それは出雲井が存在したからであり、古来からの霊泉信仰と密接な関わりがあるものと思われる。

若宮社の右隣りには天神地祇社が鎮座している。

文字通り天津神と国津神が祀られた末社。

もともと境内にあった19の末社と近郷で氏神として祀られていた10数の神社が、明治5(1872)年に合祀されたものだ。

遥拝所から摂社末社を経て奥へ延びるこの細道は、石橋を渡ると左手に折れて「巽参道」と名を変える。

巽参道は梅林「枚岡梅園」を南北に貫通し、神津嶽山頂の本宮へと至っている。

神仏混淆時代ここには数多くの神宮寺が存在したそう。

しかし、明治政府の神仏分離令により、すべて廃寺に。

その跡地に梅の木を少しずつ植えたのが枚岡梅林の始まり。

参道の東側は「宝基の森」と称される「神の坐(います)森」。

人が神と出会い、心を映し、祈りを捧げる神聖な場所という。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]08

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拝殿に向かって左側へ足を運び、廊下越しに拝殿の奥を覗いてみる。

そこには御神木と神饌所(御釜殿)があるはずなのだが、その姿を覗うことは出来ない。

神饌所は文字通り「神饌」、つまり神様にお供えする食事を調理する建物のこと。

ここでは毎年1月11日に神事「粥占神事(かゆうらしんじ)」が行われる。

粥占神事とは古式ゆかしき伝統的な作法に則り調理された小豆粥で、作物の豊凶や一年の天候を占うもので、大阪府無形民族文化財にも指定されている。

まず火鑚杵(ひきりきね)で竈の火を起こし、大釜で小豆3升と米5升の小豆粥を炊く。

その際、竈の火の中へ入れた占木12本の焼け具合により一年の各月の天候を占う。

一方、粥の中には長さ15㎝の占竹(竹筒)53本を束にして沈めて、竹筒に詰まった粥の量で53種類の農作物の豊凶を占う。

粥占神事は非公開で結果は15日の小正月に行われる「粥占奉賽祭」に占記として頒布されるそうだ。

左側の突き当りには「鶏鳴殿」という社務所が立っている。

ここで御朱印を賜るのだが、社務所以外にも祈祷や結婚式の控室、会食会場としても利用されている。

「だから拝殿と廊下でつながっていたのか」と納得した。

「鶏鳴殿」に背を向け、今度は拝殿に向かって右へと続く細い道の奥に行く。

手前に注連縄で囲まれた細い連理の榊が生えている。

ここは創祀の地、霊地神津嶽本宮を仰ぎ見る遥拝所。

本宮は古くから柵で囲まれた禁足地だった。

その禁が解かれたのは昭和56(1981)年の石碑建立。

平成5(1993)年には石造りの社殿が築かれている。

神津嶽の周囲には数多の古代祭祀跡と思われる遺跡が存在している。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]07

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第1殿は天児屋根命、第2殿は比売御神(ひめみかみ)。

ただ比売御神とは特定の神様を指す名称ではなく、主祭神の妻や娘、関係の深い女神を指す一般的な名称。

枚岡神社に祀られている比売御神については諸説あるそうだが、実際の后神である天美豆玉照比売命(あめのみづたまてるひめのみこと)と伝わっている。

現在の本殿は文政9(1826)年、氏子の奉納により造営されたもの。

それ以前の記録となると天喜4(1056)年と宝治元(1247)年に焼亡し、その都度再建。

文明9(1477)年にも氏子の奉納で造営されたと「御神徳記」に記されている。

戦国時代に入ると天正7(1579)年9月に織田信長の兵火で本殿以下の社殿群が焼失したものの、慶長7(1602)年に豊臣秀頼が社殿を造営して再建。

ところが江戸時代に入ると徳川幕府からの崇敬が薄れて衰退を余儀なくされる。

本殿を秀頼が造営したことから豊臣家と懇意にあるとでも睨まれたのだろうか?

新たに造営されたのは時代が200年以上も下った文政9年、徳川十一代将軍家斉の御世のことだった。

直近では平成元(1989)年から3年間に亘る「平成の大修造」を経て現在の姿に。

さて本殿の第3殿と第4殿には、それぞれ経津主命(ふつぬしのみこと)と武甕槌命(たけみかづちのみこと)が祀られている。

経津主命は下総一宮香取神宮、武甕槌命は常陸一宮鹿島神宮それぞれの祭神で、両神宮を参詣した折に触れた。

下総国から常陸国にかけての“常総地方”は大化の改新でおなじみ中臣鎌足の出生地と伝わっている。

中臣鎌足が後に藤原鎌足になったと歴史の教科書で学んだことから、中臣氏がそっくりそのまま藤原氏に移行したような印象がある。

しかし藤原氏は中臣氏の中における一氏族に過ぎず、しかも都から遠く離れた常陸国から勃興した傍流と言われている。

蘇我氏と物部氏の争いに中臣氏の嫡流が巻き込まれて没落し、そこへ鎌足の祖父が入り込み嫡流の座を奪取。

さらに鎌足の代になって藤原姓を名乗り、大化の改新を共に成就した中大兄皇子こと天智天皇の側近としての立場を足がかりに朝廷内で確固たる地位を構築していくわけだ。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]06

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主祭神は先述の通り天児屋根命。

天兒屋命、天之子八根命、天子屋根命とも表記される。

言霊の神である居々登魂命(こごとむすびのみこと)の子。

卜占(ぼくせん)を司る祝詞(のりと)の神である。

天照大御神が引き篭もった天岩屋戸の前で、天児屋根命は太玉命(ふとだまのみこと)とともに祭事を執り行った。

閉ざされた岩戸の前で天太玉命が勾玉と鏡と幣を付けた太玉串を捧げ持ち、天児屋根命が太祝詞を朗々と唱える。

これが歴史上初の神事であることから、天児屋根命は「神事宗源(しんじそうげん)」の神と称えられている。

また、天孫降臨の際には瓊々杵尊(ににぎのみこと)に従事した神々の中で特に重責を担った。

天照大御神からは天孫の防護を、高皇産霊神(たかみむすひのかみ)からは降り立った地に神を斎(いわ)ひ祀るよう、それぞれ命じられる。

その重責を果たしたことから「天孫輔弼(てんそんほひつ)」の神とも称えられている。

枚岡神社の入り口に立つ注連縄掛柱に刻まれていた「神事宗源」「天孫輔弼」は、ここに由来するわけだ。

拝殿と本殿の間は中門で隔てられ、そこから左右に透き塀が延びている。

中門は明治12(1879)年の改築後、同38(1905)年に現在の場所へ移設された。

戦後、昭和26(1951)年と平成3(1991)年に修復され、現在に至っている。

透き塀から中を覗くと、同じ形をした本殿が4棟、横に並んでいる。

極彩色の社殿が並列に配置された建築様式は「枚岡造(王子造)」。

春日造りとも似ているが枚岡神社独自の様式で、東大阪市文化財に指定されている。

本殿が4棟あるということは祭神が4柱あることを意味している。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]05

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枚岡神社の社家は水走(みずはや)と鳥居(とりい)の二家。

東大阪市内、神社の西方に有名な花園ラグビー場が立っているのだが、その北側にある地名「水走(みずはい)」は水走家に由来しているそうだ。

ならば鳥居家のほうは一ノ鳥居のところで登場した鳥居町と関係しているのか?

両家の祖先は神武天皇東征軍の一部が当地に留まった者。

天児屋根命を祖とする者が代々祀職に就き、祭祀を司ってきた。

この一族は「平岡連(ひらおかむらじ)」と呼ばれた。

後に中臣氏、ひいては藤原氏へと続いていく。

参道広場では毎年12月25日に有名な神事「注連縄掛神事」が行われる。

別名「お笑い神事」とも呼ばれる、東大阪市の無形民俗文化財だ。

まず早朝、新調された注連縄が注連縄掛柱に張り渡される。

それが終わると今度は注連縄掛柱の前に宮司、神職、総代、氏子が勢揃い。

そして一斉に「ワッハッハ」と高笑して新春を迎える、前祝い。

その様は天照大御神の「天の岩屋神話」を思い起こさせるという。

注連縄掛柱をくぐると目の前に御祓川(夏見川)が流れ、行き合い橋が掛かっている。

その手前両側に神鹿の石像が鎮座している。

他の神社でいうところの「狛犬」に当たるものか。

元春日だけに神使(しんし)が鹿なのも頷ける。

石段を登ると拝殿が姿を見せる。

現在の拝殿は明治12(1879)年に新築されたもの。

屋根は平成の修造で檜皮葺きから銅板葺きに葺き替えられている。

扁額の揮毫は社号標と同じ三條實美公の手によるものだ。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]04

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二ノ鳥居の右手前に立つ社号標、揮毫は維新の元勲三条実美公。

枚岡神社、古くは「枚岡社」「枚岡大明神」「平岡社」「平岡大明神」などと呼ばれた時代もあったそうだ。

もうひとつの起源は「社地より南方は概ね平坦にして小高き岡なりしが故称せし」。

つまりここから南は平地で、鎮座地が小高い岡みたいだからという説。

この「平」が「枚」に読み違えられ「一枚(ひとひら)の岡」が地名として定着。

そのまま社名になったと伝わっている。

二ノ鳥居をくぐって参道を奥へ進む。

両脇に高い木々がなく、明るく見通しのいい参道だ。

霊地神津嶽に長らく祀られてきた主祭神が山麓の現地へ奉遷されたのは、孝徳天皇御世の白雉(はくち)元(650)年9月16日のこと。

それから百年と少し後の神護景雲(じんごけいうん)2(768)年、主祭神の天児屋根命と比売御神が遥か大和国へ来臨し、春日神社に祀られた。

これが枚岡神社を「元春日(もとかすが)」と呼ぶ由縁。

さらに宝亀(ほうき)9(778)年、今度は春日神社から枚岡神社へ武甕槌命と斎主命が来臨し、配祀して主祭神は四殿に。

参道を突き当たると右側に手水所がある。

ただし手水舎のような屋根はない。

金網に囲まれた噴水口から剥き出しの岩の上へ三条の水が流れ落ちている。

金網の中を覗き込むと、そこには立派な青銅製の神鹿像。

立派な角を生やした神鹿の口から左右に水が流れている。

それを受け止める竹樋に空いた3つの穴から水が滴り落ちる仕組み。

柄杓に受けた水を左手に受け口に含むと、口腔が清冽な刺激で満たされた。

手水所の前は「参道広場」という楕円形の広いスペースになっている。

手水所から右を向くと、参集所と斎館が並んで立っている。

左側の参集所は昭和11(1936)年に改築、右側の斎館は昭和10(1935)年に竣工した建物。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]03

rj03枚岡4t07

改札口から緩やかな勾配を上り、階段を上がる。

階段の手前には旧社号標が立っていた。

そこには「元春日平岡大社」と刻字されている。

枚岡神社は春日大社の勧請元のため、元春日の別称がある。

このため神紋は春日大社と同じ「下がり藤」。

「平岡」とは古代の有力氏族だった中臣氏の支族である平岡氏が祖先を祀ったことに由来している。

階段を上がると注連縄掛柱が立っている。

大正11(1922)年に奉納されたもので、見るからに歴史を感じる。

両側の石柱には枚岡神社の御神徳を表す「神事宗源」「天孫輔弼」の文字が刻まれている。

それぞれの意味は主祭神、天児屋根命(あめのこやねのみこと)の由緒と密接に関わっている。

階段を登り切り注連縄掛柱をくぐると、すぐそこが枚岡神社の門前。

中央の二ノ鳥居は両脇に石灯籠を従え、右手前に社号標が聳立している。

創建は神武天皇即位の3年前。

神武東征の折、勅命を奉じた天種子命(あめのたねこのみこと)が天児屋根命と后神の比売御神(ひめみかみ)を祀ったのが起源とされている。

ただし祀った場所はここではなく、南東にある霊地神津嶽(かみつだけ)。

その山頂に巨大な磐境(いわさか=磐座を中心とした祭祀場)を設けたのが始まりという。

二ノ鳥居の竣工は昭和54(1979)年で扁額は大正4(1915)年に奉納されたもの。

木製の渋い色合いをした明神鳥居だが、それゆえ島木に輝く三つの菊紋が映える。

これは勅使が参向する社の証。

現に扁額が奉納された大正4年の大嘗祭奉告祭に勅使が遣わされている。

「ひらおか」という読みの起源には二つの説がある。

ひとつは「山嶺平夷の所に創建せられたるより平岡と称せし」。

さんれいへいい…つまり平らでなだらかな山の峰に創建されたからという説。


[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]02

rj02枚岡4t03

これほど分かりやすい地名はない。

これ幸いとばかりに一帯を探索する。

だが一ノ鳥居など、どこにも見当たらない。

やはり事前に場所を調べておらず、行き当たりばったり的に行ったのがマズかったか。

30分ほどウロウロしたが一ノ鳥居を発見すること叶わなかった。

後から調べたところ一ノ鳥居は鳥居町交差点よりもっと南にあることが分かった。

東高野街道に面していると聞いていたので道路沿いを中心に探していたのが仇になった格好。

面していたのは同じ東高野街道でも旧道のほうだった。

鳥居町自治会のホームページによると一ノ鳥居の建立は享和2(1802)年。

現在の本殿より古くから聳立しており、ここからが正式な参道との由。

建立から200年近くが経過して経ち劣化が見られていたところ。

追い打ちをかけるかのように平成7(1995)年、阪神淡路大震災に遭い被災。

平成10(1998)年6月、鳥居町をはじめ氏子の奉加により解体、組み直されることに。

鳥居には注連縄が掛かっている。

「牛蒡(ごぼう)型」といって全神社の2割程にしかない少数派の注連縄だ。

地元鳥居町氏子の手で作られ、毎年1月3日午前8時ごろ掛け替えられるという。

結局、トボトボと枚岡駅へ舞い戻ることに。

駅周辺は宅地開発が進み、新築の建売住宅が立て込んでいる。

門前町といった風情は微塵もない完全な新興住宅地。

枚岡駅から大阪難波まで区間快速なら30分弱で到着する。

一帯が大阪のベッドタウンになるのも当然だろう。

踏切を渡って駅の東側へ出る。

東口改札の前は、すぐ参道だ。

おそらく日本で最も駅から近い一之宮ではなかろうか。


[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[枚岡神社]01

rj01枚岡4t02

12時19分、桜井駅から近鉄大阪線に乗る。

ホームで電車を待っていた時、Suicaを落としてしまった。

気付かず電車に乗ろうとしたところ背後から声を掛けられた。

「落ちましたよ」

振り向くと、ベンチに座っていた男子高校生。

「ありがとう!」

これも大国主大神のご神徳だろうか?

さすが縁結びの神様だけある。

それにしても注意力が散漫になっている。

大神神社の御神威に触れて朝から体力を消耗したのだろうか?

長い道中、まだ始まったばかり。

気を引き締めないといけない。

大阪線から大和八木駅で橿原線へ乗り換え。

構内のコンビニ売店でお茶とティッシュを買う。

朝から鼻がグズグズしているが花粉症だろうか?

それにしても最近、駅構内の売店がコンビニの支店に次々と衣替えしている。

鉄道会社が売店を直接運営するよりコンビニのフランチャイズにしたほうが、商品の仕入れから管理、販売に至るまで、あらゆる面で楽チンなのは傍から見ていても分かる。

橿原線から大和西大寺で奈良線に乗り継ぎ、生駒山を超えて枚岡駅に降り立った。

もっと山の中の鄙びた駅を想像していたのだが、駅の周囲は予想以上に開発されている。

枚岡神社の参道は線路を挟んだ反対側、すぐ目の前にある。

だが、その前に一ノ鳥居を見ておかなければならない。

一ノ鳥居は駅から西に向かって800メートルほどのところにあるという。

神社に背を向けて市街地方面へ歩き出す。

小雨が降ったりやんだりする中を10分ほど歩いたろうか。

その名もズバリ「鳥居町」という地名に出くわした。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大神神社]28

rj大神028

杉玉の原型は中世から近世にかけて生まれた、大物主大神の御神威が宿る杉の葉を束ねて酒屋の軒先に吊す「酒箒(さかぼうき)」「酒林(さかばやし)」と呼ばれた風習。

現在でも三輪山の神杉の葉を球状に束ねて作られた小型の杉玉が大神神社で奉製され、全国の酒造家に配られて酒蔵や軒先に吊されている。

なので全国どこの酒蔵でも、杉玉の下に吊るされている札には「三輪明神・しるしの杉玉」と記されているのだ。

もちろん大神神社にも拝殿と祈祷殿の向拝に直径1.5メートル、重さ150キロにも及ぶ大杉玉が吊るされている。

これは年に一度、11月14日に行われる新酒の醸造安全祈願大祭「酒まつり」前日に青々とした新品に交換される。

「酒まつり」は新酒の仕込みの季節を前に、全国の酒造家や杜氏たちが安全祈願に訪れるお祭り。

酒造りの故郷である三輪には酒蔵が林立しているかに思えるが、実は先述の今西酒造一軒しかない。

万治3(1660)年創業の老舗で、銘柄は仕込み水に三輪山の伏流水、米に三輪産を用いた「三諸杉」。

三輪山の別名「三諸山(みもろ)」と神が宿る木「杉」を合成したネーミングだ。

この「みもろ」は「実醪」、酒造りの過程で生まれる発行原料と酵母を混合した「醪(もろみ)」の語源になったともいわれている。

三輪駅から桜井駅へ戻る電車に乗る。
今度はドアに挟まれないように、注意深く。

天候といい、ドア挟撃事件といい、前途多難を予感させる大神神社への参拝だった。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大神神社]27

rj大神027

それにしても、なぜわざわざ日本酒をアイスにする必要があるのか?

それが大有りなのだ。

先に大神神社の御神徳はオールマイティだと述べたが、なかでも医薬と酒造については別格。

医薬については、大物主大神が少彦名命と国造りに勤しまれていた時、病気を癒やす処方を定めたと日本書紀に記されている。

また、崇神天皇御代に疫病が蔓延した折、御諸山に大物主大神を祀ったことで退散した故事から疫病除けの神様としても尊崇されるように。

祈祷殿から狭井神社へ向かう参道沿いには製薬業者から奉納された薬木が植えられ「くすり道」と呼ばれているそうだ。

酒造については、崇神天皇が意富多多泥古命に命じて大物主大神を祀らせた折のこと。

三輪山の麓、髙橋という村に住む活日(いくひ)という者を、大物主大神に捧げる神酒(みき)を司る掌酒(さかひと)に任じた。

活日は一夜で酒造りを行い神酒を奉納したところ、疫病は一掃され国が富み始めた。

以来、活日は杜氏の祖神「髙橋活日命(たかはしのいくひのみこと)」に。

日本で唯一の杜氏の神社である摂社活日神社に祀られ、現在でも酒造家たちから篤く信仰されている。

晩秋、酒蔵には新酒が出来たことを知らせる、杉葉を束にした「志るしの杉玉」が吊るされる。

最初は青々としていた杉玉が一年かけて茶色になっていく、その色の変化で酒の熟成具合を計るそうだ。
 
[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大神神社]26

rj大神026

暖簾の染め抜き文字は「素麺」ではなく「うどん」だ。

ちなみに日本農林規格(JAS)では麺の直径によって下記の通り分類している。

1.3mm未満「素麺」
1.3mm以上1.7mm未満「冷麦」
1.7mm以上「饂飩(うどん)」

「みわ寿司」の店頭には「大神神社御用達」の看板。

建物の風情は、いかにも御用達っぽい雰囲気。

暖簾には「にぎり寿司」と染め抜かれている。江戸前の握り鮨だろうか?

確かに奈良名物「柿の葉寿司」に比べると作るのは楽そうだ。

こう言っては「福神堂」に申し訳ないけれど、こちらで食事すればよかったかなと少しく後悔。

別に美味い不味いの話ではなく、ああした大きくて立派な店より、こうした個人で営業しているような小さな店のほうが好きなだけの話。

「みわ寿司」の前から三輪駅に戻って来た。

駅前には小さなカフェ「三輪座」。

蔵元今西酒造の経営で、メニューには蔵元ならではの日本酒アイスも。

店頭では飲食以外にも、三輪ならではの御土産を販売している。

しかし今日は初っ端から電車のドアに挟まれたりして気分がドンヨリ曇り気味。

朝から日本酒アイスの気分にもなれず、なんとなく冷やかしただけで後にする。
 
[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大神神社]25

rj大神025

景山神具店と村上かど店の間の道を奥へ進む。

その途中「名物みむろ」の看板を発見。

大鳥居の横にあった和菓子店、白玉屋榮壽の支店だ。

「みむろ」とは弘化年間(1844~1848)に同店の初代が創案した最中。

以来160年余、製法を七代にわたり一子相伝で受け継いできたという。

菓子名の由来は大神神社の御神体山「三諸山」に因んだもの。

定休日は毎週月曜日だが第三週のみ火曜日も休み。

またも生憎、この日は三週目の火曜日。

電車のドアといい森正といい白玉屋榮壽といい、どうも三輪の明神様からは歓待されていないようだ。

白玉屋榮壽の数軒隣にある食堂「万直(まんなお)し」。

道を挟んだ向い側には「万直し旅館」。

食堂と旅館に分かれて営業しているようだ。

「万直し」とは験(げん)直し、縁起直しという意味。

食堂はともかく、旅館には文字通り「万直し」のため一度泊まってみたい気がする。

現在でも営業しているのだろうか?

先へ進むと駅前から伸びる商店街に出る。

その交差点に一軒の古びた食堂がある。

緑色をしたビニール製の庇には「みわ寿司」の店名。
 
[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大神神社]24

rj大神024

澄んだ出汁の中に細く白い麺が漂い、蒲鉾や三つ葉といった具材が彩りを添える。

淡白でコシのある細麺にあっさりとした出汁が絡む温麺は、饂飩とはまた違った繊細な味わい。

やはり大神神社に蕎麦は似合わない。
 
素麺じゃないとシックリ来ない気がした。

気がつけば店には次々と客がやって来て、いつしか店内はソコソコの賑わい。

森正が定休日だったから、近場で素麺となればここしかないから当然か。

「福神堂」を出て大鳥居方面へ向かう。

その途中、小さな商店街を発見。

街頭に「JR三輪駅→」の看板が掛かっている。

どうやら三輪駅に連絡する参道のようだ。

左側の角、緑色の庇の下に自動販売機が置いた店がある。

煙草屋と思いきや、本業は神道用品を扱う景山神具店。

店は開いておらず、人間に代わって機械が24時間煙草を売り続けている。

その向かい側、右側の角に露店のように突き出た店がある。

「村上かど店」といって、もちろん露天ではない。

手前は甘酒や味噌田楽、たこ焼きなどの茶店。

奥は野菜や果実を販売している青果店だ。

大神神社にお供えする酒や玉子も販売している。
 
[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大神神社]23

rj大神023

来店したのは午前11時ごろで、ちょうどお昼前のアイドルタイム。

店に入ると奥のテーブルで従業員の小母さん達が食事中。

私の顔を見るや皆さんバツの悪そうな顔をして各々の作業に散っていった。

こうしたシーンには旅先で何度も遭遇したことがあるので特に不愉快な思いもなく。

むしろ自然に笑みが浮かんで心がホッコリする。

まだ春先、しかも小雨模様で肌寒い天候だけに冷たい素麺は敬遠。

最もシンプルなメニュー、一杯700円也の温かい素麺「にゅうめん」を注文する。

待つ間、なぜ三輪素麺が大神神社で生まれたのか探ってみる。

今から約1200年ほど昔のこと。

宮司の大神朝臣 狭井久佐(おおみわのあそん さいくさ)の次男穀主(たねぬし)が、三輪の土地と三輪山からの清流が小麦の栽培に最適なのを知り、小麦粉を原料に製造したのが始まり。

鎌倉時代に入ると挽き臼の登場で製粉技術が進化。

さらに油をつけて延ばす麺作りの製法が中国から伝わったのを機に現在の形状へ。

江戸時代になるとお伊勢参りのネットワークに乗り、全国へ広がったという。

暫くして、目の前に温麺が届いた。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大神神社]22

rj大神022

ちなみに前述の通り大御輪寺の施設は破壊し尽され、十一面観音像に関する資料も一切が灰燼に帰したため、その由来は全く不明との由。

それまで秘仏とされてきた観音像は明治20(1887)年、アメリカの哲学者フェノロサの手で禁が解かれ、その美しい姿が初めて人前に披露された。

明治30(1897)年に旧国宝制度が制定されると共に国宝に指定。

さらに和辻哲郎が大正8(1919)年に出版した「古寺巡礼」で「天平彫刻の最高傑作」と激賞し、その名が広く知られるようになった。

戦後の昭和26(1951)年に新国宝制度が発足すると、ここでも第1回の国宝に選定されることに。

そして今、聖林寺の国宝十一面観音像は拝観料を払えば誰でも拝むことが可能だ。

一方、大直禰子命像は国宝にも指定されていなければ、自由に拝観することも叶わない。

一体「廃仏毀釈」って何だったんだ?

石段を降りながら、そんな素朴な疑問を頭の中で反芻してみた。

門前を横切り、二ノ鳥居に向かって右側にある三輪素麺の店「福神堂」へ。

外見は大きな蕎麦屋といった風情で、気の置けない雰囲気の店だ。

大神神社は三輪素麺発祥の地だが、神社の周辺に三輪素麺が食べられる店は意外と少ない。

先述の森正と、ここ福神堂ぐらいなものか。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大神神社]21

rj大神021

改めて大直禰子神社の社殿を正面から眺める。

それにしても、見れば見るほど不思議な形状をしている。

どこをどう見ても神社ではなく、まるで寺院の本堂そのもの。

それもそのはず、ここは昔「大御輪寺(だいごりんじ)」という仏閣だったのだ。

最初は大神神社の神宮寺である「大神寺(おおみわでら)」として創建。

後に「大御輪寺」と改称し、神仏習合の時代は寺院として存在した。

しかし明治期の廃仏毀釈に直面し、堂宇のほとんどが滅失。

唯一残された本堂だけが若宮社の本殿として現存している。

本殿には大神寺創建当初の部材も残っているそうで、貴重な神宮寺の遺構として国の重要文化財に指定されている。

なぜ神仏分離で大御輪寺が大直禰子神社になったかというと、大直禰子命の御神像と本地仏の十一面観音像が合わせて祀られていたから。

ところが神仏分離令の波に呑まれた十一面観音像のほうは、廃仏毀釈の煽りを食って高欄の下に打ち捨てられていたそうだ。

その有り様を見た聖林寺の住職が機転を利かせて大御輪寺と交渉し、大八車に乗せて運び出すことに成功。

慶応4(1868)年5月16日、大神神社の遥か南に位置する聖林寺へ“避難”させた。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大神神社]20

rj大神020

崇神天皇から「お前は誰の子か?」と尋ねられた意富多多泥古。

大物主大神と活玉依毘売(いくたまよりびめ)の間に生まれた御子(櫛御方命)の子(飯肩巣見命)の子(武甕槌命)の子だと答える。

つまり大物主大神を初代とすると五代目に当たるわけだ。

毘売の産んだ子が大神の御子だと分かったのは次のような経緯がある。

その名の如く玉のように美しい毘売のもとへ、夜陰に紛れて毎晩のように訪ねて来るイケメンの偉丈夫がいた。

たちまち二人は恋に落ち、ほどなく姫は懐妊。

独り身なのに身籠ったのを不思議に思った両親は毘売に、相手の男について尋ねた。

毘売はカクカクシカジカと経緯を説明。

事情を聞いた両親は、相手の男が何者か知りたくなり一計を案じる。

床の周囲に赤土を撒き、糸巻に巻いた麻糸に針を付ける。

そして男が来たら着物の裾にそっと針を刺しておくこと。

毘売が両親の言いつけ通りにした翌朝。

麻糸は入口の鍵穴を通って扉の表へ通じていた。

偉丈夫が鍵穴から出て行ったことが分かり、糸をたどったところ山頂に至り、そこ祭られている神社で途絶えていた。

これにより毘売の子の父が大神だと判明した次第。

部屋の糸巻には麻糸が“三勾(みわ)”、つまり三巻き分だけ残っていた。

これが「三輪」という地名の由来なのだそうだ。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大神神社]19

rj大神019

ところで、ヤマト王権のド真ん中に“国津神”のドンを祀った神社が存在している謎について。

古事記では、こう既述している。

初代神武天皇の即位で大和国に王権が誕生してから10代後の崇神天皇御代のこと。

凶悪な疫病が蔓延し、大和国から人々が死に絶えてしまいそうになった。

悲観した崇神天皇は疫病退散のために神殿を建立。

その床で就寝中、夢の中に大物主大神が現れて宣託を下した。

「疫病は私の仕業。意富多多泥古(おおたたねこ)に命じて自分を祭らせ、酒を奉納させれば世は元通りになるだろう」

崇神天皇は四方八方に手を尽くして意富多多泥古を探し出す。

そして彼を神主にし、御諸山に意富美和之大神(おほみわのおほかみ=大物主大神)を祭らせた。

おかげで祟りの疫病は収まり、すっかり元の平穏な国に戻ったという。

これが天津神の国のド真ん中に国津神が祭られている理由なのだそうだ。

石段を登って境内に向かうと、思ったほど広くはない。

参拝客がひっきりなしに訪れていた大神神社とは対照的に人影はなく、ひっそりと静寂の中に包まれている。

しかし、なぜ意富多多泥古が大物主大神の末裔だと分かったのか?

その理由についても古事記はキチンと説明している。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大神神社]18

rj大神018

古事記によると、大和国を造ったのは大物主大神ではある。

その後、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと=神武天皇)が日向国から東征して大和国を征服し、橿原の地で初代天皇に即位。

こうしてヤマト王権が大和国に樹立さるるに至った。

参道を戻って二ノ鳥居をくぐり、境内を後にする。

二ノ鳥居を出てすぐ右側の角に小さな商店がある。

看板に記された店名は「森栄進堂」。

だが店頭には三輪素麺以外これといった土産物は見当たらない。

むしろ、きな粉や胡麻など自然食品のような品揃えが目立つ。

大神神社は門前の土産物店まで虚飾を排しているのだろうか?

「森栄進堂」の斜向かいに古風で由緒正しげな建物の姿。

店頭には「そうめん處」という大きな看板が掛かっている。

その下にもう一枚、「定休日 月・火曜日 森生」と記された小さな看板。

ここが有名な素麺の店「森正」か。

しかし本日は火曜日、生憎と定休日だった。

森栄進堂と森正の間の小径を奥へ突き当たると石段がある。

上には木製の明神鳥居が立ち、「若宮社」と記された扁額が掛かっている。

正式な名称は「大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)」。

[旅行日:2014年3月18日]

一巡せしもの[大神神社]17

rj大神017

勅使殿の前に杉の巨木が玉垣に囲まれ祀られている。

江戸時代は雨乞いの依代だったことから「雨降杉」と呼ばれていた。

根本に「巳(み=蛇)さん」が棲んでいたことから、いつしか「巳の神杉(みのかみすぎ)」と呼ばれるように。

先述の通り「日本書紀」では大物主大神の正体を小蛇と記していた。

これは三輪の神の原初的形態が蛇の化身である“蛇神”だと信じられていたからではないだろうか?

「巳の神杉」の前には蛇の好物である卵が、今も絶えることなくお供えされている。

ひととおり参拝を終え、御朱印帳を贖うために参集殿へ。

入口に金色の「なでうさぎ」が鎮座している。

「因幡の白兎」の神話を紐解くまでもなく、大国さまといえばウサギ。

毎日のようにを撫でに来る人もいるそうで、大神神社一の人気者とか。

それにしても参集殿に並ぶ御守や御札の種類と数には圧倒される。

さすがオールマイティな神様だけあると感心。

ここでひとつ単純な疑問が湧いてきた。

大和国に存在したヤマト王権は“天津神”天照大御神の系譜を継ぐ天皇家の政権。

そのド真ん中に、なぜ敵であるはずの“国津神”のドンを祀った神社が存在しているのか?

[旅行日:2014年3月18日]
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