2014年06月

一巡せしもの[都波岐奈加等神社]10

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椿大神社が内務省神社局の調査で「地祗猿田彦大本宮」にされたのは昭和10(1935)年のこと。

もともと椿大神社は行満上人を奉る修験道の中心地であり「地祇猿田彦大本宮」は後から付け加えられたように思える。

中世、猿田彦大神を奉る一派は隆盛を極める修験道に飲み込まれるのを恐れ、こちらの都波岐神社へ祭神を一時的に“避難”させたのではないか?

江戸時代に入り、本居宣長門下の国学者である伴信友が「小社なれども一の宮なり」と考証し、そのまま伊勢国一之宮になった。

結局この“考証”が混同の源だったのだが。

とまあ、こじんまりとした社殿を眺めながら椿大神社との彼我の差を思いつつ、何の根拠もないまま判官贔屓気味に想像してみた。

境内で一人黙々と新年を迎える準備に勤しむ宮司さんの後ろ姿に黙礼し、境内を辞す。

これから高岡バス亭に向かい、バスでJR河原田駅へ行くつもりだ。

途中、小さなお寺に遭遇した。

門柱に「神宮寺」という表札が埋め込まれている。

ここは昔、都波岐奈加等神社の神宮寺だったのだろうか?

神宮寺は江戸時代以前の神仏混淆時代、神社の業務を遂行するために付随していた寺で、全国各地に存在した。

しかし明治政府の神仏分離令により社寺は切り離され、特定の檀家を持たなかった神宮寺の多くは消滅している。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[都波岐奈加等神社]09

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椿大神社では松下幸之助が寄進した茶室「鈴松庵」を見かけた。

その“高貴(?)”な佇まいに気後れして立ち寄ることはなかったが。

猿田彦大神と経営の神様による“W神”茶も、ここでの紙コップのお茶も、尊さに変わりはない。

むしろ鈴松庵の一服800円という茶菓を喫しておけば具体的に比較できたかも…後悔とまではいかないが、少し思った

境内のベンチに腰掛け、蜜柑を剥きつつお茶を啜る。

風に煽られパタパタと音を立てる絵馬。
 
澄み切った青い空を流れていく白い雲。

音響と映像をバックに映える白亜の社殿を眺めつつ思う。

一つの国に2つの一之宮が存在する例は数多く存在する。

これまで安房国、武蔵国、相模国、遠江国、尾張国などを訪れてきたが、その理由は各国ごとに様々。

ここ伊勢国の場合は椿大神社が本来の一之宮で、「椿」を万葉仮名で「都波岐」と読んだため、江戸時代に混同が起こったものと一般に考えられている。

椿大神社は全国約二千社にも及ぶ猿田彦系神社の総本社なので、猿田彦大神を祀る都波岐奈加等神社は椿大神社の末社に当たる。

これでは同じ伊勢国一之宮でありながら一方が本宮、もう一方が末社と整合性を欠くことになる。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[都波岐奈加等神社]08

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それはさておき、最初は中跡直が祖先の天椹野命を祀った「なかと神社」があり、海に近いことから住吉の神様が合祀された。

そこへ修験道の拠点「行満大明神」から逃れて来た猿田彦大神が「つばき大明神」として鎮座。

こうした過程を経て今の「つばき」「なかと」神社に至ったのではなかろうか?

鳥居も拝殿も扁額は「都波岐大明神」だけなのに対し、宮司さんは代々「奈加等神社」の直系が務めることで、両社のバランスを保っている。

これらは何の根拠もない単なる妄想に過ぎないが、こうした事柄を考えているだけで楽しい。

宮司さんから社務所で御朱印を賜る

ちなみに初穂料は500円。

一般には300円が相場なので少々割高だ。

しかし都波岐と奈加等の二社分だと思えば100円ディスカウントされていることになり、逆にオトクではないか?

そう思ったので確認すると、二社分だとやはり初穂料も1000円になるそうだ。

神様を前にカネの話など無粋かと思うが、これも境内に横溢するインティメイトな雰囲気に包まれ、気が置けなくなったせいかも知れない。

「お茶と蜜柑どうぞ」

宮司さんが勧めてくれる。

茶菓の接待を受けたのは、ここが初めてだ。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[都波岐奈加等神社]07

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寛永年間(1624~1645)、伊勢神戸城主一柳監物の寄進により再建を果たす。

江戸時代末期、常陸国一之宮鹿島神宮、肥後国一之宮阿蘇神社と並び、摂政鷹司家の執奏社として大宮司職が置かれた。

明治9(1876)年、木造瓦葺きの拝殿・祝詞殿が建立された。

ここまでは良かったのだが、太平洋戦争の後、社勢は著しく衰微してしまう。

そして平成9(1997)年3月24日早暁、不審火によって社殿を焼失。

翌10(1998)年10月10日、氏子の尽力で再建されたのが現在の社殿だ。

登場人物こそ違えども、歴史は概ね椿大神社と似通っているような気がするなぁ…。

真っ白な拝殿に向かって頭を垂れつつ、そんなことを思う。

境内では老人が一人、新年を迎えるための準備を黙々と続けている。

言うまでもなく五十八代目の宮司さんである。

しかし神職の装束ではなく普通のセーター姿なので、一見ボランティアかと見紛いそう。

その姿から、宮崎駿の映画「天空の城ラピュタ」で、代々ラピュタを守り続ける孤独なロボット兵を連想する。

見かけは「となりのトトロ」のトトロみたいだが。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[都波岐奈加等神社]06

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ここ都波岐奈加等神社は小さな神社ながら宮司さんがいらっしゃる。

創立時に宣旨を受けて初代祭主を務めた天椹野命十五世の孫、中跡直(なかとのあたい)山部広幡の子孫が代々神主を継承している。

それで社号が「なかと」神社なのだろうか。

ちなみに当代の宮司は第五十八代に当たるそうだ。

創立から今に至るまでの間に起こった主な出来事を、由緒書から抜き出してみる。

天長年間(824~834)淳和天皇の御代、弘法大師が参篭して獅子頭二口を奉納。

承暦3(1079)年、白河天皇は神階正一位を授与し、宸筆(直筆)の勅額(扁額)を賜られた。

嘉慶2(1388)年、征夷大将軍“室町殿”足利義満が富士遊覧の帰途に参拝。

御幣を供え、社領を寄進したので、多くの武士が参詣に訪れたという。

だがしかし、好事魔多し。

永禄年間(1558~1570)、伊勢平定に進軍する織田信長の、神戸と高岡の2城攻略戦に巻き込まれて社殿を焼失。

白河天皇の勅額をはじめ古文書、記録類のほとんどが灰燼に帰した。

弘法大師奉納の獅子頭は他所へ避難しており、無事だったのは不幸中の幸い。

この獅子頭、社宝として今でも現存するそうだ。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[都波岐奈加等神社]05

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鳥居の左後ろには「歓迎 全国一之宮めぐり」の看板と掲示物。

「伊勢国一之宮」を前面に押し出して存在感をアピールしているようだ。

こちらで頒布しているのは御朱印帳とガイドブック、それに掛け軸。

ガイドブックは全国一の宮会が編纂した「全国一の宮めぐり」「旅する一の宮」と、たちばな出版の「全国の開運神社案内」の3種類。

「全国の~」は一般書籍なので書店で入手できるのだが、一の宮会の両ガイドブックは書店で流通しておらず、諸国一之宮の社頭でしか入手できない。

しかも必ずしも全ての一之宮で頒布しているわけでもなく、特に後者の「旅する一の宮」は、ある意味「稀覯本」である。

一の鳥居をくぐって参道を先に進む。

石灯籠、二の鳥居、そして奥にコンクリート製の拝殿。

ここは二神相殿なので、それぞれ別の御祭神が鎮座している。

「都波岐神社」の祭神は椿大神社と同じ猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)。

「奈加等神社」の祭神は天椹野命(あまのくののみこと)と中筒之男命(なかつつおのみこと)の二神。

天椹野命は饒速日命(にぎはやひのみこと)が天降った際に随伴した三十二神の一柱とのことだが、いまひとつ良く分からない。

もうひとつの神、中筒之男命は良く分かる。

攝津国一之宮住吉大社の祭神「住吉三神」の一柱だ。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[都波岐奈加等神社]04

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県道を渡り、さっそく細道の奥へ歩を進めた。

沿道は古い木造建築物と最近の住宅が混在する、ごく普通の住宅街。

ただ、結構な数にのぼる木造建築物のおかげで、どこか懐かしい匂いがする。

そのうち細道の突き当りに鳥居が姿を現し、ようやく都波岐奈加等神社に到着した。

ゆっくり歩いてきたせいか、鈴鹿市駅から2時間近くかかったろうか。

境内はこじんまりとしていて、どこか尾張大神神社と雰囲気が似ている。

門前に社号標が2つ並んで立っている。

右が「都波岐神社」、左が「奈加等神社」。

ここは一つの社殿の中に二社の祭神が相殿で鎮座する神社なのだ。

創建は雄略天皇23(479)年。

猿田彦大神八世の孫、伊勢国造高雄束命(たかおわけのみこと)が雄略天皇の勅を奉じて二社を造営。

それぞれ「都波岐神社」「奈加等神社」と称したのが始まり。

明治時代、両社が一つに統合されて「都波岐奈加等神社」となった

しかし一の鳥居の扁額には、なぜか「都波岐大明神」としか記されていない。

都波岐神社が奈加等神社を“吸収合併”したのだろうか?

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[都波岐奈加等神社]03

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壁に一枚の看板が張り付けられている。

「終わりの日に人は神の前に立つ 聖書」

日本中あちこちで見かけるキリスト教の布教ボード。

この辺り一帯の地名は「鈴鹿市一ノ宮」という、伊勢国一之宮ありきの土地。

そこにキリスト教の看板があっても何ら違和感を覚えないのが逆に不思議。

尾張国一之宮大神神社のところでも書いたが、日本の神様は本当に寛大だ。

それにしてもキリスト教では終わりの日にしか神の前に立てないのだろうか?

日本なら神社に行けば毎日でも神の前に立つことができるのだが。

木造倉庫の横を通り過ぎると、目の前に小学校が現れた。

祝日にもかかわらず大勢の子供や父兄で賑わっている。

何かスポーツ関係のイベントが行われているらしい。

賑わいを眺めながら先へ向かうと県道506号線に行き当たる。

その近くに都波岐奈加等神社の巨大な案内板を発見した。

看板の矢印が示す方向を見ると、そこには立派な石灯籠が一対。

双方の間から奥へと伸びる細い道が参道なのだろう。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[都波岐奈加等神社]02

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駅を出て鈴鹿線の線路を渡り、一本道を北へ向かう。

沿道には民家や商店、マンションなどが立ち並ぶ、ごく普通の市街地。

やがて県道635号線と合流し、さらに先へ進むと伊勢鉄道の線路に行き当たる。

ガードをくぐって線路の東側に出ると、そこはまるで別世界。

収穫を終えた田園が一面に広がり、遥か先には四日市のコンビナートだろうか、立ち並ぶ煙突が白煙を盛んに吐き出している。

伊勢鉄道の線路に沿って歩いていると、横を列車が通過して行った。

行き先に「名古屋」とあったから、鳥羽から来た快速「みえ」だろう。

広大な田園地帯という「第一次産業」。

巨大コンビナートという「第二次産業」。

そして伊勢鉄道という「第三次産業」。

ひとつのフレームの中に3次元の産業がバランスよく収まっている。

こんな風景、なかなか出会うことはない。

冬枯れた田圃の畦道を30分ほど歩いたろうか、次第に人家が増えてきた。

その中にある立派な木造の建物に目が止まった。

家屋ではなく農作物の倉庫として使われているようだ。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[都波岐奈加等神社]01

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近鉄鈴鹿線を鈴鹿市駅で降りる。

近くに市役所があるので駅名は「鈴鹿市」と命名されたが、一帯の地名は「神戸(かんべ)」という。

駅から徒歩圏内に伊勢神戸城がある、いわば“城下町”。

しかも近くを旧伊勢街道が通る“宿場町”でもある。

祝日とあってかトラックなど商用車の姿もなく、駅近辺はヒッソリしている。

ただ、祝日だけが閑散としている理由でもなさそう。

駅ビルは結構な大きさなのだが、入居しているテナントで目立つのは進学塾ぐらい。

鉄道が歴史的な役割を終えて自動車社会に移行した現代。

昔からある古い町が時代の流れから取り残されてしまうのはやむを得ないところだろう。

駅前広場に出てバス停へ。

都波岐奈加等(つばきなかと)神社へは路線バスを使うと便利だ。

椿大神社を参拝するのに利用したC-BUSではなく、三重交通の路線バス四日市鈴鹿線。

鈴鹿市駅から乗車して高岡というバス停で下車し、10分ほど歩けば到着する。

だが、祝日のため生憎と都合の良いバスの便がない。

そこで天気もいいことだし、都波岐奈加等神社まで歩いてみることにした。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[椿大神社]20

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猿田彦系神社の総本宮は伊勢神宮内宮近くにある猿田彦神社だと広く思われていた。

いや、そう思っている人は今でも相当いるのではないか?

なにせ道開き、お導きの神だけに伊勢神宮と併せて参拝することは確かに理に適っている。

しかし、地祇大本宮は椿大神社だと認定された。

このことについては今なお猿田彦系神社の間で論争があるような話も聞く。

伊勢神宮内宮に近い猿田彦神社を地祇大本宮に認定してしまうと、地政学的に地祇が天神に“従属”している印象を与えてしまう。

そこで、山の中に鎮座する椿大神社を地祇(国津神)大本宮に認定し、天津神の大本宮である皇大神宮(伊勢神宮内宮)と対にすることでパワーバランスを取ったのだろうか?

いずれにせよ、如何なる経緯で椿大神社が地祇大本宮に認定されたのかなど、妄想の種でしかない。

C-BUSは約1時間ほどかけて、再び平田町駅前へ帰って来た。

それにしてもC-BUSには助けられた。さすが猿田彦大神。道の神、旅の神、そして交通の神だけある。

個人的には、伊勢神宮内宮の近くにあるより山深いところに鎮座してもらえたほうが、より有り難みが湧くような気がする。

そんなことを思いながら駅の改札口に向かった。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[椿大神社]19

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行満大明神は修験道の開祖で、役行者を導かれた事蹟もある「行の神」。

このため椿大神社は中世に修験神道の一大中心地となった。

明治政府の神仏分離令によって仏教色は排されたものの、どうしても切り離すことのできない部分があったのだろう。

社殿の中を覗くと、神社なのにお寺の祭壇のような設えが視界に飛び込んできた。

ひょっとしたら椿大神社の本殿よりも行満堂神霊殿のほうにこそ、猿田彦大神の“御血脈”が密かに受け継がれているのかも知れない。

そんな変な妄想を抱かせてくれる不思議な空間だった。

行満堂神霊殿から椿延命地蔵尊の前を通り、一の鳥居の前へ戻る。

帰路も再びC-BUSに乗り、平田町駅まで戻る。

車窓に広がる茶畑を眺めつつ、頂戴した由来書に目を通した。

椿大神社が猿田彦大神を祀る神社の総本宮として認定されたのは、それほど昔のことではない。

昭和10(1935)年、内務省神社局考証課長の宮地直一(みやぢなおかず)博士により「地祇猿田彦大本宮」という尊称が付与されたことによる。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[椿大神社]18

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宗教活動に関心が深く椿大神社にも幾度か参詣した松下翁が、茶道の発展を祈念して寄進したという。

“芸能の祖神(おやかみ)”天細女命を祀った椿岸神社と、テレビやオーディオで財を成した松下電器の“祖神”幸之助翁の建てた茶室が、細い川ひとつ隔てて並んでいるのは歴史が導いた蓋然なのか。

お茶会で使うには事前の予約が必要とのことだが、普通にお茶を喫するだけなら一服800円(茶菓子付)で楽しめる由。

ならば一服していこうかと心が動いたものの、なかなかに敷居が高く見え、寄らずに通り過ぎた。

再び道を先に進むと、今度は広い敷地に仏閣風の御堂が立っている。

名を「行満堂神霊殿」といい、猿田彦大神の神孫である行満大明神(ぎょうまんだいみょうじん)が祀られている。

猿田彦大神の末裔である山本神主家は、同時に行満大明神の末裔でもあるわけだ。

境内社は通常「摂社」や「末社」と呼ばれるが、行満堂神霊殿は「前座」。

ここには平安期の別当寺や神宮寺など六ヵ寺ゆかりの“六神”も祀られている。

六ヵ“寺”なのに六“神”とは、極めて「神仏混淆」の色彩が濃い御堂だ。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[椿大神社]17

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天之鈿女命は猿田彦大神の名を取って「猿女君(さるめのきみ)」を名乗る。

そして、後に朝廷の神事に携わる猿女君一族の祖神となった。

一方の猿田彦大神は以前の地上生活に復帰し、神とも人ともつかない毎日を過ごしていた、そんなある日。

伊勢国阿邪訶(あざか=旧阿坂村/現松阪市)の海で漁の最中、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれた挙句に溺死という、非業というか情けない最後を遂げる。

いくら作り話とはいえ、もっとマシな今際の際を考えてあげられなかったのだろうか?

これでは「用が済んだらポイ捨て」同然ではないか!

このエピソードからは、国津神の猿田彦大神が天津神から邪険に扱われていた情景しか浮かばない。

しかし、比良夫貝を女性の比喩だとすれば、猿田彦大神は他の女性に“手”を出した。

このため天細女命の怒りを買ってしまい“粛清”されたのではないか…という穿った見方もできる。

猿田彦大神、どこまでも人間臭い神様である。

椿岸神社を出、参道と反対側に伸びる道を歩く。

その先にあるのは「鈴松庵」という茶室と庭園。

名称の“鈴”は鈴鹿、“松”は松下から取ったもの。

松下とは“経営の神様”松下幸之助のことだ。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[椿大神社]16

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境内には芸能人やタレント、芸能プロダクション、古典芸能演者らが奉納した玉垣がズラリと並び、見ていて飽きることがない。

天細女命には「宮比(みやび)の神」なる別名が奉られている。

その名の通り境内は朱塗りの両部鳥居や立ち並ぶ燈籠など、女性らしい雅やかな雰囲気に満たされている。

猿田彦大神と天之鈿女命が出会ったのは天の八衢(やちまた)。

瓊々杵尊が降臨した際、天の八衢で迎えた猿田彦大神の容貌が余りに魁偉だったため、天之鈿女命に身元を確認させに行かせた。

この時なぜか天之鈿女命は衣服をはだけ、半裸の状態で猿田彦大神に接したという。

よく「腹を割って話す」と言うが「半裸になって話す」は天之鈿女命にのみ許されたものだろう。

それにしても天岩戸伝説といい、天之鈿女命はよほど“腹の据わった”女神かと思える。

無事に葦原中国へ到着した瓊々杵尊は天之鈿女命に、役目を終えた猿田彦大神を故郷の伊勢国五十鈴川上流まで送り届けるよう命じた。

彼の地で猿田彦大神と天之鈿女命は夫婦となり、居を構えたとされる。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[椿大神社]15

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その拝殿は屋根が横にスラっと長く、上には千木鰹と魚木が据えられている。

ここからだと本殿の外観は伺えないが、境内案内図を見ると本殿はもとより拝殿との間を繋ぐ幣殿の屋根にも千木鰹魚木が見える。

社殿すべてに鰹魚木と千木が設えてあるところ、さすが“地祇大本宮”だけあるなと感心。

また、ここには主祭神の猿田彦大神のほか相殿として、天孫瓊瓊杵尊と母神の栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)も祀られている。

社殿の背後には冬でも青々とした峰々が連なっている。

そのうちのひとつ、高山入道ヶ嶽(906.1m)には奥の宮が鎮座し、山頂一帯には数々の磐座が点在しているそうだ。

参拝を済ませて三の鳥居を出ると左手先方に大きな御宮が鎮座している。

社号は「椿岸神社(つばきぎしじんじゃ)」。

椿大神社の別宮ながら、全国に散在する鈿女(うずめ)系神社の本宮である。

祭神は猿田彦大神の配祠、天之鈿女命(あめのうずめのみこと)。

一般には猿田彦大神の配祠としてより、天岩戸の前でストリップを舞い天照大神を穴蔵から引っ張り出すことに貢献した女神の名声のほうが高いかも知れない。

この踊りのお陰で天之鈿女命は芸道の祖神として篤く信仰されている。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[椿大神社]14

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参道の緩やかな坂道をゆっくりと登り、木製の三の鳥居をくぐると、ようやく社殿に到着。

拝殿は外拝殿と内拝殿があり、その奥に総檜造りで神明造りの本殿が鎮座している。

椿大神社は垂仁天皇27(紀元前3)年の創建。

光孝天皇仁和年間(885~889)に「伊勢国一之宮」に指定。

醍醐天皇延長5(927)年には延喜式内社となり、隆盛を極めた。

ところが、好事魔多し。

天正11(1583)年、豊臣秀吉の峯城(現・亀山市)攻撃の兵火がここに及び、御神体はもとより社殿古文書ことごとく灰燼に帰すという悲劇に見舞われる。

ようやく社殿が再建されたのは天正14(1586)年3月のこと。

それでも原状回復には程遠く、まだまだ苦難の日々が続く。

転機が訪れたのは、それから四半世紀後の慶長6(1601)年。

“徳川四天王”本多平八郎忠勝の伊勢国桑名藩主への転封だった。

崇敬篤い忠勝は失われていた社頭諸施設を軒並み寄進。

お陰で失われていた古儀式も次第に回復し、椿大神社は往時の姿を取り戻したという。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[椿大神社]13

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「道祖の神」こと道祖神(どうそしん)は、徒歩の旅をしていると道端でよく見かける。

もちろん「お導きの祖神」だけに旅や交通安全の守り神として鎮座しているのだろうが。

特に村や集落の境界地点などに存在が顕著で、これは境界外より侵入する“悪”から村を守るための神として置かれていたものの思われる。

また、以前信州を旅している道中、男女一対になった古い道祖神をよく見かけた。

猿田彦大神は配祠(宮妻)天之細女命と“夫婦和合”の神であり、即ち“子孫繁栄”の神でもある。

前記の一覧には出てこないが、猿田彦大神には「金精様(こんせいさま)」という異名がある。

古代性器崇拝の流れを汲みつつ、道祖神信仰のうち性に関する部分だけを切り出して結びつけた、いわば「性の神様」。

よく精力剤の広告で天狗を見かけるが、これなどまさに「金精様」のイメージそのもの。

ただ、新生児の死亡率が今より格段に高かった往時は、出産に対する観念が現代と大きく異なる。

医療技術が低かった昔は流産や死産も多く、たとえ生まれたとしても不衛生な環境から罹患して幼時に亡くなることも極めて普通のこと。

妊娠から出産、乳児養育という一大事では、医師ではなく神仏を頼らざるを得なかった。

「金精様」はポルノスターではなく、男女の縁を結び、子宝を授けてくれる「神様」なのだ。

日本という国土の上で生まれてくる人間は、一人残らず猿田彦大神の“お導き”を受けているというわけなのか。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[椿大神社]12

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二の鳥居をくぐった左手先方に「土公神陵」と刻まれた石碑が立っている。

「土公神」とは陰陽道で土を掌る神のこと。

天孫を高千穂へ案内した猿田彦大神は「お導きの祖神(おやかみ)」。

道案内の神様が転じて、地祭り(地鎮祭)に霊験あらたかとされた。

ここから「土公神」の御名が奉られたという。

石碑の裏は前方後円墳(周囲約300m×幅約50m×高さ約20m)になっていて、猿田彦大神の御陵と伝わる。

そもそも椿大神社は猿田彦大神の墳墓が先にあり、その近くに垂仁天皇の皇女倭姫命の御神託により社殿を造営したのが起源。

宮司の山本家は土公神陵を神代から守り続けている猿田彦大神直系の神主家なのだそうだ。

頂いた由緒略記には「土公神」以外にも猿田彦大神の異名を

「椿大明神」
「道別大明神」
「興玉の神」
「道祖の神」
「衢の神」
「大行事権現」
「佐田彦大神」
「千勝大神」
「精大明神」
「塞神」
「岐神」
「大地主神」
「白髭大明神」
「供進の神」
「山の神」
「庚神様」

と、これだけ挙げている。

ここまで来ると神様というより、日本人の日常生活に密着した土着的な精霊のようにも思える。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[椿大神社]11

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一の鳥居をくぐろうとしたら、左側の古風な建物が目に止まった。

「獅子堂」といって普段は交通安全の祈祷や車輌の清め祓いに用いられているという。

だが、それは表向きの姿。

実は3年ごとに斎行される「獅子神御祈祷神事」に由来する建物だった。

天平11(739)年に聖武天皇が親拝された折、獅子頭の木彫りを一頭奉納された。

爾来1300年間、獅子頭による祈祷神事が継承され続け、前庭で奉納されている。

これが今も全国各地で行われている獅子舞のルーツなのだそうだ。

斎行されるのは十二支「丑・辰・未・戌」に当たる年。

2月11日に地元で行われる舞初めから、4月12日の舞納めまで全国各地を巡舞するそうだ。

一の鳥居を通り抜けて境内へ。

参道の両側には樹齢数百年という檜や杉の古木が整然と立ち並んでいる。

一の鳥居から二の鳥居へ向かって真ん中あたりの左側に「御船磐座(みふねいわくら)」という神跡がある。

降臨された天孫瓊々杵尊一行の御船は、まずここに繋がれ、この地から猿田彦大神は高千穂に御先導されたと伝わっている。

[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[椿大神社]10

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主祭神は猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)。

ここ椿大神社は全国に2000社ほどある猿田彦系神社の総本社なのだ。

猿田彦大神は天孫瓊々杵尊(ににぎのみこと)降臨の折、天の八衢(やちまた)で「道別(ちわき)の神」として一行を出迎え、日向の高千穂まで先導した国津神。

社号の由来はこの「道別(ちわき)」が転じたもので、仁徳天皇の霊夢により「椿」の字が当てられて現在の社号になった。

天の八衢で一行を待つ猿田彦大神の容貌が、日本書紀に描写されている。

鼻の長さは七咫(約120cm)、背丈は七尺(約200cm)余、口や尻が真っ赤に光り輝いている。

眼は八咫鏡(やたのかがみ)のように丸くて大きく、それが赤々と光る様は赤い酸漿(ほおずき)のようだ…と。

こうした文章が具体的に絵画化され、口や尻が赤い描写は猿、鼻が長い描写は天狗というイメージが後世に遺される。

神社のお祭りで御神輿(おみこし)の先導役として、長く白いヒゲが生えて高鼻の天狗みたいな面を着け、高下駄を履き、鉾を持ったあの姿。

しかも七咫や七尺など具体的な数値を用いて容貌が描写されている神様は猿田彦大神ぐらいではなかろうか?

一方、古事記には「上は高天原(たかまのはら)を照らし、下は葦原中国(あしはらのなかつくに)を照らす」と記されている。

また、眼の形容に例えられている三種の神器「八咫鏡」は“太陽神”天照大御神の象徴ともいえる。

つまり猿田彦大神は記紀成立の当時は「太陽神」として認識されていたのではなかろうか。
 
[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[椿大神社]09

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C-BUSは途中、東海道五十三次45番目の宿場町、庄野宿を経由する。

歌川広重の浮世絵集「東海道五十三次」の中でも最高傑作と謳われる「庄野の白雨」でも有名な宿場。

バスの車窓からも古い街並みがチラチラ垣間見える。

事任八幡宮と日坂宿の出会いがそうだったように、一之宮巡礼の旅は古い宿場町とクロスオーヴァーする旅でもあるようだ。

山間の茶畑を抜けたバスは9時14分、平田町駅から1時間弱で伊勢國一之宮椿大神社に到着した。

改めて思うが平田町駅からここまで200円とは本当に安い。安過ぎて申し訳ないほど。

それぐらい椿大神社は遠い遠い山の中にあるのだ。

門前に立ち、改めて参道方面を眺める。

一の鳥居は伊勢神宮の内外宮と同じ伊勢鳥居、別名神明鳥居。

上部の笠木が五角形で、貫が貫通していない独特の形状をしている。

社号標は「伊勢國一之宮 椿大神社地祇猿田彦大本宮」。

鳥居前の石碑に刻まれた由来には「伊勢の國一の宮椿大神社地祇猿田彦大本宮を称え奉る」とある。
 
[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[椿大神社]08

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翌朝、ホテルをチェックアウトして再び平田町駅へ。

このホテル、単なる駅前ビジネスホテルかと思いきや。

全般的に接客が好印象でフロントの対応も良く、朝食も上出来。

なかなか侮れないサービスを提供してくれた。

やはり大企業の工場が多く出張族を相手にしているだけに、接客のスキルが磨かれているのだろうか?

平田駅で乗るのは近鉄電車ではない。
 
目指すはC-BUSの停留所。

鈴鹿市が三重交通に運行を委託しているコミュニティバスのことだ。

椿大神社へ向かう「椿・平田線」は1時間に1本で毎時19分発。

乗車した8時19分発のバスは数人の乗客を乗せて平田駅を出発した。

途中、JR関西本線加佐登駅を経由する。

運賃は平田町駅から加佐登駅まで100円、それを超えると200円の2段階制。

香取神宮や小國神社へ徒歩での強行軍を強いられた身にとっては、たとえ運賃を徴収されても、この上なく有り難い話だ。
 
[旅行日:2012年12月23日]

一巡せしもの[椿大神社]07

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ホテルへ戻る途中で立ち寄ったコンビニで、なんとキンミヤ焼酎のワンカップを発見!

キンミヤ焼酎は東京下町の非チェーン店系大衆居酒屋で絶大な人気と圧倒的なシェアを誇るブランド焼酎。

酎ハイやホッピーなどの“ナカ(割られる焼酎のこと)”には、まずキンミヤが使われている。

醸造元は四日市市の宮﨑本店。

いわばキンミヤ焼酎は伊勢の“地焼酎”なのだ。

ウィルキンソンのソーダと共に購い、ホテルの部屋へ戻り、伊勢の地で東京下町風の酎ハイを堪能する。

ちなみに下町酎ハイは氷を入れないのが特徴だ。

それにしても、なぜ三重の地焼酎が東京下町の居酒屋を席巻したのか?

その理由は諸説あるのだが、有力なのは大正12(1923)年に発生した関東大震災説。

物流網が麻痺して食糧難に陥り、上水道が寸断され断水に困っていた東京へ、宮崎本店は水や食料などを運び込んだ。

特に被害が甚大だった下町では、この救援活動が大変有難がられたそうだ。

感謝の念が「焼酎はキンミヤ」を定着させ、それが“地下水脈”のように今も滔々と続いているのだという。

無論、焼酎そのもののクオリティが高いことが前提になっているのは言うまでもないが。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[椿大神社]06



そんなことを考えつつ館内をブラブラしていると、フードコートに行き着いた。

そこへ並んだ店の中に東海道民のソウルフード「スガキヤ」を発見!

東海道筋では至るところで見かけるスガキヤだが、実は関東地方に一軒もない。

なので今やニューヨーク近代美術館にも収蔵されているという、あの独特なフォルムでおなじみのラーメンフォークも今まで一度も使ったことがない。

おかげでラーメンフォークでラーメンを食べる機会が、ようやく生まれて初めて回ってきた。

注文したラーメンは和風のとんこつスープ。

フォークの部分に麺を絡め、スプーンの部分でスープを掬い、一緒に口の中へちと運ぶ。

麺とスープ、両者を同時に味わえる食感は確かに箸とレンゲでは難しい。

これが1本あれば今後は家でラーメンを食べる際に箸は要らないかもしれない。

イオンモールを後にし、ホテルへの道を歩きながらフッと気付いた。

イオングループは、ここ三重が発祥の地。

それ故ここを訪れる鈴鹿市民は他県と異なり、“地元商店”を利用する感覚で利用しているのだろうか?

この感覚ばかりは“他所者”には分からないものなのだろう。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[椿大神社]05

rj05椿4T003

ここで衣食住すべてを賄えてしまうから、商店街が存在する意味などないわけだ。

これは鈴鹿だけでなく日本全国どこも似たような傾向にある。

この旅でも富士宮市の西町商店街や一宮市のほんまち商店街など、いい感じで寂れた商店街を通りすぎて来た。

駅前商店街のシャッター通り化など“商業過疎”が問題になり、各地で様々な振興策が立案・実施されている。

だが、どれも抜本的な解決に至っているとは思えない様相。

それもそのはず、消費者にとって巨大ショッピングセンターがあれば商店街の必要性を感じないからだ。

“商業過疎”を解決するには、消費者にとって商店街が必要不可欠な存在になる以外に為す術がない。

では巨大ショッピングセンターを追い出せば商店街が活性化するかといえば、これもまた難しい。

既に“死に体”の商店街を生き返らせるには相当の財力と知恵が必要だろう。

かといって商店街が往時の隆盛を必ず取り戻せるという保証もない。

巨大ショッピングセンターの撤退は結局のところ、街から買い物する機会そのものを奪ってしまい、街全体の衰退を招くという矛盾を内包しているのだ。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[椿大神社]04

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その右隣りには巨大ショッピングセンター、イオンモール鈴鹿が堂々たる威容。

駐車場へ自家用車が、まるで掃除機で吸い込まれるかのようにガンガン入っていく。

その様子を眺めつつ横を通り過ぎると、目の前に現れたのはホンダ鈴鹿工場。

とにかくデカい!
旭化成の工場よりも確実に大きい。

生産品目がラップと自動車では、やむを得ないところか。

三連休の初日、しかも夜なので入り口は閉ざされ、中の生産ラインも動いている気配を感じない。

敷地が広大だけに自分のところまで稼働の気配が伝わってこないだけかも知れないが。

この工場で働く人たちがトヨタ車や日産車に乗るわけがないから、街を走る車も必然的にホンダ車が多いわけだ。

ここから更に南へ向かうとF1グランプリでおなじみの鈴鹿サーキットがある。

とはいえ、こんな夜分にサーキットには何の用事もないので、来た道を引き返してイオンモールへ。

ここで夕食でもと思い、中へ入ると大勢の客でごった返している。

鈴鹿市の消費者がみんなここに来ているかのような錯覚を覚えるほどだ。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[椿大神社]03

rj03椿4T002

歩いているうち「ぼつ焼」という大きな看板が目に止まった。

「みさき屋」という結構大きくて真新しい焼肉店。

看板には“登録商標”と併記されており、ここでしか「ぼつ焼」は味わえないわけだ。

一体どんなものか興味が湧いたが、ものすごい行列なので食べるのを諦める。

後で同店のウェブサイトで調べたところ、創業は昭和34(1959)年と半世紀以上の歴史を誇る老舗だった。

「ぼつ」とは松阪豚のハラミ部分のことを指し、それを焼いたのが「ぼつ焼」なのだそう。

松阪食肉市場と契約して豚ハラミを全量買取り提供しているという。

それでも「ぼつ」が足りなくなって他県から仕入れるケースもあるとかで、その人気の程が忍ばれる。

そもそも「ぼつ焼」だけでなく牛も豚もメニュー全般が格安なので、長蛇の列だったのもうなずける。

「みさき屋」から広い通りを渡り、向かい側にある旭化成の工場へ。

社名の横にわざわざ「サランラップ」と大きく掲げられているので、専用の工場なのだろう。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[椿大神社]02

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平田町の駅舎は中央駅の割にこじんまりとして小さなものだった。

鈴鹿市は言わずと知れたホンダの企業城下町だけに完全な自動車社会。

それ故、市の中心部がどこにあろうと鉄道が果たす役割はそれほど大きくないのだろう。

駅前のビジネスホテルにチェックインし、街中へ散策に出る。

駅の周辺にこそ飲食店が密集しているものの、これといった商店街はない。

みんな自家用車でイオンモールへでも行くのだろう。

横断歩道で信号を待っている間、道行く車列を眺める。

街を走っている車の半分以上はホンダ車ではなかろうか。

ホンダ、他社、ホンダ、ホンダ、他社、ホンダ…という感じで通り過ぎて行く。

歩道は広いが歩行者はおろか自転車で走る人の姿すら疎らで、これはもう完全な自動車社会。

そのせいか、街の中に居酒屋など呑み屋の数が少ないようにも見える。

その一方でスナックのような、お姉ちゃんのいる店は多そうだ。

鈴鹿市には大きな工場が幾つもあり、男の労働者が大勢いるだろうから、それはそれで自明の理といえる。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[椿大神社]01

rj01椿4T001

三連休の初日とあってか、名古屋の駅は華やぎに包まれている。

名鉄から近鉄の駅へ乗り換える間も、行楽帰りなのか、楽しそうな表情を浮かべた家族連れやカップルと何組もすれ違う。

伊勢中川行き近鉄電車の車内も、老若男女のカップルで一杯だ。

車内アナウンスに耳を傾ければ、途中のナガシマスパーランドでイルミネーション・イベントが開催されているという。

これを皆さん見に行くのか…そう思いつつグルリと周囲を見渡すと、ちょうど車内広告が目に止まった。

この「なばなの里 冬華の競演」は国内最大級のイルミネーション・イベントな由。

予想通り(?)近鉄長島駅で大方の乗客が降車し、社内は閑散となった。

伊勢若松駅で近鉄鈴鹿線に乗り換え、終着駅の平田町へ。

鈴鹿市の中央駅は市役所に近い伊勢鉄道鈴鹿駅か近鉄鈴鹿市駅が相当する。

だが、両駅の近辺にはこれといった商業施設がない。

その役割は実質的に平田町駅か近鉄名古屋線白子駅が果たしている。

[旅行日:2012年12月22日]
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