2014年07月
それは倭姫命(やまとひめのみこと)が皇大神宮を創建した後、御供物の採取場である「御贄地(みにえどころ)」に相応しい土地を探していたときのこと。
志摩国を巡行していた折、昼も夜もブッ通しで鳴き続ける一羽の鳥がいた。
不思議に思った倭姫命は、大幡主命(おおはたぬしのみこと)と舎人紀麻良(きのあさよし)に様子を見に行かせることに。
行って見ると志摩国伊雑の芦原の中に、根本は一基で末は千に茂る稲穂があった。
その稲穂を 「白真名鶴」(しろまなづる) という鳥がくわえて回り、突つっついては鳴いている。
その姿を見られるや白真名鶴はパタリと鳴き止み、口に加えていた稲穂をポトリを落とした。
このことを倭姫命に報告したところ「物言わぬ鳥ですら田を作る。皇太神(天照大御神)に奉れる物を」と仰せられた。
そして伊佐波登美命(いざわとみのみのみこと)に命じて稲穂を抜かせ、天照大御神の御前に捧げた。
さらに稲穂の生えていた土地を「千田」と名付け、そこに伊佐波登美命の神宮を建立し、皇大神宮の摂社とした。
「倭姫命世記」は、これが伊雑宮の起源だと記している。
正殿の左横には同程度に大きな空き地が広がっている。
ここは「古殿地」といって、20年ごとに東西交互に社殿を造営する“式年遷宮”用の御敷地。
この点もまた、伊勢神宮と共通している。
ちなみに別宮の遷宮は正宮が終わった後、順次行われていく予定。
正宮の遷宮は平成25(2013)年に予定されているので、伊雑宮の遷宮は平成26(2014)年以降ということになる。
一の鳥居は当然といえば当然だが、典型的な神明(伊勢)鳥居である
鳥居をくぐると衛士派出所と宿衛屋(しゅくえいや)が向き合うように立ち、その間を参道が奥に向かって伸びている。
宿衛屋とは「護衛兵が宿直する建物」の意味だが、向かいに衛士派出所があるので、現在では社務所の役割を果たしている。
それにしても、社務所はあっても派出所のある一之宮はここが初めてだ。
参道は緩やかなS字のカーブを描きながら、境内の奥へと通じている。
両側には巨木が文字通り林立し、この空間に満ちる空気までが祓い清められているかのよう。
参道を抜けると右手に正殿が聳立している。
その姿は、どこか伊勢神宮内宮の社殿に似ている。
参拝の栞によると、やはり構造は内宮に準じているそうだ。
南に面して建てられた正殿は唯一神明造で御屋根の鰹木は六本。
東西両端には内削ぎ(水平切)の千木が高く聳えている。
周囲を瑞垣と玉垣の二重の御垣で囲まれ、それぞれに御門がある。
鎌倉時代に成立した「倭姫命世記」によると、伊雑宮が創建されたのは今から約二千年前に遡る。
伊雑宮の入口は神武参剣道場の斜向かいにあった。
まずは門前に立つ説明の看板を読む。
「伊雑宮は皇大神宮の別宮のひとつであり、昔、大神の遥宮(とおのみや)とも云われ、志摩国の大社として有名である」
皇大神宮、つまり伊勢神宮内宮の別宮であり、往古は遥拝宮だったことは伊射波神社の項でも触れた。
ちなみに伊勢神宮内宮の別宮は次の通り。
- 荒祭宮
- 月讀宮
- 瀧原宮
- 伊雑宮
- 風日祈宮
- 倭姫宮
このうち伊雑宮だけが志摩国に鎮座している。
だが、説明板には志摩國一之宮に関する記述が欠片もない。
伊雑宮は「伊勢神宮」ブランド推し一本でアピールし、「志摩國一之宮」ブランドは排除する姿勢なのだろうか?
そんな疑問を抱きつつ、境内に足を踏み入れる。
「イゾウグウ」「イソベさん」とも呼ばれる伊雑宮。
ここまで14の一之宮を訪れたが、そのどれとも異なる雰囲気を感じる。
やはり“伊勢神宮グループ”に属するだけあって、別宮にもお伊勢さん独特の空気が流れているのだろうか。
近鉄鳥羽駅の近辺は観光客でごった返していた。
この日は天皇誕生日の振替休日にしてクリスマス・イヴ。
和洋折衷の極みの如き祝日のせいで混雑しているのかどうかまでは知らない。
ここから近鉄志摩線に乗車し、伊雑宮最寄りの上之郷駅まで普通列車で20分強の鉄旅。
観光客のほとんどは鳥羽駅で下車したのか、車内は閑散としている。
鳥羽駅を出た志摩線は安楽島橋のあたりを過ぎると内陸部に入って行く。
海沿いを走る路線だが車窓には平凡な田園風景だけが続く。
風光明媚な海沿いの景色を一度も見ることのないまま上之郷駅に到着。
家並が建て込んだ繁華な土地かと思いきや、周辺を田畑に囲まれた長閑な駅だ。
駅を出て国道167号線を渡り、列車の進行方向と逆に少し戻ったところから細い路地に入る。
道の両側には歴史を感じる建物が並び、一之宮の鎮座地ならではの雰囲気。
突き当りはT字路で、角の右側には大層古風な和風建築が立ちっている。
看板には鰻料理の割烹旅館「中六」とある。
その反対側、角の左側にもこれまた立派な和風建築物の姿が。
こちらは「神武参剣道場」という。
しかし伊雑宮への参詣で頭が一杯で、どちらもひと眺めしただけで先を急ぐ。
宮司さんの到着まで少々時間がかかりそうだし、朝から何も食べてない。
たまたま目の前に「安楽島フードセンター」というスーパーがあり、手元にバス用の小銭もなかったので、これ幸いとばかりに立ち寄る。
ところがあんパンを買ってる最中、携帯電話が鳴った。
慌てて店を出ると、既に宮司さんの車が到着している。
やはり移動時間では徒歩と車じゃ比べ物にならないと、改めて思い知らされた。
御朱印を賜りつつ、宮司さんと色んな話をする。
「寒かったでしょう」と参詣の労をねぎらわれる。
「つくづく真冬に来て良かったと思います」と答えた。
夏なら蚊の大群に追われていたかもしれないし、蝮に遭遇していた可能性だってある。
「日本で最も参拝するのが困難な一之宮だって言われてるようですね」
「そうみたいなので、結構な数の標識を参道に整備してるんですよ」
宮司さんが再び日常業務に戻り、ひとり漁港に残された。
堤防に腰を掛け、あんぱんを齧りながらバスを待つ。
青い空に白い雲がポッカリと、青い海には緑の島々がポッカリと、それぞれ浮かんでいる。
ボーッと漁港を眺めているうち、安楽島バス停方面から鳥羽駅行きのバスが姿を現した。
今までの中で最も辿り着くことが困難だった一之宮に別れを告げ、バスへと乗り込んだ。
考えてみたら、ここから伊射波神社まで“一本道”だった。
しかも道案内の標識が折々に設置されているので、変な“冒険心”さえ起こさなければ、まず迷う心配はないだろう。
海側からのアプローチよりも時間はかかるが、安全にたどり着けるのは確かだ。
かもめバスの停留所に向かうと、近くに大きな木造建造物が立っている。
安楽島舞台。
文久2(1862)年に建造された芝居小屋で、鳥羽市から有形民俗文化財に指定されている。
その周辺がちょっとした駐車場のようになっており、伊射波神社へ車で参拝する場合ここに駐車するのが一般的なようだ。
ここからかもめバスには乗らず、さらに5分ほど歩く。
先ほどまでの沿道の風景とは打って変わり、緩やかな坂道の両側に普通の住宅地が続く。
坂が下りきったところで三叉路となり、ここにも案内板が掲示されていた。
伊射波神社
左←一の宮(1.8km)
右→宮司宅(100m)
やはり山中の細道に設置されていた標識は、サービス精神満点の宮司による孤軍奮闘だったようだ。
ここ神社とご自宅の分岐点から、御朱印を賜るため宮司さんの携帯に電話を掛けた。
すると今、入れ違いで伊射波神社にいるそうで、すぐに車でこちらに向かってくれるという。
目の前にある安楽島漁港の駐車場で待つことになった。
ススキが密集している藪のところに、今度は石の標識が目立たないように佇んでいる。
ラグビーボール大の石に「右一ノ宮」と刻まれ、その周囲を白い小石が埋めた形状。
極めて素朴ながら清冽な神々しさを感じる。
切通しになった竹林の中を通り過ぎると、今度は「右一之宮」と刻まれた石柱が道端に立っている。
それにしても案内する標識や看板の多さときたら。
サービス精神満点の宮司さんが孤軍奮闘しているのか。
それとも、それだけ参詣客から道案内に関する問い合わせが多いということか。
伊射波神社から30分ほど歩いたろうか、ようやく社殿以来の建物と遭遇。
鍵でおなじみの会社、美和ロックの海の家だ。
そして、ここにも密漁者への警告板が設置されている。
それだけ密漁者が多いということか。
道はかめや旅館の間を抜け、家々が立ち並ぶ集落へと入り、ようやく安楽島に到着した。
ここまで来ると道はキレイに舗装され、広く立派になっている。
山中に湧いた源泉が海に向かって流れるうち、大河になっていくのと似た感覚だ。
安楽島の集落で最後の案内板を発見した。こちら側から向かえば最初の案内板になるか。
彩色された大きな地図に伊射波神社までの細々とした参道が記されている。
細い道をウネウネと歩くうち、小さな入江に出た。
堤防の前に置いてある小さな木製の標識には「一之宮←」とだけ、白いペンキで記されている。
シンプルな標識と、エメラルドグリーンに輝く海のコントラストは、まるで一幅の絵のようだ。
道は海岸沿いから山の中へと分け入り、両脇を疎林や原っぱに挟まれながら歩き続ける。
すると、ここにも標識が立っていた。
素っ気なく「伊射波神社 右一之宮→」と墨書された簡素な木板が、木の棒に打ち付けられている。
一応このあたりの道は舗装されているので、それほど苦ではない。
歩いている途中、横を軽トラックが通り過ぎて行った。
このあたりまでは車で入って来られなくはないらしい。
しかし極端な隘路の上、下手に脱輪すると助けを呼ぶだけで一苦労。
道に慣れた地元の人でもなければ、とても車で向かうのは無理なように思える。
坂を下っていくと、二叉路に出た。
ここにも木製の標識があり「車|歩行者近道」と記されている。
不覚にも歩行者近道の存在には気付かなかった。道理で道が舗装されていたわけだ。
伊雑宮は伊勢神宮の別宮であり、古くは遥拝宮だったとも言われている。
一方の伊射波神社は旧社格が無格社という小社。
いずれも平安時代に国司が参詣に赴く一之宮の条件に適合しているのかどうか。
しかも、伊雑宮も祭神に伊佐波登美命と玉柱屋姫命を祀っている。
社号の読み方が同じ「いざわ」で、祭神も共通している。
一国内に一之宮が二社以上ある例は数多いが、志摩国の場合そのどれとも事情が異なるように思える。
伊雑宮は伊勢別宮だけあり、もちろん主祭神は天照大御神で、伊佐波登美命と玉柱屋姫命は後から加えられたらしい。
一方、伊射波神社は鳥羽藩が文化4(1807)年に修築した際、伊雑宮と混同されたのではないかと言われている。
いずれにせよ、どちらが“真”の志摩国一之宮かの究明は神学者にお任せするとして。
一介の旅人に過ぎない自分は、伊射波神社の素朴な佇まいを堪能するのみだ。
社号標の近くに安楽島氏子会が設置した案内板が立っている。
すっかり塗料が剥げ落ち、案内図としての役割を十全に果たしているとは言いがたい。
だが伊射波神社の位置と、御利益の「家内安全 五穀豊穣 縁結びの神」はと明示されており、最低限の仕事は務めているようだ。
海沿いの入口から辿ってきた細い道を遡り、再び伊射波神社の参道へ戻る。
この時点で既に午前10時。
安楽島のバス停に到着するのは何時ごろになるのか見当もつかない。
参道を先へ踏み出すと、ここに鳥居と常夜灯が立っている。
鳥居は先ほどと同じ神明鳥居だ。
先に伸びる参道は急坂で、しかも石畳あり未舗装道ありと足場は良くない。
ただ、海岸線の岩場よりはマシだが。
坂を降り切ったところで突然視界が開けた。
紺碧の伊勢湾が眼前に広がり、その美しさにフッと息を呑む。
ここにも鳥居と、社号標が立っていた。
参道のところにあったのが二の鳥居で、拝殿前のが三の鳥居、ここが一の鳥居だろう。
二、三の鳥居と同じ形の明神鳥居なのだが、木製ではなく石造りなのが異なる。
人気のない山中にひっそりと佇む華美な装飾のないシンプルな鳥居からは、現世での御利益ではない、もっと原始的な“信仰”の念が伝わってくる。
社号標には「式内 伊射波神社」と刻まれている。
志摩国には一之宮が二つある。
ひとつは、ここ伊射波神社。
もうひとつは、伊雑宮(いざわのみや)。
こんな場所までわざわざゴミを捨てに来る理由も見当たらない。
不法投棄ではなく、海の果てから流れ着いた漂流物だろう。
その間を掻き分けるように海へ向かうと、左側に小さな井戸がある。
伊射波神社と何か関係があるのだろうか?
ゴミの山を抜け出して木立の中から浜辺に出ると、そこはウィスタリアライフクラブからさほど遠くない場所だった。
今度は浜辺に立って木立の方角を眺めてみると、漂流物のゴミで溢れ返っている。
よほど注意深く見なければ、ここが入口だと気が付かないのも無理はない。
周辺を丹念に見ていると、かつて看板に使用されていたかのような木板がポツンと置かれていることに気付いた。
板には何も書かれていないが、参道入口の案内板だったのではないか。
そういえば海側からの参道に鳥居はなかった。
何も書かれていない木の板ではなく、せめて小さな鳥居でも立てておいてもらえたら一発で入口を発見できたのに、と思う。
海側からの入口を探しながらの参詣だったので、時間がかかったのはやむを得ない。
海沿いの道程の大変さと入口の場所が最初から分かっていたら、多分30分ぐらいで着けたのではないか。
ただ、風雨の強い日は絶対に避けるべき。
下手したら遭難してしまうだろう。
それにしても、生田神社は稚日女尊を「恋愛成就の女神」としてガンガン推している。
一方の伊射波神社に「恋愛成就」の佇まいは皆無。
それどころか稚日女尊は機織の道具が女陰に突き刺さって亡くなったわけで。
「恋愛」どころか、むしろ不妊に悩む女性を救う神様のようにも思えるのだが。
いずれにせよ同じ祭神を祭りながらも、この彼我の違い。
一体どっちが真の“稚日女尊”の姿なのか?
伊射波神社の無垢で質素な本殿を眺めながら、そんな疑問を頭の中で楽しんでみた。
参拝を終え、今度は「表参道」を辿り安楽島経由で帰ることにする。
宮司さんのご自宅も幸いなことに安楽島バス停の近くにあるので好都合。
安楽島へ向けて参道を歩き始めた時、一本の細い道が海の方へ続いているのに気付いた。
ひょっとしたら……気になったので道の奥へ行ってみる。
進むにつれて道は更に幅を狭め、その先に朽ちかけてはいるが木による階段らしきものも整備されている。
これは紛れも無く、伊射波神社への海側からの参道だろう。
階段を降りると、木々に囲まれて大量のゴミが山のように堆積している一角に出た。
神戸のハートランド三宮のド真ん中に鎮座する生田神社は、年間通じて大勢の参拝客で賑わう日本でも指折りの大神社。
ここもまた、稚日女尊を主祭神に祀っている。
由来は「『日本書紀』神功皇后条巻第9」に記されているのだが、伊射波神社のそれとは全く内容が異なっている。
神功皇后が新羅遠征から大和へ戻る途中、今の神戸港の辺りで船が進まなくなった。
占ったところ稚日女尊が現れ「活田長狭国(いくたながをのくに) に居りたい」と主張。
そこで海上五十狭茅(うなかみのいそさち)を神主にして、活田=生田の地に稚日女尊を祀った。
それが生田神社創建の由来だと社伝にある。
こちらの稚日女尊は機織りの女神ではなく、どうも神戸地方の産土神(地主神)らしい。
その後、風雨を司る神として朝廷から手篤く祀られた稚日女尊は、五穀豊穣や恋愛成就(?)の神として信仰を集めることに。
機織りの神と風雨の神という、このあまりにもかけ離れた神格。
それゆえ元は別々だった神格が結び付き、一つの神格になったのではないかとも考えられる。
だが、それを証明できる史料はなく、機織の神から風雨の神へと進化発展していった可能性も捨てきれない。
むしろ素盞鳴尊の狼藉に驚き亡くなった織女の名こそ具体的に記されていないわけだから。
生田神社の御祭神こそ真の稚日女尊じゃないかとも思えるのだが。
当然ながら中は大パニックとなり、織女の一人は驚いた拍子に機具(はたぐ)の稜(ひ:横糸を通す道具)の端が女陰に突き刺さり、それがもとで亡くなってしまった。
スサノヲの狼藉に恐れ慄いた天照大御神が、天石屋戸の中へ身を隠してしまう契機ともなった事件。
その織女こそ稚日女尊だったと伝わっている。
ただ、古事記に具体的な神号までは記されていないのだが。
この稚日女尊を加布良古崎に祭祀したのが伊射波神社の始まり。
安政元(1854)年の大地震と大津波で社伝が失われたため正確な創建時期は不明。
往時は加布良古大明神、志摩大明神とも称されていたそうだ。
拝殿を出て裏手に回り本殿へ。
神明造りの小さな御社が、玉垣に囲まれてひっそりと佇んでいる。
まさに「古神道」という形容詞がピッタリ。
ちなみに現在の本殿は昭和51(1976)年に造営されたものだ。
ここで少し横道に逸れ、神戸にある生田神社について触れたい。
伊射波神社は宮司のいない無人の神社だが、室内は綺麗に整理整頓されている。
正面奥の上部に社号標が掲げられている。
石造りの標柱ではなく、天然木の一枚板に黒々と「宮の一国摩志 社神波射伊」と墨書されている。
室内には芳名帳が置いてあり、見れば参拝者が結構いた。そこへ自分も名を連ねさせてもらう。
壁には「御朱印御希望される方は宮司宅へ」との案内図が貼られており、そこには携帯電話の番号も明記されていた。
拝殿には次の四柱が祭神として掲げられている。
- 稚日女尊(わかひるめのみこと)
- 伊佐波登美命(いざわとみのみこと)
- 玉柱屋姫命(たまはしらやひめのみこと)
- 狭依姫命(さよりひめのみこと)
伊佐波登美命以外の三柱は「女神様」。
参拝すると女の“性”に包まれたような、なにやら暖かい気持ちで心が満たされる。
伊射波神社が鎮座する一山これすべて「女神の山」だからなのかも知れない。
稚日女尊は古事記上巻「天石屋戸」のところに登場する。
天照大御神が神に献上する衣を織る神聖な御殿「忌服屋(いみはたや)」で、織女(おりめ)たちの機織りを眺めていたときのこと。
弟神で暴れん坊の素盞鳴尊が屋根に登って大穴を開けると、斑(まだら)色をした馬の皮を逆剥ぎにして真っ逆さまに投げ込んだ。
季節は冬なので幸い虫がいないのは助かる。
それに蛇だって冬眠中だろう。
来年の干支なので個人的には出てきてもらったほうが逆に嬉しいのだが。
それにしても道無き道を登る作業は想像以上に厳しいものだった。
蔓がまとわりつき、アザミにチクチク刺され、足場も悪く、幾度も立ち往生させられる。
参拝すること自体ではなく、こうした苦難を乗り越えることこそが巡礼の目的だと思えば、こうして山を登る甲斐があるというもの。
苦吟しながら漸進するうち、木々の間に神社の社殿らしき建物が垣間見える。
あと少し、あと少し…と消耗した体力を振り絞って斜面を這い上がると、神社の参道らしき広い道に出た。
こちらが安楽島から来る“表参道”か。
緩やかな勾配を登っていくと、伊射波神社の社殿が姿を現した。
時計の針は午前9時半を指している。
ウィスタリアンライフクラブから1時間以上かかったが、ようやくたどり着いた。
取り敢えず一休みした後、鳥居の前に立ち、拝殿を正面から眺めてみる。
鳥居の笠木は五角形、貫は貫通しておらず、紛うことなき神明(伊勢)鳥居。
やはり伊射波神社も伊勢神宮と深く関わっていることの証なのか。
鳥居をくぐって拝殿の中に入る。
木造で余計な装飾のない質素な建物だ。
[旅行日:2012年12月24日]
「獣道」を抜けると、そこは紺碧の伊勢湾。
あまりの美しさに見とれてしまう。
岬の先端へ向け海岸線に沿って進むと、確かに道はない。
岩場が続く狭間に、小石が散らばる猫の額ほどの平地がある程度。
それはまだマシなほうで、道どころか陸地すらない場所すらある。
岩場にしがみつき、潮が引くタイミングを見計らってジャンプ!
無事に着地できたと思ったその時、濡れた石に足がツルッと滑って海水の中にズボッとハマッてしまった。
このルートをホテルの管理人が勧めなかった理由を身をもって体感できた。
とはいえ、この程度の難所は想定内も想定内。
怯むことなく、片足がスブ濡れのまま先へ進む。
しかし、視線の先に岬の突端らしきものが見えてきた。
どうやら参道の入口を通り過ぎたらしい。
来た道を引き返すが、この時点で既に40分が過ぎている。
地図で入口らしき場所のアタリを付けるが、それらしきものはどこにも見当たらない。
時間だけが刻々と過ぎていく状況下、入口を探しているだけでは埒が明かない。
伊射波神社の直下らしき場所に目星を付け、雑木林の中を強行突破してみることにした。
[旅行日:2012年12月24日]
午前8時、ウィスタリアンライフクラブ鳥羽を出発する。
志摩國一之宮の伊射波神社は辿り着くまでの道のりが過酷なことで知られる。
鳥羽駅から「かもめバス」で終点の安楽島バス亭まで行き、更に山道を歩くこと一時間余。
自家用車で行っても車道は安楽島で止まっているので、その先が山道なのは変わらない。
だが航空写真を穴が空くほど見つめたところ、海側からアクセスできる可能性に気付いた。
海岸から本殿まで山の中を細い線がクネクネ辿っている。
海岸側からの参詣、ダメもとで行ってみることにした。
チェックアウトの際フロントマン(というか管理人)に、伊射波神社へ海沿いをたどって行けるかどうか尋ねてみた。
「行って行けなくはありませんが、道は獣道みたいなものですし、危険なのでお勧めはしません」
しかし、欲しかったのは「行って行けなくはない」の一言。
なければ「ない」と断言するはず。
やはり、海側からアプローチできるルートは存在したのだ。
本館の右脇を通り抜けると庭園があり、更に先へ進むと藪。
その真ん中に細い隘路と、立て看板。
もちろん伊射波神社への案内板などではなく、密漁者への警告だ。
この獣道は獣ではなく密漁者が行き来しているようだ。
[旅行日:2012年12月24日]
鳥羽小涌園のひとつ手前、ウィスタリアン前バス停にて下車。
周囲には建物が何ひとつなく、 遠目に林立するリゾートマンションの灯りが見える程度。
ウネウネと曲がりくねった山道を下っていくと、先に巨大な建造物が姿を現す。
今宵の宿、ウィスタリアンライフクラブ鳥羽。
藤田観光が展開する会員制リゾートホテル。
ここが客室を一般に販売しているサービスを利用したものだ。
フロントもあるにはあるがホテルのそれではなく、マンションの管理人室といったほうが相応しい。
周辺に商店街や飲食店は皆無で、館内にレストランはあるが営業は朝食だけで、しかも予約が必要。
夕食を所望するなら近隣のホテル鳥羽小涌園まで出向く必要があるが、これも自家用車がないと難しい。
客室は座敷、寝室(ツインベッド)、リビング、ユニットバス、ミニキッチンと、やはりホテルというよりマンションと呼んだほうが相応しい。
キッチンは小さいので本格的な料理は無理だが、電子レンジと小型冷蔵庫を完備しているので、出来合いの惣菜を持参しすれば何の問題もない。
だからこそ、鳥羽のコンビニで大量の酒肴を調達したわけだ。
普通のホテルだと思い込んで宿泊すれば面喰らうこと請け合い。
だが、このシステムを承知の上なら非常にコスパの高いホテルと言えるだろう。
[旅行日:2012年12月23日]
さらに、小学校のグラウンドに使用されていた本丸跡も歴史庭園として整備。
両者を抱き合わせて開発すれば良質な観光資源になるような気がするのだが。
御城が好きで明治以降の近代建築物を愛する自分にとって、再建天守にありがちな博物館が文化財指定の近代建築物にあるだけでも有り難い話。
夜の闇の中に緩やかなシルエットを浮かび上がらせている城山を眺めつつ、そんな“妄想”を思い浮かべた。
鳥羽市役所前のバス停で、鳥羽小涌園行きの「かもめバス」を待つ。
「かもめバス」とは鳥羽市が運営するコミュニティ交通システムのこと。
バスが来るまで暫く時間が空いているが、商店街はほとんど閉まっていて時間を潰せそうな店は見当たらない。
真冬の寒気の中、いにしえの店々が醸し出す懐かしい雰囲気に包まれつつ、バスを待つ。
時折り通り過ぎる車のヘッドライトが周囲を明るく照らし出すが、それも一瞬の出来事、すぐに元の暗闇と静寂が包み込む。
10分ほど待った頃、ようやく待望の「かもめバス」が姿を見せた。
大きな車体の割に乗客は数えるほどだが、コミュニティーバスとしての役割は十二分に果たしている。
なにより遠く離れた宿まで連れて行ってもらえるだけでも有り難い話だ。
バスは市街地を抜け、次第に山の中へ分け入って行く。
昼間なら伊勢湾の風光明媚な光景が車窓に広がるのだろうが、生憎と見えるのは宵闇ばかりだ。
[旅行日:2012年12月23日]
このレートに基づき計算すれば、当時の25万7349円は現在の93億4410万8236円。
例えば東京スカイツリーの建設費は約450億円、東京ドームは約350億円。
小学校の校舎建設に投じられた100億円近い建築費が如何に莫大なものだったか、両者と比較すれば実感できそうだ。
戦後は鳥羽小学校となり、校舎は平成21(2009)年に移転するまで使用され続けた。
移転後も取り壊されることなく、平成22(2010)年に近代学校建築の貴重な遺構として国の登録有形文化財に登録されている。
とはいえ老朽化した校舎が将来どのような形で扱われていくのか、寡聞にして知らない。
個人的な希望を言わせてもらえば、校舎に耐震補強工事を施した上で「鳥羽城博物館」に生まれ変わらせて欲しいと思う。
全国の城址には現代になって建造された復元天守や復興天守、模擬天守が数多く立っている。
そのほとんどは内部が博物館や資料館になっていて、外観とのギャップに戸惑いを覚えることも多い。
ならば鳥羽城は、わざわざ模擬天守を建てるまでもなく、昭和初期に立てられた名建築を博物館として活用すればよいではないか。
国の文化財の中で九鬼水軍から始まる鳥羽城の歴史を見聞できるとは贅沢このうえない。
しかも新規に模擬天守を建造するより校舎を博物館に改築するほうが、はるかに予算面で安く上がるだろう。
もちろん他城と同様に入場料を徴収して維持費に充てればよいし、文化庁指定の文化財だけに国から予算だって獲得できるだろう。
[旅行日:2012年12月23日]
近鉄鳥羽駅に到着した頃、既に日はトップリと暮れていた。
メインストリートの国道42号線側ではなく、JR参宮線のある山側から駅を出る。
目の前に広がる低山の裾に沿って歩くうち、一軒のコンビニを発見。
そこでキンミヤ焼酎のカップ酒や割り材、肴をしこたま購入し、再び歩き続ける。
コンビニの前から続く道の両側には、古風な商店や住宅が連綿と軒を並べている。
鳥羽は水軍で知られる九鬼氏が築いた鳥羽城の城下町。
宵闇に包まれた古い町並みが潮の香りを纏って静かに佇んでいる。
通りの左側には寄り添うように連なる小高い丘の稜線。
この丘こそ鳥羽城の城址なのだが、往時の建物は悉く失われ、現在では市民文化会館と市役所が立っている。
幕末に地震と津波で多くの建造物が倒壊し、そのまま明治維新を迎えたため再建されることなく破却されたそうだ。
本丸跡には昭和4(1929)年、鳥羽尋常高等小学校が立てられた。
“真珠王”御木本幸吉の出資と助言を得て建設された校舎は、三重県初の鉄筋コンクリート建築物。
県下一の設備と謳われた校舎は3階建てで、総工費は25万7349円。
小学校教員の初任給が昭和5(1930)年は5円50銭、平成24(2012)年は約20万円。
あくまでも単純に換算すると、当時の1円は現在だと3万6309円。
[旅行日:2012年12月23日]
伊勢市駅にはJR東海と近鉄の両線が乗り入れているが、外宮に向いたメインの駅舎はJRのもの。
一方、近鉄の駅舎はというと、外宮の反対側にオマケみたいに小さくへばりついている。
しかも現在改装工事中で、ただでさえ狭い構内が一層タイトになっている。
近鉄は隣の宇治山田駅が伊勢神宮への玄関口。
なので伊勢市駅がオマケ的なのはやむを得ないところではあるのだが。
どうせ近鉄線を利用するのだから、帰路は宇治山田駅へ向かうべきだったと著しく後悔。
宇治山田駅は以前にも何度か利用したことがある。
国家神道真っ只中の昭和6(1931)年、皇室の祖を祀る“神の都”に開業したターミナルは巨大なのに気高く、優雅で、そして麗しい。
アール・デコ然とした駅舎は細部に繊細な装飾が施され、その文化的価値は国の登録有形文化財にも指定されているほど。
しかも宇治山田駅には貴賓室が設けられており、今上陛下も総理大臣も神宮参拝の際は、こちらを利用するのだ。
近鉄伊勢市駅の改札を出、雑然とした駅前の風景を眺めつつ、今さらながら宇治山田駅に思いを馳せる。
せんぐう館の前で内宮に向かうか否かで迷っていたので、宇治山田駅まで頭が回らなかったのだろう。
ホームへ戻ると、ちょうど鳥羽方面行きの電車が入線してきた。
乗車して気持ちを宇治山田駅から志摩国に切り替え、伊勢国に別れを告げた。
[旅行日:2012年12月23日]
表参道を戻り、火除橋を渡ったすぐ右側に、真新しい建物がある。
近寄って看板を見ると「せんぐう館」と書いてある。
式年遷宮を記念して建てられたもので、社殿造営や装束神宝奉製などの技術を展示しているという。
ただし開館は16時半まで。中から係員が出てきて、ちょうど門を閉めたところだった。
そもそも、なぜ伊勢神宮は二十年に一度、社殿を建て替えるのか?
それには様々な理由があるのだが、一つに造営や奉製の技術を継承するという目的がある。
社殿を20年に一度そっくり造り変えることで、宮大工や匠の“腕”を後世に受け継がせるためだ。
せんぐう館には式年遷宮が伝えて来た技術に関する資料が展示されているという。
なかなか興味深い構成に興味を惹かれるが、目の前の入り口は完全にシャットアウト。
無料で利用できる休憩舎にすら入れないので、仕方なく外宮を後にした。
このあと本来なら内宮へ向かうつもりだったが、すっかり日が暮れてしまった。
外宮の様子から鑑みて、内宮も到着する頃には既に閉門されている可能性が高い。
ここは内宮への参詣を泣く泣く断念し、伊勢市駅へ戻ることに決めた。
[旅行日:2012年12月23日]
神楽殿の前を過ぎ、正殿の前へ。
外宮こと豊受大神宮の御祭神は豊受大神(とようけのおおかみ)。
天照大御神の食を司る御饌都(みけつ)神として祀られている。
ただ古事記や日本書紀に登場しないので、どのような所縁があって伊勢神宮に祀られることになったのか、いまひとつ分からない神様でもある。
社号の“豊”は文字通り豊かさを、“受”は“饌”と同じ食(け)を意味している。
御饌とは天照大御神が召し上がる食物のことで、それを調達するのが豊受大神の役割だった。
豊受大神は男神なので鰹魚木は奇数の9本、千木は外削で垂直に切られている。
社殿の構成は内宮と同じ様式だが、配置は若干異なるそうだ。
伊勢神宮の社殿の隣は普通、空き地になっている。
「古殿地」といって、二十年に一度の「式年遷宮」で新しい正宮が建立される場所である。
だが、目の前の「古殿地」は空き地ではない。
あと一週間余りで訪れる平成25(2013)年は、いよいよ式年遷宮の年。
新たな社殿が古殿地改め「御敷地」に建立中なのだ。
1年後には目の前の“旧”社殿も姿を消していることだろう。
そう思うと参拝にも通常以上に念が込もるというものだ。
[旅行日:2012年12月23日]
火除橋を渡り、一の鳥居をくぐる。
最近では伊勢神宮も「縁結びの神様」などと持て囃されているせいか、女性のグループや単身での参拝者が多い。
神社は結婚相談所ではないし、参拝したからといって必ず良縁に恵まれる保証もない。
要は女性自身の“自助努力”がなければ、良縁など夢なのではないか?
本人が必死になって相手を探していれば、やはり必死になって探している男性と、どこかで出会える。
神様には、その手伝いぐらいしかできないのではないだろうか。
続いて二の鳥居をくぐり、神楽殿の前を通って境内の奥へ進む。
それと、若いカップルでの参拝客も数多く見かける。
これはどういう意図で参拝しに来ているのだろう?
もう“良縁”に恵まれたから参拝する必要などなかろうに。
伊勢神宮のお陰で結ばれたからお礼参りに来ているのだろうか?
それとも、今よりもっといい相手と出会いたいから来ているのか?
邪な考えで参詣に来られても、神様にとっては迷惑至極なだけだと思うのだが。
いずれにせよ現世利益だけが目当ての参拝者は、態度や振る舞いに多かれ少なかれ卑しい“欲”が滲み出ているからすぐ分かる。
お爺ちゃんお婆ちゃんのように現世の欲から超越した存在でないと、なかなか思いは神様の許へ伝わらないような気がするのだが。
[旅行日:2012年12月23日]
今日は12月23日、天皇誕生日。
昔風に言えば「天長節」のこの日。
せっかく伊勢にいるのだから伊勢神宮に参拝しない手はない。
駅舎から駅前広場へ出る。
ここへ来たのは何年ぶりだろう?
少なくとも10年以上ご無沙汰なのは確実。
当時は駅前に大きなデパートがあったようなに記憶がある。
その記憶は正しかった。
なぜなら目の前で解体工事の真っ最中だから。
変わり果てた駅前の風景を、オレンジ色の夕日が包み込む。
その中を、外宮へ向けて歩き出す。
前に来た時は沿道に古い食堂などが立ち並び、そこで伊勢うどんを食した記憶がある。
だが、今では真新しい建物ばかりが目立つ。
ただ、伊勢うどんの店は、まだあった。
残念ながら営業は止めてしまったみたいだが。
駅前から伸びる広い通りの一本裏の道を歩くこと10分余、外宮の表参道に到着した。
間もなく日も暮れようかという頃合いなのに、大勢の参拝客で賑わっている。
皆さん天皇陛下の誕生日を奉祝して参詣に訪れたのだろうか?
そういう“勤皇の徒”も少なからずいるだろうが、どうも大多数は違うように見える。
[旅行日:2012年12月23日]
JR四日市駅から中央通りを近鉄四日市駅へ向かう。
ガランとしてたJR駅前から次第に人影が増え、四日市市役所を過ぎた辺りから街は賑わいを見せ始める。
東海道(国道1号線)を過ぎて近鉄駅へ近付くにつれ、駅前は歳末の買い物客でごった返してきた。
駅ビルに入ると近鉄百貨店では市内の女子高生たちによるクリスマスコンサートが開催されている。
その清らかな歌声に一瞬、日本の神社巡りの途上であることを忘れてしまった。
古老の宮司が一人黙々と迎春の準備をしていた都波岐奈加等神社から、女子高生たちの奏でるクリスマス・ソングが鳴り響く近鉄四日市駅へと至る道程。
余りに対照的なコントラストを噛み締めながら、ホームへと続く駅の階段を上った。
乗車した近鉄名古屋線の急行電車は南へと走り出す。
朝に利用した近鉄鈴鹿線の分岐駅、伊勢若松に停車。
椿大神社と都波岐奈加等神社に別れを告げた。
同時に、この先に待っているのは新しい世界…そんな気持ちが湧いてくる。
16時前、伊勢市駅に到着した。
夕方にも関わらず駅の構内は大勢の観光客で混雑している。
[旅行日:2012年12月23日]
JR関西本線と並走していた旧伊勢街道に右側から伊勢鉄道が合流。
間もなく河原田駅へ到着した。
河原田駅はJR関西本線と伊勢鉄道の分岐駅。
もっと大きな駅舎を想像していたが、予想に反して小ぶり。
そのくせ駅構内の構造が極めて分かりにくい。
関西本線は地上のホーム、伊勢鉄道は遠く離れた高架上のホームを使用する。
地上のホームでJR四日市駅行電車を待っていると、なぜか伊勢鉄道の高架上ホームに入線してきた。
危うく乗り遅れそうになり、大慌てで跨線橋をダッシュ!
これには地元の高校生たちもアタフタしていたから、他所者が右往左往するのは当然か。
幸い電車に乗り遅れることもなく、無事JR四日市駅に到着。
ここから近鉄四日市駅まで歩くのだが、JRの駅は市の中心部からかなり離れた海側にある。
もともとコンビナートの貨物輸送をメインに想定して作られただけに、止むを得ないところか。
往時は大勢の鉄道マンが行き交ったであろう巨大な駅舎は人影も少なく、その巨体を持て余している。
貨物輸送がトラック全盛の今となっては、まさに絵に描いたような“無用の長物”と化してしまった。
[旅行日:2012年12月23日]
伊勢街道(県道103号線)を北へ向かうと、鈴鹿川にかかる橋が工事中で仮橋が掛かっている。
その上から鈴鹿川を見渡してみた。
鈴鹿川は東海道の難所である鈴鹿峠に近い高畑山を源流に、伊勢湾へと注ぐ長さ38kmの河川。
鈴は神世と人世の“結節点”、鹿は神の使い。
この川を遡っていくと“神世”にたどりつけるかも知れない。
仮橋を渡ると、その袂を旧伊勢街道が通っている。
旧伊勢街道は東海道から四日市の日永追分で分かれ、伊勢神宮まで続く十八里(約70km)の古街道。
旧伊勢街道は鈴鹿市駅の近くを通っていたので、歩いて辿ればここまで来れたことになる。
どれぐらい時間がかかるのかは分からないが。
旧伊勢街道は「お伊勢参り」が隆盛を極めた江戸時代には、多くの参拝者で大層賑わったことと思われる。
今となっては往時を偲ぶ縁(よすが)もなく、もの寂(さび)た小径が続く。
しかしそれが江戸時代の賑わいぶりを想像できて、逆に楽しかったりする。
[旅行日:2012年12月23日]
過去、都波岐奈加等神社に神宮寺が存在していたことは歴史的に証明されている。
神宮寺が所蔵していた鰐口(お堂の前に布を編んだ綱と共に吊るされている円形の大きな鈴)が奈良市の霊山寺に伝えられている。
その銘には「応永十三(1406)年伊勢国河曲庄中跡神宮寺 大工藤政吉」と刻字されているそうだ。
寺の境内はこじんまりとしていて、手前半分が小さな運動場、奥の半分が伽藍(?)。
中央に本堂があり、手前には珍しく仏像とお稲荷さんが並んで立っている。
この光景からも「神宮寺」に見えなくはない。
このお寺と出会えたのは、ある意味で運が良かったのかも知れない。
ただ、都波岐奈加等神社の神宮寺かどうかは定かではない。
誰かに話を聞こうにも住職はおろか通行人すらいない。
本堂に手を合わせ、静かに境内を後にした。
一ノ宮地区から高岡のバス停へ急ぐ。
神社の周囲には歴史を感じさせる重厚な作りの民家が立ち並び、ここが一之宮鎮座の土地であることを認識させられる
特に瓦を重ねて漆喰で固めた塀が目に付く。
あまり他で見かけない、珍しい様式だ。
高岡バス亭に着いてみると生憎と数分前に出たばかり。
神宮寺に寄らなければ間に合っていたかも知れない。
だが、後の祭り。
やむなく河原田駅まで歩くことにする。
[旅行日:2012年12月23日]
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