2014年05月

一巡せしもの[大神神社]17

rj17尾張大神4t021

往路とは違う道程をたどって名鉄一宮駅へ向かうち、名鉄の名古屋本線と尾西線が合流する地点に出くわした。

そこは「梅ケ枝公園」といって、線路を高架化した際に生じた中途半端な形状の土地を公園に利用したような印象を受ける

名鉄線と、並走するJR東海道線に挟まれた公園はこじんまりとしているが、電車を眺めるための塔や、小奇麗な噴水があったりして変化に富んでいる。

両脇を電車が頻繁に通り過ぎるため、落ち着かない雰囲気もあるが、それが逆にアクセントとなり散策していて楽しかったりもする。

大神神社について徒然いろいろ考えながら歩くうち、公園も尽きた。

名鉄線の脇を通る細い道を進むと、先方に名鉄一宮の駅舎が見えてきた。

高架上のホームへ上がり、名鉄線の名古屋方面行き電車に乗車する。

名残惜しいが、これで一宮の街ともお別れ。

今しがたまでブラブラ歩いてきた高架橋の上を電車は走る。

今回は大神神社の宮司さんに会わなかったので御朱印を賜ることができなかった。

またいつか一宮市を訪れた折には、電話でアポイントを取って大神社へ行ってみることにしよう。

これで一宮市に再訪する口実が出来たというものだ。

さっきまで散策していた梅ケ枝公園を高架上から見下ろしつつ、そんなことを思った。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]16

rj16尾張大神4t020

日も傾き、オレンジ色の西日に照らされた境内を後にする。

来社の際に通りかかった柵の内側に、藩屏の右側から石灯籠の列が一直線に並んでいる。

真清田神社との「対の宮」にしては境内は狭く、社殿も小さい。

だが、夕日を浴びて佇む石灯籠の列を眺めていると、大神神社の「一之宮」としての格が納得できる気がする。

大神神社を出て、先ほど訪れた古宮公園に再び向かう。

大神神社は元来、この公園の場所に鎮座していたことは既に触れた。

それを念頭において公園の敷地を眺めると、来た時とはまた違った景色が目前に広がる。

時代を経るごとに土地の区割りや地名表示が大きく様変わりする、それが歴史。

だが、大神神社の存在は当地に太古の昔から続く信仰の存在を今に伝えている、それも歴史だ。

名鉄一宮駅へ引き返す道すがら、キリスト強の教会を見かける。

「末日聖徒イエス・キリスト教会一宮ワード」というモルモン教の教会。

大物主神とイエス・キリストが直線距離で200メートルも離れていない場所で共存している。

アメリカの大きな教会の近くに日本の神社が建立されたら、その神社は果たして無事で済むだろうか?

キリスト教徒は「イエス様は寛大です」と主張するが、日本の神様のほうがよほど寛大なように思える。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]15

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境内の右側にお寺が隣接している。

廃仏毀釈まで大神神社の神宮寺だった薬師寺。

大神神社の社殿は戦国時代に焼け落ち、御祭神はその後ずっと薬師寺の境内に鎮座していた。

薬師寺に隣接する現在地に遷座したのは明治3(1870)年のこと。

神仏分離令により大神神社の御祭神を独立させたのだろう。

とはいえ、ここが尾張国一之宮であることに変わりはない。

しかも、これだけ立派な社務所があるのに、神職が不在とは勿体無い話ではないか。

一之宮巡礼者の参詣も、それなりにあるだろうし。

“一宮の、もうひとつの一宮”として上手く喧伝できれば、ソコソコの観光スポットになり得るような気もする。

なのに神職が不在では「宝の持ち腐れ」のような気がしないでもない。

いっそのこと薬師寺の住職が神官の資格も取得して「神宮寺」を復活させ、御朱印の押印だけでも受け付ければいいのに。

今さら「廃仏毀釈」でもあるまいし、この程度の「神仏混淆」なら問題にならないのでは?

とはいえ、この辺りの“縦割り”事情も、そんな簡単に“割り切れる”ものではないことも分かる。

斯くして一宮市の新たな観光スポットになり得る可能性を秘めた「もうひとつの一宮」は、また今日も静かに参拝客を待ち続けている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]14

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ただ、このルールに従わない場合は御朱印を拒否することもあるそうだ。

一見「なんと高圧的な!」とも思えるが、中にはルールに従うことなく参拝そっちのけで御朱印集めにのみ奔走する者も多いのだろう。

時間を約束することもなく突然訪ね、自分の都合ばかりを宮司さんに押し付け、強引に御朱印を押してもらおうとする輩が。

文面からは宮司さんのフツフツとした怒りが伝わってくる。

だとしたら、こうした文面になるのも頷けるような気もする。

確かにスタンプラリーじゃあるまいし、御朱印ばかり必死に集めたところで何の意味があるのか?

ドラゴンボールじゃあるまいし、全部集めたところで何でも願い事が叶うとでもいうのだろうか?

むしろ宮司さんを怒らせてまで御朱印集めに奔走するとは、信仰心とは全く無縁の単なる我欲の露顕でしかない。

三河国一之宮砥鹿神社のところでも書いたが、それぞれ神社には個性があり、他がそうだからここもそうだと思い込む“標準化”的思考は意味がない。

マクドナルドじゃあるまいし、神社は全国どこでも画一的なサービスを提供しているわけではない。

だからこそ諸国一之宮巡礼の旅は面白いのだ。

御朱印が欲しいのならルールに従って貰いに行く…それもまた一宮巡礼の楽しみなのだと、そう感じたいものだ。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]13

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裏の広場から再び拝殿の前に戻る。

隣には立派な社務所が立っている。

だが、中に人はいない。

ここは神職不在の神社なのだ。

一之宮といえども小さな神社なら、神職が常駐していないケースは多い。

例えば武蔵国一之宮の小野神社も神職は常駐していないが、参拝した折に何か祭礼が行われていたお陰で幸い御朱印を頂けたが。

しかし今日は普通の平日なので、残念ながら大神神社ではイベントも何もない。

新年も近いので初詣の準備ぐらいあってもいいように思えるが、その欠片すら見当たらない。

神職は同じ一宮市の大和町於保にある「大神社(おおじんじゃ)」の山田宮司さんが兼務している。

なので大神神社の御朱印を賜るためには、大神社の山田宮司さんに連絡を取り、約束した時間に訪ねる必要がある。

大神社は先出の「延喜式神名帳」と「尾張国内神名帳」の両方に社号が載っている正真正銘の古社。

名鉄一宮駅から名古屋本線で名古屋方面へ2つ目の島氏永駅から歩いて5分ぐらいのところにあるそうだ。

拝殿前の扉に御朱印に関するルールが貼り出してある。

そこには大神社と宮司さん宅への地図や連絡先などが記されている。

宮司さんが不在の場合は御朱印帳を預け、後で自宅へ返送してもらうことも可能という。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]12

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拝殿正面から裏手に回り、玉垣越しに本殿を眺める。

コンクリート製で味も素っ気もない拝殿に比べ、流造の本殿は拝殿との間に幣殿を構え、小さいながらも堂々としている。

寒気の中、冬のシャープな日差しを浴びてキリッと聳立する本殿の姿は、まさに一之宮としての風格を感じさせてくれる。

ただし、大和国一之宮の“本家”(?)大神神社は本殿がないことで有名。

三輪山そのものを御神体として崇めているためで、拝殿の奥には此の世と神の世を隔てる「三輪鳥居(三ツ鳥居)」しかない。

その様式を尾張の大神神社も踏襲したのなら、本殿などないのが本来の姿のはず。

現在の大神神社は戦乱による焼失で創建時の姿とは大きく異なっている。

ひょっとしたら三輪から移り住んで来た大和人たちが、この地に大神神社を建立した時には本殿などなかったのではないか?

そして、大和の三輪山に向けて三輪鳥居を立てて拝礼していたのかも知れない。

本殿の横を抜けて裏手に広がる広場へ出る。

神社一般の例を引けば本殿の裏手は神域。

それを当てはめれば、ここもまた大神神社の神域ということになるか。

特に何も表示されていないが、多分そうなのだろう。

その片隅に土を盛り上げた“小山”があった。

しかも周囲が青草で“隈取り”されている。

どことなく、曰く有りげな風景。

誰かの古墳なのだろうか? それとも単なる盛土なのだろうか?

妙な想像を掻き立てられる。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]11

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「文徳実録」「尾張国帳」には従一位大明神とあり三宮明神、三明神(神宝として珠・鏡・御証印があった)と称せられ、

「文徳実録」は元慶3(879)年に成立した平安前期の歴史書。

文徳天皇の践祚(せんそ)から崩御に至る9年間の治世を編年体・漢文で記録したもので、別名「日本文徳天皇実録」と呼ばれている。

「尾張国帳」とは平安時代末期に尾張国司が作成した、尾張国内の諸神社と神名・神階を記した「尾張国内神名帳(おわりのこくないじんみょうちょう)」のことか。

延長5年延喜式神名帳には式内社とあり、勅祭神社であったことが判る。

延喜式神名帳は中央政府の神祇官が作成した全国の神社一覧で、国司が作ったローカル神名帳と真逆に位置するものだ。

ここに名が記されているということは、無名だった当社が長い歴史の中で尾張國一之宮に紛れ込んだ…というわけではない証か。

尾張の國中には、大名神八座・小一二三座あって、当時の大名神八座の内の一座である。

大名神の八座とは具体的にどの神社を指すのか、良く分からない。

愛知県図書館は「尾張国内神名帳」を電子データ化してウェブサイトで公開しているので、後で閲覧してみた。

しかし当方、学者でも何でもないので漢字の羅列を見てもチンプンカンプン、やっぱり分からない。

ただ、大神神社と真清田神社の名が載っていることは分かったが。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]10

rj10尾張大神4t015

次いで花池の「大神神社」と「真清田神社」をまとめての「相殿・対の宮」と言うことで「尾張の一の宮」に指定した。

「一之宮」とは国司が参詣する神社の順番のことで、神社の格付順ではない。

ただし尾張国の場合、両社は「相殿」で「対の宮」、つまり二社で一つの「一之宮」ということにされた。

このため尾張には一之宮が二社存在することとなったわけだ。

大神神社は国津神の大物主神、真清田神社は天津神の天火明命。

国司は各祭神のバランスをはかるため、両社まとめて一之宮にしたのだろうか?

それにしては後世になってから両者の間に広がった格差は甚だしいものがある。

真清田神社もまた、大和国葛城から移住してきた尾張氏の手で創建された。

尾張氏は一帯を開拓し、その名が地名になるほど土着の豪族となった。

一方、尾張の大神神社を創建したのは同じ大和国でも三輪の人々だったのではないかと思える。

つまり、他所からの移住者ながら地元に定着して“地場産業”のトップとなった真清田神社。

一方、大和国本社の“支社”であり、しかも熱田神宮の“子会社”でもあった大神神社。

こうなると同格の神社であっても、どちらが地元から篤い信仰を集め得るか結果は明らかな気がする。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]09

rj09尾張大神4t022

木製狛犬のところでもチラッと出て来たが、鎮座地の名は花池という。

正確には下記の通り。

鎮座地 愛知県一宮市花池二丁目十五番ノ二

(旧鎮座地) 愛知県一宮市大和町宮地花池字西屋敷

旧鎮座地に大和町とあるのは、やはり大和から移住してきた人々と深い関わりがあるからだろう。

鎮座地の花池は水が美しく、蓮田が多く、毎年熱田神宮に奉納する蓮が咲く沼であった。

往時この一帯は熱田神宮の荘園「熱田庄」で、毎年旧暦7月7日には素麺と蓮を奉納していたと伝わる。

尾張国にある以上、やはり熱田神宮の影響下からは逃れられないのだろうか?

奈良時代に國司が赴任して、國中の神社を代表として國府宮の、「尾張大國霊神社」を尾張の總社に指定、

総社については真清田神社のところでも少し触れたが、同じ尾張國一之宮。

切っても切れない縁で結ばれている以上、重複するのは止むを得まい。

尾張国へ赴任してきたヤマト王権の国司が、まず総社に尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)を指定。

総社というのは尾張国内の神社の祭神を集めて祀った神社のこと。

こうすることで国司は各地の神社に赴く必要がなくなり、しかも国府の近くで一度にまとめて参拝することができるという(ある意味ズボラな)制度。

現在の尾張総社は国府宮(こうのみや)で、名鉄一宮駅から名古屋方面に向かって3駅目の国府宮駅から歩いて5分程のところに鎮座している。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]08

rj08尾張大神4t012

藩屏に狛犬に扁額と、木製の“三種の神器”で護られた大神大明神。

拝殿は素っ気ないコンクリ製でも、細部に見え隠れする“アイテム”が風格を感じさせる。

スーツは吊るしの既成品でも、シャツとネクタイとチーフがブランド物を身に付けているビジネスマンのようなものか…ちょっと違うか。

拝殿正面の右側には同社の由来書が掲げられている。

尾張の大神神社については世間に出回っている資料が乏しく、この由来書が頼りといっていい。

木製狛犬と同様、由来書を引用しながら大神神社について考察してみたい。

崇神天皇の御代、疫病が流行したときに天皇が祀った神々の一柱。

創建は崇神天皇の御代というから、紀元前97~30年あたりか。

「古事記」中巻「崇神天皇」の段で語られている、三輪山の神を祭るエピソードだろう。

祭神 大物主神

大和の國一の宮大神神社の祭神で、三輪の神とよばれ、大國主神(大國様)の別名がある。

大和の大神神社と根源が一緒だけに、祀られている神様も同じ国津神の総元締、大物主神(オオモノヌシノカミ)ということになる。

大國主神(オオクニヌシノミコト)以外にも大己貴命(オオナムチノミコト)、大穴牟遅神(オオナムチノカミ)など様々な異名を持つ。

大和の大神神社と同じく、大和系の人々が三輪の神を祀ったことにはじまるといわれる。

つまり日本最古の神社のひとつ、大和國一之宮の大神神社にルーツを求めることができるわけだ。

大神神社そのものについては、いずれ大和國一之宮を参詣するであろうから、その折に詳しく考察してみたい。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]07

rj07尾張大神4t010

右側に祓所を見ながら参道を進み、突き当りの馬像を左に曲がる。

右手には拝殿が聳立し、左手には木製の塀が単独でポツンと立っている。

「藩屏」といって外部からの邪気を社殿へ直進させないための目隠しみたいなもの。

だが藩屏の先に参道も入り口もなく、表の通りとは玉垣で遮られている。

たぶん参道は昔、こちら側の藩屏と社殿を結ぶ直線上にあったのだろう。

一方、拝殿の前には石造りの狛犬がキチンと鎮座していた。

鳥居のところになかっただけで、こちらの早とちりだった様子。

藩屏に狛犬と、これなら御祭神も安心に違いない。

拝殿はこじんまりとしたコンクリート製の建物。

だが、なぜか外壁はピンク色に塗装してある。

ピンク色に何か特別な理由でもあるのだろうか? 

もしあれば、知りたいところだ。

拝殿の正面には「大神大明神」と記された、大きな扁額が掲げられている。

木製で周囲を「雷文(らいもん)」に縁取られている。

雷文とはラーメンの丼の淵に描かれているグルグルの文様のこと。

雷の持つ自然エネルギーを意匠化した文様には、邪気を払う力が込められている。


[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]06

rj06尾張大神4t000

阿行台座側面に「尾張中島郡 宮地花池村 惣 氏子中」、吽形台座側面に「文化十二(1815)乙 亥龝 如月堂 毛受良三 彫之」とあり、文化十二年に毛受良三によって制作され、宮地花池村の氏子によって奉納されたことがわかる。

宮地花池村とは、ここ鎮座地の往時の地名。

現在は一宮市花池なので、変わってないといえば変わってない。

文化十二の後ろにある“乙亥(きのとい)”は年を示す干支で、“龝”とは秋のこと。

作者は「毛受」と書いて「めんじょ」と読むそうで、元は一宮市内に古くからある地名。

名鉄一宮駅から西へ向かうと毛受に着く。
良三の姓は多分ここから来ているのだろう。

記録によると良三は寛政年間の彫刻職人で、京都で修行し名古屋で活躍した、とある。

如月堂とは良三の屋号じゃないかと思うのだが、詳細な記録がないので良く分からない。

それにしても境内に狛犬の姿が見えないのは寂しいものだ。

文化財を雨ざらしにしておけないのは理解できるが、ならば文化財とは別に石造の狛犬を発注して常設しておけばいいではないか。

スチール製の解説板にはどこにも書いてないが、木造狛犬は一体どこに行けば見られるのだろう? 

一宮市博物館の所蔵品リストに掲載されていないので、拝殿か本殿の内部にでも保管されているのか。

狛犬には境内に邪気の侵入を防ぐ役割もあるのだが、それが不在では御祭神も心許なかろう。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]05

rj05尾張大神4t011

如何なる狛犬なのか、説明文を引用してみる。

阿形はやや口を開け、首をふる。

吽形は固く口を引き締め、頭上に一角を持つ。

共にたて髪、巻き毛を分厚く肉彫りし、耳は垂れているが、目は大きく見開き、胸を張り、前脚を踏張っているのは力強さと量感に満ちている。

これだけ読むと、かなり迫力のある狛犬が頭に浮かんでくる。

材料が石ではなく木だけに、細部まで繊細に彫像を施せたせいだだろうか。

参道の左側に手水舎があり、その陰にスチール製の説明板が立っている。

読んでみると、こちらも狛犬の説明板。

だが、木製のそれよりは多少詳しい。

今度はこちらの説明文から引用する。

洗練された技術とは言い難いが、むしろ稚拙な掘り方が、素朴で手造り的味わいがあり、見る者に好感を与える。

“稚拙な掘り方”とあるから、材料が木だからといって特に繊細な彫像が施されているわけでもなさそうだ。

彩色は当初より施されていなかったようで、木目の跡が美しい。

木目が剥き出しになっているところも“素朴で手造り的味わい”を醸し出している要因かも知れない。

台座と本体は一木であるが、尾の部分と胴の部分を継ぎあわせている。

一本の太い丸太から台座ごと彫り進めていったのだろう。

だが、さすがに尾の部分だけは難しく、別に彫って後からくっつけたものと思われる。

かなりの重量で、内刳りはなく、檜の寄木造りである。

内刳り(うちこり)とは木造彫刻で乾燥による干割れを防ぐために内部をくり抜くこと。

つまり内側に空洞はないので、それは相当な重さになるだろう。

それでも全く同じ大きさで石造りのものよりは軽いのだろうけど。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]04

rj04尾張大神4t008

周囲は完全な住宅街であり、境内の外側には参道すらない。

よく神社で見かける茶店も土産物屋もない。

それどころか道を挟んだ向かい側にあるのは農家のビニールハウスだ。

まずは門の前に立ち、外側から境内を眺めてみる。

入り口には一対の石柱が立ち、その裏に石灯籠。

石柱の内側手前に石造りの明神鳥居、その右側に社号標。

参道の突き当りには馬の銅像が聳立している。

鳥居をくぐると左側に御神木の巨大な楠が立つ。

根を護る木の柵、幹に巻かれた注連縄、そして横長の石灯籠。

それらが古社ならではの素朴な雰囲気を醸し出している。

だが神社に不可欠ともいうべきものが見当たらない。狛犬がいないのだ。

その代わりというか、木製の説明板が立っている。

一対の木造狛犬が市の文化財に指定されているという内容。

説明文によると江戸時代の制作で、文化財指定日は昭和57(1982)年3月1日。

高さは阿形40センチ、吽形45センチというから、それほど大きな狛犬でもなさそうである。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]03

rj03尾張大神4t005

森の方角へ道に足を向けると、右側に小奇麗な公園が広がっていた。

住宅街の中によくあるタイプの、何の変哲もない公園。

入り口の標柱に掲げられた銘板を見ると「ふるみやこうえん」と記されている。

「ふるみや」とは“古宮”なのか? 一之宮と何か関わりがあるのか?

公園の中へ足を踏み入れてみる。

滑り台に鉄棒、雲梯など、ありきたりな遊具が並んでいる。

真ん中には藤棚とベンチが設えてあるが、神社の遺跡らしきものは見当たらない。

公園を出ると道の先に神社の境内らしき一角が目に入った。

先ほど見た森の中の神社に違いない。

ところが近づいてみると入口かと思った柱には注連縄が張られており、ここが正門ではないことを示している。

物理的に入ろうと思えば入れないこともないが、注連縄の存在は“御神意”であり背いてはならない。

入ったからといって何か天罰が下るわけではないが、無理に入ったところで何かいいことが起きるわけでもない。

なら、入らないほうがいい。

柵の内側に石灯籠が立ち並ぶ道に沿って先へ進むと三叉路になっており、その左側の道の先に鳥居が見える。

鳥居の前まで足を運んでみると、やはりここが尾張國一之宮、大神神社(おおみわじんじゃ)だった。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]02

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尾張一宮駅ビルの構内を通り抜け、名鉄一宮駅のある西口側へ出る。

こちら側は駅前に雑居ビルが並び、その奥は住宅地が広がっている。

東口と比べて地味というか、何の変哲もないごく普通の地方都市の表情だ。

駅から南に向かって住宅地の中を歩く。

往来にはマンションやアパート、一軒家や個人商店が居並ぶ。

その姿は特に一宮市らしいわけでもなく、大都市圏の郊外ならどこでも見かける光景だ。

5分ほど歩くと目の前に名鉄尾西線の高架橋が姿を現した。

線路は一直線に伸び、その両脇を一車線分ぐらいの車道が通っている。

この一帯は都市計画によって街区が再編されたのだろうか、町並みが整然としている。

高架橋の下をくぐって、さらに南へ。

行けども行けども、ごく普通の住宅街が延々と続く。

一戸建ての住宅が立ち並ぶ狭間に野菜畑が点在する地方都市ならではの光景。

こんな所にホントに尾張國一之宮があるのだろうか?

歩を進めるに従って次第に不安感が増していく。

そのとき、比較的広めな野菜畑の向こう側に小さな森が現れ、その中に神社の社殿らしき建物の佇まいが見えた。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[大神神社]01

rj01尾張大神4t001

一宮の裏通りをブラブラ歩きながら尾張一宮駅へ向かう。

街中あちらここちらに面白そうな飲み屋が数多くある。

昼間なので営業していないのが残念だが。

こうした飲み屋に限らず、この街には昭和の色濃い建物がアチコチに残っている。

昭和テイスト大好き人間の自分にとっては、まさに「宝の山」。

名古屋だと中京経済圏の旺盛な投資意欲が不動産に流入し、土地や建物が盛んに売買された結果、どんどん古い建物が姿を消している。

しかし、そこまで中京経済圏に飲み込まれていない一宮では、名古屋ほど街の新陳代謝が進んでいないせいだろう。

しかも街の東側へ行き大江川を超えれば、そこに控えるは一宮競輪場。

競輪場から南へ岐阜街道(国道155号)を超えると、そこは有名な色街、花岡町。

一宮の生んだスーパースター、つボイノリオ先生の名曲「一宮の夜」の如く、まさに「清濁併せ呑む」街。

今回は残念ながら(?)競輪場にも花岡町にも足を運ぶことはなかったが。

歩けば歩くほど興味を惹く事物が目に飛び込んでくる。

名古屋から電車で僅か10分程度なのに、このコンパクトにまとまったカオス的な街の有り様は奇跡的とも言える。

またいつかこの街を訪れ、タップリ時間をかけてジックリ堪能してみたいと思う。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]20

rj20真清田4T11

国府の近くから参拝する順に番号を割り振っていったので、最も近い真清田神社が一之宮。

次いで犬山の大懸神社、そして熱田神宮という順で番号が割り振られた…と考えるのが最も合理的だろう。

そもそも熱田神宮が“神宮”になったのは明治維新の神仏分離令以降、それまでは熱田“神社”だった。

尾張国府が築かれた当時、ひょっとしたら国司側には真清田神社と熱田神社の間に現在ほどの宗教的“格差”意識などなかったのかも知れない。

しかし三種の神器“草薙剣”を祀る熱田神社のプライドは高く、それに辟易した国司サイドが三之宮に留め置いた…ということも考えられる。

神々の世界にしては妙に人間臭い話だが、こちらの説のほうが物語としては面白い。

江戸時代に東海道五十三次で門前に宿場町“宮”が整備されたおかげで、その名が旅人達によって全国的に喧伝された熱田様。

一方、尾張の首府が名古屋に移った後も、尾張発祥の地に足を着けて一帯の守護神を務め続けた真清田様。

両者の関係性に諸説あろうとも、尾張国だけに限れば、やはり筆頭の神社は真清田神社にこそ相応しいのではないか?

後ろを振り返り、本町商店街のアーケード街を眺めているうち、そんなことが頭に浮かんできた。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]19

rj19真清田4T29

しかし、これは間違いなく「当たりの店」だという予感が働く。

入ってみようと思ったが、残念ながらアイドルタイムで準備中だった。

再び宮前三八市広場に戻ってきた。

鳥居と楼門を眺めながら「なぜ熱田神宮が尾張國三之宮なのか?」という謎について考えてみる。

真清田神社で頂いた栞「東海五県一宮巡りのご案内」では、こう一之宮を説明している。

一宮とは、一の宮・一之宮とも書かれ、各地域の中で最も社格の高いとされる神社のことで、国司が任国に赴任した時などに巡拝する神社の順序とされています。

つまり一之宮の“一”という数字は格の高さではなく、国司が巡拝する神社の順番ということになる。

このことは武蔵国一之宮の小野神社と、三之宮だった氷川神社のところでも触れた。

尾張国の国衙(国府)は一宮市の隣、稲沢市松下に存在したと推測されている。

現在ここには総社の尾張大國霊神社があり、別名はズバリ「国府宮」。

総社とは国司が国内の神社を巡礼する手間を省くため、各社の祭神を勧請して一つ処に祀った神社のこと。

総社は国司が参拝し易いように国府の近くに建立されることが普通なので、ここに国府があったことは、まず間違いなさそう。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]18

rj18真清田4T28

つまりド派手は施策は宗春が突発的に思いついたわけではない。

尾張国に連綿と受け継がれてきた歌舞音曲好きの“民族性”が、宗春の存在を介在して現世に姿を現したのだ。

神楽殿の建物を眺めるうち、判官ならぬ“宗春”贔屓が嵩じたのか、そんなことを想った。

境内西端の出入口に建つ鳥居から境内の外に出で、外周道路を楼門の方面へグルリと回ってみる。

楼門の手前に立つ中央の白い建物は宝物館。

だが、その左隣りに、なぜか星条旗が掲げてある。

尾張国一之宮とアメリカ国旗……一体いかなる関係があるのか?

近づいて見ると何かの食べ物屋の様子。
 
看板を見ると「お茶漬け」と書いてある。

どうやらお茶漬け屋らしい。
 
店名は「ニューヨーク」。

入口には名古屋のローカル番組のステッカーや、掲載された雑誌の記事が所狭しと貼ってある。

地元では結構な有名店なのだろうか?

看板には「揚げ明太子」(油に入れたとき粒々が一斉に破裂しないのだろうか?)とか「フォアグラ」「フカヒレ」と列記してある。

更には「鯛 吉兆」や「瓢亭の朝粥」までも。

ここで京都屈指の老舗料亭の名物が食べられるのか?
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]17

rj17真清田4T26

真清田神社は鎌倉時代に順徳天皇から篤く崇敬され、多数の舞楽面を御奉納された。

それらは木彫りの技術が最も発達した時期に製作されたもの。

12面が重要文化財、7面が県文化財に指定され、現在でも真清田神社に保存されている。

「真清田神社縁起」によると、中世には大きな神事や仏事の度に舞楽が行われていたとある。

また、天皇即位の祭儀「大嘗祭(だいじょうさい)」など宮中の重要な儀式で奏されていた「久米舞」が、ここで蘇ったという。

建国神話に由来する「久米舞」は古典芸能の粋を現代に伝える貴重な演目なのだが、応仁の乱で断絶して以来、長らく廃絶していた。

江戸期になって真清田神社が保管していた烏帽子(えぼし)箱の中から「久米舞」の譜面が発見された。

それを基に文政元(1818)年11月、仁孝天皇の大嘗祭から再び演奏されることになった。

真清田神社では現在でも毎年4月29日を舞楽神事の日に定めて、数々の演目を奉納している。

徳川八代将軍吉宗の徹底した倹約を旨とする「享保の改革」に、尾張藩主徳川宗春がド派手な施策を打ち出し真っ向から対立するという有名なエピソードがある。

宗春が打ち出した施策の裏側には、真清田神社をはじめ尾張国に脈々と受け継がれてきた歌舞音曲の歴史が重要な役割を果たした側面があったのではなかろうか?
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]16

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どこのお祭りにも付き物のパレードだが、この「御衣奉献大行列」は神事の色合いが比較的強い様子。

ミス七夕&織物も織姫様の装束を身につけ、パレードのトリとして最後尾を行進する。

ちなみに布地の女神の祭典だけに、布の使用量が少ない水着姿にはオーディションも含めて一切なることはないそうだ。

服織神社から更に東へ向かうと、境内の東端に位置する神池に出る。

室町時代後期の古絵図にも描かれているというから、かれこれこの地に500年も前から存在していることになる。

神池には「開運橋」が架かり、池の真ん中にある中島とを結んでいる。

「開運橋」は平成10(1998)年に完成したもので、中島には末社の八龍神社が鎮座している。

真清田神社には2つの龍神伝説がある。

ひとつは嵯峨天皇の時代、弘法大師が雨乞で大雨を得た際、祈願した龍神が真清田神社の森に鎮まったという伝承。

もうひとつは御祭神が鎮座される際に八頭八龍の大龍が下り、創建当初から境内に龍神が鎮まるとする伝承だ。

龍神は水を司る神だけに、木曽川の恵みで潤ってきた一帯の信仰とは切っても切り離せない存在であり続けたのだろう。

境内を横切って今度は反対側の西端に向かうと、拝殿の左側に神楽殿が建っている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]15

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繊維産業は古くから三河尾張地方の重要な産業。

トヨタ自動車も元をたどれば自動織機の製造会社が原点だったことは砥鹿神社のところで触れた通りだ。

天火明命は農業守護の神であり、母子の両神をセットにすることで衣食の充足の重要性を表現しているのだろうか。

社殿はコンクリート製で味気ない建物だが、中に入ると天井から白布が幾重にも垂れ下がっている。

その空間を一迅の風が吹き抜け、白布がパタパタと音を立てて一斉に揺らめいた。

お出迎えも幻想的で清々しいエロティシズムが漂い、さすが機織守護の女神だけあるとウットリ。

萬幡豊秋津師比賣命は別名「棚機姫神」(たなばたひめのかみ)とも呼ばれている。

読んで字の如く七夕祭りの織姫のことで、一宮市では毎年7月末に「一宮七夕まつり」が行われる。

仙台、平塚と並ぶ「日本三大七夕祭り」を標榜しているが、仙台も平塚も特に繊維産業が地場産業というわけではない。

織姫様を機織りの神様として奉るという意味合いでは、一宮の七夕が最も相応しい祭りかも知れない。

毎年この「一宮七夕まつり」では公募した女性からミス七夕とミス織物が選ばれ、祭りのハイライト「御衣(おんぞ)奉献大行列」に参列する。

「御衣奉献大行列」は特産品の毛織物を真清田神社に奉納する大行列で、その長さは延々500メートルにも及ぶという。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]14

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拝殿の前を離れ、社務所の前から社殿の全体像を眺めてみた。

雨で濡れた拝殿前の敷石に空の青さが映り込み、境内に清々しさを演出している。

拝殿の前にはお宮参りだろうか、幼子を連れた若夫婦が嬉々として写真撮影に勤しむ姿。

それらすべてを含めた真清田神社のランズケープに、日本人にとっての神社の在り方そのものが映し出されているような気がした。

視線を左側に向けると、小さな建物が目に止まった。

摂社末社でも手水舎でもなさそう。

近くに寄って看板を見れば「神水舎」と記されている。

承暦元(1077)年、眼病を患われた白川天皇の夢枕に、八ッ頭八ッ尾の大龍に乗って両手に松と桃の枝を携えた老翁が立たれた。

この夢について白川帝が占わせたところ、その老翁は真清田大神の霊夢であるとの奏申を得た。

さっそく白川帝が真清田神社の井戸水で眼を洗われたところ、たちまち病が癒えたという。

井戸水の中を覗きこむも暗くてよく見えないが、その水は今もコンコンと湧き続けている…はずである。

拝殿の前を横切って境内を東側へ向かい、本殿の右隣に建つ摂社の服織神社(はとりじんじゃ)へ。

社号の如く機織守護の神で、天火明命の母神である萬幡豊秋津師比賣命(よろずはたとよあきつりひめのみこと)を祀っている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]13

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御用材は名古屋営林局から払い下げられた木曽檜が充てられ、本殿内の御扉や柱桁などは伊勢神宮から特別に下賜された古材を使用しているそうだ。

戦後の建築物にも関わらず、平成18(2006)年には本殿と渡殿が国の登録有形文化財に指定されている。

再建だからといってコンテンポラリーな様式にするのではなく、失われた往時の姿を丹念に再現したところが評価されたのだろうか。

その拝殿に向かって拝礼し、真清田大神と心を通わせる。

明け方の雨は既に上がり、天候は完全に回復。

頭上には青空が広がり、むしろ暑いぐらいだ。

社伝によると創建は神武天皇33(紀元前627)年。

先述した天火明命は、この地に「尾張」と命名した天香山命(あめのかぐやまのみこと)の父神。

大和国葛城から移住してきた尾張氏は、この一帯を開拓して土着の豪族になった。

天香山命の子孫を名乗っていた尾張氏は、祖神として父神の天火明命を祠った。

それが尾張国の総産土神、真清田神社の起源…とされている。

尾張氏はヤマト王権で軍事や祭祀を統べていた物部氏と深い関係にあった。

このことから、尾張氏が祖先と仰ぐ天火明命もまた、天孫に名を連ねるようになったと言われている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]12

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真清田神社の社殿群は昭和20(1945)年7月28日、第二次世界大戦の空襲で悉く焼失したため、すべて戦後に再建された。

この楼門もまた昭和36(1961)年11月、一宮市民を中心に寄せられた浄財を以って再建されたもの。

焼失した戦前の楼門にも勝るほどの総桧造りで、戦後の木造建築の白眉とされているそうだ。

入ってすぐ左側の手水舎は、その空襲を奇跡的に免れたもの。

水を滔々と流し続ける“吐水龍”は寛永8(1631)年、尾張藩祖徳川義直公が社殿を全面的に修造した際、龍神を祈雨祈晴の象徴として奉納したもの。

それから300年以上が過ぎた平成8(1996)年、経年劣化のため初代は引退。

現在の二代目に跡を譲った。
 
もちろん二代目は初代の忠実なレプリカである。

正面を向くとスクエアな空間の向こう側に社殿群が聳えている。

手前から奥に向かって拝殿→祭文殿→渡殿→本殿の順に並び、それらが連接した「真清田造り」と呼ばれる独特の配列。

棟木(屋根の最高位に取り付けつけられる材木)の向きが、拝殿と渡殿は南北方向、祭文殿と本殿は東西方向と互い違いになっている。

上空から見ると十字の形に建っているはずで、まるでヨーロッパの巨大な教会のよう。

先述の通り社殿は戦災で灰燼に帰し、再興されたのは終戦から10年余りが過ぎた昭和32(1955)年のこと。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]11

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楼門の前には石造りの神橋が架かっている。
 
それにしても橋と呼ぶには小さ過ぎる。

しかも「神橋不可渡」と刻まれた古い石標が立ち、鉄柱に繋がれたチェーンが不心得者の行く手を阻んでいる。

神様が渡るための橋なので、人様は渡ってはならぬのか。

そう思いきや、橋の横に「危険なので渡らないで下さい」との立て看板。

単に上を歩くと崩落する恐れがあるからのようだ。

石標と立て看板の指示に従い、橋の横を通って楼門の前に出る。

正面上部に掲げられた扁額には「真清田大神」と刻まれている。

人間国宝の故・平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)氏が、聖武天皇の御宸筆と伝わる焼失前の旧扁額を模して彫刻したものだ。

扁額には「真清田大神」とあるが、主祭神は「天火明命」(あめのほあかりのみこと)。

天照大御神の孫神で、本名は「天照国照彦天火明命」(あまてるくにてるひこ~)という。

天を照らし国を照らす天の火の明かり…つまり太陽エネルギーそのもののような名前だ。

全国各地のソーラー発電所は真清田神社の大麻をお祀りすれば、太陽光に不自由することはないかも知れない。

楼門をくぐって境内へ。

楼門といえば朱色が多い中、黒々とした色合いの中に白いアクセントが効いた外観は独特なインパクトがある。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]10

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鳥居をくぐって境内に進む。

正月が近いせいか、黒々と「初詣 真清田神社」と墨書された幟が2本、風にそよいでいる。

奥の楼門には白の地に緑色の明朝体で「迎春」と大きく横書きされた横断幕。

さらに鳥居から楼門に向かって、酒の菰樽が2つづつ縦に置かれた形で一直線に並んでいる。

先頭に据えてある酒の銘は「真清田」と「金銀花」。

いずれも地元一宮唯一の蔵元、金銀花酒造の地酒だ。

「真清田」は真清田神社に奉納される御神酒で市販もされている。「金銀花」は酒蔵の看板酒だ。

金銀花酒造は江戸時代の享保年間に創業した老舗。

ここの酒は犬山から一宮へと流れる木曽川の伏流水を用い、女性の杜氏が仕込んでいるそう。

社号「真清田」の由来は、この一帯が木曽川の灌漑用水に恵まれ、その清く澄んだ水で水田を形成していたことから名付けられたと云われている。

真清田神社の御神酒として、尾張産の酒米を木曽川の伏流水で醸した酒ほど相応しいものはない。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]09

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店の種類は古着や小道具を売買する古手屋が最多で、糸売買商、綿屋がそれに次いでいたそうだ。

こうした歴史的な経緯を踏まえて一宮市民から意見を募り、平成15(2003)年に整備されたのが、このちょっとした「宮前三八市広場」。

門前の両脇に衣料品店が軒を連ねているのも、400年も前に生まれた三八市の名残りなのだろう。

だが、そうした“歴史的遺産”といった風情は微塵も感じられず、時の流れに身を委ねて風化していくのを待っているようにも見える。

三八市の名残りではなく、武蔵國一之宮氷川神社で触れた「バラック通り」同様の扱われ方なのか?

そう考えると風前の灯火にも見える、この寂れた仲見世にも自ずと愛着が湧いてくる。

宮前三八市広場のド真ん中に立ち、真清田神社を眺める。

質素な石造りの明神鳥居と堂々とした社号標の向こう側に、黒々とした楼門が聳えている。

社号標の正面に刻字されているのは「真清田神社」の五文字のみ。

揮毫は名古屋生まれの書家、大島君川が数え年68歳の時に記したもの。

大島は愛知県の役人を長らく務め、県内にある碑文の揮毫を多く手掛けてきた。

社号標は昭和4(1929)年7月に倒壊したが翌年8月、篤志家が奉納して再建されたという。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]08

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国道155号線、通称「岐阜街道」を挟んだ向こう側に尾張國一之宮、真清田神社(ますみだじんじゃ)の姿。

門前の手前にはちょっとした広場が広がり、鳥居と社号標は少し奥に引っ込んだところに立っている。

広場の前に立って左右を見渡すと、そこには小さな衣料品店が軒を連ねている。

昔から繊維の街として有名な一宮市の繁栄を今に伝える光景。

だが、この日は残念ながら開けている店が少なかった。

多分、人出の多い正月や祭りの時には全開バリバリなのだろう。

それにしても真清田神社は何故、鳥居をこんなに奥まったところへ建てたのだろうか?

大きな通りに面している神社なら、普通は鳥居を通り際の目立つ場所に建てるものなのに。

同市の博物館によると江戸時代、真清田神社の門前には「三八市」という公認市場が立っていたという。

享保12(1727)年に一宮村民の請願が認められ、最初は小さな物々交換の場として誕生したという三八市。

木曽川の水運に加え、名古屋と岐阜を結ぶ岐阜街道の宿場町という、水陸交通の要衝に位置している利便性が幸いして次第に規模が拡大。

市場開設から約100年後の天保13(1842)年には500以上もの店が軒を連ねるまでになったとか。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]07

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本町通り商店街は真清田神社に近付くにつれ、寂れ具合が高まっていく。

そして、いよいよ終わりが見えてきた。

といっても商店街の命脈が尽きるという意味ではなく、アーケード街の出口が近づいてきたということ。

そして出口の手前で一軒の閉鎖された店舗を見た時、寂れ具合がピークに達した。

正面には「横井百貨店」と記された銘板と、緑地に白字で「YOKOI」と描かれた店名の看板。

だがシャッターで出入口は固く閉ざされ、その上に掲げられた新作発表会の告知看板は朽ち果てて何の新作なのか分からない。まさに“亡骸”だ。

かつては一宮市を代表する老舗デパートだったのだろうが、商圏の郊外化という全国共通の宿痾によって命脈を断たれたに違いない。

こうした老舗デパートの亡骸は全国各地に転がっている。

しかも上屋が残っていると往時には繁盛したであろう姿が忍ばれるだけに切ない。

せめて解体し更地にでもしておいてもらったほうが、まだ切なさを感じずに済むのだが。

横井百貨店を見るまでもなく、やはり全体的に空き店舗が目立ち、シャッター商店街化が進んでいる。

モータリゼーション絶対主義の現代では、商圏の郊外化と中心部の衰退を覆すことは不可能だろう。

もっと観光資源を掘り起こして、クルマを当てにしない商店街作りをしていかないと、本当の意味で本町商店街に終わりが来てしまうのではなかろうか?

そんなことを思いつつ薄暗いアーケード街を抜け、光の差し込む方向へ歩み出る。
 
[旅行日:2012年12月22日]
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