2014年08月

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 七

現在立っている天守閣は三代目に当たる。

初代は天正13(1585)年に豊臣秀吉が建立し、慶長20(1615)年に大坂夏の陣で焼失した。

戦後の学術調査によると太閤天守は今より東側、現在配水池のある場所に立っていたことが判明している。

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二代目は寛永3(1626)年に徳川幕府が現在の場所に建立。

この折、幕府は天守閣だけでなく、秀吉が築いた城郭に土を盛ってこれを埋め、その上に新たな城郭を築いた。

つまり世間一般では徳川が建てた城を見て「さすが秀吉は大層な城を作ったものだ」と“錯覚”しているわけだ。

ところが、これがどうにも大阪人には我慢ならない様子と見える。

そこで現在の城郭を掘り起こし、秀吉時代の石垣を発掘する作業が進行中。

大坂夏の陣で豊臣家が滅亡してから400年を迎える2015年、その一部が公開されるそうだ。

徳川幕府が建てた二代目天守閣も、寛文5(1665)年に落雷を受けて焼失。

その後、長きに亘って天守閣が再建されることはなかった。

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三代目が建立されたのは先述の通り昭和6(1931)年。

昭和3(1928)年に当時の関一(せきはじめ)市長が復興を提案し、議会の賛同を得て推進委員会が発足。

すると市民からの寄付の申し込みが殺到、わずか半年で目標額150万円に達したそうだ。

当時の大阪城址には陸軍の司令部や大阪砲兵工廠など軍事施設が密集していた。

このため戦争を毛嫌いする大阪市民の気持ちが、天守閣再建を熱狂的に後押しした一面もあったのではないか。

三代目は恒久的建造物にするため木造ではなく、当時の最新建築工法だった鉄骨鉄筋コンクリート造りを採用。

今でこそ超高層ビルは珍しくもなんともないが、地上55メートルというスケールは当時としては空前絶後の超高層建築だった。

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モデルとなったのは徳川幕府が建立した二代目ではなく、豊臣時代の大天守。

しかし豊臣時代の資料は殆ど残されていなかったため「大坂夏の陣図屏風」を根拠にデザイン。

その裏付けのため全国に残る桃山時代の建物などを調べ歩き、細かい部分に関する資料を集め歩いたのだとか。

デザインにせよ設計にせよ幾多の困難を乗り越えた甲斐あってか、工事のほうは順調に進捗。

こうして完成した天守閣は、近代建築による初めての復興天守閣となった。

しかも開城当初から内部は郷土歴史博物館として利用されている。

このコンクリート製の博物館というコンセプトは戦後、日本中にポコポコ建てられた復興・復元天守閣のモデルにもなっているのだ。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 六

枡形を過ぎると目の前にあるのは旧大阪市立博物館。

昭和6(1931)年、旧陸軍第四師団の司令部庁舎として落成した建物だ。

同年に天守閣が再建された際、城址内に散在していた司令部の機能を統合すべく併せて建てられた。

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幸い戦災にも遭わず、戦後は連合軍接収後、大阪府警本部庁舎に。

昭和33(1958)年に府警が大手門前へ移転すると建物は大阪市の管轄下に。

内部の改装などを経て2年後の昭和35(1960)年、市立博物館として開館した。

展示内容を大阪の地域文化に特化し、当時としては珍しかったリージョナルな博物館として大きな役割を果たした。

平成13(2001)年、大阪府警の隣に開館した大阪歴史博物館に後を任せるかのように閉館。

その後は取り壊されるわけでもなく、ある意味“放ったらかし”である。

大阪前R62

時々イベントに使われる程度で、特に決まった活用法があるでもない。

軍事施設として頑丈に作られているため、普通のビルより取り壊しに経費が必要だから放置されているのだろうか?

そもそも頑丈ならば耐震強度は問題ないはず。

東京駅丸の内側駅舎のようにホテルとして再生すればいいのに。

でも、それはそれで泊まったら何か出そうで怖そうだ。

やはり元々が軍事施設だけに、大阪市としては解体して更地にでもしたいところなのだろう。

一方で、帝国陸軍が存在した証を今に伝える数少ない歴史的建造物でもある。

解体に踏み切らないのは、取り壊しを強行して批判を浴びた大阪砲兵工廠旧本館の二の舞いを怖れているからだろうか?

大阪前R63

旧市立博物館の前を通り過ぎると、いよいよ大阪城天守閣のお目見えだ。

天守閣一帯には国内外の観光客が続々と押し寄せている。

聞き耳を立てると、日本語より外国語での会話が圧倒的に多い印象。宮本茶屋のところで見た通りだ。

もはや大阪城は日本人が訪れる観光名所の域を脱し、外国人、特にアジア人観光客にとってのディスティネーションへ変貌したのだろう。

そんなことを思いつつ、天守閣を正面から眺めてみる。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 五

宮本茶屋の前を通る道を左へ折れると、突き当りには大手門が聳えている。

ただ、大手門方面へ抜けると天守閣へ行くのが非常に面倒。

なのでここは大手門を後回しにし、目の前にある桜門から天守台へと入る。

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内堀にかかる橋を渡ると両側は空堀になっている。

内堀のうち空堀なのは、この箇所だけなのだとか。

ここは豊臣時代から空堀で、大阪の陣で徳川方が水を抜いたわけでもない由。

その後、寛永元(1624)年に徳川幕府が大坂城を再築した際も空堀にしたそうだ。

その理由は不明。
先例に倣ったのだろうか。

橋を渡ると、そこは本丸の正門に当たる桜門。
 
現在では国の重要文化財に指定されている。

寛永3(1626)年、徳川幕府によって創建された。

慶応4(1868)年に明治維新の大火で焼失したものの、明治20(1887)年に陸軍が再建し、今に至っている。

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門を中に入ると内側には「枡形」と呼ばれる一角がある。

本丸の正面入口を護るため、巨大な石垣で四角く囲んだスペースだ。

枡形は寛永元(1624)年、備前岡山藩主池田忠雄が手がけたもの。

石材はすべて瀬戸内海の島々から切り出された花崗岩を使用している。

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真ん中の石は「蛸石」と呼ばれる城内第一位の巨石。

左側は「振袖石」という巨石で、こちらは城内第三位。

創建当時、上には「多聞櫓」が設けられたが、やはり慶応4(1868)年の大火で焼失している。

この火災で巨石もダメージを受け、しかも戦時中に陸軍が地下に防空壕を掘ったりしたため、枡形は崩壊の危機に。

戦後になって枡形は修復されることとなり、損傷した石は原型に忠実な形へと加工された瀬戸内産の花崗岩に置き換えられた。

これほどまでに巨大な石材を瀬戸内海から遥々と運ばせ、石垣として累々と積み上げさせた権力の強大さときたら。

石垣の壮大さとは即ち、権力の強大さを象徴している証だと如実に思う。

[旅行日:2014年6月23日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 四

内堀を左側へ回りこむように先へ進むと、左側に豊国(ほうこく)神社が鎮座している。

ちなみに京都の豊国神社は「とよくにじんじゃ」と読む。

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こちらの京都が本社で大阪は別院として明治12(1879)年、最初は中之島に建立された。

その後、別院から独立した神社となり、昭和36(1961)年に現在地へ遷座したものだ。

もちろん主祭神は秀吉公だが、秀頼公と秀長卿も合わせて祀られている。

一の鳥居と二の鳥居の間には豊臣秀吉像が、陣羽織姿のキリッとした出で立ちで聳立している。

秀吉像は中之島時代から存在したが、昭和18(1943)年に金属供出令により滅失。

現在の像は平成19(2007)年に完成した二代目で、彫刻家の中村晋也氏の手によるものだ。

像から一の鳥居へ向かう途中、狭い林の中に立つ小さな看板に目が止まった。

そこには「信州上田 幸村桜」と書いてある。

幸村とは無論、真田幸村のことだ。

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史実上の名は、真田信繁。大坂の陣で「真田丸」と呼ばれる砦を作り、徳川家康相手に激闘を繰り広げた。

その獅子奮迅ぶりは「日本一の兵(つわもの)」と絶賛され、今も大阪市民をはじめ多くの人に親しまれている…とある。

幸村が取り持つ縁で大阪城は平成18(2006)年10月、真田の御城である信州上田城と友好城郭提携を締結。

その後、上田市の有志から豊国神社にオオヤマザクラが奉納され、ここに花を咲かせているという次第だ。

その「真田丸」は2016年のNHK大河ドラマのタイトルにもなった。

そして今2014年は大阪冬の陣、来2015年は大阪夏の陣から、それぞれ400年という節目を迎える。

日生球場跡地から真南にある真田山公園は、かつて真田丸があった場所。

ここで2014年から2015年にかけて「真田幸村博」が開催される。

さらに2016年の大河ドラマへ、大阪、ひいては全国へ、没後400年を迎える真田幸村のブームが到来するに違いない。

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境内を出ると一の鳥居の横に「宮本茶屋」という売店がある。

大きな神社仏閣の門前によくある茶店で、焼そばや大判焼きなどを売っている。

その前に設えられた露天のテーブルで、大勢の観光客が休息している。

だが、よく見ると日本人の姿は皆無で、ほとんど外国人観光客の様子。

それも西洋人だけでなく東洋人、しかも東南アジアからの観光客も結構いる。

日本に観光旅行へ来ることのできる外国人は、以前なら経済的に余裕のある欧米人だけだったろう。

その経済的繁栄が昨今ではアジアにまで波及してきたことの証だと言えようか。

[旅行日:2014年6月23日]

お知らせ

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いつもご愛読ありがとうございます、「RAMBLE JAPAN」管理人です。

おかげざまで「一巡せしもの-東海道編」は昨日の[敢國神社・続 08]をもちまして無事に完結いたしました。

これもひとえに、読者の皆様の長き亘るご愛読の賜物と感謝いたしております。

さて「一巡せしもの」は暫しのお休みを頂き、10月より次編「畿内編」をスタートいたします。

それでは変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。 

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 三

森ノ宮駅の方角に向かうと、そこは大阪城公園の入り口。

中に入ると一直線に伸びる噴水の周囲では、好天に恵まれたせいか家族連れやカップルが思い思いに寛いでいる。

木立の中を通り抜け、大阪城音楽堂の前を過ぎ、東外堀と南外堀の間にある玉造口へ向かう。

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南外堀を挟んだ向かい側には一番櫓(いちばんやぐら)が見える。

二の丸南面の石垣の上には隅櫓が東から西へ7棟立っていた。

そのうち最も東側に位置しているので「一番櫓」の名が付いたそうだ。

ちなみに7つあった櫓のうち現存しているのは一番櫓と六番櫓のみ。

玉造門は江戸時代、石垣造りの枡形が作られ、その上には多門櫓が立っていたという。

しかし幕末の動乱で多聞櫓は焼失し、維新後に大阪城を管理下に置いた陸軍の手で玉造門そのものと枡形が撤去された。

このため現在でも残っているのは入口両脇の石組みだけという。

玉造口から中に入り左折すると、城壁には鉄砲狭間が横一列に穿たれている。

外国人観光客が面白がって銃眼を覗いているが、「loophole(銃眼)」だと分かっているのだろうか?

内堀に向かって直進すると、突き当った右側に巨大な石碑が聳立している。

「蓮如上人碑」

かつてこの地に石山本願寺が存在したことを記したものだ。

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天文元(1532)年に京都の山科から移ってきた本願寺は、大坂の地を一大宗教都市に仕立て上げた。

しかし織田信長との間に対立が深まり、元亀元(1570)年から11年間に亘って「石山合戦」を繰り広げることに。

天正8(1580)年、両者は勅により和議に至るが、本願寺は大坂からの退去を余儀なくされて京都に移転。

天正11(1583)年、その本願寺と寺内町の跡地に豊臣秀吉は大阪城を築いた。

大阪の今に至る繁華は太閤殿下の築城に端を発するように思われがちだが、それより前に本願寺の門前町として繁栄していた“下地”があったことは意外と忘れられているようだ。

その石山本願寺の遺構は地中に埋まったままで、未だ確認されていない。

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石碑の前に小さな木の根っこが、コンクリートブロックに囲まれてヒッソリ保存されている。

この「蓮如上人袈裟懸の松」と伝わる木の根っ子だけが、石山本願寺が存在した唯一の証と言えるのかも知れない。

[旅行日:2014年6月23日]

一巡せしもの[敢國神社・続]08

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獅子神楽は悪魔払獅子、厄除御獅子として奉奏されるのだ。

しかも現在、伊賀地方の各町で行われている獅子神楽の原型でもある。

さらには「伊勢大神楽」にも多大な影響を及ぼしたとも言われている。

伊勢大神楽とは獅子舞をしながら伊勢神宮の神札を配布して回った人々のこと。

ちなみに獅子神楽は三重県の無形民俗文化財に指定されている。

帰路は拝殿横から伸びる裏参道を伝って戻る。

拝殿の左隣には神様の台所たる神饌所、その左隣に神輿蔵。

その先には摂社末社がズラリと並んでいる。

若宮八幡宮、子授けの神、楠社、神明社、むすび社、大石社…ひとつひとつ眺めながら歩く。

小さな祠が多いが、むすび社や大石社のように専用の鳥居を構えているものもある。

表参道に摂社が市杵島姫社しかなかったことを思えば、実はこちらのほうが“表”の参道ではないかと錯覚してしまいそうだ。

裏参道も尽き、来訪時に見た真新しい社号標の前に出た。

敢国神社への再訪、どこか唐突に終わった感じだ。

佐那具駅へ、来た道を再び戻る。

空は曇っているが、雨粒が落ちてくるほどでもない。

伊賀一之宮インターチェンジ近くでは薄曇りの空を背景に、梅の木が花を咲かせている。

東海道諸国の一之宮巡礼、梅の花に見送られながら、ここ伊賀国にて幕を閉じた。
 
[旅行日:2014年3月20日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 二

近鉄が準本拠地として利用を始めてから四半世紀が過ぎた昭和59(1984)年。

藤井寺球場にナイター設備が完成し、近鉄は日生球場から実質的に撤退する。

プロ野球の興業という最大の収入源を失ったことに加え、戦後すぐに建てられた施設の老朽化と相まって、日生球場は平成9(1997)に閉鎖、解体された。

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その後、跡地は暫く放置されていたのだが、ようやく平成25(2013)年に用途が決定。

フェンスに掲げられた告示板によると、ここにはスーパー、家電量販店、スポーツジムなどができるそうだ。

一塁側スタンドと右翼スタンドの境目だったあたりに来た。

ここから外野スタンドがあった場所を、往時でいえば右翼から左翼へ向けて歩いてみる。

個人商店と民家が立ち並び、周囲に華やかさを演出するような要素は何もない。

道を挟んだ向かい側は何の変哲もない普通の住宅街だ。

ちょうどバックスクリーンとスコアボードのあった裏側あたりまで来た。

十字路を挟んだ反対側には小奇麗な公園が広がっている。

そこから右翼スタンドと三塁側スタンドの境目があったあたりへ。

その来る途中、外壁が黄色に塗られた劇場があった。

その劇場、名を「森ノ宮ピロティホール」という。

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球場が解体された理由のひとつとして、一帯に森ノ宮遺跡が存在していることもあった。

森ノ宮ピロティホールの地下には、森ノ宮遺跡からの出土品を展示した遺跡展示室がある。

ただし、一般に公開されるのは年に数日間だけとのことだ。

右翼スタンドと三塁側スタンドの境目があったあたりに着く。

ここは来るときに通り過ぎた場所で、件の歩道橋のあるあたりまでが三塁側スタンドが存在した場所、ということになる。

阪神高速の高架下を、再び歩道橋まで歩く。

日生球場の跡地には現在、ここに球場が存在したことを示すものは何もない。

ただ、歩道には野球場がデザインされたタイルが敷き詰められている。

このタイルだけが、昔ここに野球場に存在したことを主張しているかのようだ。

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再び歩道橋を登り、阪神高速の下をくぐって反対側へ渡る。
 
[旅行日:2014年6月23日]

一巡せしもの[敢國神社・続]07

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ただ、なぜ男神の金山毘古命ではなく女神の金山比咩命だったのかは、よく分からない。

大彦命も少彦名命も男神だったので、バランスを取ったのだろうか。

石段を降りると、目の前に絵馬殿が立っている。

壁は上方と下方のみにあり、真ん中はポッカリと穴が空いている。

中に入ると上方に、昔のものらしき大きな絵馬が掲げられていた。

とはいえ、なぜか中には軽トラックが駐車している。

現在では駐車場として利用されているようだ。

再び石段を登って拝殿の前に立ち、今度は左側へと回り込み、横から拝殿と祝詞殿を眺める。

ガラスの格子戸と本殿を包み込む瑞垣の菱格子がコントラストを描き、いい感じに古寂びた木造建築と絶妙の美しさを醸し出す。

ここ伊賀国は忍者で有名だが、一方で芸能発祥の地でもある。

鎌倉時代に隆盛を迎えた能楽の始祖と伝わる観阿称は伊賀の出身。

能楽が武士階級の娯楽に発展した頃、獅子神楽が庶民階級に普及していった。

敢国神社に伝わる獅子神楽もまた、この時期に生まれたものと推測される。

敢国神社は伊賀上野城の鬼門を鎮護する守護神でもある。
 
[旅行日:2014年3月20日]

キャッスル&ボールパーク④大阪編・前 一

JR大阪駅から大阪環状線に乗る。

大阪環状線は低い家並みや中低層の小さなビルが立ち並ぶ市街地の狭間を走る。

同じ“環状線”である東京の山手線と比較しても、車窓の風景はローカル色が濃い。

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そんな電車に揺られること約12分、森ノ宮駅に到着した。

駅を出ると、まだ6月だというのに真夏のような暑さが身体に纏わりついてくる。

目の前を通る阪神高速道の高架下を西に向かって歩くこと数分。

白いフェンスが延々と続く一角が眼前に現れた。

この大阪城を間近に望む絶好の場所に、平成9(1997)年まで野球場があった。

日本生命野球場、略して“日生球場”。

大阪におけるアマチュア野球の“聖地”にして、近鉄バファローズが長きに亘り本拠地を置いていたスタジアムである。

その名の通り、日生球場は日本生命が自社の野球部用に戦後間もなく建造した球場。

このため戦後しばらくはアマチュア野球専用として使われていた。

しかし地理的に絶好の場所にあるこの球場を、プロが見逃すはずもなく。

郊外の藤井寺市に本拠地を置いていた近鉄球団が日本生命に対し、ナイター設備の設置を条件に球場の使用を提案。

これを日本生命も了承し、近鉄は本拠地を藤井寺球場に置いたまま昭和34(1959)年から日生球場を実質的な本拠地球場として試合を主催していく。

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格好の位置に歩道橋が立っていたので、そこに登ってフェンス内部の様子を見てみる。

敷地は新たな主となる施設の建設に向けて地割りされ、球場だった頃の面影はすっかり失われていた。

フェンスの中では大勢の作業員が忙しそうに動き回っている。

巨大なクレーンが立ち並び、重機が唸りを上げ、地面に掘られた穴にはコンクリートがドクドクと注ぎ込まれている。

ここにプロ野球チームが興業を打っていたスタジアムの存在した記憶など、既に歴史の彼方へ埋没しているかのようだ。

歩道橋を降り、フェンス沿いに球場跡を一周してみる。

歩道橋のある場所は昔、ちょうどメインスタンドがあった場所の前に位置している。

そこから一塁側スタンドから右翼スタンドの方面へ向かって歩いてみる。

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周囲は小規模な雑居ビルや個人商店、マンションなどが立て込んでいる。

あまり都心にいることを感じさせない、下町っぽい雑然とした雰囲気の中に球場はあったわけだ。

[旅行日:2014年6月23日]

一巡せしもの[敢國神社・続]06

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伊賀国阿拝(あえ)郡を拠点にしていた大彦命一族が「阿拝」「敢」「阿閉」「阿部」「安倍」と呼ばれていたことも前回の参詣時に触れた。

「同殿」とは同じ神殿に、という意味か。

「與阿倍久爾神同殿」とは「大彦命と同じ神殿に与(くみ)せよ」。

つまり「大彦命と同じ神殿に祀ってくれ」と訴えたのだろう。

この神異に従い、さっそく金山比咩命の遷座合祀が執り行われた。

こうして敢國神社の祭神は大彦命、少彦名命、金山比咩命の三神になったという。

桃太郎岩の右手に裏側へと小径が伸び、その先に細い石段が続いている。

登っていくと社殿の左端に出た。菱格子の隙間から中を覗き本殿を見てみる。

それにしても、なぜ美濃国一之宮から金山比咩命を勧請したのだろうか?

伊賀国一帯には古代の製鉄遺跡が数多く遺っているという。

少彦名命は渡来人の秦氏が信仰していた神であり、伊賀の製鉄技術は秦氏が大陸から持ち込んだもの。

一方、金山比咩命は金山毘古命の后神とも妹神ともいわれている。

いずれも伊邪那美命(いざなみのみこと)の吐瀉物から生まれた、鉱山を司る神々。

製鉄が盛んだった伊賀地方の人々が鉱山の神、製鉄の神を勧請したのも自ずと理解できる。

[旅行日:2014年3月20日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 十

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映像装置にはブレーブス関係以外の資料も閲覧できる。

例えば「箕面有馬電気軌道創業」からたどる阪急電鉄関係の歴史。

西宮球場で開催されていた西宮競輪やアメフト「阪急西宮ボウル」などのイベントも。

出色なのは西宮球場で行われた「宝塚歌劇大運動会」の映像。

大運動会は10年に1度、歌劇団創設を記念して開催される。

ここでの映像には80周年とあるから、1994年に開催された大会か。

なお西宮球場の解体後は大坂城ホールに会場を移転。

ちなみに今2014年は創立100周年に当たるので、10月7日に開催されるそうだ。

西宮102西宮R19

西宮ギャラリーを後にして、屋上庭園「スカイガーデン」へ。

家族連れが憩い、小さな子供たちの歓声が響き渡っている。

オッサン共の野次や怒声から子供たちの歓声へ…どちらが好ましいかは人それぞれだろうけど。

設置されているスタンドは、どこか野球場を彷彿とさせる。

それもそのはず、西宮球場のスタンドをイメージして設計されているのだ。

スカイガーデン内にあるイベントガーデンの「緑の観覧席」は、まさに野球場のスタンド。

その左端下部の地面にはホームベースがあしらわれている。

かつて西宮球場でホームベースがあった場所を今に伝えているのだ。

阪急電鉄にとって西宮球場と阪急ブレーブスが、いかに大切な存在だったかアピールしているかのよう。

既に“阪急ブレーブス”の名は過去のものではあるが、その遺産は今もここに息づいている。

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[旅行日:2014年6月23日]

一巡せしもの[敢國神社・続]05

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もともと少彦名命を祀る神社は南宮山山頂付近にあり、後に現在地へ遷宮したことは前回の参詣時に触れた。

斉明天皇4(658)年に敢國神社が現在地に創建され、南宮山頂から少彦名命が遷宮された後のこと。

南宮山頂にあった社殿の跡地に、新たに神社を創建することとなった。

しかし当時の有力者たちの間で、どの神様を祀るかについて喧々諤々の大論争が繰り広げられた。

結局、美濃国一之宮南宮大社の御祭神、金山比咩命(かなやまひめのみこと)を勧請することに。

「南宮山」という山の名前も、この南宮大社から来ているのではないか…と推測されているそうだ。

南宮山にあった金山比咩命が敢國神社の本殿に合祀されたのは、創建から319年後の貞元2(977)年との記録がある。

合祀については次のような神話が残っている。

ある日、金山比咩命を祀った社殿が轟音とともに激しく揺れ出した。

音と揺れが止まると社殿前に立っていた御神木の幹に、虫食いの跡が文字となって現れた。

そこに記されていたのは「與阿倍久爾神同殿」と言う8文字の漢字。

神学の素人にして漢文の浅学である自分が我流で読み下してみると。

「阿倍久爾神」とは「あへくにのかみ」…つまり敢國神社の主祭神、大彦命のことだろう。
 
[旅行日:2014年3月20日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 九

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ジオラマとガラスケースの更に奥、突き当りの壁一面には阪急電鉄の歴史を記した年表が掲げられている。

阪急電鉄の歴史を遡ると、ざっとこんな感じ。

明治43(1910)年1月15日に前身の箕面有馬電気軌道が宝塚本線と箕面支線を開業。

大正7(1918)年に阪神急行電鉄と改称。

戦時中の昭和18(1943)年、国策で京阪電鉄と合併し京阪神急行電鉄へ改称。

同48(1973)年に現社名の阪急電鉄に改称し、現在に至る、と。

同24(1949)年に京阪電鉄を分離しているにもかかわらず、京阪神急行電鉄という社名を四半世紀近く使い続けてきたところが面白い。

西宮92西宮K09

年表の横には阪急グループの歴史を映像で紹介する装置が設置されている。

特に「プロ野球の誕生」や「初の日本一」「高知キャンプ」といったブレーブス関係の歴史映像が興味深い。

阪急ブレーブスの歴史は昭和10(1935)年、小林一三翁が職業野球団の結成と、専用野球場の建設を指示したところから始まる。

ライバル会社の阪神電鉄にも球団設立の動きがあり、これに対抗する意味合いもあった。

翌11年、大阪阪急野球協会が誕生し、全7球団で日本職業野球連盟が設立された。

阪急軍以外の球団は東京巨人軍、大阪タイガース、名古屋軍、セネタース、大東京、名古屋金鯱(きんこ)軍。

翌12年には阪急西宮球場が完成。

設計にあたってはMLBシカゴ・カブスの本拠地リグレー・フィールドと同クリーブランド・インディアンスの本拠地ミュニシパル・スタジアムを参考にしたそうだ。

第二次世界大戦後の昭和22(1947)年、阪急軍はベアーズと改称し、再開したプロ野球リーグに参戦。

しかし、なかなか勝てなかったのでチーム名を公募してブレーブスに変更、ここに阪急ブレーブスが誕生した。

西宮93西宮K04

昭和25(1950)年に日本野球連盟はセントラルとパシフィックの2リーグに分裂。

ブレーブスは同じ在阪私鉄を親会社に持つ近鉄バファローズ、南海ホークスとともにパ・リーグに所属することとなった。

とはいえ1950年代は南海と西鉄ライオンズの“2強時代”であり、ブレーブスは長らく優勝とは無縁のシーズンを繰り返していた。

転機となったのは昭和38(1963)年、西本幸雄の監督就任だった。

その後ブレーブスが迎えた黄金時代については、野球殿堂のレリーフのところで詳述している。

[旅行日:2014年6月23日]

一巡せしもの[敢國神社・続]04

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会館の手前に古い社号標が立っている。

「元国幣中社」と刻まれているから戦後に造られたものだろうか。

大鳥居は朱塗りの両部鳥居で、正面に掲げられている扁額は木製。

石造りの扁額はよく見かけるが、木製とは珍しい。

そういえば参道の入口に鳥居は立っていなかった。

摂社末社の鳥居は各々あるが、敢國神社そのものの鳥居はここだけらしい。

大鳥居をくぐると正面に石段があり、その上に拝殿が鎮座している。

大鳥居と石段の間はそれほど距離がなく、左に社務所、右に絵馬殿があり、社務所はそのまま崇敬者会館に続いている。

石段を登り拝殿の中を覗いてみると、正面中央には上段の祝詞殿へと続く階段があり、その奥に本殿が鎮座している。

階段入口の両脇には錦旗が吊り下げられ、上側には御祭神「少彦名命」「大彦命」「金山比咩命」の名を記した扁額が掲げられている。

拝殿から石段を降りて境内の右側へ回りこむと、御神水の井戸が祀られていた。

その右後ろには「桃太郎岩」が鎮座している。

今を遡ること550年前、前方に聳える南宮山頂から遷された岩という。

安産や子育て守護の霊石として篤く崇拝されているそうだ。
 
[旅行日:2014年3月20日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 八

その後を受けたのは上田利治ヘッドコーチ。

上田阪急が初めて日本シリーズに出場したのは昭和50(1975)年、相手は初出場の広島東洋カープ。

広島は上田の古巣で、根本陸夫監督(当時)と衝突した挙句に退団した“因縁”の相手でもある。

ちなみに宿敵巨人は監督が川上から長嶋茂雄に代わった1年目で、球団史上初の最下位に沈んだ年でもある。

この年、阪急は広島に1勝も許さず、4勝2分で初の日本一に輝いた。

西宮81

上田阪急は昭和53(1978)年までパ・リーグを4年連続で制覇。

しかも昭和51~52年の日本シリーズは長嶋巨人相手に2連覇を達成し、かつて何度立ち向かっても歯が立たなかった恥辱をようやく濯ぐことができた。

昭和53年の日本シリーズは、これまたセ・リーグで初優勝した広岡達朗監督率いるヤクルトスワローズが相手。

上田阪急が戦った4度の日本シリーズの対戦相手は2回が巨人、2回が初出場のチームだったことになる。

ちなみにこの年の日本シリーズ、セ・リーグ側の球場はヤクルトの本拠地神宮ではなく、後楽園を間借りして行われた。

当時の神宮球場はプロ野球より東京六大学野球のスケジュールが優先。

平日の昼間に開催される日本シリーズは大学野球の試合とバッティングしたため、プロのほうが身を引かざるを得なかったのだ。

第7戦、ヤクルト大杉勝男選手が放ったレフトポール際のホームラン判定を巡って上田監督が1時間19分にも及ぶ猛抗議。

結局このゲームを落とした阪急が3勝4敗で惜敗し、上田阪急が初めて一敗地に塗れた日本シリーズとなった。

西宮82

上田監督は猛抗議の責任を取って勇退するも、3年後の昭和56(1981)年に再び復帰。

その後、球団がオリックスに譲渡された後の平成2(1990)まで10年間にわたって監督を務めた。

その間パ・リーグで優勝したのは昭和59(1984)年の1度きりだが、一方で2位が5度もあり決して弱いチームではない。

1980年代は西武ライオンズの黄金時代で、その牙城を阪急が切り崩すことができなかっただけの話である。

ただ、予算をかけて戦力を補強しても2位止まりなうえ、観客動員数が激増するわけでもない。

阪急電鉄がブレーブスを手放そうと判断しても不思議ではなかったように思える。

昭和59年、上田阪急が日本シリーズで最後に戦った相手もまた、広島カープだった。

上田監督と広島の古葉竹識監督は同学年で、しかも広島時代のチームメイトと、なかなか因縁めいたものがある。

結局この年の日本シリーズは広島が4勝3敗で阪急を下し、古葉監督が昭和50年の雪辱を果たすことに。

平成3(1991)年、本拠地が西宮球場からグリーンスタジアム神戸に移転し、チーム名もブレーブスからブルーウェーブに代わったのを機に、上田監督はオリックスから身を引く。

その後、日本ハムファイターズの監督に就任するが、日本シリーズはおろかパ・リーグで優勝することもなく。

21世紀を目前に控えた1999年のオフを以ってプロ野球の現場から身を引いている。

西宮83

[旅行日:2014年6月23日]

一巡せしもの[敢國神社・続]03

rj03続敢國4T06

しかし「るみ子の酒」は尾瀬氏絡みの話題より「探偵!ナイトスクープ」などのテレビ番組が「爆発する酒」として紹介したことで有名になった。

とはいえ「爆発する酒」は幾つか種類のある「るみ子の酒」の中でも「特別純米 活性濁り生原酒」だけで、あとは普通の清酒。

なお、他銘柄の「妙の華」「英-はなぶさ-」も含め、森喜酒造場では純米の酒しか醸造・販売していない。

森喜酒造所の酒倉を眺めつつ、敢国神社への道を急ぐ。

それにしても、田園に囲まれた小さな集落の一角に、純米酒だけを律儀に醸造し続ける小さな酒倉があるとは。

伊賀の国、さすがに懐が深いところだと感心する。

名阪国道(25号線)をくぐり、古寂びた道を往くうち、敢国神社の参道入口に到着。

前回訪れた時は既に日が暮れて薄暗闇だったので、実質的に初めて見る。

県道676号線を間に挟んで常夜灯が立ち、入口には真新しい社号標が聳立している。

参道の緩やかな坂道を登っていくと途中左手に摂社の市杵島姫社が鎮座。

池に浮かぶ小島の上に朱塗りの鳥居と社殿が鎮座し、背後を覆う森の緑と絶妙なカラーバランスを描いている。

崇敬者会館の横を通り過ぎると、その先に朱色の大鳥居が姿を見せた。

[旅行日:2014年3月20日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 七

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ギャラリーには野球だけでなく、鉄道やイベントなどの資料も展示されている。

ガラスケースの中には昭和9(1934)年に梅田/神戸間25分特急運転を実現したことを誇示するレトロなポスター。

その手前には特急運転に投入された920型車両の1/20スケール模型が展示されている。

その右には昭和25(1950)年に西宮球場近辺で開催された「アメリカ博」のポスター。

手前にはアメリカ博の宣伝用に塗装された800型車両の1/20スケール模型の姿が。

西宮73西宮K07

左側エリアから右側エリアへ移動すると、その真中に“野球殿堂”こと野球体育博物館(東京ドーム内)に掲げられているレリーフのうち、阪急ブレーブスに貢献した13人のレプリカが掲げられている。

先出の福本、山田両選手のほか、阪急黄金期の礎を築いた西本幸雄監督、1975~77年に日本シリーズ3連覇を達成した上田利治監督らの肖像が印象的。

その中でもとりわけ偉大なのは大阪急を築いた不世出の経済人、小林一三翁その人だろう。

西宮74西宮R14

もちろん野球競技者としてではなく、プロ野球の発展そのものに貢献した特別表彰での栄誉だが。

西本監督は昭和40年代、西暦にすると1965~74年の辺り、阪急を何度もパ・リーグで優勝させた名将。

だが、天下は川上哲治監督率いる読売巨人軍が日本シリーズ連覇街道を驀進していた∨9時代。

西本阪急はパ・リーグで昭和42~44(1967~69)年に3連覇、昭和46~47(1971~72)年に2連覇と計5回優勝している。

ところが日本シリーズでは5回とも巨人相手に苦杯を舐めさせられた。

西本監督は昭和48(1973)年に阪急を退団し、翌年から近鉄バファローズの監督に就任した。

西宮75

[旅行日:2014年6月23日]

一巡せしもの[敢國神社・続]02

rj02続敢國4T02

貴生川駅へ戻り、下校する高校生たちと一緒に柘植行きの電車に乗る。

平日の昼下がりとあってか閑散とした車内で、コンビニのおにぎりをパクつく。

味気ないといえば味気ないが、普通電車の中で食べる今どきの“駅弁”なんて、こんなものだろう。

14時40分、到着した柘植駅で関西本線に乗り換え。

その僅か2分後に来た加茂駅行きディーゼルカーに乗り換え14時54分、佐那具駅に着いた。

前回の参詣から1年3ヶ月ぶりに訪れた佐那具の街。

柘植川の流れも石造りの古い橋も、何も変わらない。

橋を渡った先にある大和街道もまた、落ち着いた佇まいのまま。

ただ、前回は駆け足で通り過ぎただけに、今回は些細に鑑賞しながら歩く。

重厚な土塀、黒い板壁、虫籠窓のある軒下…切妻造の伝統家屋が何棟も連なっている。

国道25号線を越え、少し先で二手に分かれた道を左側へ進むと、稲田に囲まれた細い道を行くと千歳という集落に出る。

その中に、壁に「手造りの酒倉」と掲げたひときわ大きな木造建築が立っている。

地酒の蔵元、森喜酒造場。

看板銘柄「るみ子の酒」は漫画「夏子の酒」の作者尾瀬あきらが命名し、ラベルのイラストも手がけている。

[旅行日:2014年3月20日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 六

西宮ガーデンズの建物へ入る前に、阪急百貨店の南側出入口にある南駐車場へ。

その側壁に設えられた植え込みの中に、二つの記念物がある。

ひとつは「ブレーブスこども会記念碑」。

西宮61西宮R09

西宮球場が存在した時代から敷地内に立っていたもの。

球場解体の際に撤去されたが、西宮ガーデンズ建設に際して再び戻ってきた。

もうひとつは「ブレーブス後援会記念樹」。

記念碑には「愛する阪急ブレーブスと野球への思いをこめてバットの木アオダモを寄贈します。」と記されている。

目立たない場所ではあるが、こうして歴史的記念物を保存してあるところに阪急の律儀さを感じる。

次に西宮ガーデンズの中へ。まだ6月だというのに非常に暑い外気に比べて建物の内部は涼しく、まさに天国。

フェスティバルガーデンにあるエレベーターで5階へ登り、TOHOシネマズ西宮OSへ。

西宮63西宮R12

その隣にあるのが「阪急西宮ギャラリー」。

西宮球場や阪急ブレーブスだけでなく、阪急電鉄や阪急百貨店の歩みに関する資料が展示されている。

中央の入口を入ると、ギャラリーは左右のエリアに分かれる。

右側エリアへは主に阪急百貨店など阪急グループに関する内容が展示されている。

鉄道系百貨店の草分け阪急百貨店も、創業時の阪急マーケット時代は店員が元鉄道マンの素人ばかりだったとか。

左側エリアの中央には1983年当時の西宮北口駅周辺を再現した1/150のジオラマがドーンと鎮座。

もちろん駅構内のダイヤモンドクロスも再現されている。

西宮62西宮R13

阪急ブレーブスの本拠地として長きにわたり務めを果たしてきた西宮球場。

その模型は手が込んでいて当時の雰囲気を彷彿とさせてくれる。

1983年当時のパ・リーグといえば暗黒時代もいいところで、観客数は絶望的な少なさ。

しかも西宮球場では競輪も開催されていたため、スタジアム周辺は一種「男の世界」的な荒んだ雰囲気が横溢していた。

1989年、阪急電鉄はブレーブスをオリックスに売却。

1991年には本拠地をグリーンスタジアム神戸に移転し、西宮球場は「空き家」に。

2002年には競輪の開催も廃止され、スタジアムの建物は解体されることが決定。

そして現在、西日本最大級のショッピングモールとして賑わいを見せているわけだ。

ジオラマの隣にはガラスケースの中に、いにしえのユニフォームや日本シリーズで優勝した時のペナントやトロフィーなど、ブレーブスの栄光を象徴する品々の数々が所狭しと陳列されている。

特に黄金時代を築いた"花の44年組"山田久志、福本豊、加藤英司の3選手については、個人所蔵のバットやトロフィーを借り受けて展示するという熱の入れよう。

今でも福本氏や加藤氏は阪神戦やオリックス戦のメディア中継で解説を務め、そのトボけた味わいが話題になったりする。

今の姿しか知らない若い人たちには、どれだけ両者が偉大な選手だったか知ることのできる稀少な場所だ。

西宮71西宮R15

[旅行日:2014年6月23日]

一巡せしもの[敢國神社・続]01

rj01続敢國4T01

平成24(2012)年12月24日に訪れた伊賀国一之宮「敢國神社」。

しかし到着した頃には既に日は落ち、暗闇の中で何も見られず仕舞い。

それを悔いること1年余…こたび改めて敢國神社の再訪を決意した。

JR琵琶湖線草津駅に到着したのが13時ごろ。

草津線の次の電車は13時25分発。

30分弱の待ち時間は昼食を取るにも中途半端。

結局、草津では何も食べることなく5350M電車に乗り込む。

だが、この電車も途中の貴生川駅止まり。

それでも貴生川駅といえば近江鉄道や信楽高原鉄道との接続駅。

それなりに栄えているだろうと期待して出てみたら、特に何もない。

駅前から伸びる道を歩いて行くとラーメン屋とコンビニがあった。

しかし近場に飲食店が他に見当たらないせいか、結構ラーメン屋も混んでいる様子で入るのを躊躇する。

もう少し足を伸ばして広い通りまで出れば、ロードサイド店があるかも知れないが。

あまり駅から離れても次の電車に間に合わないようでは元も子もない。

結局ここでの食事は諦め、コンビニでおにぎりとお茶を買った。

[旅行日:2014年3月20日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 五

翌朝、阪急梅田駅から特急列車に乗車する。

頭端式ホームにマルーンカラーの電車がズラリと並んでいる様は、まさに阪急そのもの。

車内は大学生、特に女子大生が目立つ。

両隣も、向かいの席も、目の前に立っているコも、みんな女子大生っぽい感じだ。

西宮51西宮R02

梅田から10分余りで西宮北口駅に到着。

女子大生の皆さんもゾロゾロ降車していく。

たぶん隣駅にある関西学院大学か神戸女学院の学生さんたちだろう。

後ろを付いて行きたいところではあるが、ここはグッと我慢(?)

南口方面の出口から伸びるペデストリアンデッキを歩くこと5分ほど。

そこには巨大な複合商業施設「阪急西宮ガーデンズ」がある。

敷地面積7万平方メートルにも及ぶ西日本最大級のショッピングモール。

阪急百貨店、スーパーイズミヤ、TOHOシネマズをはじめ、大小様々な店舗が軒を連ねている。

その中へ入る前、道を挟んだ向かい側にある広場へ足を運ぶ。

西宮52西宮R04

ここには「西宮北口ものがたり」という3つの逸話が紹介されている。

一つ目は「高畑町遺跡」。

西宮市で初めて出土した奈良時代の遺構について解説している。

二つ目は「阪急西宮球場」。

西宮ガーデンズが2008年にオープンする以前、ここに聳立していた阪急西宮スタジアム、通称「西宮球場」を紹介。

今回ここを訪れた目的は、西宮球場の痕跡をたどることにある。

三つ目は「ダイヤモンドクロス」。

かつて神戸本線と今津線は西宮北口駅構内で線路が平面で交差していた。

「ダイヤモンドクロス」とは、この平面軌道交差のことをいう。

西宮53西宮R06

鉄道の平面軌道交差はダイヤを組む上で非常に厄介な存在。

全国の高速鉄道でも唯一ここにしかなかったものだ。

それゆえ西宮北口駅名物として、鉄道ファンのみならず西宮市民にも愛されていたという。

西宮球場とダイヤモンドクロスは西宮北口駅のランドマークだったわけだ。

しかし1970年代から80年代にかけ、旅客輸送量が年々激増。

そんな状況下でダイヤモンドクロスは安全保安上のネックとなり、昭和59(1984)年に撤去された。

このため阪急今津線は西宮北口駅で南北に分断されることになったが、おかげで神戸本線のホームを延伸することができ、輸送力の増強に成功。

神戸本線は高架化されたが今津線の線路は今なお地上を通っている。

撤去されたダイヤモンドクロスの一部をここに埋め込み、保存しているわけだ。

[旅行日:2014年6月23日]

一巡せしもの[伊雑宮・続]09

rj09神宮内宮ttl

もう夕方で参拝時間も終了間近だというのに、参拝者が後から後からひっきりなしにやって来る。

最近では皇祖への崇敬というより、日本最大のパワースポットとしてご利益に与ろうという向きが圧倒的に多いようだ。

拝まないよりは拝むに越したことはないだろうけど、現世利益しか頭にないというのもどこか浅ましい。

頭には現世利益しかなくても胸の内に相応のリスペクトを抱いてなければ、天照大御神もリクエストに応えようと思わないのでは?

参拝を終えて再び宇治橋から五十鈴川を、今度は先程と反対の下流方面を臨む。

川岸に「神宮奉納大相撲」の幟旗がはためいている。

奉納大相撲は毎春、伊勢神宮で行われるトーナメント戦。

地方巡業のようなものだが、そこは伊勢神宮への奉納相撲、中身はゴージャスなようだ。

宇治橋を渡り、再び神宮内宮前バス亭へ。

そこから両側に無数の和風建築を従えた石畳の通りが一本スーッと伸びている。

伊勢神宮内宮の門前町としておなじみの「おはらい町」。

飲食店や土産物屋がひしめき合うおはらい町をブラブラしながら、伊勢神宮内宮を後にした。

[旅行日:2014年3月17日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 四

西宮41大阪駅3

梅田の地下街をブラブラ歩いていると一軒のおでん屋を見かけた。

暖簾に大きく「たこ梅」と染め抜かれている。

道頓堀にある「たこ梅」の本店は弘化元(1844)年創業という170年もの歴史を持つ老舗。

正確には「おでん屋」ではなく「関東煮(かんとだき)屋」と言うべきか。

関東の「おでん」は関西で「関東煮」と呼ばれる…よくこう言われる。

だが、おでんと 関東煮は似ていて非なる料理ではないかという気がする。

「たこ梅」に行ったことはなかったが、その名は聞いたことがあり、これ幸いとばかりに入ってみた。

西宮42大阪駅2

梅田地下街に支店が3店舗あり、ここはホワイティうめだの地下にある東店。

もうすぐラストオーダーの時間でタネも尽きかけている。

1500円の晩酌セットを注文し、タネは有り物から適当に見繕ってもらった。

ドリンクはビールと日本酒から選べるが、ここは燗をつけてもらう。

目の前に錫製のコップがスッと出てきた。

コップといっても10センチほどの高さがある円筒状のもの。

内側は漏斗のような形状をしていて、外側との間が空洞になっており、酒が冷めるのを防ぐ構造になっている。

手に持つとズシリと重く、それでいて掌にシックリとくる。

まず、突き出しの小鉢と、たこ梅の代名詞ともいえるたこの甘露煮が一串。

たこは柔らかく、そのほんのりとした味わいが日本酒と絶妙に絡み合う。

続いて関東煮が皿に盛られて出てきた。

玉子、大根、蒟蒻、それにひろうすの4品。

ひろうすとは、おでんでいうところのがんもどき。

まずは大根を箸でサクッと割り、口に運ぶ。

苦味のない大根に出汁が染みわたり、うっすらとした甘みが口腔いっぱいに広がる。

味わいは思った以上に濃い目だ。

よく関東は濃い味、関西は薄味といわれるが、濃さだけなら東京のおでん屋とさほど変わらないようにも思える。

それぞれのタネに箸をつけたところで酒が尽きたので、もう一杯追加で注文。

皿の上からネタが消え、グラスの中から酒が尽きたちょうどその頃、閉店時間に。

今度はもっと早い時間に来て名物の鯨料理、例えばさえずり (ひげ鯨の舌)、ころ(皮)、すじ肉などを味わってみたい。

いや、次に行くのならここではなく、道頓堀の本店にしよう。

そんなことを思いながら、たこ梅の東店を後にした。

西宮43大阪駅2

[旅行日:2014年6月22日]

一巡せしもの[伊雑宮・続]08

rj08神宮内宮08

五十鈴川の水を手で掬ってみると、掌から清冽な冷感が身体中を駆け巡る。

この中に身を投じろというのだから、昔は参拝者に過酷な要求を突きつけていたものだ。

しかし、こうした苦難を乗り越えてこそ、神徳の有り難みが感じられるということなのだろう。

一の鳥居から左側へ続く緩やかなカーブを進むと、その先に二の鳥居が聳立している。

二の鳥居をくぐると左側に御祈祷の御神楽が行われる神楽殿。

社殿の前には無数の奉献酒が並んでいる。

さすが御伊勢様、日本中から銘酒が献上されている。

さらに先へ進み、境内で最も奥まった場所に行き着く。

そこに正宮が鎮座している。

昨年、第62回式年遷宮が行われたばかりで社殿はピッカピカだ。

写真の撮影は石段の下までで、ここから上は禁止されている。

社殿の建築様式は屋根の庇側に入口が付く平入りの唯一神明造。

切妻の棟には鰹木が10本並ぶ。

棟の両端に∨字型に突き出た千木は先端が水平に切られた「内削」。

これらは女神が祀られていることの証だ。

[旅行日:2014年3月17日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 三

そろそろ試合開始時間が迫ってきたので、スタンドの中へ。

既に客席は7割方埋まっており、まだまだ試合は始まらないのに、この気合の入りようたるや。

西宮31甲子園K06

席は3塁側アルプススタンドの、フィールドに近い場所。

本来3塁側は楽天サイドなのだが、ほとんどがタイガースファンで占められ、その中に楽天ファンの紅いユニフォームがポツリポツリと散見される程度だ。

隣席は熱狂的なタイガースファンの一家。

黄色いレプリカユニフォームを着た若い父ちゃんを筆頭に母ちゃん、小さな子供が2人、それに爺ちゃんという構成。

父ちゃんは既に出来上がっていてエキサイトしているが、子供たちはそれほど熱狂的でもなさそうだ。

西宮32甲子園R08

各ポジションでタイガースガールズが小さな子供たちと一緒に、選手たちが守備位置に就くのを待つ。

始球式はWBC世界バンタム級チャンピオン山中慎介。

ワンバウンドでの投球でも場内は拍手喝采の嵐。

というわけで、いよいよプレイボール!

ところが…阪神の先発能見が大乱調。

隣の父ちゃんも最初こそ普通に応援していたが、能見の不甲斐ない投球に立腹したのか次第に“叱咤激励”という名の野次を飛ばしまくるように。

5回終了までに5対0と阪神が劣勢。だんだん場内の雰囲気が険悪に…。

隣の父ちゃんも怒りがマックスに達したのか、細身のメガホンで子供の頭を小突いたりしている。

メガホンは、そんなんするためにあるわけちゃうで!

6回裏ようやく1点を返し、7回表終了時で4点のリードを許している阪神。

勝利を信じて360度あまねく方向から無数のジェット風船が打ち上げられるが…結局5対1のまま阪神は敗戦と相成った。

終盤、雨が落ちてきたので最後まで見ずに席を立ったため、どのような形で隣の熱狂タイガース一家が敗戦を迎えたのかは、知らない。

ただ、今回の観戦には少し物足りなさが残る。

いつか高校野球を観戦しに、甲子園歴史館とセットで訪れてみようか。

西宮33甲子園R13

その夜は梅田まで戻り、大阪駅近くのホテルに宿泊。

それにしても久しぶりに来た大阪駅は、まるで別の駅のようだ。

[旅行日:2014年6月22日]

一巡せしもの[伊雑宮・続]07

rj07神宮内宮05

気怠い空気が漂う車内でマッタリとした時間を過ごすうち、五十鈴川駅に着いた。

伊勢神宮内宮へ向かうのなら、実はこの駅が狙い目。

内宮へは伊勢市駅か宇治山田駅からバスで向かうのが一般的だが、バス運賃が少し高目なのがネック。

その点、五十鈴川駅から「CANばす」を利用すると210円で済む。

「CANばす」とは三重交通が運行している伊勢二見鳥羽周遊バスのことだ。

五十鈴川駅からCANばすに揺られること10分弱で神宮内宮前バス亭に到着。

平日の夕方だというのに大勢の参拝客が訪れている。

さすが日の本一の大神宮だけあるなぁと感心。

神宮内宮の表玄関、宇治橋を渡る。

宇治橋は木造で長さは101.8メートル。

橋上から眺める五十鈴川は神々の息吹が感じられる風景。

宇治橋を渡り終えたところに聳立する鳥居。

鳥居は反対側、つまり両端に聳立している。

どちらの鳥居も正宮の旧正殿棟持柱(むなもちばしら)を再利用しているそうだ。

神苑を通り抜けて手水舎の前に聳立する一の鳥居をくぐる。

その右手の先には五十鈴川の畔にある御手洗場。

川岸には石垣が築かれ、対岸の手前に広がる賽の河原の白い礫と、奥に広がる森の緑が美しいコントラストを描いている。

今は手水舎で手を洗って済ましているが、往年はここで全身を禊いでから参拝したという。

[旅行日:2014年3月17日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 二

球場を取り巻いている阪神ファンの方々は既に出来上がっている感じ。

いつ試合が始まっても準備万端ってところだろうか。

ヤフオク!ドームを除く他のフランチャイズ10球場すべてで観戦したことがあるが、甲子園に集うファンの質は、どの球場とも異なる。

裾まで届こうかというダランとした法被を着、頭に被るキャップには球団旗の小旗を立て、馬鹿でかいメガホンを手にしてのし歩くファンの姿は、野球観戦というより宗教施設に集う信者という趣だ。

阪神ファンにとって甲子園球場とは単なる野球場ではなく、巨大な祝祭場なのだろう。

西宮21

ちょうど半周し、スコアボードの裏側付近まで来た。

ここに「野球塔」というオベリスクのようなものが立っている。

これはタイガースとは関係なく、高校野球を記念して立てられたものだ。

初代は昭和9(1934)年に行われた第20回全国中等学校優勝野球大会を記念し、朝日新聞が建立。

しかし太平洋戦争の空襲により跡形もなくなってしまった。

二代目は昭和33(1958)年に行われた第30回選抜高等学校野球大会を記念し、毎日新聞が建立。

しかし老朽化により、甲子園球場のリニューアル工事とともに平成18(2006)年に撤去。

そして現在の三代目は平成20(2008)年、春と夏の高校野球大会がそれぞれ80回と90回という節目を迎えたことを記念したもの。

高野連と朝日新聞、毎日新聞の三者により、リニューアル工事の完了に合わせて平成22(2010)年3月に落成した。

真下まで行って野球塔を見上げてみる。

やはり塔というよりもオベリスク、どこか宗教的建造物っぽさが伺える。

西宮22甲子園K04

野球塔のすぐ近く、レフトスタンドの下に「甲子園歴史館」がある。

ここには甲子園球場、高校野球、タイガースの歴史が一堂に展示されているという。

だが、下手に入ってしまうとと試合開始に間に合わなくなる可能性があるので、ここはスルー。

歴史館の隣にあるタイガースショップも人で溢れている。

ちなみにタイガースショップは東京にもある。

それも地下鉄銀座線外苑前駅と神宮球場を結ぶ神宮スタジアム通りのド真ん中。

東京ヤクルトスワローズの“本丸”の目と鼻の先に、まさに出丸を築いたようなものか。

ただ、神宮球場も阪神戦だとタイガースの本拠地みたいな様相を呈するので、あまり違和感ないのだが。

しかも最近になってヤクルトも後を追うかのように、タイガースショップの近くにオフィシャルショップを出店。

おしゃれタウン青山で勃発した虎と燕の代理戦争。

ヤクルトも甲子園の近くにオフィシャルショップを出店して決着を付ければいいのだろうけど、需要が見込めないのは何となく分かる。

西宮23甲子園K05

[旅行日:2014年6月22日]

一巡せしもの[伊雑宮・続]06

rj06神宮内宮01

遺跡群から東側に下っていく細い坂の先には「風呂屋の谷」という湧水池がある。

風呂屋といっても銭湯ではなく、昔は伊雑宮に参拝する前ここで身を清めた“禊所”だ。

風呂屋の谷から坂を登って再び伊雑宮の門前へと向かって歩くと、途中に世古長官家の屋敷跡がある。

世古家は先出の中家と並び、伊雑宮の長官を代々務めてきた氏族。

屋敷跡そのものは別の個人所有地となっているが、石垣の一部は往時のまま残されているそうだ

上之郷駅へ戻ると近鉄特急ビスタカーの回送車が停車していた。

ここで対向車との行き違いを待っているのだろうが、長大編成ゆえに車両がホームに収まり切れず端がハミ出ている。

春先の穏やかな陽気の中、ホームのベンチに座ってビスタカーを眺めているうち、発車時間が来たのかユルユルと動き出し、賢島方面に向かって走り去った。

その様子をボーッと眺めていると、ビスタカーが消えた方角から今度は鳥羽方面行きの各駅停車の姿が。

電車に乗ると車内はお伊勢参りの女性やカップルが目立つぐらいで、閑散としていた。

これからどこへ向かうかというと、伊勢神宮内宮へ参詣に行こうと思う。

平成24年の天皇誕生日に伊勢神宮外宮へ参拝して以来、1年数ヶ月の間が空いての内宮参拝。

式年遷宮も無事に終わり、新たな節目を迎えた伊勢神宮。

だが、マスコミが撒き散らす「伊勢ブーム」ごときに踊らされず、地に足を付けて参拝したいところだ。

[旅行日:2014年3月17日]

キャッスル&ボールパーク③西宮編 一

日曜日の早朝、広島は弱い雨がシトシト降り続いていた。

中国地方最大の繁華街、流川の裏町には土曜の夜が続いているかのような繁華の名残りが漂っている。

そんな裏通りをクネクネと通り抜け、広島バスセンターへ。

8時5分、神戸三宮行き高速バス「神戸エクスプレス」は広島を後にした。

4人掛けの座席は窓際が埋まっている程度の乗車率。

広島から新神戸まで新幹線を利用すれば運賃は2倍近くかかる。

だが時間は4分の1程度で済むため、コスパは新幹線のほうが圧倒的に高い。

西宮11甲子園R01

10時ごろ、山陽道吉備サービスエリアで休憩。

岡山のこだわりファーム安富牧場製しおアイスと、丹波の黒々茶を購入する。

新幹線ならとっくに新神戸へ着いている時間だが、車内で安富牧場のアイスクリームは買えまい。

12時5分、神戸エクスプレスは三ノ宮バスターミナルに到着した。

幸い神戸に雨は降っておらず、これなら野球の試合に影響なさそうだ。

JR線の高架下にある三ノ宮バスターミナルから、少し離れたところにある阪神電車の神戸三宮駅へ歩く。

日曜日のお昼だけに駅近辺には人通りがあってもいいような気もするが、思ったほど人影がない。

神戸三宮から特急に乗って20分弱、阪神甲子園駅に到着した。

西宮12甲子園R02

今日もまたセ・パ交流戦「東北楽天ゴールデンイーグルス対阪神タイガース」を観戦しに来たという次第。

まだ試合開始まで1時間以上あるのに、既に駅前は黒山の…というか黒と黄色の人だかり。

駅前から球場へ向かう通路の右側に古びたお土産屋さんや食堂が並び、この日も大勢のお客さんでごった返していた。

昔からある一角で建物の規模そのものは変わらないのだが、外装や品揃えは年々パワーアップしている感じがする。

阪神高速の下をくぐり、阪神甲子園球場の正門前に出た。

西宮13甲子園R04

「阪神甲子園球場」という看板の上に「90」という数字があしらわれている。

甲子園球場が開場したのは大正13(1924)年8月1日のこと。

それから今(2014)年で90周年というわけだ。

日曜のデイゲームということもあって、大人数の観客が次から次へと押し寄せて来る。

まさに“日本一の大スタジアム”の面目躍如といったところ。

まだ試合開始まで時間があるので、スタジアムの外周を反時計回りに一周してみる。

[旅行日:2014年6月22日]

一巡せしもの[伊雑宮・続]05

rj05続伊雑宮4T13

境内を辞し、前回も訪れた「御師(おんし)の家 森新」へ。

森新の屋号は御師・森新左衛門の名前が由来。

御師制度は明治4(1871)年に廃止されたが家系は受け継がれ、現在は森新太夫の末裔が築100年の自宅を改装。

平成24(2012)年から御師に関する資料をボランティアで展示している。

それほどスペースは広くないのだが、隅から隅まで展示品がビッチリと詰まっている。

その中に「塩」と「米」が白い紙袋に入れて並べられ、無料で配布されていた。

米も塩も森さんが自ら作ったもの。

もちろん食べられるのだろうけど、逆に勿体なさ過ぎてとても食べられない。

森新から北へ伸びる細い道を進むと「倭姫命の旧跡地」「千田の御池」「秋葉堂・庚申堂」といった遺跡群がある。

秋葉堂の中には秋葉社と庚申碑が祀られている。

しかし御堂の前には「伊弉諾神 伊弉冉神」「伊佐波登美命」と標柱が2本立っている。

御堂の御祭神が変わったのだろうか?

イザナギ・イザナミはまだしも、伊佐波登美命が祀られているのは興味深い。

伊佐波登美命は伊雑宮の本来の御祭神だったはずだが、その名はどこにもない。

伊雑宮にも伊佐波登美命の名を残そうという動きがあるのだろうか?

[旅行日:2014年3月17日]

キャッスル&ボールパーク②広島編 七

「みっちゃん」を出て、八丁堀から居酒屋を求めて流川へ。

夜の街をそぞろ歩く途中で「お花」という居酒屋を発見。

店構えに惹かれるようにフラフラと入るも、生憎と15分ほど待たされる。

ただ、それだけ人気店という証だろうし、飛び込みで入った割には待たされていないほうかも知れない。

カウンターに案内され、さっそく店の代名詞といえる穴子の活造りと、西条の地酒「亀齢」を注文。

活造りというだけあって刺身にされても穴子は頭をヒクヒクさせている。

その身は白くコリコリして味わいは淡白、淡麗な亀齢と良く合う。

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次は殻付き焼き牡蠣と、今度は竹原の地酒「竹鶴」。

焼いた牡蠣の香ばしく濃厚な風味が、これも濃厚な竹鶴にマッチする。

穴子の骨の部分を揚げて「せんべい」にしてもらい、呉の地酒「雨後の月」と共に。

素揚げした穴子の香ばしさを、雨後の月のフルーティーな味わいが洗い流していく。

広島の地酒と素材のマリアージュを存分に楽しめる点で理想的な居酒屋。

少々値は張ったものの、それ相応の価値を十分に楽しめたと思える。

店構えを見てピンと来た直感、まさにアタリだった。

「お花」を後にし、宿へ。今宵は流川のカプセルホテルを予約してある。

ここは良くも悪くも“昔ながら”のサウナ/カプセルホテル。

小奇麗なスーパー銭湯や健康ランドが至るところに存在する中、昭和の雰囲気を漂わせている。

チェックインは入口で下駄箱に靴を入れて鍵をフロントへ持って行き、代わりにロッカーの鍵を受け取るスタイル。

フロントの対応は親切かつ丁寧で、なかなか好印象だった。

浴室は大きいのだが、今どきのスーパー銭湯などに比べると古臭さは歴然。

だが、むしろ個人的にはバブル期のようなプチ懐かしさを思い起こさせる。

風呂から上がり、食堂で飲み直し。

ここにも20世紀の時間が流れている。

ロッカーキーの番号で会計し、チェックアウト時に精算するシステムは食券制よりしっくりくる。

定食のおかずのような料理を肴に酎ハイのグラスを重ねるうち、今が昭和なのか21世紀なのか、頭の中の時間軸が揺らいできた。

カプセルに入ると室内のテレビはブラウン管と、ここにも昭和の残照が。

ただ、コンセント完備なので携帯やパソコンが充電できるのは現代風だ。

スーパー銭湯や健康ランドといった昨今の入浴施設に比べれば、施設全体に漂う時代遅れっぽさは否めない。

しかし昭和末期から20世紀末にかけてサウナ/カプセルホテルを愛用した自分にとっては、過去へのプチ時間旅行すら提供してくれた。

ブラウン管のボヤけた映像を眺めつつ、タイムマシーンに乗ってる気分のまま眠りに落ちた。

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[旅行日:2014年6月21日]

一巡せしもの[伊雑宮・続]04

rj04続伊雑宮4T08

ちなみに「竹取神事」で争奪されたゴンバウチワは小片に切断されて「御神竹」となり、参加者各自が銘々持ち帰って自宅や船の神棚に祀るのだそうだ。

「御神竹」は大漁や海上安全の神様。

だからこそ漁師しか参加できなかったのだろう。

とまあ、実際には見ていないものを、さも見たかように綴ってしまった。

まだまだ冷たい春風が吹き抜ける目の前の御料田からは、そうした賑やかな光景を想像するのは難しい。

御料田への参拝を終えて伊雑宮の境内へ。

一の鳥居をくぐり、緩やかなS字のカーブを描く参道を奥に進むと、前訪時とは風景が一変していた。

正殿の隣に、何やら建築中。

正殿との間は木の板で仕切られ、その向こう側で高い櫓が建築用の白いシートで覆われている。

平成25(2013)年の伊勢神宮・両正宮の式年遷宮に続き、同26(2014)年は別宮のご遷宮が行われる。

もちろん伊雑宮も同年5月に式年遷宮の立柱祭、上棟祭が行われ、秋には新しい正殿へ「遷御の儀」が挙行される。

これは戦後4回目、平成に入ってからは2度目の式年遷宮になるという。

[旅行日:2014年3月17日]

キャッスル&ボールパーク②広島編 六

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自席へ着きスタンドを見渡すと一面カープファンで真っ赤っ赤!

日本ハムのファンはスタンドの片隅に追いやられ、まさに「カープ一色」という以外に言葉が見当たらない。

しかし、そんな場内のムードとは裏腹に3回、日本ハムが2点先制。

5回にも2点追加し、早くもカープ4点のビハインド。

これはこのまま押し切られちゃうかなぁ…と思った矢先の5回裏。

カープは長短計9安打のメッタ打ちで、何と一気に8点をゲットして逆転!

しかも5回裏が終わった途端に雨脚が強まり、1時間ほど中断の末そのままコールドゲームでカープの勝利!

中途半端な幕切れで終わった試合ではあったが、カープの猛攻を拝めた挙句の逆転勝利で球場の雰囲気も悪くなし。

初めて直接この目でマツダスタジアムを見ることが出来ただけでも、いい経験になった。
 

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雨の中をJR広島駅まで戻り、再び広電で八丁堀電停へ。

ビル街を北へ抜けて裏通りに入り、向かったのは広島お好み焼きの原点ともいえる店「みっちゃん」総本店。

人気店なれど開店直後だったせいか行列が出来ているわけでもなく、カウンターに余裕で着席。

そば入りスペシャルを注文すると、店員が「鉄板か皿か?」とクエスチョン。

鉄板はコテで直接食べるスタイル、皿は乗っけられ運ばれるスタイルのこと。

食べ慣れている人なら鉄板でいいのだろうけど、不慣れな観光客の自分は皿で。

ビールを注文してグビグビ飲みつつ、目の前で焼き上がる過程をジッと凝視。

目の前で幾つもの具材が焼かれ、重ねられ、一つの料理へと変貌していく一連の流れは広島お好み焼きならでは。

焼きあがったお好み焼きが皿に盛られ、目の前に運ばれてきた。

確かに鉄板から直接コテで食べたほうが、アツアツを楽しめそうである。

おたふくソースのコッテリ味が効いたお好み焼きを、冷たいビールで流し込む…まさに至福の組み合わせ。

バランスの取れた味わいは老舗ならでは。

だが、まだそれほど他店のお好み焼きを食べたことがないので、ここが最高かどうかは分からない。

とはいえ広島お好み焼きの“基準”としては申し分ないかと思える。 

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[旅行日:2014年6月21日]

一巡せしもの[伊雑宮・続]03

rj03続伊雑宮4T05

鳥居の向こう側には田圃が三反ほど広がる。

御料田の周囲も一面の田圃なのだが、その境は柵で仕切られている。

御料田の敷地には隅に「神宮」と掘られた石杭が打たれ、ここが伊勢神宮の御神域であることを世に知らしめている。

鳥居をくぐって御料田に近づいてみる。

まだ田起こしも行われていない冬眠中の御料田は、春の訪れを告げる祭りの到来をひっそりと待っているかのよう。

鳥居の隣に立つ「磯部の御神田」の式次第によると、まず11時20分ごろから「竹取神事」が行われる。

御料田の西端に立つ杭に高さ10メートルはあろうかという太い青竹が縛り付けられ、その先端に「ゴンバウチワ」という巨大な団扇が括り付けられている。

その青竹が杭から解かれ御料田に向かって倒されると、大勢の男衆が褌姿でゴンバウチワを奪い合うという、とてもマスキュランな行事である。

ちなみにひと昔前まで、竹取神事には地元の漁師しか参加できなかったそうだ。 

続いて11時30分ごろから祭事のハイライト「御田植の神事」がスタート。

謡(うた)や鼓や笛太鼓が奏でるお囃子に乗って、当番区の奉仕役人(やくびと)たちが古式ゆかしく一列に並んで田圃に早苗を植えていく。

途中まで来たところで一旦停止。

それまで簓(ささら)という楽器を担当していた2人が、御料田の真ん中で「刺鳥差(さいどりさし)」という舞踊を舞う。

その間、一同は若布(わかめ)を肴に一時の宴を張り、刺鳥差が終わると田植え再開。

最後は一同が列を為し、御料田から踊りながら伊雑宮へ向かう「踊り込み」で締めくくる。

この踊り込み、伊雑宮一の鳥居まで僅か200メートルほどの距離を、たっぷり2時間かけて練り歩くそうだ。

[旅行日:2014年3月17日]

キャッスル&ボールパーク②広島編 五

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広島城を後にして紙屋町の電停から広電に乗車。

土曜日の昼下がりということもあって車内は結構な混雑ぶりだ。

市電にゴトゴト揺られること約15分でJR広島駅に到着。

既に南口は赤いユニフォーム姿の人たちで一杯で、特に今話題の“カープ女子”の姿が目立つ。

“カープ女子”とはマスメディアの中にしか存在しないと思っていたので、実際に目の当たりにして少々オドロキ。

ここからJRの線路に沿って西ヘ向かって歩くこと15分ほど。

異様な形状をした巨大建造物が姿を見せ始める。

新広島市民球場、通称「MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島」。

略してマツダスタジアム、広島東洋カープの本拠地だ。

今日はセ・パ交流戦「北海道日本ハムファイターズ対広島東洋カープ」を観戦しに来たという次第。

駅前から球場までの道は球場建設に合わせて整備されたわけではない。

このため近辺は球場の敷地が貨物駅だった時代からの雰囲気が漂っている。

ただマツダスタジアムの開場以降は訪れるファンに合わせた町並みに変貌し、今も球場の近辺は再開発工事の真っ最中。

あと何年かすれば周辺の街並みは一変しているかも知れない。

そのうちマツダスタジアムにつながる専用スロープの入口に到着した。

rj42MスタK02ゲートブリッジ


ここからスタンドまで階段もなく車椅子でもスムーズにアクセスでき、なかなかバリアフリーを考慮した設計。

「スタジアム」とは「観客席を備えた大規模な競技場」の意味だが、ここマツダ“スタジアム”は競技場というより、アメリカで野球場のことを指す「ボールパーク」という表現がピッタリ。

新球場建設に当たって担当者は国内外の野球場を徹底的に調べ上げ、その結果を元に斬新な野球場を設計。

近年のメジャーリーグ界は本拠地球場に採算性を重視した多目的型ドームを避ける傾向にある。

このトレンドに乗ってマツダスタジアムも屋根のない全面天然芝のオーソドックスな専用野球場に。

建設用地の都合上、左右非対称の設計にならざるを得なかったが、それを逆手に取り国内では他に類を見ないユニーク形状となった。

スロープから続くメインゲートを入ると、幅広で段差のないコンコースが客席の外側をグルリと取り囲んでいる

まずは自席に向かう前、コンコースを通ってスタンドの様子を観察してみる。

観客席は砂かぶり席や寝そべり席、パーティー席、テラス席、バーベキュー席などバラエティに富み、一人でも大人数でも用途に応じてチョイスできるのは秀逸。

野球を楽しむという目線から評価すれば、間違いなく日本一の“ボールパーク”ではないか。 

rj43MスタK06一右びっくり

[旅行日:2014年6月21日]

一巡せしもの[伊雑宮・続]02

rj02続伊雑宮4T05

伊雑宮の一の鳥居の前に来た。

が、境内には入らず、まずは南に位置する御料田へ向かう。

前回の参詣で御料田をスルーしたことが、ずっと心に引っかかっていた。

このため今回の参詣は正宮より御料田のほうが目的と言っていいぐらいの気持ちでいる。

境内の南にある参拝者駐車場を横切り御神田広場へ。

以前ここにあった御料田を西へ移し、広場として整備したものだ。

広場といっても真ん中を御料田へ一直線に伸びる参道が通っているぐらいで、あとは何もない。

いや、広場の南端に「磯部の御神田(おみた)」についての解説板と、国重要無形民族文化財指定の記念碑が立っている。

伊雑宮の御田植式(おたうえしき)「磯部の御神田」は日本三大御田植祭のひとつで、毎年6月24日に御料田で行われる。

ちなみに他の二つは下総一宮香取神宮、摂津一宮住吉大社の御田植祭との由。

祭りの始まりは平安時代末期、ここで稲作が始まった「白真名鶴」の伝説と結びつき、鎮座地の磯部九郷で現在に至るまで伝承されてきたものという。

その御料田へ歩を向ける。手前には黒木の神明鳥居、奥には忌柱が立っている。

黒木鳥居とは丸太の皮を削らず、自然木のまま用いた最もシンプルな形式の鳥居。

社殿のない場所で神事が行われる際に立てられるという、非常に珍しい鳥居だ。

[旅行日:2014年3月17日]

キャッスル&ボールパーク②広島編 四

rj31広島城R03

正則は元和4(1618)年に行った広島城の普請を幕府から咎められた。

元和元(1615)年制定の武家諸法度で定められた事前の届出が不整備だったことが、その理由。

二代将軍徳川秀忠は正則に対し、修復した石垣・櫓の原状回復など条件を呑めば赦罪すると告げる。

幕府の地盤が盤石ではない状況下、豊臣恩顧の筆頭大名である福島家を改易することが他の恩顧大名に影響を及ぼすことを懸念したのだろう。

ところが正則はことごとくサボタージュして更なる幕府の怒りを買い、結局お取り潰しと相成る。

豊臣恩顧の大名として矜持を捨てきれなかった正則のプライドに、豊臣恩顧の大名を一刻も早く一掃したかった家康の思惑が上手く嵌った成果かと思える。

多聞櫓を奥まで進み太鼓櫓へ。

その名の通り、往時はここから太鼓の音で時間を知らせていた。

太鼓楼には大きな太鼓が置かれ、誰でも自由に叩くことができるようになっている。

さて、福島正則に代わって新たな広島城の主となったのは、紀伊和歌山城主の浅野長晟(ながあきら)。

広島城に入城したのは元和5(1619)年のこと。

正則が整備した諸制度を踏襲し、さらに補強して藩の統治機構を完成させた。

その後、浅野家は十一代にわたって芸備42万石を支配し、明治維新を迎える。

というわけで広島城の主を最も長く務めたのは浅野家なのだが。

太鼓櫓の壁には毛利家の家紋「一文字三星」が大きく掲げられている。

どうやら広島市では広島城を“毛利の城”として推していきたいように見える。

二の丸を後にして本丸へ渡る。

枡形の中御門跡をクランク状に通り抜け、本丸の下段を突っ切り、石段を登って本丸上段へ。

正面には大本営前庭築山、その後ろ側に広島大本営跡が広がる。

rj32広島城R05

明治27(1894)年、ここに日清戦争を指揮する大本営が建造された。

明治天皇以下、諸大臣から帝国議会議員まで東京から一斉に移転し、戦時中は広島が一時的な首都に。

日清戦争終結後に大本営は解散するも建物は残され、戦前は国の史跡に指定されていた。

無論、現在では礎石だけが往時の面影を今に伝えている。

大本営跡の左上には広島城の天守閣が聳えている。

天守閣は毛利輝元により建造されたものが明治維新後も破却されずに残され、戦前には文化財として国宝にも指定されていた。

天守閣だけでなく城内に構造物は数多く遺されていたのだが、それらはすべて原爆により悉く破壊され、灰燼に帰してしまった。

現在のそれは昭和33(1958)年に再建された鉄筋鉄骨コンクリート製の復元天守閣。

コンクリの外壁を木材で覆い、なるべく往年の姿を彷彿とさせる努力が施されている。

内部は復元天守閣によくある博物館だが、展示内容に興味を惹かれなかったので中に入ることなく天守閣を後にした。

rj33広島城K02

[旅行日:2014年6月21日]

一巡せしもの[伊雑宮・続]01

rj01続伊雑宮4T03

平成24(2012)年のクリスマス・イブに訪れた志摩国一之宮「伊雑宮(いざわのみや)」。

しかし余りに先を急ぎ過ぎたせいか、肝心要のところを見落としてしまった。

それを悔いること1年余…こたび改めて伊雑宮を再訪することにしたものだ。

近鉄志摩線上之郷駅。ここへ来るのも1年数ヶ月ぶり。

駅から前回と同じ道筋を辿って伊雑宮へ向かうが、周辺の景色にさしたる変化はない。

だが今回は時間に余裕があるので、視界に入る建物が初めて見るかのようで新鮮だ。

途中「中長官家の長屋門」という古い建物が立っている。

伊雑宮の長官を代々務めてきた中家の屋敷の、南西部入口に遺されている長屋門の一部。

家屋は建て替えられているが長屋門は往時のもので、城壁と黒い腰板が往時の姿を今に伝えている。

道を進んだ先の角には前回も通りすがりに見かけた鰻料理の旅館中六(ちゅうろく)。

昭和4(1929)年の建築という建物は国の登録有形文化財にも指定されている。

その屋号は御師中六太夫の名に由来する“御師の家”だったことは前回も触れた。

往時は旅館として営業していたが、現在では割烹だけの模様だ。

中六と道を挟んだ向かい側にある建物は「神武参剣道場」。

昭和36(1961)年、吉角旅館の跡地に建てられた武道場。

建材には昭和34(1929)年の伊勢湾台風による倒木が数多く用いられているそうだ。

こちらも現在、国の登録有形文化財に指定されている。

[旅行日:2014年3月17日]

キャッスル&ボールパーク②広島編 三

rj21広島城K01

広島市民球場跡から北へ向かい、広島グリーンアリーナの間を通り抜けて広島城へ。

広島城は天正17(1589)年、毛利輝元が築城を開始。

その前年に上洛して豊臣秀吉に謁見した輝元は、京の聚楽第や大坂城を目の当たりにして近代城郭の必要性を痛感した。

中国地方一帯を治めることができる城と城下町建設のために選んだ城地こそ、祖父元就が重視した瀬戸内海際の湾頭。

「広島」と命名されたのは、この時だったともいわれている。

グリーンアリーナを抜けて広い通りに出ると、広島城の天守閣が遠くにボウッと浮かんでいるように見える。

築城開始から2年後の天正19(1591)年、輝元は広島城へ入城。

ただ、完成していたのは本丸など主要部分だけで石垣や堀は未完成のまま。

その後も工事は進められ、ようやく慶長4(1599)に落成した。

翌5(1600)年に関ヶ原の戦いで西軍は破れ、総大将の輝元は「周防・長門」の二国に追いやられる羽目に。

中国120万石から防長37万石へ、徳川家康の手で毛利家は一介の田舎大名に“格下げ”と相成った。

取り潰しに遭っても不思議ではなかったが、名家好きだった家康の“お目こぼし”に与ったのだろう。

その“情け”が300年後に仇となるわけだから歴史とは面白いものだ。

rj22広島城R01

二の丸へと続く御門橋を渡り、表御門をくぐる。

平成元(1989)年、広島城築城400年を記念して二の丸の整備がスタートした。

戦前から残された写真や図面、発掘調査を基に、江戸時代の姿を現代に蘇らせる計画。

平成4(1992)年に御門橋と表御門が先行して完成し、同6(1994)年には残る平櫓、多聞櫓、太鼓櫓も完成。

内部は無料で見学できるので、さっそく上がり込む。ちなみに土足厳禁だ。

表御門に隣接する平櫓への階段を上がると、西へ向かって多聞櫓が続き、一番奥に太鼓櫓が立つという配置になっている。

さて、毛利家に代わって新たな広島城の主となったのは福島正則。

「賤ケ岳の七本鑓」一番鑓一番頸でおなじみ、豊臣恩顧大名の筆頭格。

秀吉の死後に石田三成と対立し、関ケ原の戦いでは東軍に属して勝利に貢献した。

合戦後、家康は論功行賞で旧毛利領の安芸・備後両国を正則に与える。

正則は城郭の整備を進めるとともに、町割りを改造して商業を勃興させるなど、現在の広島市の原型をほぼ確立させた。

とまぁ、広島市にとって正則は結構な恩人じゃないかと思えるのだが。

毛利家や後の浅野家に比べると、どうしても「豊臣を裏切り徳川に寝返った」ネガティブなイメージが付きまとうため、両氏の狭間で埋没しがちなのかも知れない。

多聞櫓に穿たれた三角形の鉄砲狭間から、外側の堀と石垣を覗きこんで見る。

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[旅行日:2014年6月21日]

一巡せしもの[敢國神社]07

rj07敢國4T019

佐那具駅から隣の伊賀上野駅へ行き、伊賀鉄道に乗り換えて上野市駅で途中下車。

クリスマス・イブということもあってか、駅舎は電飾でピッカピカ!

上野市駅は忍者の里であり松尾芭蕉の生誕地でもある伊賀上野の根拠地。

その「日本の神秘」とも言うべき場所が、クリスマス・イブというだけで、こんなにギラギラになっているとは…。

もし外国人が見たら、その目には一体どんなふうに映るのだろうか?

いや、これはこれで“JAPANESE COOL”の一言で片付けられるのだろう。

伊賀神戸行の電車に乗り込み、車内にて(それにしても敢國神社には無礼なことをした)と改めて思う。

この旅は御朱印集めの“スタンプラリー”ではない。

各神社の境内に満ち満ちる神気を吸引し、神前で手を合わせ、頭を垂れ、祭神と“一体化”することが目的。

なのに“日没”というだけで目的意識が虚ろになり、迎春で慌しい敢國神社の皆さんの手を煩わせることになろうとは。

これは必ず再び訪れねばなるまい…その気持ちの強まり方は伊雑宮の比ではない。

東海道最後の一之宮敢國神社の参拝を終えたものの、どこかに“未遂”という無念の思いを抱えたまま、伊賀の国を後にした。
 
[旅行日:2012年12月24日]

キャッスル&ボールパーク②広島編 二

広島2-3広島球場跡K05中

原爆ドームから相生通りを挟んだ向かい側に広大な空き地が広がっている。

広島東洋カープの本拠地として数々のドラマを生んできた旧広島市民球場の跡地だ。

平成21(2009)年、広島駅の近くにMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島がオープンするのと共に、半世紀以上に及ぶ歴史に幕を降ろした。

昭和25(1950)年に誕生したカープは当初、
広島港近くの広島総合球場(現・Coca-Cola West野球場)に本拠地を置いていた。

しかし市の中心部から遠く、観客の収容人員数も少なく、ナイター設備もないので、新しい球場を建設することに。

建設場所は紆余曲折を経て、ここ中央公園の一角に決定。

昭和32(1957)年7月24日、旧広島市民球場は「広島対阪神」戦でこけら落としを迎えた。

現在はフェンスに囲まれた敷地内に、昼間のみ足を踏み入れることができる。

ホームベースがあった場所は、朝に降り立った広島バスセンターからほど近いところにある。

マウンド(があったはずの場所)に立ち、周囲をグルリと見渡すと、カープの黄金期が脳裏に浮かんでくる。

新たな本拠地は出来たもののカープは結成以来、優勝とは無縁のチームだった。

特に昭和40年代は巨人が9年連続日本一を達成したこともあり、まさに“蚊帳の外”。
そんなカープが初めて優勝したのは球団結成から四半世紀後の昭和50(1975)年のこと。

優勝を決めたのは残念ながら広島市民球場ではなく、後楽園球場での巨人戦だった。

ちなみにカープのチームカラーが“赤”になったのは、この年から。

古葉竹識監督のもと、センター山本浩二、サード衣笠祥雄、エース外木場義郎ら“赤ヘル軍団”の戦いぶりが、広島のみならず日本中に“赤ヘル旋風”を巻き起こしたことを思い出す。

広島2-1広島球場跡KR01本

マウンド付近から今度はバックスクリーンがあった場所まで歩く。

三塁側からホームベース方向、そして一塁側へ、ゆっくりと視線を巡らせてみる。

広島が初めて日本シリーズを制したのは4年後の昭和54(1979)年。

日本一を決めたのもまた広島市民球場ではなく、大阪球場での近鉄戦だった。

第7戦、9回裏無死満塁という絶体絶命のピンチを奇跡的に抑え切った江夏豊のピッチングは「江夏の21球」として今も語り草だ。

広島は翌55(1980)年も日本シリーズを制して連覇を果たす。対戦相手は前年と同じ、近鉄だった。

日本一を決めた第7戦が開催されたのは、ここ広島市民球場。

開場から23年、広島市民球場に初めて日本一という“頂点”が齎されたのである。

センターからライト側へ歩いていくと、そこにライトスタンドが残されている。

平成24(2012)年、広島市民球場はライトスタンドを残して解体された。

今やプロ野球の応援では当たり前になっているトランペットの演奏やジェット風船は、すべてここ広島市民球場のライトスタンドから全国に広まったものだ。

こうした“日本初”の功績を伝える説明板がライトスタンドの近くにでも立ててもらえるといいのだが。

跡地の活用法については未だ先が見えない様相。

現在のところ緑地広場、文化芸術施設、スポーツ複合型施設などが候補に登っている。

ここに何を作るのかは広島市民が決めることであり、何が出来てもあまり感心はない。

だが、ここに新たな施設が建設されれば、広島市民球場の“フィールド”には二度と立てなくなる。

そうしたささやかな楽しみを味わえるのも今のうちかと思う。

広島2-2広島球場跡R01


[旅行日:2014年6月21日]

一巡せしもの[敢國神社]06

rj06敢國4T017

真っ暗な中、石段をソロっと下る。左右を見渡しても境内の構築物は何も見えない。

御朱印帳を受け取りつつ、多忙の中お手間を取らせたことを謝して境内を後にする。

来る時には気付かなかったが、入口の前にバス停を発見。

これは佐那具駅の隣にある新堂駅に近い伊賀支所と、伊賀鉄道上野市駅を結ぶ路線。

つまり乗り換え時に降車した上野市駅からバスで門前まで来ることができるというわけだ。

往路を巻き戻すように佐那具駅への道程を歩く。

来た時とは違い、とっぷりと陽も暮れ、街頭もない夜道は暗い。

空には雲が薄い膜を張り、月明かりが射すこともない。

ただ、もう日没を気にする必要もないので、薄闇の中にひっそりと佇む千歳の集落や大和街道沿いの街並みを堪能しつつ、ゆっくり歩きながら佐那具駅へ。

関西本線の中でも名古屋近郊の亀山駅以東と奈良近郊の加茂駅以西は電化されている。

しかし亀山駅と加茂駅の間は未だ非電化で“味噌っカス”の如く扱われている。

とはいえ、ここは駅は駅。

部活の練習を終えて帰宅する中高生を、次々と家族が車で迎えに来る。

その姿に敢國神社を参拝して良かったと、素直に思えた。
 
[旅行日:2012年12月24日]

キャッスル&ボールパーク②広島編 一

広島1-1広福ライナーR01

広島と福岡を結ぶ高速路線バス「広福ライナー」はは1日に昼間9往復。

1往復だけ運行されいる深夜便のみ広島ではなく福山が発着地となる。

JR九州バスと中国バスが隔日で運行し、この日はJR九州バスの担当日だった。

広島に到着直前の早朝5時半ごろ、宮島サービスエリアで休憩。

お土産売り場にはもみじ饅頭が山ほど並び、広島カープのグッズも充実。

停車時間は僅かながら、眺めているだけでも楽しめる。

広島1-2原爆ドームK01

午前6時過ぎ、広島バスセンターに到着。

広島県庁などが立ち並ぶ市の中心部ながら、土曜の早朝だけに歩いている人の姿は疎ら。

曇天下で小雨がパラつく中を市街地へ向けてプラプラ歩き出す。

ひとまずサウナで旅の汗を流し、午前10時ごろ原爆ドームへ。

早朝から内外問わず大勢の観光客が訪れている。

原爆ドームが広島県物産陳列館として開館したのは大正4(1915)年4月のこと。

設計者のヤン・レツルは母国チェコと日本で主に活動し、彼の“作品”は主に両国にしか残されていない。

特に日本では聖心女子学院や上智大学、雙葉高等女学校など東京の名門クリスチャン学校の校舎をデザインしたが、すべて関東大震災や東京大空襲で滅失。

戦後まで残っていた宮城県営松島パークホテルと宮島ホテル(広島)も、火災で焼失した。

レツルが日本国内で設計した建物のうち現在まで残っているのは皮肉にも広島県物産陳列館、つまり原爆ドームしかない。

原爆ドームは残されるべくして残された建物では決してない。

戦後、広島市が高度経済成長期へと駆け上がる途上で原爆ドーム存続の是非が問われ続けていた。

被爆の悲惨な記憶を思い起こさせるという理由から取り壊すべしという意見も根強かったのだ。

それに対して広島の人々が下した決断は“保存”。

その後3度に及ぶ保存工事を経て今に至るのだが、今後も大気汚染や酸性雨など環境の激変に耐え得る保証はどこにもない。

いっそのこと東大寺大仏殿のような、原爆ドームそのものを保護する覆堂が必要なのではなかろうか。

来2015年は広島県物産陳列館が落成してから丁度100周年。

そして1945年の原爆投下から70周年というダブルで節目の年に当たる。

原爆ドームの役割は単に核兵器の恐ろしさを後世に伝えるだけに留まらない。

戦後日本が焦土の中から再出発した、まさに“原点”でもあるはず。

昨今の集団的自衛権行使や原発再稼働といった“愚行”と向き合う上でも、日本人は原爆ドームの存在意義を再認識してみるべきではないだろうか。

広島1-3原爆ドームK01

[旅行日:2014年6月21日]

一巡せしもの[敢國神社]05

rj05続敢國4T12

主祭神の大彦命、又の名を敢國津神(あえのくにつかみ)は紀元350年頃、第八代孝元天皇の長子として誕生した。

第十代崇神天皇の詔により「四道(しどう)将軍」の一人として子の建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)と共に北陸・東海を征討。

その後、大彦命一族は伊賀国に移住し、阿拝(あえ)郡(現阿山郡)を拠点にしたので「阿拝氏」を名乗るように。

その後「敢」「阿閉」「阿部」「安倍」とも呼ばれるようになった。

「あえ」とは「あべ」の原音であり「あべ」姓の総祖神でもあるそうだ。

「アベノミクス」も歴史を遡れば敢國神社にたどり着くということか。

それにしても主祭神の大彦命に対して配神が少彦名命とは少し出来過ぎのような気もするが、別にシンメトリーを狙っているわけではない。

大昔、伊賀地方には渡来人一族である秦(はた)氏が住んでいた。

彼らが朝鮮半島から持ち込んだ先進技術によって伊賀組紐や伊賀焼などの伝統工芸品が生まれ、今でも伊賀地方の特産品として全国的に知られている。

秦氏の信仰していた神が少彦名命であり、往時は現在の南宮山山頂付近に祀ってあった。

それが敢國神社の創建時に南宮山から現在地へと遷座したという。

敢國神社は大彦命一族の末裔である阿拝氏と、渡来人の秦氏の“混血”による神と言えるだろう。
 
[旅行日:2012年12月24日]

キャッスル&ボールパーク①福岡編 七

福岡7-1福岡編ttl

地下鉄で博多駅へ。
バスの発車時間まで少し時間があるので、時間を潰そうと駅ビルの中をウロウロする。

平成23(2011)年、九州新幹線の全線開業に併せてリニューアルして以来、初めて訪れた博多駅は全く別の駅と化していた。

地下街には有為な時間を過ごせそうな一杯飲み屋や立ち飲み屋が散見されたが、残念なことにどこも満席!

駅は旅人のモノなんだから地元民は馴染みの店に行けよ! と独りごちつつ、駅を出て酒場を求め駅前を漂う。

しかし、これといった店に出くわさないまま彷徨うこと数十分、ようやくたどり着いたのが駅前の朝日ビル地下にあった居酒屋「石蔵」だった。

店先の黒板に手書きされていた「とくとくセット」、生ビール+焼酎2杯+料理3品で1900円…に惹かれての選択。

入り口が大きく開かれていたので気楽に入れ、カウンター席には誰もいなかったので窮屈な思いをすることもなく。

席に着くや、昼下がりに福岡競艇場で博多うどんを啜って以来、何も口にしていなかったことに気付く。

道理で喉が乾いているはず。
まずは突き出しの枝豆をアテに生ビールで乾いた喉を潤す。

「焼酎はどれにしますか?」

若い女性店員が尋ねてきたので、芋、それもお湯割りを選択する。
続いて料理3品が次々と運ばれてきた。

芝海老のフライ、明太子の玉子焼き巻き、刺身。
出来合にしてはどれも美味く、飛び込みで入った割には正解だったか。

焼酎がアッという間に底を突いたので、お替わりを注文。
一緒に博多の郷土料理「おきゅうと」を頼んでみる。

「おきゅうと」とは海藻を加工した寒天のような食材で、福岡・博多では朝食のお供に欠かせない一品との由。

以前から一度は食べて見たかった「おきゅうと」、初めての味わいは…味があるような、ないような。
どちらかといえば味そのものより食感を楽しむ料理にも思える。

いずれにせよ、胡瓜の千切りを「おきゅうと」で巻いたものと、冷酒を交互に口へ運べば、止めどなくなりそうな予感はする。

更にグラスが空いて焼酎のお替わりを頼もうかと思ったその時、テーブルの立て札が目に止まった。
そこにあったのは「えみ割り」…焼酎の青汁割りのことだ。

これまで様々な「割り」を喰らってきたが、さすがに青汁で割った焼酎は飲んだことがない。
これも旅の醍醐味とばかりに「えみ割り」を注文し、これまた博多名物「酢もつ」も一緒にオーダー。

「酢もつ」とは新鮮なモツを茹でて細切りにし、刻み葱とポン酢で和えた料理。
博多ではどこの居酒屋にもあるありふれたメニューらしいのだが、あまり他では見かけない。

「えみ割り」はホットとアイスをチョイスできるのだが、ここはお湯割りの流れを受けてホットを注文する。

一口飲んでみると美味いのか不味いのかよく分からないし、青汁の粉末が溶け残ってグラスの底に溜まるのもよろしくない

それに「酢もつ」との相性も青汁がポン酢の風味を打ち消してしまうせいか、あまりピンと来ない。
これならば普通のお湯割りのほうが「酢もつ」とマッチしていたような気がする。

ただ、これで「えみ割り」を全否定する気はない。むしろガッツリした肉料理にはピッタリではなかろうか。
もつ鍋なら好適なマリアージュが楽しめるかも知れない。

青汁の粉末があれば家庭でも普通に作れるわけだし、合わせる料理次第では焼酎を美味しく飲める手段としてアリだろう。

午後10時前、そろそろバスの発車時間が迫ってきた。石蔵ともお別れの時である。
1時間と少し居て会計は3000円強と、コストパフォーマンスもなかなか。

いつかまた博多駅で乗り換えの合間に時間が空いた時は、ここへ一杯飲りに来るとしよう。

福岡7-2⑦石蔵

午後10時35分、深夜高速バス「広福ライナー」は博多バスターミナルを出発した。
2×2の横4列シートは、ほぼ満席。女性の利用客が多いのにビックリした。

座席は最後方の窓側で、通路を挟んだ反対側はトイレ。
通路を行き来する客もおらず、なかなか快適。

暗闇に包まれた車内で微睡みながら、福岡の街に別れを告げたのだった。

福岡7-3広福ライナーK01

[旅行日:2014年6月20日]

一巡せしもの[敢國神社]04

rj04敢國4T013

だがしかし、既に日は西の地平線に没し、境内を歩くも真っ暗で何も見えない。

とはいえ、まだ時刻は午後5時前。周囲の暗さとのギャップに惑わされてはいけない。

社務所を覗いてみれば煌々と明かりが灯いている。

御朱印を賜るべく中に入ってみると、そこはまさに“戦場”だった。

来るべき新年を迎えるに当たり、氏子への賀状を用意したり、御札や御守りを準備したりと神職総出で大わらわ。

世間はイエス・キリストの誕生日を翌日に控え、ケーキにパクつきシャンメリーを喰らいプレゼントを交換している(はず)なのに。

だが、ここにはクリスマス・イブの“ク”の字もない…当然といえば当然だが。

社務所に入り中へ声を掛けたものの、皆さん仕事に集中していて気がつく素振りがない。

ならばと次は少し強目に声を掛けると、今度は皆さん“ハッ!”とした顔で一斉に振り返った。

その表情、なかなかお目にかかれるものではない。

御朱印を押してもらっている間、拝殿に参拝する。

だが、拝殿の中は真っ暗闇で何も見えない。げに夜の神社とは恐ろしいものだ。
 
[旅行日:2012年12月24日]

キャッスル&ボールパーク①福岡編 六

福岡6-1Y!ドームR07

大濠公園駅から地下鉄に乗車し、隣の唐人町駅で下車。
地上に出て目の前を流れる川の左側、ホークスとうじん通りを海の方角へと向かう。

駅から歩くこと15分ほどで、黄金色に輝くヤフオク!ドームが姿を見せた。
ドームの前に広がるショッピング街「ホークスタウンモール」を通ってヤフオク!ドームへ。

今日は野球の試合もイベントもないので、モールは人通りが少なく閑散としている。
ここにはHKT48劇場もあるが、その前には十数人程度のファンがタムロしている程度。

博多駅からも天神からも唐人町からも遠く、しかも主要な公共交通機関は鉄道ではなくバス。
ホークスの試合やイベントのない日は、なかなか客が集まりにくいのだろか?

モールを抜けてヤフオク!ドームの前へ。
試合のある日なら人波であふれているであろうはずのコンコースも、ほとんど人影なし。

平日の夕方、しかもハラハラと小雨が落ちている状況では、さもありなん。

「すみません!」

ヤフオク!ドームをボーッと眺めていると、背後から声を掛けられた。
振り向くと一人の若い女性が立っている。

「ゼップフクオカってどこか分かりますか?」
 「ゼップフクオカ?」

その質問にはゼップというより絶句。

「ZeppFukuokaは、ほら、そこだよ」

目の前にある建物を指差すも、まだ女性は場所が分からない様子。

「その、目の前にあるグレーの建物だよ」
 「あー、分かりましたぁ! ありがとうございます!」

そう言うと一目散に駆け出して行った。
開演時間が迫り相当焦っていて、目の前の会場に気が付かなかったのだろうか? 
これぞまさに「灯台下暗し」だ。

福岡6-2Y!ドームK03

ドームの外周を半時計回りに逍遥。

5番ゲート左隣には福岡ソフトバンクホークスのオフィシャル野球観戦居酒屋「鷹正」がある。
外からはもちろん、ドーム内からもアクセスできるのはオフィシャルならでは。

しかし営業日はヤフオク!ドームで試合やコンサート、イベントが開催される日のみ。
なので当日はお休み。

左手方面には先ほど通ってきたホークスタウンモールが広がる。
「Hawks」のロゴはソフトバンクではなくダイエー時代のもの。
現在のダイエーが置かれた立場を思えば、そのロゴからは儚さを感じる。

視線を手前に移してヤフオク!ドームとホークスタウンモールの境目を見ると、両者を隔てる壁から無数の手がニョキッと突き出している。

「暖手(だんて)の広場」といって200体以上に及ぶ有名人の等身大手形が立体的に再現されている場所なのだそうだ。

ビリー・ジョエルやナタリー・コールといった外タレから、永六輔や古今亭志ん朝、朝比奈隆までバラエティに富んだ顔(というか手)ぶれが並んでいる。

ドームの外周を半分ほど過ぎて海側の突き当りまで来たところに仏像が立っているのが見えた。
横に立つ標柱には「鷹観世音大菩薩」と記されている。ホークスの守護神(仏?)の由。

菩薩様の背中には鷹の翼が広がり、その背後には九州を象った装飾。
この神仏頼みは「神様仏様稲尾様」以来の福岡の伝統なのだろうか?

ヤフオク!ドームを一周して元の位置に戻る。試合やイベントがなければ何ともつまらない場所だ。
隣接するヒルトンホテルで夕食とも思ったが、なんか旅の趣旨にそぐわない気がするので止めた。

それならホークスタウンモールでと思うが、夜行高速バスに乗り遅れるのも嫌なのでパス。
唐人町駅へホークスとうじん通りを戻る。

既に日は落ちて辺りは薄暗く、部活帰りの中学生たちが自転車で通り過ぎていく。
ヤフオク!ドームでナイターが開催される時は、この通りもホークスファンで溢れかえるのだろう。

福岡6-3

[旅行日:2014年6月20日]

一巡せしもの[敢國神社]03

rj03続敢國4T03

千歳の街中を縫う細い道を抜けると、交差点に「敢國神社」の案内看板を発見。

日没までに何とか間に合うのか? その微妙な加減に胸がザワつく。

敢國神社の創建は斉明天皇4年、紀元658年と伝わっている。

主祭神は大彦命(おおひこのみこと)。

配神は少彦名命(すくなひこなのみこと)と金山比咩命(かなやまひめのみこと)。

当初は大彦命と少彦名命の二神のみで創建されたとある。

時代が下って中世に入ると、今度は少彦名命と金山比咩命だけが祀られるようになった。

その後、明治時代に入ってから大彦命が主祭神に返り咲き、そのまま現在に至っている。

このように敢國神社の祭神については歴史上の推移と相まって色々と変遷しているようである。

気がつけば、とうに陽は西に傾き、すぐにでも地平線の果てへと沈みそう。

交差点を過ぎて細い道を歩いていると、左側から巨大な自動車専用道路が寄り添ってきた。

この名阪国道(国道25号線バイパス)に沿って歩くうち県道と合流。

名阪国道のガード下をくぐって畑と住宅に挟まれた緩やかな勾配を登っていく。

佐那具駅から歩くこと丁度30分。ようやく敢國神社の門前に到着した。
 
[旅行日:2012年12月24日]

キャッスル&ボールパーク①福岡編 五

福岡5-1福岡城址R13

競技場と道を挟んだ向かい側に立っているのが県指定文化財、旧母里太兵衛邸長屋門。

「酒は飲め飲め~飲むならば~」の黒田節でおなじみ、母里太兵衛の屋敷にあった長屋門を移築したもの。母里の屋敷は現在、天神二丁目の福岡天神センタービルの場所にあったという。

黒田節は文禄5(1596)の正月、小田原征伐で京都伏見にいた広島藩主福島正則のもとへ、太兵衛が黒田長政の名代として挨拶に行った際の出来事に由来する。

太兵衛も正則も大酒飲みで、両者が出逢えば盛大な酒宴になるのは必定。酒でのトラブルを怖れた長政は太兵衛に対し、どれだけ酒を勧められても絶対に飲むなと厳命を下した。

太兵衛が正則の許を訪れると案の定、朝から酒宴を張っている。
年賀の挨拶もソコソコに、さっそく太兵衛に酒を勧める正則。

「やあやあ母里殿、よう来られた。まずは駆けつけ一杯!」
「それがし、酒は不調法でござる故」 

だがしかし、太兵衛も主命とあって酒の誘惑を頑なに固辞。
正則も断られるごとに強く酒を勧めるが、ことごとく跳ね除ける太兵衛。

正則も意地になったか、直径一尺にも及ぶ漆塗りの大盃に三升もの酒をナミナミと注ぎ、太兵衛に差し出して言った。

「この酒を飲み干したなら、なんなりと好きなものを褒美にとらすぞ」

それでも断固として盃を受け取らない太兵衛。
その頑なさに業を煮やしたのか、正則は挑発行動に出た。

「酒豪と名に聞く母里太兵衛ですら、この程度の酒すら平らげる自信がないとは。よほど黒田家は酒に弱いのであろう、腰抜け揃いの弱虫藩じゃな。長政殿もお気の毒に」

自分のことはともかく、主君の家名を貶められた太兵衛は憤慨。
また、これ以上断って短気な正則の癇癪に火を付けるのも得策ではないと判断したのか。

「然らば、ここを戦場と心得、頂戴仕りまする」

太兵衛は腹を括り、大盃を受け取るや三升もの酒を一気のうちに飲み干すや「おかわり」そして「おかわり」と、あれよあれよという間に三杯立て続けに平らげた。

呆気にとられる正則に、太兵衛は一本の槍を指差して冷静に言い放った。

「お約束のご褒美には、あの槍を頂戴したく仕ります」
「あ、あれだけは勘弁せい、太閤殿下から賜った家宝じゃ…」

その槍は第百六代正親町(おおぎまち)天皇から将軍足利義昭へ下付され、織田信長、豊臣秀吉の手を経て正則に渡った天下の名槍「日本号」。 

正則は酒に酔って日本号を隠し忘れ、出しっぱなしにしたのが仇になった格好。
渋る正則に、太兵衛は重ねて言い放つ。

「約束が違いますな、武士に二言はござらぬはず」

そう言われたらグーの音も出ず、正則は太兵衛に日本号を渡すことに。

太兵衛は日本号を肩に担ぎ、馬上で「筑前今様」(黒田節の元歌)を歌いながら、いい気分で帰ったという。

日本号は長さ79.2センチ、全長が321.5センチ、重さ2800グラムという大身の槍。
現在、福岡市博物館に所蔵されている。 

福岡5-2福岡城址R11

母里太兵衛の長屋門から明治通り方面へ向かうと、福岡城に架かるもうひとつの橋、下之橋に出る。
ここには上之橋と同様に下之橋御門が構え、その横には伝潮見櫓が立っている。

昭和31(1956)年、浜の町(中央区舞鶴三丁目)の旧黒田別邸から現在地に再移築されたもので、県から文化財に指定されている。

頭に“伝”と付いているのは、この櫓が本当の潮見櫓ではないと推定されているからで、最近の調査によると元は本丸表御殿近くにあった「「古時打櫓(ふるときうちやぐら)」らしい。

では本来の潮見櫓はどこにあるのかというと、本丸御門のところで登場した崇福寺に移築されているそうだ。

下之橋御門は平成12(2000)年8月に不審火で半焼したものの、同20(2008)年11月に復元された。

焼失前は平屋造りだったが、美しい二層の城門である現在の姿が幕末まであった本来の姿だと言われているという。 

福岡5-3福岡城址R07

[旅行日:2014年6月20日]
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