萬屋の並びに「藤文」という看板を掲げた古い建物が立っている。
ここは日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七翁の自宅で「藤文」とは屋号だ。
伊藤翁は安政3(1856)年に年寄役となり、万延元(1860)年から慶応3(1867)年にかけて問屋役を務めた。
時あたかも幕末の激動期。
幕府の長州征討に50両を献金する一方、後の戊辰戦争では官軍に進発費として200両を寄付している。
明治4(1871)年に郵便制度が発足するのと同時に郵便取扱書を自宅「藤文」に開設し、取扱役(局長)に就任。
この「藤文」は日本最初の郵便局のひとつと云われているそうだ。
その前にある下町停留所から掛川行きのバスに乗ることにした。
どうやらバスは少々遅れ気味。
同じようにバスを待っている初老のオジサンが話しかけてきた。
「遅れる時は、どうしようもないな」
そう言ってオジサンが立ち去ろうとした丁度その時、緩やかな下り勾配の先にある曲がり角から、掛川駅行きのバスが姿を現した。
もう少し見ていたいという思いに後ろ髪を引かれつつ日坂宿、そして事任八幡宮を後にした。
ここは日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七翁の自宅で「藤文」とは屋号だ。
伊藤翁は安政3(1856)年に年寄役となり、万延元(1860)年から慶応3(1867)年にかけて問屋役を務めた。
時あたかも幕末の激動期。
幕府の長州征討に50両を献金する一方、後の戊辰戦争では官軍に進発費として200両を寄付している。
明治4(1871)年に郵便制度が発足するのと同時に郵便取扱書を自宅「藤文」に開設し、取扱役(局長)に就任。
この「藤文」は日本最初の郵便局のひとつと云われているそうだ。
その前にある下町停留所から掛川行きのバスに乗ることにした。
どうやらバスは少々遅れ気味。
同じようにバスを待っている初老のオジサンが話しかけてきた。
「遅れる時は、どうしようもないな」
そう言ってオジサンが立ち去ろうとした丁度その時、緩やかな下り勾配の先にある曲がり角から、掛川駅行きのバスが姿を現した。
もう少し見ていたいという思いに後ろ髪を引かれつつ日坂宿、そして事任八幡宮を後にした。
[旅行日:2012年12月21日]