2014年04月

一巡せしもの[真清田神社]06

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近寄って名称を見ると「一宮市役所西分庁舎」とある。
元は銀行のビルだったという。

正面にはギリシアのパルテノン宮殿にあるようなギザギザで極太の柱が4本ほど立ち並んでいる。

専門用語で「ドーリア式オーダー」というこの様式、確かに戦前に建てられた銀行の建物でよく見かける。

看板の上にはからくり時計が設えてあり、ちょうど13時の鐘が鳴っている。

西分庁舎の裏手には市役所一宮庁舎があり、こちらのデザインもクラシカル。

無味乾燥なデザインの官庁舎が氾濫する今の世の中で、オーセンティックなデザインを貫く姿勢には好感が持てる。

商店街に延々と立ち並ぶ商店や家々は往年の雰囲気を漂わせている。

そんな中、建物そのものは古いのに店構えは妙にイマ風でオシャレなカフェを発見した。

伝統を温めつつ新しいトレンドを取り入れる…まさに温故知新そのもののようなお店である。

繊維産業で栄えた工業都市と宗教都市の両面が融合し、このような形で具現化されたのか?

一体どんな店なのか興味シンシンとばかりに歩み寄り、店頭の黒板を見ると…なんとガールズバー!

温故知新過ぎるだろ! これでは温故知アヴァンギャルドではないか? と、思わずツッコミを入れる。

昼間なので幸いにも(?)営業してなかったが、もし開いてたら迷わず入店していたところだ。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]05

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駅東口から伸びる伝馬通り(県道457号線)を進むとアーケード街との交差点に出た。

本町通り商店街。
フルアーケードで覆われた見事な商店街が真清田神社まで一直線に続いている。

表参道そのものが巨大な商店街なのだ。
さすが「一宮市」を名乗るだけあると感心。

真清田神社を中心に発展してきた町だけにスケールが違う。
本町通り商店街をブラブラしながら門前を目指す。

一宮市のメインストリートのはずだが、ここもご多分に漏れずシャッター通り化が進んでいる。

買い物は自家用車で郊外のショッピングモールへ…という傾向が全国的に普遍化している昨今。

江戸時代以来の歴史を持つ商店街や、旧来の駅前商店街が斜陽化している姿は全国共通。

しかし、こうした古寂びた商店街にこそ侘び寂びの味わいが潜んでいるものだと、個人的には確信している。

例えば途中で見かけた鰻屋の、年季の入った店構え。
店名は「寿司友」なのに、なぜか鰻専門店なのが愛おしい。

愛しさのあまり賞味していこうかと思ったが、時間と御足がないため断腸の思いで諦める。

商店街を先に進むと、右手に石造りのクラシカルな建物が見えてきた。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]04

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つまり伊勢神宮を創建した倭姫命から下賜された草薙神剣を祀ったのが熱田神宮の“起源”。

伊勢神宮に準じた御神威が熱田神宮に存在する理由、これで理解できる。

伊勢神宮、実は伊勢國一之宮ではない。
その理由は日本國一之宮だから故。

その伝で言えば熱田神宮は日本國三之宮であり、尾張國一之宮の必要はないという理屈が成り立つ。

日本國の一之宮を皇大神宮(内宮)、二之宮を豊受大神宮(外宮)と仮定すればの話ではあるが。

しかし、これで「なぜ熱田神宮が尾張國三之宮なのか?」という謎が解けたわけではない。

その謎については真清田神社に到着してから、改めて考えてみよう。

「三尾一宮エクスプレス」は12時32分、名鉄一宮駅に到着した。

一宮駅は名鉄のそれと、JRの尾張一宮駅がある。

日本には「一宮」を名乗る駅は幾つかあるが、なかでもここ尾張一宮駅の巨大さは別格。

隣の三河一宮駅と比べれば、華美な尾州と質素な三州の気質の違いが如実に分かるような気もする。

そもそも地方自治体の名称からして「一宮市」。

町村を含めて一宮を名乗る自治体は愛知県一宮市と千葉県一宮町の二つしかない。

以前は全国各地に「一宮町」が幾つも存在していたが、相次ぐ「平成の大合併」で上総の一宮町以外すべて“消滅”してしまった。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]03

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伊勢神宮を出立した日本武尊命は尾張国造の祖先である豪族、尾張氏の家に宿泊した。

その家の娘、宮簀媛命(ミヤズヒメノミコト)と夫婦になる約束を交わした日本武尊命は東国に向けて出発。

無事に平定して尾張氏のもとへ還ってきた日本武尊命は、宮簀媛命と契を交わして晴れて夫婦に。

日本武尊命は次に伊吹山(岐阜と滋賀の県境)の神を征伐するため、宮簀媛命に「草薙神剣」を預けて再び征旅へ。

なぜ「草薙神剣」を預けて出立したのかというと「そんな神など素手で十分」と侮っていたからだとか。

ところがそんな侮蔑が仇となり、伊吹山の神から思わぬ逆襲を喰らってしまう。

ダメージを受けた日本武尊命は美濃から伊勢へと歩を進めるも、足が浮腫んで三重の餅みたいな状態に。

なので、この地方を「三重」と呼ぶのだと「古事記」は記している。

やがて日本武尊命は能煩野(のぼの)という土地にたどり着いた。

現在の三重県亀山市、能褒野王塚古墳があるところ。

嬢子(をとめ)の 床の辺に
我が置きし つるきの太刀 その太刀はや

宮簀媛命と草薙神剣に最後まで思いを馳せた辞世の句を残し、この地で病没してしまう。

日本武尊命の薨去を深く嘆き悲しんだ宮簀媛命は“遺品”の草薙神剣を熱田の地に祀った。
  
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]02

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「三尾一宮エクスプレス」は名古屋の手前で神宮前駅を通過した。

駅名の「神宮」とは、もちろん熱田神宮のこと。

名古屋の熱田神宮、実は尾張国三之宮である。

尾張の一之宮は真清田神社、二之宮は犬山市の大縣神社(おおあがたじんじゃ)。

それがなぜ日本有数の神社である“熱田様”が三之宮で“真清田様”が一之宮なのか?

そもそも熱田神宮とは如何なる神社なのか?

広く知られている通り、熱田神宮のご神体は三種の神器の一つ「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」。

鎮座の由来は古事記中巻「景行天皇」段と、日本書紀巻第七「景行天皇」に記されている。

日本武尊命(ヤマトタケルノミコト)は第12代景行天皇から命を受け、西方の熊襲を平定した。

ところが凱旋した日本武尊命に景行天皇は間髪入れず、今度は東方の蝦夷を征伐せよと命じる。

命令を嫌々ながらも拝受した日本武尊命、東方へ向かう途中で伊勢神宮に立ち寄り、叔母の倭姫命(ヤマトヒメノミコト)と面会。

号泣しながら「天皇は私を酷使して殺す気か!」と、現代のブラック企業もビックリの悲嘆さを訴えた。

そんな日本武尊命に倭姫命は餞(はなむけ)として一振りの太刀を授けた。

それが「草薙神剣」、別名「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)である。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[真清田神社]01

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豊川稲荷駅を発車した急行電車は名鉄一宮駅へ向けて三河路を順調に疾走している。

朝方まで降っていた雨は止み、空も次第に明るくなってきたように見える。

それにしても三河と尾張の一宮を直結する急行電車を走らせるとは、さすが地元に密着した私鉄だけある。

この急行、まさに「三尾一宮エクスプレス」!
 
…個人的に勝手に命名しただけで、そのような正式名称どこにも付いてないけど。

折角の「三尾一宮エクスプレス」だが、車内は空いている。

それもそのはず、両駅間を乗り通すと2時間半以上もかかるのだ。

国府駅で接続する豊橋からの特急列車に乗り換えれば、もっと早く到着できるのだが。

しかし特急列車は混んでるし、それに乗り換えるのも面倒だったので、この急行電車に乗り通した。

後になって考えると、むしろこちらで正解だったように思える。

余裕の時間と空いた車内のおかげで三河一宮の復習と、尾張一宮について予習できたからだ。

それに下総一宮香取神宮や遠江一宮小國神社では徒歩移動だけでも同じぐらいの時間がかかったのだから、まだマシ。

これまで一之宮から一之宮へ転々とした中で、最も楽な移動だったように思えたほど。

まさに「三尾一宮エクスプレス」サマサマである。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]23

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その昭和30~40年代を彷彿とさせる佇まいは「なつかし青春商店街」の名に恥じない街並み。

参道から横へ入る路地沿いの店々もまた、昭和のノスタルジアを喚起させるような雰囲気。

道の細い町割りは車の往来も少なく、店舗個々の店構えや参道の雰囲気を存分に堪能できた。

豊川稲荷と門前町を30分ほど彷徨し、名鉄豊川稲荷駅へ戻ってきた。

10時55分発の名鉄一宮駅行き急行に乗車する。

砥鹿神社に豊川稲荷と、大きな神社と仏閣の双方に参拝した朝が終わった。

やはり神社より仏閣のほうが、人心の襞の部分へ細やかに入り込んでくる“霊力”が強いように感じる。

神道は山や石や木など自然界に元から存在した物を崇めるところから始まっただけに、積極的に布教する姿勢が薄かったのかも知れない。

一方、仏陀という教祖を崇める“一神教”の仏教は広範に布教する必要性があり、そのために様々な“仕掛け”が仕組まれていた。

先程の「なつかし青春商店街」もまた、こうした“仕掛け”のひとつだったのではなかろうか?

そんな狐につままれた心持ちのまま、豊川の町を後にした。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]22

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総門と山門の途中から左に折れる道を進むと、そこに一の鳥居。

その先に二の鳥居があり、突き当りには堂々とした拝殿が控えている。

参道を奥まで進むと、今まで拝殿だと思っていたこの建物こそ寺院の本堂。

つまり豊川稲荷には右も左もなく、境内すべてが寺院なのだ。

本堂へ続く参道に神社の鳥居が立っているわけで、境内には神仏混淆時代の空気が今なお濃密に漂っている。

新年を控え、本堂は正面に賽銭箱を設置する作業の真っ最中。

投ぜられる小銭を余すことなく吸い込もうと、巨大な投入口の周囲に板が張り巡らされている。

その板のお世話になることなく賽銭の投入に成功し、柏手を打つこともなく手を合わせた。

まだまだ奥には数々の伽藍が立ち並んでいるのだが、ここは本堂への参拝だけに留めて境内を後にする。

境内を後にし、往路とは別の、総門の前から伸びる門前町を通り抜けて駅に向かう。

門の前から一直線に伸びる道には「豊川いなり表参道」「なつかし青春商店街」と掲げられたアーチ。

入り口の両脇には稲荷寿司屋と饅頭屋が店を構え、参道沿いには鰻屋や食堂、喫茶店など古風な商店が立ち並んでいる。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]21

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豊川稲荷前の交差点を右折すると、少し先に総門が姿を現した。

その門前にはボランティアだろうか、白狐のように美しい女性の案内係が待機している。

案内してもらえばよかったが、ここで時間を取られるわけにもいかないので、あえて通り過ぎた。

豊川稲荷は伏見稲荷、祐徳稲荷と並ぶ「日本三大稲荷」のひとつとされている。

しかし豊川稲荷、実は神社ではなく「円福山妙厳寺」という曹洞宗のお寺。

なので神社としての「日本三大稲荷」は伏見稲荷と祐徳稲荷、そこに笠間稲荷が加わっているそうだ。

総門をくぐると先に山門が控え、さらにその奥には法堂が聳立している。

境内の建物は総門も山門も法堂も総じて古く、どれも歴史的な価値のあるものばかり。

しかし、法堂の左隣りに気になる構造物がある。

これは紛うことなき、石造りの立派な明神鳥居。

ハハン、境内の左側には稲荷神社が祀られているのか。

そう思いつつ法堂に向かって手を合わせ、今度は神社のほうへ足を運ぶ。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]20

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道を引き返して交差点を渡り、住宅地を貫く小道を歩くこと10分ほどで三河一宮駅に到着した。

さすが「三河一宮」を名乗るだけあり、ここからだと砥鹿神社は非常に近く感じる。

半日前に来た時は辺りが真っ暗で駅舎や近辺の雰囲気は全く分からなかったが。

白日の下で見ると、砥鹿神社の拝殿を模した風の駅舎からは木造建築特有の落ち着きを感じる。

駅舎の規模としては天浜線遠州一宮駅とさほど変わらないが、遠州は駅務室を蕎麦屋にしていたのに対して三河は無人駅のまま。

そもそも砥鹿神社の周りには茶店や土産物屋など一軒もない。

神聖なる神を糧に商売などやらないという、頑固で実直な三河人気質の現れなのだろうか?

豊橋行き2両編成の電車に乗り、次の豊川駅で下車して名鉄線の豊川稲荷駅へ向かう。

せっかく来たのだから、やっぱり豊川稲荷に参拝しよう…と、乗り換えの途中に思う。

案内標識に従って駅前商店街に歩を向けると、彼方に巨大な宗教建造物が頭をのぞかせている。

そちらの方角に向かうと途中、銀行の店前に団子の屋台が出ている。

1本80円。
メチャクチャ美味そうに見える。

しかし、あれだけの量の朝食を摂った後だけに、さすが腹中に入る隙はない。

また次に来る機会があれば是非とも食べてみたいが、その時まで屋台は存在しているだろうか?
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]19

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「亀卜」とは弥生時代に端を発する日本

古来の占術で、亀の甲羅や鹿の骨を焼き、罅(ひび)の形で吉凶を予想する神事。

「砥鹿」の「砥」は「ト」、つまり占いのこと。
「鹿」は占いに用いた骨のこと。

この両者を組み合わせたところにも、社名のルーツが潜んでいるのかも知れない。

その看板から駅と逆方向に行くと、末社の「荒羽々気神社(あらはばきじんじゃ)」が鎮座している。

祭神の荒羽々気は大己貴命の荒魂(あらみたま)で、健歩健脚の守護神として信仰されており、東海地方で祀られているのは唯一ここのみ。

「アラハバキ神」といえば一般に東北地方土着の神として知られているが、この「荒羽々気神」も何か関係があるのか? そこまでは分からない。

ただ「健脚の神」として有名なのは確かで、ひいては「交通安全の神」として三河では絶大な信頼が寄せられている。

実際、伊那街道を行き交う三河ナンバーや豊橋ナンバーの多くに、亀卜紋があしらわれた砥鹿神社の交通安全ステッカーが貼ってあるのを見かけた。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]18

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本宮山は海抜789メートル。

現在では本宮山スカイラインが整備され、山頂まで自動車で簡単にアクセスできるようになった。

それでも三河一宮駅の隣、長山駅の登山口から徒歩で登拝する人は引きも切らず。

休日ともなると数百人もの登山者がハイキングを楽しんでいるそうだ。

“裏”参道を抜け、伊那街道に出る。

こちらの入り口にも大きな鳥居が聳立し、横には大きな社号標。

鳥居の右足には、こう刻まれている。
 
「本宮山正一位砥鹿大明神」

どう見ても、こちらの入り口のほうが正門に見えるのだが。

伊那街道を東名豊川インター方面へ行くと、三河一宮駅へ向かう道との交差点にぶつかる。

その角に砥鹿神社の大きな立て看板がドライバーの目に止まるように立っている。

看板の上部には独特な形状をした六角形の神紋「亀卜(きぼく)紋」があしらわれている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]17

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やがて、正面に伊奈街道が見えてきた。

出口の少し手前に、本宮山と里宮の由来を記した巨大な案内板が立てられている。

そこに衝撃的事実が記載されていた。

来社の際に最初くぐった門こそ「表神門」であり、目の前にある伊那街道側の入口は側門だという。

つまり、表参道のつもりで社殿の前から遥々と歩いてきた道は、実は裏参道だったということか。

神社にはそれぞれ個性があり、他がそうだからここもそうだと思い込む“標準化”的思考性は、あまり意味がない。

それを砥鹿の神様に教えてもらったようなものだ。

案内図には里宮と奥宮の位置関係も描かれているが、いまひとつ距離感が曖昧になっている。

本宮山は頂上を始め山中至る所に巨大な岩が横たわり、杉の巨木が林立している。

これらは磐座(いわくら)や磐境(いわさか)として崇められ、古神道の信仰形態を今に伝えている。
 
[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]16

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弓道場を通り過ぎると正面に鳥居が見え、くぐると石灯籠と社号標が立っており、参道は一般道を挟んで更に先へと伸びている。

社号標は細長い円柱状で、よく高速道路などに設置してあるグニャグニャしたシリコン製の棒(正しくは「レックスポール」という)を想起させる。

道を渡って参道を先へ進みながら、続けて「天の羽衣」と三河の繊維産業について考えてみる。

三河に本社を構える世界最大級のグローバル企業トヨタ自動車も、そのルーツを辿れば織物機械の会社に行き着く。

豊田佐吉が大正13(1924)年に完成させた「無停止杼換(ひがえ)式豊田自動織機(G型)」を製造するため、同15(1926)年に設立した豊田自動織機製作所(現・豊田自動織機)が、そのルーツだ。

昭和8(1933)年9月、同社内に自動車部を開設し、同10(1935)年には織機の製作に用いていた鋳造や機械加工の技術など活かして自動車の製造をスタート。

同12(1937)年、「トヨタ自動車工業株式会社」として独立した。

「天の羽衣」が千数百年もの時を経て、世界の自動車産業を席巻した…と言うのは大袈裟だろうか?

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]15

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大宝律令の制定(701年)で成立した「租庸調」制度で、三河国は調(貢ぎ物)として羅・綾・絹白糸などを納めていたが、特に絹は上質のものとして珍重されていた。

天平勝宝2(750)年の「正倉院文書」には11ヵ国からの貢絹が記録されているが、わざわざ三河国産だけ「白絹布」と記してある。

精白な細糸で織られた「白絹布」は経糸・緯糸の密度が多く、他国産より15%ほど高値で引き取られていたそうだ。

また9世紀の「延喜式」にも三河産の「犬頭白糸」は最上の絹として、絹を治める国の中で納品量が他国の倍以上あったと記録されている。

「犬頭白糸」とは上絲(上質な絹糸)が雪のように白く光沢を帯びていたことから、こう呼ばれていたもの。 

やがて「犬頭白糸」は蔵人所(天皇直属の事務機関)に納められ、天皇の衣服を織るのに用いられるようになった。

このように三河国はヤマト王権にとって「天の羽衣」を作る場所として必要不可欠な地域だったのだ。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]14

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まず「天の羽衣」と聞いて思い浮かぶのは世界文化遺産「富士山」の構成資産でもある「三保の松原」だろう。

だが羽衣伝説は日本各地に存在し、特に富士山の専売特許というわけではない。

元来「天の羽衣」とは天皇が即位する際に羽織る着物のことを指す言葉なのだ。

天皇は儀式で「天の羽衣」を着ることによって人間から神へと昇華するわけで、その意味でも羽衣の持つ精神的な存在感は著しく重い。

その「天の羽衣」、実は砥鹿神社近くの神社で作られていると云われている。

だが、その神社の場所は一般に公開されていないので残念ながら良く分からないらしい。

では何故、砥鹿神社と「天の羽衣」の間に密接な関係が生まれたのか?

まず、国津神のドン大己貴命は天津神の天皇家に従属の証として羽衣を贈る役割を担ってきた。

そもそも古代より三河地方は繊維産業が盛んで、それは数多の文献に垣間見える。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]13

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拝殿の正面左隣には摂社「三河えびす社」が鎮座している。

砥鹿神社の拝殿をひとまわりコンパクトにしたような形状で、違いは屋根に千鳥破風の有無ぐらいの、よく似た形状をしている。

御祭神は大己貴命の御子である事代主命(ことしろぬしのみこと)と建御名方命(たけみなかたのみこと)の二柱。

事代主命の別名は「えびす様」なので、「大黒様」こと大己貴命の隣に並んで祀られている姿はいかにも相応しい。

ただ、一般に「えびす様」が商売の神様として崇められている例に漏れず、ここも三河地方の商売繁盛の中心として信仰されている様子が伺える。

えびす社を離れて伊那街道方面へ。ここにも神門があり、大己貴命に別れを告げて通り抜けた。

その先右手の弓道場を眺めつつ、緑に包まれた参道を歩く。

砥鹿神社、実は「天の羽衣伝説」と密接な関係があるという。

「天の羽衣伝説」とは、天女が天の羽衣を脱いで水浴びしているところ、それを見かけた男が羽衣を隠して我が物にしようと企む。

男の小細工は成功し、天に帰れなくなった天女を嫁にするのだが後に天女は羽衣を見つけ、結局は天へ帰っていく…というお伽話。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]12

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鳳来寺は利修仙人が文武天皇の病を祈祷で快癒させたことから、その御礼として大宝3(703)年に建立されたもの。

鳳来寺山は本宮山から北北東へ約17キロのところに位置しており、公宣卿も鳳来寺山と間違えて本宮山中へ分け入ったのだろうか。

鳳来寺は徳川家康の母・於代の方が参籠し、ここで家康を授ったという伝説のあるところ。

その縁起を知った三代将軍家光は祖父への報恩のため鳳来寺に数多の堂坊を再建、さらには新たに東照宮も設けたほど。

とまあ、このように三河といえば徳川家とは切っても切れない縁のある土地。

それだけに三河国一之宮の砥鹿神社は、もっと徳川家との関係をアピールしてもいいように思えるのだが。

公式ウェブサイトには「江戸時代に入っても周辺藩主の信奉篤く、また明治4(1871)年には国幣小社に列せられた」とだけあり「徳川」のトの字もない。

ただ、平安時代「従五位下」という最下層だった砥鹿神社の官位が、江戸時代にはトップの「正一位」にまで格上げされているから、決して徳川幕府と仲が悪いわけでもなかったようだ。

明治維新の際に徳川幕府との蜜月関係を断ち切るため、敢えて触れないようになったのだろうか?

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]11

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大宝年間(701-704)、文武天皇の病を鎮めるために草鹿砥公宣卿(くさかどきんのぶきょう)が勅使として「煙巌山」へ遣わされた。

公宣卿は三河の山中で道に迷うが、そこへ現れた謎の老翁に導かれて無事に祈願を果たし、天皇の病も平癒された。

老翁に礼を尽くすため天皇は再度この地に勅使を使わされる、三河国本茂山へ入った公宣卿は再び老翁と面会を果たす。

老翁は山麓に宮居を定めることを所望し、衣の袖を抜き取って宝川の清流に投じた。

これを追って山を下りた公宣卿は、山麓辰巳の方角の岸辺に滞留していた袖を発見。

そこへ七重の棚を作り七重の注連縄を引き巡らせ、袖を斎(いつ)き祀ったという。そこが今「里宮」のある場所ということになろうか。

以来、砥鹿神社は奥宮と里宮の二所一体で崇敬を集める形式になった。

神号「砥鹿神社」とは大己貴命に由来する「止所の地」と、草鹿砥卿の名が融合したものだろう。

ちなみに「煙巌山」は別名鳳来寺山、徳川将軍家と所縁の深い鳳来寺の山号だ。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]10

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そもそも明治維新以前の神仏混交時代は「砥鹿大菩薩」と呼ばれて長く信仰されていた。

その間に主祭神が色々と錯綜し、神名が混乱していたのだろう。

明治維新時の廃仏毀釈で主祭神は大己貴命に統一され、現在に至っているものと思われる。

参拝を終えて顔を上げ、扁額に記された「砥鹿神社」という神号を眺める。

国土開拓のため諸国を巡幸されていた大己貴命は但馬国朝来郡赤淵宮に遷宮された後、さらに東方の三河国へ向かわれた(「但馬続風土記」より)。

やがて大己貴命は本宮山の「本茂山(ほのしげやま)」に留まり、この山を永く神霊を止め置く所「止所(とが)の地」とされた(「砥鹿神社社伝」より)。

これが砥鹿神社創建の由来なのだが、鎮座した正確な時期については不明の由。

だが、本宮山から里宮へ御祭神が鎮まるに至った経緯については、天正2(1574)年の「三河国一宮砥鹿大菩薩御縁起」に記録されている。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]09

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拝殿を正面に見て右側に太鼓楼と祓所、さざれ石が配置されている。

木製の太鼓楼は巨大で堂々としている。それ以前に、境内に独立して聳立している太鼓楼そのものを初めて見た。

拝殿の正面に立つ。華美な装飾を排し、質素ながらも剛毅な出で立ちは、三河風土を体現しているかのよう。

砥鹿神社の主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)。隣国、遠江國一之宮の小國神社と同じだ。

また、元は本宮山に祀られていた大己貴命を現在の鎮座地である里宮へ遷宮した経緯も同様である。

隣接する三河と遠江の両国で一之宮が似たような歴史を辿っているのは、なかなか興味深い。

ちなみに橘三喜の「一宮巡詣記」には「大己貴 砥鹿大明神 饒速日命四世 大木食神を祀る」と記されているそうだ。

橘は延宝3(1675)年から元禄10(1697)年にかけて全国の一之宮を巡礼している。

この時期は大己貴命と砥鹿大明神が別の神だったのかも知れない。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]08

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やがて家並みが途切れ、木々の緑が濃度を増し、神域の雰囲気が感じられてきたかと思った頃。

前方に鳥居が見えてきた。
三河國一之宮、砥鹿神社の一の鳥居。

豊川駅ではなく豊川IC近くのホテルに宿泊した理由。

それは砥鹿神社まで歩いて10分ほどのところにあるからだ。

鳥居の奥には神門が構えている。
だが、どちらも思っていたほど大きくはない。

しかも楼門をくぐると即境内で、参道が見当たらず、拝殿までの距離がすごぶる短い。

この入口は自動車での参拝者のため、新たに設けられたのかと訝ったほど。

拝殿に向かって、ふと左側を見ると、参道が遙か先まで続き、社域が果てしなく広がっている。

さっき入った神門側は裏門で、こっちの参道の先が実は正門だったか…と少々後悔。

できれば正門から長い参道を抜け、表門から堂々と参拝したかった。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]07

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明けて土曜の朝。
 
目を覚ますと外は生憎の雨模様。

非常に憂鬱な気分の中、食堂でバイキングの朝食を摂る。

ご飯2杯(納豆+海苔)、味噌汁2杯、唐揚げ2個、鶏と馬鈴薯の煮物、焼き鮭、きんぴらごぼう。

クロワッサン2個、丸いパン2個、ブルーベリージャム、サラダ(レタス、キャベツ)、スクランブルエッグ、ハム、パスタ、オレンジジュース2杯、コーヒー、紅茶。

これだけ朝から食べて飲めば、憂鬱な気分が少しだけ晴れたような気もする。

ホテルをチェックアウトし、雨中の住宅街を北へ向かってテクテク歩く。

小糠雨に包まれた住宅街は物音ひとつせず、近くを通る伊奈街道を走る車の音が時折聞こえてくるぐらい。

途中、道を間違えたことに気付いて引き返すと、先ほどまで影も形もなかったバキュームカーが道を塞いでいる。

汚穢を汲み取っている横をすり抜けながら、これは何を暗示しているのか暫し考察。

砥鹿神社は私の体内に宿る穢れを取り除いてくれる予兆? と、都合のいいように解釈してみた。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[砥鹿神社]06

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昨今ではカップル相手だけでは商売にならず、一人客も取り込もうという魂胆なのだろうか。

考えてれば一人で使うのならベッドは広いし、浴室もユッタリしているし。

狭いビジネスホテルの客室を鑑みれば、朝食込みで4980円なら格安だと言える。

しかしホテルの予約サイトなどにはリストアップされていないから、遠方から事前に予約するのは難しいだろう。

東名高速道の向こう側に出てみると、そこは別世界だった。

コンビニ、回転寿司、牛丼屋、ファミレスと何でもござれ。

こちらのほうが豊川市の中心部に近いのだから、こうした店舗がひしめいているのは当然といえば当然。

よりどりみどりで選ぶうち、24時間営業の定食屋チェーン店へ入ることにした。

ここはファミリー層よりトラック運転手をターゲットにしている様子。

気に入ったおかずをピックアップし、ご飯と味噌汁を注文して最後に会計するという、この手のチェーン店でお馴染みのスタイル。

鰯の煮付プラス小鉢4点、それにご飯と味噌汁で700円強というリーズナブルな値段だった。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]05

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ここは地理的に自動車での旅行者を念頭に置いているのが明白で、鉄道旅行者は眼中にない。

それはそうだろう、鉄道旅行者は隣の豊川駅近辺に泊まったほうが宿の数も多く便利に決まっている。

しかし一之宮巡礼者としては、どうしてもここに宿泊しなければならない理由があったのだ。

ホテルにチェックインし部屋で一服しつつ、改めて考える。

ホテル内の食堂は営業しておらず、食事は外へ行くしかない。

とはいえ、この近辺に目ぼしい店舗が皆無なのは駅からの道すがら見てきた通り。

それでも何かしらあるかと思い、三河一宮駅とは逆方向の豊川IC方面へ足を向けてみた。

インターチェンジを迂回する歩道をグルリと歩いていると、西洋の御城みたいなラブホテルが登場。

インターチェンジにラブホテルは付き物だが、ここは「ビジネス宿泊プラン」という看板をデカデカと掲げている。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]04

rj04砥鹿t4u000

豊橋と新城の間は電車の本数が比較的多いほうなのだが、それを含めても30分に1本の割合。

それに東海道線事故の影響か、飯田線のホームには結構な数の乗客が待たされている。

寒風吹きすさぶ中を耐え忍ぶうち、ようやく姿を表した20時41分発の水窪行き普通列車に乗車。

漆黒の闇に塗りつぶされた車窓をあてもなく眺め続けているうち、20時59分三河一宮駅に到着。

駅を出ると周辺には目立った商業施設が何も見当たらず、電車を降りても闇のまま。

商店のネオンサインなども当然なく、薄暗く細い道を国道へ向かってトボトボと歩く。

伊那街道(国道151号線)と合流しても食べ物屋はおろかコンビニすら1軒もない。

ただひたすら国道沿いを歩くうち、目の前に巨大な構造物が姿を現した。

東名高速道豊川インターチェンジ(IC)。

今宵の宿は、その手前にあるロードサイドホテルである。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]03

rj03砥鹿t4u000

昼は立食そば屋として営業しているが、夜は一杯飲み屋に変身するようだ。

ここで生ビールと板わさを注文すると、お通しに山葵の茎の漬け物が出てきた。

さすが静岡名産! と感心しつつ、生ビールをおかわりし、〆て千円強と理想的な金額。

しかも十分に時間も潰せて言うことなく、なんて素敵な店なのかと改めて調べたところ。

実は大手外食うどん会社のブランドショップで、東京にも支店が何軒もあった。

地元浜松の店でなかったのは残念だが、手頃なことは手頃。

今度、東京でも似たようなケースがあれば利用してみたいと思う。

いい心持ちで店を出、駅へ戻ると東海道線は復旧していたが、ダイヤは大幅に乱れたまま。

取り敢えず来た電車に乗り、豊橋駅で飯田線に乗り換え。

飯田線のダイヤは乱れていないものの、電車の本数そのものが少ない。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]02

rj02砥鹿t4u000

「事故のため東海道線下り方面は全面的にストップしております」

おまけに「運転再開の見通しは立っておりません」とのこと。

好況だからでも何でもなく、単に事故の影響で人が溢れていただけだった。

しかし復旧すれば再度お知らせすると言っているので、それほど酷い事故ではなさそう。

だが、いつになるか分からない運転再開を、ここでボーッと待っているのもツマラナイ。

そこで駅前に出、一杯やれそうな店を色々と物色してみる。
 
腰を据えて飲みたいわけでもなく、ちょっと暇を潰せればそれでいい。

希望としては立ち飲み屋、若しくはカウンター主体の居酒屋、この際なので蕎麦屋でもいい。

しかし目に付くのは全国各地どこででも見かける全国チェーンの居酒屋ばかり。

ちょい飲みできる店、何処かにないものかと駅の隣のビルに入ったら一軒の蕎麦屋を発見。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[砥鹿神社]01

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天浜線西鹿島駅は、帰宅ラッシュの時間ド真ん中とあって通勤通学客でごった返している。

天浜線と遠州鉄道(遠鉄)線の各ホームと駅舎を結ぶ地下道も人の波。
そこを掻き分けて遠鉄線の電車に乗り込む。

結構な数の乗客は途中駅に着いても減ることはなく、終着駅の新浜松に到着するまで混雑したまま。

遠鉄線に初めて乗ったものの、既に日が落ちていたこともあって、沿線風景は何一つ記憶に残らないまま下車した。

JR浜松駅へ向かう道すがら、クリスマスを前に駅も周辺の繁華街もきらびやかにデコレーションされている。

まだまだ不況だなんだといっても金はあるところにゃあるもんだと感心しつつ、浜松駅に到着。

豊橋行き普通電車に乗るため中に入ると、構内が異様にごった返している。

さすが三連休の前だけあるなぁと関心したが、それにしては人が多すぎる。

そこにアナウンスが聞こえてきた。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]24

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駅舎の事務室だったスペースには今、蕎麦屋「百々や」が店を構えている。

製粉所を備え、その日使う分だけ国内産の玄蕎麦を石臼で挽いて打つという本格派。

日本酒も銘柄物を揃えており、蕎麦喰いにはもってこいの店だ。

営業時間は11~16時だが、休日には蕎麦が午前中で売り切れることもあるという。

それもそのはず、後から知ったのだが「百々や」は超有名な蕎麦店グループ「翁達磨」の一員だった。

「翁達磨」グループの長、高橋邦弘氏は日本屈指の蕎麦打ち名人として有名で、1年を通じて全国各所へ蕎麦打ち行脚に出向いている。

「百々や」の店主は高橋翁の弟子であり、それだけでも蕎麦のクオリティが伺い知れるというもの。

もちろん店は閉まっていて蕎麦にはありつけなかったが、お楽しみは再び訪れる時のためにとっておこう…そう思った。

暗闇を引き裂くかのようにホームへ入線してきた天浜線の列車に乗り込む。

隣の遠州森からたった一駅間の徒歩紀行ではあったものの、途方もない距離感を覚えたのもまた事実。

やはり聖地巡礼の旅はこうじゃないと…動き出した車窓に映る「百々や」の灯りを見ながら、そう思った。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]23

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小國神社から2時間近くかかったろうか? 香取神社から佐原への徒歩紀行に匹敵するほどの難行だった。

でも、それは川べりの野良道を選択した自分の責任であり、普通に県道を歩いていたら特に難行でもなかったような気もする。

駅の入口ではゆるキャラ? の「だいこくちゃん」が迎えてくれた。

そういえば今まで参詣してきた一之宮の中で大巳貴命(大国主命)が主祭神なのは、ここが初めてではないか?

過去には武蔵国一之宮氷川神社と氷川女體神社の真ん中にある中山神社が大巳貴命を祀っていたが。

須佐之男命と櫛名田姫命の間に生まれた御子として祀っていたのであり、決して「国津神ありき」だったわけではない。

だいこくちゃんが連れている兎の頭を撫で、遠江一宮駅の構内に入る。

JR掛川駅と同様に駅舎は木造で、建築されたのも同じ1940(昭和15)年。

国鉄二俣線の全線開通に合わせて建設されたもので、国の登録有形文化財に登録されている。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]22

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暫くすると目の前に新東名高速道路の高架が登場。その巨大さに圧倒される。

容量パンパンの東名高速道路に“複線”が必要なのは納得できるが、ここまでデカくする必要性はあったのか?

それとも経年劣化した東名道を閉鎖して新たに作り直すぐらいのことを目論んでいるのか? 

どっちにしても自分で車を運転して利用することは、まずなかろうけど。

明神通りから川沿いの道にスイッチして引き続き歩き続けるが、これが実は大失敗!

道にはキレイに手入れされている部分と全く手入れされていない部分があり、放置されているパートには背の高い雑草が生い茂っている。

その中を掻き分けて歩いていたら、植物のひっつき種が靴とジーンズにビッチリひっついていた。

既に日は傾き周囲は次第に暗くなり、一面の田園地帯に[よい子は早く帰りなさい]と促すチャイムが大音量で流れている。

すっかり日も落ちて辺り一面が暗闇に包まれた頃、ちょっと広めの道路に出たかと思ったら突き当りに遠江一宮駅があった。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]21

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暫く歩いていると道の向かい側に巨大な赤い急須が現れた。店の名は「赤い急須の太田茶店」。

とはいえ単にお茶を販売しているだけでなく、屋外には喫茶スペースや和庭園まである。

ただし16時ラストオーダーということで、ここも残念ながら間に合わず。

というわけで明神通りの飲食店はこのあたりでおしまい。

朝に小國神社へ参拝した後、蕎麦から蒟蒻からカレーから茶菓から、一軒残らず立ち寄ってみる…って手もアリだろうか。

その後ひたすら田園地帯の中を歩いていると、途中から宮川が明神通り沿いに寄り添ってきた。見ると土手に細い道が通っている。

味気ない歩道を歩いているよりは田圃のド真ん中を歩くほうが旅の気分が出るなぁ…と思い、そちらを歩くことにした。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]20

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まず出くわすのが宮前蕎麦「かんなび」。
小國神社の門前蕎麦といえば、ここになるのだろうか。

静岡市の名店「戸隠そば」のグループ店…と謳っている。
だだ、営業は16時までなので既に閉店。

機会があれば賞味してみたいものだが、小國神社に再訪することがあるかどうか…。

次に現れたのは洒落たレストラン。
名を「スリーツリーズゆう成」という。

たぶん三木ゆう成さんという方が店主なのだろう。
店構えもアットホームな雰囲気で満ちている。

こちらも営業時間は16時まで。
ただ、営業時間終了後でも予約すれば店を開けてくれるそうだ。

先ほどの茶房・ギャラリー「清右衛門」と欧風田舎料理の店「シェ・モーン」も、ここ明神通りに移転すればいいのに、と思う。

「ゆう成」の隣にあるのは宮前こんにゃくの店「久米吉」。

凝固剤に石灰ではなく木灰を用いるのが特徴で、安政年間には「森蒟蒻」として評判になったとか。

しかし営業時間は17時までとギリギリで間に合わず。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]19

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みたらし団子は焼きたてで香ばしく、煎茶との相性もバツグン。

余りに旨いので優煎茶あん団子を1本、追加で注文。

茶あんの団子とは珍しく、まさに静岡ならではの味だ。

店前の東屋に腰を落ち着け、一の鳥居を眺めつつ団子を齧り、お茶を啜る。

小國神社の門前で何百年も前から繰り返されてきた、昔ながらの風景ではなかろうか?

昔と違ってお茶はティーバッグとなり、団子はガスで焼いているのだろうけど。

ことまち横丁を後にし、宮川に架かる橋を渡って県道280号線、通称「明神通り」を南へ進む。

目的地は遠州森駅ではなく隣の遠江一宮駅。マイクロバスは運行していないので再び徒歩の旅だ。

遠州森駅からの道程と異なり「明神通り」はキチンと整備された道なので、面白味には欠けるが楽チンだ。

「明神通り」とは新東名高速道路の開通を機に、小國神社の門前を走る県道280号線に付けられた愛称。

沿道には10軒ほどの店が門を構えている。

ちなみにこの中には、ことまち横丁の「茶寮宮川」と「隠れ河原のかりん糖」も含まれているが、なぜか煎餅屋「寺子屋本舗」は含まれていない。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]18

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一の鳥居から境内の外へ出た。すぐ右側に門前町「小國ことまち横丁」がある。

門前町といってもそれほど規模は大きくなく、店舗はお茶屋、かりんとう屋、煎餅屋の3軒しかない。

ただ、それぞれ甘味処、ジェラート、うどん屋なども構えており、横丁全体で食べ物のメニューは意外と豊富。

富士山本宮浅間大社前のお宮横丁と比べると、こちらのほうが明るい印象を受ける。

お宮横丁が富士宮市街地のド真ん中に位置するのに対し、小國ことまち横丁は森林の中にあるせいか?

そのうちの1軒、茶寮宮川でお茶と団子で一休み。

深蒸し煎茶はティーバッグで供され、一杯100円。ただし、お湯のおかわりは自由だ。

この深蒸し煎茶がベラボウに旨い! 今まで飲んできたお茶は一体なんだったのかと思えたほど。

遠州森駅から遥々と歩いてきた疲労困憊の身躯に隅々まで染み渡る旨さだ。

それもそのはず、茶舗の鈴木長十商店は東京都優良茶品評会で農林水産大臣賞と東京都知事賞をダブル受賞しているほどの実力派なのだとか。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]17

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それが平成元(1989)年12月、三間社流造りの社殿を新築して旧社領時代の末社を合祀し、氏子崇敬者の守護神として復活した。

これまで様々な一之宮を参詣してきたが、全国の一之宮から祭神を一堂に会して鎮祭した摂社は初めて見た。

その隣には柵で囲われた神聖なる空間が広がる。

「神幸所」といって、御祭神が神輿に乗って来る「神幸祭」が執り行われる場所。

「神幸祭」は年に一度、4月18日に最も近い日曜日に行われる。

その先には大きな御手洗池が広がる。
「事待(ことまち)池」というそうだ。

池中央の島には摂社の宗像社が、島から奥に架かる太鼓橋の先には八王子社が、それぞれ鎮座している。

その昔、小國神社に願掛けして成就すれば「事待池」に鯉を放つ風習があったそうだ。

小國神社の古称「許当麻知神社」「事任神社」は、この「ことまちいけ」の風習に由来するとも言われている。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]16

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かく言う自分も、試しに腰掛けてみた。

お世辞にも座り心地が良いはずもなく、すぐに立ち上がりたくなる。

悲境を乗り越えよ…というよりむしろ、ぬるま湯に浸かっている現況からサッサと抜け出せ…というメッセージが心に届いた心持ちである。

家康公立あがり石の隣に、巨木の根が安置されている。

御神木「大杉」の根株だ。

約400年前の慶長年間古図にも「大杉」と記されており、樹齢は1000年を超えるとも。

老木のため中は空洞状になっているが、残された縁の年輪だけでも優に500年を超えるそうだ。

しかし昭和47(1972)年の台風により倒壊したため、この場に奉安されたという。

その先には「全国一宮等合殿社」という摂社が、参道から奥まったところにひっそりと鎮座している。

延宝8(1680)年の社記などによると、小國神社には境内社として諸国一之宮等50余社、御祭神73柱が各所に祀られていたそうだ。

しかし経年劣化による腐朽や明治15年の大火などにより次々と合祀され、姿を消していった。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]15

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三方ヶ原では武田軍から散々な目に遭わされた家康。
だが、天正3(1575)年に長篠の戦いで武田家を撃破し、滅亡させた。

家康は家臣の本多重次に命じ、焼失した社殿群の再建に取り掛かった。

まずは本宮を造営し、避難させていた御神霊を遷宮。

次いで同11(1583)年に拝殿、回廊、末社を造営し、同13(1585)年には楼門を再建。

仕上げに慶長8(1603)年、社領として五百九十石の朱印を奉納。

その後も元禄10(1697)年には五代将軍綱吉が社殿を改修。

寛保元(1741)年には八代将軍吉宗が四百両の修復料を寄進。

このように江戸時代を通じて徳川将軍家が社殿の改造・修復料を寄進し続け、幕府の手篤い保護を受けていた。

この石は家康が天正2(1574)年4月に犬居城攻略の道すがら、参拝した際に腰かけて休息したという伝説を持つ。

「立あがり石」というネーミングは、三方ヶ原での惨敗を乗り越えた石という所縁から来たもの。

この石に、そして家康公にあやかりたいと、人生の再起を念じて石に腰かける人の姿は今も絶えないという。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]14

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広大な御神域を持ち、無数の杉木立の中に堂々と聳立する社殿群。

真面目で、地域を代表するという意志をひしひしと感じる、まさに神社らしい神社。

だが、どこか面白味には欠けるような印象を受ける。やはり事任八幡宮とは悉く対照的だ。

二の鳥居を出てすぐ右側に、スツールほどの大きさの石が置いてある。

説明板には「家康公立あがり石」の文字。

徳川家康は元亀元(1570)年、三方原台地の東南端に浜松城を築城。

以来、天正15(1587)年までの17年間を浜松城で過ごした。

築城から2年後の元亀3(1572)年、家康は京に西進する武田信玄の軍勢を迎え撃つ。

世に云う「三方ヶ原の合戦」である。

徳川氏の目代(代官)武藤氏定が武田側に寝返り、甲斐の軍勢を遠江国へと招き入れた。

これを霊夢に見た神主の小國重勝は、徳川側に子息を人質として差し出して武藤の裏切りを直訴。

同年9月、家康は神主に命じて御神霊を別所に避難させ、願文と三条小鍛冶宗近作の太刀を奉り、開運を祈願した後、社頭に火を放って社殿群を焼失させた。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]13

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「事任」とくれば、もうひとつの遠江国一之宮「事任八幡宮」が思い起こされる。

主祭神の己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)は、天岩戸神話にも登場する天児屋根命(あめのこやねのみこと)の母。

つまり「事任」の神様は天津神のはず。なのになぜ、そこへ国津神のドンである大巳貴命が祀られるようになったのか?

もともと己等乃麻知比売命を祀っていた「事任神社」を、平安時代に全国へ広がっていた大巳貴命の信仰が乗っ取ってしまった。

天児屋根命の末裔に当たる吉田神道が室町時代、国津神に乗っ取られた「事任神社」とは別の一之宮制度を遠江国に設け、入れ替えようとした。

それが遠江国に二つの一之宮…小國神社と事任八幡宮が併存している要因なのではなかろうか? と「事任八幡宮」のところで記したのだが。

再び拝殿の前に立ち、その造作を眺めながら思う。

自分は考古学も神道学も全く素人なので、あくまでも個人的な類推に過ぎないが、こうして自分だけで面白がっている分には、特に何の害もないだろう…と。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]12

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大宝槌の手前に生える一本の細い松の根本に、白色と黄土色の2つの石が据えられた一角がある。

柵で囲われ、手前には賽銭箱まで設えてある。説明板には「金銀石(きんぎんせき)」とあった。

大己貴命が遠江の国造りをされた折、この石を金銀の印として授けたものだと云わっているそうだ。

以来、この両石は「金銀石」と称され、金運石、並石、引寄石、夫婦石とも呼ばれることに。

松の木は「願掛松(待つ)」と称され、石と松の幹の両方を撫でれば金運や良縁に恵まれるそうだ。

そもそも社名の「小国」とは出雲の「大国」に対する遠江国地方の「国褒め」(国司による美称)だった。

その一方で、大国主命の「おおくに」が転じて「おくに」になった可能性もあるような気もする。

小國神社は延喜7(907)年、延喜式内社に列せられた。
しかし延喜式には「小國神社」ではなく「事任神社」と記されている。

略記にも「古来より許当麻知<ことまち>神社(願い事を待つ意)、事任<ことのまま>神社(願い事のままに叶う意)とも称されてきた」とある。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]11

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表参道の突き当りには小國神社の社殿群が鎮座している。

二の鳥居のところでも触れたが、明治15(1882)年の大火で境内の建造物は尽く灰燼に帰した。

国幣社ゆえ官命により直ちに再建に着手、4年後の同19(1886)年に完成し、現在に至るという。

拝殿の上屋は入母屋造、屋根は檜皮(ひわだ)で葺かれている。

全体的に焦げ茶色のトーンでまとまり、明治時代建造の割には程よく古寂びている。

この奥に幣殿を挟んで本殿が鎮座している。透き塀で囲われ全体像を拝むことは叶わなかったが。

建屋は大社造、屋根は拝殿と同様に総檜皮葺で覆われている。

本殿が大社造なのは主祭神が大己貴命(おおなむちのみこと)ゆえ当然のことだろう。

大巳貴命、又の名を大国主命(おおくにぬしのみこと)。

一般には「だいこくさま」…大国様や大黒様として知られる縁起のいい神様。

拝殿正面の石灯籠左側には大黒様の象徴ともいうべき巨大な「大宝槌(打ち出の小槌)」も据えられている。

拝殿の右側に回廊で繋がれた古い建物がある。

神徳殿といって、拝殿が祭礼などで塞がっている場合、ここで祈祷を行うのだそう。

このため神徳殿にも御祭神の大己貴命が祀られているという。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]10

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表参道は両側に灯籠が一定間隔で立ち並び、その外側を無数の杉木立が取り囲むように立っている。

その右側に「勅使参道」という小径が通っている。

大宝元(701)年春、参向した勅使に十二段舞楽を奉奏して以来、奉幣のため毎年訪れる勅使に神社では舞楽を奉奏した。

解説板によると、参向の際に勅使が用いた参道の跡で、現在でも一般の参拝者は通行不可と。

勅使参道は端に立つ「駒止めの杉」で行き止まりとなり、斎館を挟んだ先に二の鳥居が聳立している。

二の鳥居の場所には以前、楼門が立っていたが明治15(1882)年の火災で焼失したそうだ。

鳥居をくぐって中に入ると、右手に舞殿と舞楽舎が並んで立っている。
社殿に近いほうが舞殿、遠いほうが舞楽舎。

舞殿では「勅使参道」で触れた「十二段舞楽」が、毎年4月18日の「例祭」にて奉奏される。

「十二段舞楽」は昭和57(1982)年1月23日に文化庁から「重要無形民俗文化財」に指定。

現在は「遠江国一宮小國神社古式舞楽保存会」が小國神社氏子青年会と協力し、保存伝承に努めているそうだ。

舞殿をステージだとすると、渡り廊下でつながった舞楽舎はいわば「控室」兼「オーケストラピット」。

ここで衣装替えや「十二段舞楽」の曲が奏楽されたりするそうだ。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]09

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宮川に沿って表参道へ。
正面に立つと手前に祓橋、その向こうに一の鳥居が聳立している。

一の鳥居は昭和44(1969)年4月18日建立と比較的新しい。
扁額の揮毫は建立当時の伊勢神宮大宮司、坊城俊良氏によるものだ。

一の鳥居の右側には社号標。
ちなみに読み方は「おぐに」と濁らず「おくに」と澄ませる。

一の鳥居をくぐり、小さな神橋を渡って参道を進む。

延宝8(1680)年編纂の社記によると、創建は第二十九代欽明天皇の御代16(555)年2月18日。

ここから約6キロ北方の本宮峰(本宮山)に御神霊が降臨、鎮斎せられたのが、その起源という。

御神山ともいえる本宮山の山頂には現在、奥宮の奥磐戸神社が祀られている。

本宮山は山頂から遠江国が一望できるそうで、ハイキングコースとしても大人気なのだとか。

延喜7(907)年に第六十代醍醐天皇が勅使を差遣し、現在地に社殿を造営して本宮山から御神霊を遷し、同時に式内社へ列せられた。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]08

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運行日は毎月1日と15日、日祝日、1月7~15日、6月1~20日。

つまり正月も1~6日は運休となる。元日は祝日なので運休は矛盾しているのだが…。

たぶん松の内は参拝客でごった返すため、マイクロバス程度の輸送力では焼け石に水。

しかも交通渋滞のため運行に支障が生ずると見て、あえて運休にしているのだろう。

小國神社を囲む宮川を渡る朱塗りの橋が見え、いよいよ境内地に到着。

遠州森駅から徒歩で約1時間半…結構かかったほうか。

しかし、神社への参拝はレジャーではなく苦行であると思えば大したことはない。

ただ、雨に見舞われなかったのは運が良かったと実感。

もし雨だったらタクシーを利用したか、もしくは参拝そのものを中止していたかも知れない。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]07

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もし営業していたら一体どんな料理が供されたのだろう?

手をつないで歩く二人の後ろ姿を眺めているうち、そんな思いが脳裏に浮かんだ。

道の右側に「塩井神社」と記された標柱を見かけ、左側には広大なゴルフ場が広がる。

その横を延々と歩き続け、ようやく抜けたところで現れたのは小國神社の梅園。

まだまだ境内まで距離があるのに、このあたりまで小國神社の社域が広がっていることに驚く。

ひょっとしたらゴルフ場が立地する土地も、すべて小國神社の御神域だったのかも知れない。

そのうち小國神社専用の駐車場が目に付き始め、やがて右側から来た広い道路と合流。

ようやく小國神社の参道に着いたかと思いきや、それはゴルフ場への入口だった。

少々ガッカリしながら暫く歩くと、今度は連絡バスの発着場に行き着いた。

遠江一宮駅との間にマイクロバスが運行されているのだが、これが不便このうえない。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]06

rj06小國t4u05

橋を渡り、野良道をひたすら歩いているうち、自動車が通れるような広い道に出た。

その角を左に折れたところで、なんと同様に徒歩で旅している男とすれ違った。

振り返ると、自分が歩いてきた道と逆のルートをたどっている様子。

あの崩落した道には驚くだろうなぁ…と、一人ニヤッとする。

ただし彼の来るのが10分早ければ、橋の袂で用を足している自分とバッタリ出くわしていたところ。

これは運がいいのか、悪いのか? 

さらに道を先に進むと、一風変わった建物を発見した。

門の前には茶房・ギャラリー「清右衛門」、欧風田舎料理の店「シェ・モーン」という小さな看板。

こんな場所で喫茶店やレストランの経営が成り立つのか? と思ったが。

門柱を見ると「しばらく休業しています」の張り紙。

人も車も殆ど往来のない道ゆえ、さもありなん。

そんなことを考えながら屋外に放置されたテーブルや椅子を眺めていた、その時。

店に隣接する家から、おばあちゃんに手を引かれながら小さな子供が出てきた。関係者だろうか?

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]05

rj05小國t4u00

駅前から正面に真っ直ぐ伸びる道を進むと「大門」という交差点にぶつかる。

これから遠江国一之宮を参詣する身には、これ以上ない地名だ。

とはいえ、この「大門」が小國神社のものかどうか定かではない。

大門交差点を過ぎると、道は一気に山の中へ突入。

このあたりは「陣屋峠」と呼ばれており「峠越え」になるが、それほど険しい山道でもない。

目の前に現れたトンネルを抜けると、そこは様々な道が入り乱れた五叉路。

1本は森町役場により封鎖中、1本は道路が崩壊しているとの表示、残りの3本は自動車道。

そこに立てられている小國神社への案内看板には、あと2.4キロとある。

これは自動車用の距離で、歩いて行く場合は逆方向…これが崩壊した道を進まないといけない。

というわけで、その道に入ってみた。確かに道はデコボコしているが、歩いて歩けない状態ではない。

何の滞りもなく進むうち、催してきた。幸い通行人の姿はなく、誰かに見られる恐れもなさそう。

少し先に細い川が流れ、小さな橋が架かっていたので、渡る前に橋の袂で用を足す。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[小國神社]04

rj04小國t4u00

13時24分、遠州森駅に到着。
なんてことのない片田舎の小さな駅だ。

しかし開業は掛川駅と同じ昭和10(1935)年と沿線最古。

しかも当時の駅舎が殆ど改変されずに残されており、駅舎本屋とプラットホームが文化財に登録されているほど。

実はなんてことのないどころか、とんでもない偉大な駅だったわけだ。

構内には「森の石松」と彫られた木製の看板がデカデカと掲げられている。

遠州森とくれば、もちろん「森の石松」。
清水次郎長の子分として知られた侠客だ。

「江戸っ子だってねぇ、寿司食いねぇ!」

広沢虎造の浪曲『石松三十石船』に出てくる、このセリフでもおなじみの石松。

この逸話は広沢の創作ではあるが、浪曲の題材になるぐらい庶民から絶大な人気を博していた証だともいえる。

ちなみに「森」という地名は周囲に森林が多いことに由来するようで、森の石松から来たわけではないそうだ。

さて、ここから小國神社まで約2キロの道のりをテクテク歩くことにする。

しかも山道をウネウネ登っていかなければならないのだが、残念ながらそれしか道はない。

半ばハイキング気分、半ばヤケクソ気分で出立する。

[旅行日:2012年12月21日]
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