2014年03月

一巡せしもの[事任八幡宮]16

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萬屋の並びに「藤文」という看板を掲げた古い建物が立っている。
ここは日坂宿最後の問屋役を務めた伊藤文七翁の自宅で「藤文」とは屋号だ。

伊藤翁は安政3(1856)年に年寄役となり、万延元(1860)年から慶応3(1867)年にかけて問屋役を務めた。
時あたかも幕末の激動期。

幕府の長州征討に50両を献金する一方、後の戊辰戦争では官軍に進発費として200両を寄付している。

明治4(1871)年に郵便制度が発足するのと同時に郵便取扱書を自宅「藤文」に開設し、取扱役(局長)に就任。

この「藤文」は日本最初の郵便局のひとつと云われているそうだ。
その前にある下町停留所から掛川行きのバスに乗ることにした。

どうやらバスは少々遅れ気味。
同じようにバスを待っている初老のオジサンが話しかけてきた。

「遅れる時は、どうしようもないな」

そう言ってオジサンが立ち去ろうとした丁度その時、緩やかな下り勾配の先にある曲がり角から、掛川駅行きのバスが姿を現した。

もう少し見ていたいという思いに後ろ髪を引かれつつ日坂宿、そして事任八幡宮を後にした。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]15

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例えば高札場から坂を少し上がったところにある旅籠「川坂屋」の上屋。

江戸時代中期に建てられたもので、往時の面影を今に伝える貴重な建物のひとつ。現在の建物は嘉永5(1852)年の日坂宿大火の後に建てられたものだ。

江戸から招いた棟梁が作り上げた精巧な木組みと細やかな格子が特徴的。
身分の高い武士や公家などが宿泊した、脇本陣の格を持つ旅籠だったという。

旅館としては明治初頭に廃業したものの、平成5(1993)年までは一般住宅として使用されていたそうだ。

同12(2000)年に修理工事が施され、現在では掛川市有形文化財建造物に指定されている。

その向かい側に立つ萬屋は、逆に庶民が利用した旅籠だった。

建屋は川坂屋と同様に日坂宿大火の後で再建されたもので、その時期は安政年間(1854~59)と思われる。

1階が「みせ」や「帳場」、2階が宿泊用の「座敷」という普通の店構えで、幕末としては中規模の旅篭だった。

1階正面は蔀戸(しとみど)で、昼は障子戸、夜は板戸という様式は当時の一般的な店構え。

この様式は日坂宿で、昭和20年代まで数多く見られたという。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]14

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高札場とは幕府や領主が決めた法度や掟書などを、「高札」と呼ばれる木の札に記して掲示しておく場所のこと。

注目を引きつけるため人通りの多い場所に設置され、日坂宿では相伝寺観音堂の敷地内にあった。

掲示された内容は日坂宿が天領だったことから公儀御法度(幕府による法令)が中心だった。

左手へと続く緩やかな勾配を登り切ると、そこが東海道五十三次25番目の宿場町、日坂宿である。

天保14(1843)年の記録によると、日坂宿には本陣1軒、旅籠屋33軒、民家168軒、750人が住んでいたという。

静岡県内22宿の中でも規模と人口の両面において、由比や丸子と並んで最も小さい宿場町のひとつだった。

日坂宿の家々はわらび餅を売り、足いたみの薬や足豆散・足癒散などを売る者も多かった…。

江戸時代きっての文人、蜀山人こと大田南畝の著した「改元紀行」には、そう記されている。

ただ残念なことに現在の日坂宿は東海道の関宿や中仙道の妻籠宿のように、街道沿いが往時の古い建物で埋め尽くされているわけではない。

現代の住宅の間に古い木造建築物が幾つか保存されているといった程度。
それでも各建築物の保存状態は良好で、見ていて飽きることがない。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]13

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山頂の奥宮から麓の里宮を通り、ことどいの里を抜けて谷底の禊場へと続く一本の線。

その“道”が持つ「精霊線」的な意味を、ここ奥宮へ来て改めて認識した。

ちょっとした登山で疲れたため、ベンチに腰を下ろして小休止。

このベンチも太い丸太を縦半分に切ったもので、さも無造作っぽく置いてあるところが「手造り感」を感じさせる。

道理で「ことだまの杜」の雰囲気が「ことどいの里」と似ているはずだ。

参拝を終えて急な参道を下る途中、これから奥宮に向かう家族連れとすれ違った。

老齢の夫婦と中年の女性という3人組。
親子だろうか? 尋ねたわけではないが。

参道には途中、歩道橋と東海道への分岐点がある。
今度は境内に戻らず、東海道へ直接降りてみた。

参道の入口には立派な鳥居が設えてあり、横には「本宮山」と墨書された大きな看板、手前には「本宮入口」記された棒状の標識。

この鳥居と道を挟んだ向かい側が来社時に利用したバス停で、ここから左手に向けて東海道の旧道が延びている。

掛川行きのバスまで時間が少々あったので、旧街道を散策してみた。

暫く普通の住宅街が続くが、次第に古錆びた古街道の雰囲気が漂い始める。

そのうち先述の逆川が見え、橋を渡ると宿場町の象徴、高札場が見えた。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]12

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「陽の坂」を出て、東海道(旧国道1号線)を跨ぐ朱塗りの歩道橋を来宮時と逆に渡り、本宮の鎮座する山へ。

もともと本宮と里宮は一続きの山だったが、戦後になって東海道を拡張整備するため切り通しが設けられ、両宮は道を挟んで離れ離れになってしまった。

このため江戸時代に切り通しは存在せず、街道と境内は直接繋がっていた。

現在では事任八幡宮の南側を通る日坂バイパスが国道1号線となり、こちらは県道415号線に“格下げ”されてしまったが。

来社時に降車したバス停の道を挟んだ向かい側に「奥社入口」と書かれた標識が立つ。

かつての本宮は「奥社」と名を変え、今も山頂に鎮座している。

標識の裏手からは階段というか足場というか、段々が山上に向かって伸びている。

その急勾配を登るのは結構キツいのだが、途中に石段などがキレイに整備されているため足元が悪いわけではない。

むしろ社域護持への社家の精励ぶりが、こうしたところからも忍ばれる。

階段とも山道ともつかない参道を20分ほど歩くと、前方に「ことだまの杜」という標識が現れ、ようやく奥宮に到着した。

境内は狭いながらも、木製の鳥居とこじんまりとした御社からは、歴史ある神社としての風格が感じられる。

また、その雰囲気はどこか「ことどいの里」と似ている。
御社の後背地が森林か河川かという違いはあるが。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]11

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濃厚な出汁と濃口醤油の組み合わせが蕎麦の野趣をキチンと受け止め、飲み込めば喉越しも滑らかだ。

つゆに刻み葱を入れ、蕎麦に山葵を乗せ、昆布塩と七味をかけて…と、幾通りにも亘って様々な味わいを楽しむ。

蕎麦の合間に挟む
ビールがノンアルコールなのが残念。
ここは吟醸酒のぐい呑を手に味わいたいところだった。

蕎麦を食べ終えNAビールの残りを飲み干していると、先出の大女将が話しかけてきた。

大女将といっても威風堂々とした観はなく、気さくな刀自といった印象。
他に客がいなかったせいか、色々と話し相手になってくれる。

「どちらからいらしたんですか?」
「東京です」
「遠い所わざわざ。観光ですか?」
「いえ、事任の神様を拝みに」
「はー、それはそれは」

なんと奇特な御仁なの!? という驚きのニュアンスが透けて聞こえた「はー」である。

「お蕎麦は如何でした?」
「とても美味しかったですよ。十割の割にボソボソしてないし、つゆも濃厚で少量。見事な江戸前の蕎麦でした」
「ありがとうございます。あ、いらっしゃいませー!」

大女将が礼を述べたところで新たな客が来店し、そこで蕎麦談義はプツン! といった感で途切れた。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]10

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再び南口鳥居の前まで戻る。鳥居と道を挟んだ向かい側に一軒の蕎麦屋がある。

手打ち蕎麦とお茶処「陽の坂(ひのさか)」。
店名は近隣の宿場町「日坂」に因んだものか。

事任八幡宮近辺には他に食べ物屋や土産物屋は見当たらず、ここしかない。
軒下にはパリッとした暖簾が下がり、営業中であることを謳っている。

その暖簾をくぐって木戸をカラリと開け、店内に入った。
「いらっしゃいませ~」

元気な声に迎えられて中に入ると、店内は木目調のデザインで統一され、温かみのある空間が広がっている。

テーブル席に就き、とりあえずNA(ノンアルコール)ビールを注文し、メニューを眺めながら何を頼むか考える。

ざる蕎麦は二八と十割の二種。
鴨せいろや天ぷら蕎麦などの種物もある。

蕎麦はつなぎの入った二八のほうが喉越しがよくて旨いと言われるが、ここは折角なので十割を注文。

「お蕎麦が出来るまで、こちらをどうぞ」

そう言って大女将らしき刀自が、お茶菓子を手渡してくれた。
表に『ことのままおこし』と記してある。

「事任の神様にちなんだお茶菓子なんですよ」
「あたり一面ぜんぶ茶畑ですもんね、さすが静岡」
「昼は蕎麦、午後からは静岡茶と和菓子のセットを楽しんで頂いてます」

『ことのままおこし』を眺めながら、突き出しの揚げ蕎麦をポリポリ齧り、NAビールを飲みつつ待つこと暫し、蕎麦が目の前に届いた。

まず、蕎麦だけを何もつけず口に含む。
口当たりが滑らかで、蕎麦の風味が口腔に広がる。

つゆは猪口に濃い目が少々という江戸前流。山葵も付けず薬味の葱も入れず、つゆだけで味わってみる。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]09

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元は三之宮だった氷川神社が一之宮を称し、小野神社と併存する格好になった武蔵国のケースではなく。

元は寒川神社があったところへ、源氏が鶴岡八幡宮を建立して併存する格好になった相模国のケースでもない。

遠江国の場合は一之宮を、元々あった小国神社から事任八幡宮に入れ替えようとしたケース。

一之宮の神社だけを挿げ替えるにとどまらず、一之宮制度というシステムそのものを入れ替えようとする大胆な策動だ。

室町時代に成立した一之宮一覧「大日本国一宮記」に事任八幡宮は紹介されているが、小国神社は掲載されていない。

本書の編纂には吉田神道宗家の関係者が係わっていると推測されている。

つまり京都における神道の勢力争いが遠江国にまで波及したことが、一之宮が二社ある要因になったようなのだ。

そんなことを考えているうち、再び社家・誉田家の前に出た。

八幡神とは第十五代応神天皇、別名誉田別命のことと先に触れた。
ここが八幡宮である以上、宮司が誉田姓なのも非常に納得のいくところ。

とはいえ、八幡神全盛の時代に本来の御祭神である己等乃麻知比売命を隠さざるを得なかったり。

小国神社と一之宮の座を争ったのも京都の勢力争いに巻き込まれた結果だったり。

社家にとっても不本意だったろうと同情のひとつも寄せたくはなるが、そこは塞翁が馬、今が良ければ全て良しか。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]08

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「ことどいの里」は平成24(2012)年、社域の北東を流れる逆川の河畔に造成された真新しい神域。

「ことどい」とは語らいを意味する古語で、祭神には「龍神様」を祀っている。

造成されたばかりの境内は真新しく、河畔の梢と相俟って清冽とした空気に包まれている。

その中心に鎮座する小さな社殿もまた、できたばかりでピカピカの新品だ。

逆川に向かって伸びる一本の石段を降りてみる。
谷底を流れる小川のほとりが事任八幡宮の禊所。

そこに立って周囲を見渡すと、冬木立のくすんだ色合いの間に楓の鮮やかな紅色や竹林の渋い緑色が映える。

川面は陽光にキラキラと輝き、頭上からは鳥のさえずりが聞こえる。
いかにも禊を行うに相応しいと感じられる場所だ。

「ことどいの里」を後にし、茶畑に囲まれた道を辿って境内まで戻る。
その道すがら、遠江国の一之宮について考えた。

遠江国には一之宮が二社ある。
一社は、ここ事任八幡宮。

もう一社は森町にある小国神社。
しかも、それぞれに二之宮がある。

事任八幡宮は湖西市新居町の二宮(大神)神社。
小国神社は磐田市二之宮の鹿苑神社。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]07

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事任八幡宮の本宮は東海道を挟んだ向かい側の山の上にある。
その山頂まで登ることなく本宮を遥拝できるよう整備されたものだ。

本宮は「ことのままの御神」が古来より鎮座されていたところ。

大同2(807)年に現在の「里宮」へ遷宮されたおかげで、誰でも気軽に参拝できるようになった。

遥拝所から降りて境内を横切り、社殿を背にする格好で南口から外へ出る。

南口の鳥居は自動車での参拝が増えたことに伴う駐車場の整備と相俟って新設されたもので、平成21(2009)年建立と非常に新しい。

鳥居を出て左に折れ、境内をグルリと取り囲む道を先へ進む。
途中にトイレがあり、その脇に「ことどひの里 入口」と書かれた看板が立っている。

左へ続く細い道に入り社務所の裏手を通り抜けると、社家・誉田家の前に出る。
さらに緩やかな小径を登っていくと、突き当りには奥津城(おくつき)なる一角。

豪族の城跡かと思いきや、実は墓地である。
しかしこの墓地、タダモノではない。

宮司の誉田家代々の墓所となっているのだが、なにせ歴史のある神社だけに昔の墓は相当に古い。

時の流れが刻み込まれた墓石の表情を眺めつつ、この社が辿ってきた悠久の歴史に思いを馳せてみる。

奥津城を左側に回りこみ更に奥へ向かうと、そこには新しく造成された社域があった。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]06

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その左隣りには上へと続く石段があり、登ってみると鎮座していたのは稲荷神社。
石段を降りて左隣りへ行くと、今度は金刀比羅神社が鎮座している。

更に左側には何故か祠ではなく、丸い石が据えてある。
境内の案内板によると、これは「くじら石」なる代物。

神社の南側にあった「くじら山」が平成6(1994)年に無くなるとき、くじらの長年の働きを労い、御霊を遷したもの。

その「くじら山」伝説とは一体いかなるものか、知りたい方は社務所までどうぞ、とのことだ。

ここで境内が尽き、来社の際にくぐった一の鳥居が間近に見える。
その鳥居の手前に「本宮遥拝所」と書かれた小さな看板がチョコンと立っている。

看板の奥から丘の上に向かって小さな坂道が続き、登り切ったところに瑞垣に囲まれた「本宮遥拝所」があった。

遥拝所といっても何か建屋があるわけはなく、植えられたばかりの若木が一本、天に向かって伸びているのみ。

近くに聳立する巨木の根元に空いた樹洞の中に、小さな朱鳥居と祠がこじんまりと佇んでいる。

その祠に向かって手を合わせていたら、今度はトレンチコートを着た中年男性が後を追うように登ってきた。

先の女性が己等乃麻知比売命の化身なら、今度のオッサンは八幡大神の化身なのか?

しかしオッサンはオッサンに興味が湧かないものなので彼には目もくれず、今度は本宮の方向に目を向ける。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]05

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暫くして女性が去ると、拝殿に正対して参拝。
終えると裏へグルリと回りこんで瑞垣越しに本殿を眺める。

本殿の建築様式は八幡造ではなく、なぜか流造。
(本当は八幡宮ではない)というサインなのか?

本殿は慶長13(1608)年、徳川家康が大壇那として造営した。

八幡神を武家の守護神として崇めていた家康により、徳川幕府は御朱印百石余を寄進。

また、二代将軍秀忠も寛永5(1628)年、拝殿と本殿を結ぶ中門を造営している。

このように事任八幡宮は徳川幕府との結び付きが強く、その証に本殿の扉の金具には菊と葵の両方の紋が刻まれているそうだ。

社殿の右側には御神木の大杉が聳立している。
一説によると坂上田村麻呂お手植えとも伝わる。

高さ36.5メートル、目通り(目の高さでの直径)6.3メートル、根回り11.2メートルという巨木だ。

樹齢1000年余と言われるが、今も樹勢は衰えておらず、現在では掛川市の天然記念物にも指定されている。

社殿の左側には摂社・末社が並んでいて、下に降りることなく直接行けるようになっている。

社殿に最も近いのが五社神社。

祭神は天照大御神、八意思兼神、大国主命、火之迦具土神、東照大権現の五柱。

アマテラスと大黒様と徳川家康が一つ屋根の下に同居しているとは、なんとも大らかな神社である。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]04

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さっそく石段を登って拝殿へ向かうと、案の定というか、やはり一人の女性がスッと横に現れた。

参拝直前に現れた彼女は上総国香取神宮でも甲斐国浅間神社でも現れた“神の使い”なのか?

とりあえず彼女を先に参拝させてやり過ごし、その間、拝殿の結構をジックリと鑑賞する。

虚飾を排した素朴な建物からは己等乃麻知比売命の御神徳である「言の葉」によって天・地・人を結ぶ「結節点」としての存在感が感じられる。

それにしても「八幡宮」を名乗っていながら、なぜ主祭神が八幡神と異なる己等乃麻知比売命なのか?

それは康平5(1062)年、源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請したことから始まる。

鎌倉幕府が成立し八幡神が武家の守り神として広まったのを契機に「八幡宮」を称するように。

「八幡神に非ずば神に非ず」の世の中、異なる神を祀っていたため廃止に追い込まれた神社も多々あったとか。

そんな中「己等乃麻知比売命」を守るため、敢えて名称を「八幡宮」に変更したという。

江戸時代には「誉田八幡宮」と呼ばれ、明治維新後は単なる「八幡神社」に。

再び「己等乃麻知比売命」が主祭神として認められたのは実は平成11(1999)年8月と、ごく最近のことなのだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]03

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街道の境目に架かる小さな太鼓橋を渡って境内へ。

左側に立つ社号標は小振りながらスッキリとした印象。
昭和42(1965)年奉納というから、最近といえば最近だ。

創建年代は不詳ながら、成務天皇年間(131~190年頃)には既に鎮座されていたとの記録もある。

坂上田村麻呂東征の折に桓武天皇の勅を奉じ、本宮山から現在地に遷宮されたと伝わっている。

主祭神は「己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)」。
玉主命(たまぬしのみこと)の娘神様だ。

枚岡神社や春日大社の祭神である天児屋根命(あめのこやねのみこと)の母神様でもある。

「ことのまち」の「こと」とは「事」「言」、「まち」とは「真知」の意味を持つ。

真を知る神、言の葉で事を取り結ぶ働きをもたれる神。
言の葉を通して人々に加護を賜う神。

つまり、願い事がそのまま叶うという有難い“言霊の社”として、京の都でも有名だったという。

平安時代の清少納言「枕草子」にも「ことのまま明神いとたのもし」という項があるほどだ。

御配神は誉田別命(ほむだわけのみこと)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、玉依比売命(たまよりひめのみこと)。

三柱を合わせて「八幡大神」と称している。

誉田別命は八幡神と同義で、応神天皇のこと。
息長帯比売命は応神天皇の母である神功皇后。

玉依比売命は初代天皇神武帝の母。
上総国一之宮玉前神社の御祭神として過去に紹介した。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]02

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ここから事任八幡宮へ向かうために利用するのは掛川バスサービス。
静鉄バスが地域サービスのために設立した関連会社だ。

バスが来るまで暫く時間があったので、駅前のコンビニでお茶とおにぎりの朝食を調達する。

お茶は地場産のオリジナルブランドがあればと思ったが、どこにも見当たらない。

やむなく全国どこででも見かけるありきたりなお茶を購う。
掛川市の周囲は茶畑で埋め尽くされているのに。

9時40分、駅北口7番バス乗り場から東山線に乗車。
マイクロバスで乗客は自分のほかにお婆さんが一人きり。

バスは掛川城を左手に見ながら旧市街を通り抜けて郊外へ。
ここも中心街は全国的傾向の例に漏れず、シャッター商店街化している。

その割には途中の停留所から客がドンドン乗車してきたが。
駅から約20分ほどで八幡宮前バス亭に到着。

東海道沿いに位置し、江戸側から25番目の宿場町日坂(にっさか)の入口にある。

東海道は切り通しになっていて、バス亭からは朱塗りの歩道橋を渡る。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[事任八幡宮]01

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三島駅のホームに滑りこんできた電車へギリギリ飛び乗るような格好で乗車。

車窓から覗く富士山は今日もまた、その秀麗な山容を誇らしげに呈している。

山梨側より静岡側のほうが綺麗に見えるような気がする…あくまでも個人的な感想だけど。

沼津駅で下車し、地下道を通り抜けて静岡行きの電車に乗り換え。

朝の通勤通学時間帯のピークとあってか、地下道は乗り換えの乗客であふれて返っている。

もちろん乗車した電車も大混雑。
静岡の2つ手前、草薙駅でようやく座ることができた。

静岡駅で今度は浜松行きに乗り換える。
電車は降りた向かいのホームに停車して、客を待っていた。

車内はソコソコ混んではいたが、風邪の重篤患者のフリをして優先席に座る。

大きな音を立てて鼻をかんだら両隣の乗客が嫌な顔をした。
鼻かみ作戦、効果テキメンの様子である。

三島駅から東海道線で2時間ほどで掛川駅に到着。
ちなみに駅舎は木造…新幹線が停まる駅なのに!

昭和8(1933)年の建築で、同15(1940)年に改築されたもの。
初めて見る人はビックリするのでは?

ちなみに自分も10数年前、ビックリした。
「よくぞ残してくれた」という、喜びの驚きだけど。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]21

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そんな“空想”を脳裏に描きながら歩いているうち、駅前の交差点で赤信号につかまった。

道の向こうに見える三島駅は残念ながら改装工事中。

富士山と三嶋大社をイメージしたという外観は残念ながら白いヴェールに覆われている。

やがて信号が青に変わり、通勤通学客の群集が駅に向かって一斉に動き出す。

その時、どこか懐かしいメロディーが歩行者信号から聞こえてきた。

♪あたまを雲の~上に出し~

文部省唱歌の「富士の山」だ。

♪四方の山を~見おろ~し~て~
 
小学生の時、音楽の授業で習った時の記憶が呼び起こされる。

♪かみなりさまを~下に~聞く~

歌詞が今でもスラスラと口を突く。

♪富~士~は~日本一の~山~

通勤通学客の群集に混じり、懐かしい歌を口ずさみながら、三島駅の改札へと向かった。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]20

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大地震で建造物のほとんどが倒壊した際、矢田部宮司は徳川幕府に救援を要請したのではなかろうか。

それまで篤く崇敬してきた徳川将軍家だけに、今回も当然のごとく援助の手を差し伸べてくれるだろう、と。

ところが時代は風雲急を告げる幕末の乱世。

京の天子様の守護や西国大藩との戦争の準備、諸外国とのお付き合いなど、幕府には金食い虫の課題が山積み。

もちろん現金が潤沢にあるはずもなく、優先順位を付ければ三嶋大社の再建など下から数えほうが早かったはず。

援助を申し入れたものの幕府から冷たくあしらわれたに相違ない。

ならばと矢田部宮司は私財を投じて社殿群を再建する一方、幕府に怨嗟の念を抱いたのは想像に難くない。

それが伊豆伊吹隊の結成、ひいては薩長側への加担につながっていったような気がしてならない。

繰り返しになるが、矢田部宮司の行動を裏付ける歴史的根拠などどこにもない。

ただ薩長側からすれば、武門武将から崇敬の篤い三嶋大社の宮司が味方に加わったことで、逆に心強く感じたのではないかと思える。

結局、徳川幕府は消滅し、薩長側の明治政府が国家権力を掌握することとなった。

“武神”三嶋大社の霊験あらたかといったところか。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]19

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それによると「古くは三嶋大社の別宮」で、祭神は「木花開耶姫命、波布比売命の二柱」。

元は「三嶋大社につぐ名社」で「かつては富士登山をするもの必ずこの神社に詣でるを常とした」とある。

社号から富士山本宮浅間大社の分社であることは間違いないだろう。

ただ、元々こちらの浅間神社は三宮で、本当の二宮は二宮八幡宮だった。

しかし二宮八幡宮は現存していないため、後に浅間神社が二宮として扱われるようになったそうだ。

参詣して甲斐と駿河の浅間社と比べてみようかとも思ったが、これは一宮巡礼の旅。

敢えて立ち寄らず、先を急ぐことにする。

三島駅に向かって愛染坂の緩やかな勾配を登りながら、つらつら考える。

それにしても不思議なのは、三嶋大社の由緒書に徳川幕府との関係が一言も述べられていないことだ。

伊豆国は幕府の直轄領だったし、西の駿河国は大御所家康所縁の地。

しかも徳川家は源氏の流れを汲むだけに、三嶋大社を粗略に扱う理由が見当たらない。

これは矢田部宮司が幕末に新政府側へ加担したため、宮司が歴史から徳川幕府との関わりを抹消したのでは?

そんな歴史的記録、どこにもないのだが。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]18

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居並ぶ句碑の中から司馬遼太郎のそれが目に止まった。

「裾野の水、三島一泊二日の記」より、とある。

昭和61年の小説新潮に掲載とあるから、1986年…今から四半世紀ほど前の文章だ。

なぜ三島が富士の湧水に恵まれ、大小数多の川が市内を網の目のように流れているのか?

まさに三島が“水都”たる所以が、簡潔かつ明瞭に説明されている。

川幅が広くなった辺りで、向こう岸に「白滝公園」という小奇麗な公園が姿を現した。

昨日、桜川の向こう側に風光明媚な光景が浮かび上がらせていたあの公園である。

園内一面に生い茂る冬木立が、朝陽を一杯に浴びてオレンジ色に輝いている。

富士の湧水が流れ込んでいる桜川の川面からはユラユラと水蒸気が立ち上っている。

まさに“水都”三島を象徴するような美しい風景。

これは早朝、まさにこの時間にしか見ることができないに違いない。

白滝公園が尽きると水上通りは愛染坂とぶつかり、T字路を描く。

だが愛染坂の向こう側に細い道が続いき、しかも入口には社号標らしきものが立っている。

近寄って見ると、そこには「式内二宮浅間神社」と記されており、社号標の陰には説明板も設置されている。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]17

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総門を出て右に曲がり、細い道を進む。

昨夜、参拝に訪れたルートだ。

道の右側に祓所神社という、池の中にある島に鎮座した摂社を見かける。

鬱蒼とした樹木に囲まれ、木陰の中にひっそりと佇んでいる。

昨夜通った時には全く気づかなかったが、朝陽の中でさえ目立たないのだから然もありなん。

昨日くぐった小さな鳥居を通り抜け、西門から境内の外へ出る。

それにしても早朝の参拝は気持ちの良いものだ。

昨夜、無数の橋に絶句した、三嶋大社から白滝公園へ桜川沿いに続く道をブラブラ歩く。

歩道と車道の境に「水辺の文学碑」が立ち並んでいた、この道は名称を「水上通り」という。

今朝は多少の時間があるので、ひとつひとつ丹念に鑑賞していく。

正岡子規や太宰治、井上靖や大岡信など、三島に縁のある文学者の句碑が10基ほど並んでいる。

中でも最古の文学者は弥次喜多でおなじみ「東海道中膝栗毛」の作者、十返舎一九だろうか。

ここ三島は三嶋大社の門前町であると同時に、東海道五十三次11番目の宿場町でもある。

隣は“天下の険”箱根であり、これから江戸へ向かう旅人は山道と関所に相対してグッと気を引き締める。

逆に江戸から来る旅人は難所の箱根を無事に越え、安堵の胸を撫で下ろしたことだろう。

いずれにせよ、東海道を行き交う旅人たちで大いに賑わっていた三島の町の姿が思い浮かぶようだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]16

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また、国譲りを迫る武甕槌命と経津主命に対し「父(大国主命)は必ず応じるでしょう」と答え、その通りになっている。

事代主神の“事(コト)”とは神の言葉の“言”で、“代(シロ)”とは代理の意味。

つまり事代主神とは神の言葉を代行して発する「ご宣託の神」でもあるわけだ。

富賀神社の伝承によると、事代主神は父の大国主命とともに出雲国島根半島から紀伊国を経て三宅島に渡ってきた。

富賀神社付近に居を構え、本殿の地下は事代主神の御陵だと言い伝えられている。

実際、地下からは古墳時代の土器や勾玉、奈良時代初期の古鏡などが発掘された。

江戸期の国学者平田篤胤は著書「二十二社本縁」で祭神は事代主神だと主張。

これを受けて明治6(1873)年、祭神は事代主神だけになってしまった。

とはいえ大山祇命の存在も無視し難いものがあったのか、時代が下ること約80年後の昭和27(1952)年。

大山祇命も祭神に復帰し、現在のように二柱を以って「三嶋大明寺」と称されるようになったそうだ。

大山祗神社は四国ではなく、瀬戸内に浮かぶ芸予諸島最大の島、大三島(おおみしま)に鎮座している。

瀬戸内といえば源平合戦の舞台であり、大山祗神社は「日本総鎮守」の称号を下賜されるほどの「軍神」でもある。

先に三宅島から遷移していた事代主命のところへ、源氏と縁のある大山祗神社から大山祇命を後に分社した…。

そんな歴史的な空想を脳裏に描きながら、第一清浄区域を後にした。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]15

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通説では伊予が本流で伊豆が分流だと目されている。

三嶋大社に遺されている、伊豆の大山祇命は伊予から迎えたという伝承がその根拠。

また、江戸期の儒学者林羅山は著書「本朝神社考」に、伊豆は伊予から移ってきたと記している。

三島系神社の総本社は三嶋大社ではなく、大山祗神社なのだろうか?

御殿の西側、客殿の廊下に石造りの扁額が安置してあった。

巨大な石板には大きく「三嶋神社」と彫り込まれている。

ここで祭神の「三嶋大明神」について考えてみた。

三嶋大明神とは大山祇命と積羽八重事代主神の“二柱”を総称した神号である。

大山祇命は伊予から来たとして、ならば事代主神はどこから来たのだろうか?

「三嶋」の語源は「御島」、つまり火山によって生まれた伊豆諸島のこと。

そして三嶋大社は三宅島の富賀神社から遷移してきたことは先述した。

この富賀神社の御祭神こそ事代主神なのだ。

事代主神は大国主命(大黒様)の子で、七福神の恵比寿様としても知られている。

日本書紀には「出雲国の三穂の崎で魚釣りを生業としている神様」とあり、このため漁業の神として信仰されている。

ヱビスビールのラベルに描かれている、釣り竿を手に鯛を小脇に抱えた恵比寿様の姿は、この神話が基になっているわけだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]14

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再び金木犀の横を通って第一清浄区域に戻り、拝殿の前へ。

三嶋大社の御祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)と積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)。

二柱の神を総じて「三嶋大明神」と呼称している。

一柱の大山祇命は日本における「山の神の総元締」ともいえる存在。

また甲斐国と駿河国の一之宮でも祭神、木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)の父として登場した。

富士山の火山活動を鎮めるために祀られた甲斐と駿河の一之宮が、富士山の精霊を祭神にするのは当然といえば当然。

一方、伊豆の火山活動を鎮めるために祀られた三嶋大社の祭神が富士の精霊ではなく、その父にして山の神の総元締なのも納得のいくところ。

伊豆国一之宮三嶋大社は全国に1万社を超える三嶋系神社の総本社。

だがもうひとつ、三嶋系神社の総本社と目されている神社がある。

伊予國一之宮大山祗神社(おおやまづみじんじゃ)。

こちらの御祭神は大山積神(おほやまつみのかみ)と書くが、大山祇命と同じ神様である。

ただし同じ“三島明神”ながら、どちらが本社か分社か諸説あって未だに判然としていない。

[旅行日:2012年12月21日]

2011年3月11日

ちょっとここで「一巡せしもの」を一旦お休みします。

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未曾有の大災害から、今日で丸4年になります。

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目に見える“瓦礫”は姿を消しつつありますが、目に見えない“心の傷”は簡単に消えるもんじゃありませんよね。

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一日も早い“復興”、いや“新興”を心から願っているのですが。

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それも“神頼み” では、なかなか前に進みません。

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なんとか自らの手で力になりたいと思ってはいるですが。

一巡せしもの[三嶋大社]13

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拝殿の前に立って柏手を打ち、目を閉じて手を合わせる。

参拝を終えてフッと頭を上げると、拝殿正面のいたるところに見事な彫刻が数多く設えられているのに気付いた。

これらの彫刻は矢田部宮司が新たな社殿を造営するに際し、彫工を雇って弟子らと作業に当たらせたもの。

雇った彫工は安政4(1857)年10月16日に後藤芳治良、同5(1858)年2月14日に小沢半兵衛・希道親子の3人。

彫刻は天岩屋戸伝説や神功皇后伝説、上総国一之宮玉前神社でも詳述した山幸彦伝説など、様々な題材を取り上げている。

本殿を見るため一旦、境内右側に聳える巨大な金木犀の横から第一清浄区域を出る。

この金木犀は樹齢1200年を越えると推定され、現存する木犀としては最古にして最大なのだとか。

戦前の昭和9(1934)年5月1日には、文部省から国の天然記念物に指定された由緒正しき“ご神木”である。

本殿と拝殿の横まで行き、境内と隔てる壁越しに屋根を眺める。

拝殿と比して本殿は小さい神社が総じて多いのだが、ここは拝殿と本殿が同じぐらい大きい。

なにせ本殿は高さ23メートル、鬼瓦の大きさ4メートルと、出雲大社と並び国内最大級というから大きいはずだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]12

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神門から中に入ると参道の中央に舞殿が立ち、その先に社殿群が聳立する構図。

舞殿は舞を奉納するだけでなく、神事や祈祷、結婚式なども行われる。

舞殿の「欄間」と、その上の「小壁」には中国の「二十四孝」という親孝行の話を題材にした彫刻が巡らされている。

「二十四孝」とは今から約700年前、元の時代に郭居業(かくきょぎょう)という人物がまとめた物語。

壁が縦三つに分割され、それぞれ「欄間」「小壁」と上下に分かれているので、1面につきスペースが6ヶ所。

「欄間」「小壁」に1話ずつ計2話、それが3つ並んでいるので壁1面につき3組×2話の計6話。

それが東西南北それぞれの壁にあるので全部で24話が刻まれている。

ところで、その親孝行話がどんな内容なのかは、余りに昔の話過ぎて実は良く分からない。

舞殿をグルリと回り込み、境内の最も奥に鎮座している社殿へ。

三嶋大社では拝殿、幣殿、本殿を総称して「御殿」と呼んでいるそうだ。

御殿は手前に拝殿、奥に本殿、両者の間に幣殿という構図で並んでいる。

先述の通り嘉永7年の安政東海地震で全て倒壊。

だが、矢田部宮司の指揮下で慶応2(1866)年9月9日に復興。

これら御殿は現在、国の重要文化財に指定されている。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]11

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平安時代末期、平治元(1159)年に起こった平治の乱で源義朝は平清盛に敗れ、源氏は京の都から一掃された。

義朝は斬首、子の頼朝は伊豆に幽閉され、源氏は存亡の淵に立たされる。

それから時が下ること20年余の治承4(1180)年。

後白河天皇の第二皇子、以仁王(もちひとおう)が諸国の源氏に平氏追討の令旨を発した。

ところが平氏に令旨の存在がバレてしまい、以仁王は平知盛・重衡の追撃に遭い宇治の平等院で戦死してしまう。

令旨を受けた源氏を逆に平氏が追討していることを知った頼朝は、このままでは自分の身が危ないと挙兵を決意する。

同年8月17日、頼朝は三嶋大社に立ち寄り挙兵の成功と源氏の復興を祈願。

翌18日未明、頼朝はわずか30人ばかりの手勢を率いて韮山(現伊豆の国市)へ。

伊豆国の目代(代官)屋敷を奇襲し、山木判官平兼隆(たいらのかねたか)の首級を挙げた。

17日の夜は三嶋大社で祭礼が行われており、目代屋敷の警備が手薄だったのも計算の内と伝わっている。

頼朝は奇襲の成功がよほど嬉しかったのか、二日後に感謝の証しとして土地を寄進、その書状が今でも残っているそうだ。

一方の三嶋大社も旗揚げと初勝利を記念し、毎年8月16日に「頼朝公旗挙出陣奉告祭」を執り行っている。

その後、頼朝は平氏を駆逐し、鎌倉に幕府を開いて日本史上初めて武家による政権を樹立するに至った。

武家政権の端緒を開いた三島大社は、武門武将にとって縁起の良い神社ということで篤く崇敬されたという。

このように旗揚げに験のある神社として、事業を興そうとする人がご利益を求めて祈願に訪れることが多いそうだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]10

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また、戊辰戦争の折に矢田部宮司は伊豆伊吹隊を結成し、三嶋大社は新政府側に加担。

東征大総督宮(有栖川宮)の先導警護や明治天皇の御通行警護などを奉じ、新政府に積極的に協力した。

この銅像は維新の功績を讃えて明治天皇から下賜されたもの…ではない。

矢田部宮司は社殿の再興だけでなく、大場川の治水工事や祇園原水路の開削など三島地域の開発に尽力。

こうした功績に対する市民からの感謝と敬慕の証しとして、昭和29(1954)年に建造されたのだ。

桜並木の参道を抜けると、今度は正面に神門が待ち構えている。

竣工は幕末の慶応3(1867)年8月10日で、総門に比べると小ぶりで非常にシンプルな建物。

だが、ここを抜けると先は境内の中でも特に神聖な第一清浄区域となる。

神門の右手前に神馬舎があり、壁には無数の絵馬がぶらさがっている。

その前に大小二つの石が並べて置かれている。

源頼朝と北条政子の腰掛石というそうだ。

左の大に頼朝、右の小に政子が、それぞれ腰掛けたという。

源頼朝といえば安房国一宮洲崎神社や相模国一宮鶴岡八幡宮など、関東一円の一宮と縁の深い御仁。

しかし頼朝にとって、ここ三嶋大社ほど運命を一転させた一宮は他にない。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]09

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総門をくぐり抜けると参道沿いに桜の木が立ち並んでいる。

右側に宝物館と芸能殿、左側には昨夜お世話になった社務所。

しかし、桜並木の後ろ側には初詣用に準備された大型テントが並び、その裏にある建物の姿は見えない。

なお、芸能殿は現在の総門が完成するまで使用されていた以前の総門である。

旧総門は幕末の安政東海地震で破損し、慶応4(1868)年2月11日に復旧工事が完了。

昭和5年に現在の総門が落成すると他の場所へ移築された。

戦後、再び戻って来ると一部改造された上で芸能殿として保存されることになったものだ。

芸能殿と参道を挟んで線対称の位置にに一体の銅像が立っている。

幕末から明治にかけて神主(宮司)を務めていた矢田部盛治(やたべもりはる)の像。

文化勲章を受賞した彫刻家、沢田晴広(せいこう)の手によるものだ。

嘉永7(1854)年11月4日に発生した安政東海地震で、境内の建造物はほとんどが倒壊。

それを矢田部宮司は10年の歳月と1万6677両という巨費を投じて復興させた。

先述の旧総門(現芸能殿)を再建したのも矢田部宮司である。

とまあ、三嶋大社は矢田部宮司の尽力なくしては現在の姿が想像できないと言っても過言ではない。

[旅行日:2012年12月22日]

一巡せしもの[三嶋大社]08

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歌碑の裏手から奥の総門に向かって神池が広がり、その真ん中を参道が突っ切っている。

その途中、社殿に向かって左側の池上に厳島神社が浮かんでいる。

北条政子が勧請し、ことのほか篤く信仰したそうだ。

神池を抜けると正面に総門が聳立している。

張られた大注連縄の総重量は400kgにも及ぶという。

竣工は昭和6(1931)年3月と比較的新しいが、建設中の前年には北伊豆地震に被災している。

総工費は当時の金額で約7万円とか。

昭和5(1930)年当時の大卒初任給は平均50円ぐらい。

一方、平成24(2012)年3月のそれは約20万7500円ほど。

単純に除すれば昭和5年の1円は現在の4150円に相当する。

さらにこれまた単純に乗ずれば、7万円は2億9050万円となる。

時代背景が違うから単純計算による比較は無意味かも知れない。

とはいえ昭和の神社建築を代表的する建造物とも評価されている総門。

現代なら3億円の予算をかけても、ここまで見事な木造建築物を作れるかどうか。

それを考えるとコストパフォーマンスは意外と高いようにも思える。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]07

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社号標に隣接する大鳥居の建立は文久3(1863)年。

瀬戸内海の小豆島から切り出した御影石で作られているそうだ。

鳥居と社号標をボンヤリ眺めていると、境内から大勢のお年寄りがワラワラと出てきた。

敬老会の皆さんが三嶋大社の清掃奉仕にでも従事されているのだろうか?

鳥居をくぐって境内へ入ると、すぐ右側に「たたり石」なる大きな岩が据えてある。

何か古来よりの怨念にまつわる代物かと多少ドキドキしながら説明板を読めば、それほどオドロオドロしくもない。

先ほど鳥居と社号標を眺めるために立っていた道路こそ、旧東海道。

たたり石は道の中央に置かれ、行き交う通行人の流れを整理する役割を担っていたのだとか。

石の名にある「たたり」とは「絡」という糸のもつれを防ぐ道具のこと。

それが転じて「整理」を意味するようになった。

やがて東海道を行き交う人の数が増えるとともに絡石が邪魔な存在に。

そこで絡石をどかそうと試みるも、そのたび災難に見舞われる。

やがて「絡」は「祟り」に置き換えられ、ダブルミーニングで「たたり石」と呼ばれるようになったとか。

その向かい側には若山牧水の歌碑が立っている。
 
のずえなる 三島のまちの あげ花火
月夜のそらに 消えて散るなり

牧水は宮崎県出身ながら長じて西隣りの沼津市に住み、伊豆の文豪として名声を馳せることに。

昨夜「三島 水辺の文学碑」を見かけたように、三島は牧水のみならず大勢の文士と深い関わりのある町なのだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]06

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社号標に刻まれた「三嶋大社」の文字。

ちなみに社号の「三嶋」が先に存在し、それが地名「三島」の由来になったそうな。

創建時期は不明なれど、奈良時代の古書にも記録が残るほど昔からある由。

ではその「三嶋」という神号は一体どこから来たのか?

「三嶋」の語源は「御島」ではないかと推測されている。

その「御島」とは即ち伊豆大島や三宅島、八丈島など伊豆諸島のことに他ならない。

伊豆諸島は火山の噴火によって生まれた島嶼で、最近でも平成12(2000)年7月の三宅島大噴火は記憶に新しい。

この噴火で三宅島の全住民が島から脱出し、4年以上にわたる避難生活を余儀なくされた。

このように科学技術の進化した現代ですら火山の噴火は市民生活に重大な支障を及ぼすわけで。

気象観測もへったくれもなかった昔、山の神の怒りを鎮めるには神仏にすがるしかなかったのも頷ける。

伝承によると三嶋大社は最初、三宅島の富賀(とが)神社に祀られていたそうだ。

その後、伊豆半島下田の伊豆白浜海岸へ分祀されて白浜神社、別名「伊古奈比咩命(いこなひめのみこと)」へ。

さらに大仁町(伊豆の国市)の広瀬神社を経て、伊豆国府のある現在地に鎮座したと伝わっている。

歴史的な事実か否かは判然としないが、あくまでも伝承ということで心に留めておきたい。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]05

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道を挟んだ向かい側には三角形の緑地があり、大きな木が数本、空に向かって伸びている。

その真ん中に「愛染(あいぜん)の滝」という名の滝が流れている。

名称の由来は昔ここにあった「愛染院」という伊豆随一の大寺院から。

三嶋大社の別当で真言宗高野山派に属し、10数カ所に末寺を抱えていたほどの規模だった。

ところが愛染院は明治政府が発した神仏分離令によって跡形もなく消えてしまった。

現在では駅前から続く坂と、この滝だけが、その名を留めている。

昨夜通った道を今朝も同じように辿っていく。

まだ陽は登り切っておらず周囲は暗闇に包まれてはいるが、それでも次第に明るくなっていく気配は感じる。

歩くこと20分強、桜川が尽きて暗渠になる辺りでようやく陽が登ってきた。

昨夜はここの小さな鳥居から境内に入ったが、こちらは脇参道らしい。

道理で鳥居も社号標も小さかったはずだ。

今朝は境内に入らず道を直進し、大社町西という交差点で左に曲がる。

その先に姿を現したのは立派な大鳥居と社号標。

こちらが正門であることを疑う余地を差し挟ませないほどの大きさだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]04

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旅館棟にも玄関があり、外へ出ると前は駐車場になっている。

ホテル棟のできる以前はこちらが表玄関だったのだろうが、今では裏口のような寂れた印象しかない。

ホテルから裏道を通り抜け、ネオンがキラキラ輝く駅の方角へプラプラと歩く。

ホテルで貰った食べ処☆呑み処MAPを見ると、なかなか美味そうな店が点在している。

繁華街を歩きながら食べ処や呑み処を物色するも、なかなか食指が動かない。

なにせ今朝は出立が早かっただけに致し方ないところだし、明朝も動き出しは早い。

ここはコンビニで適当に酒肴を誂え、ホテルに戻ることに決定。部屋で一杯ひっかけ、早々に床に入った。

翌朝6時、ホテルをチェックアウトして昨夜たどった道をなぞるように歩く。

昨夜、三嶋大社を訪れたものの既に日が暮れていたため、神社そのものの姿は全く分からず仕舞。

このままでは単に御朱印を蒐集しに来ただけに終わってしまう。

そこで早朝、改めて三嶋大社へ参拝に行くことにしたものだ。

ホテルの表玄関を出ると目の前には、昨日も通った駅前から続く緩やかな坂道が横たわっている。

ホテルで貰った地図「みしまっぷ」によると、この坂は名を「愛染坂」というそうだ。

[旅行日:2012年12月20~21日]

一巡せしもの[三嶋大社]03

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今ぐらいの時間なら新幹線はおろか在来線ですら余裕で帰京できるだろう。

しかし明朝早く出立する予定だったので、新幹線で帰京するより三島で一泊したほうがベターかと判断。

駅から歩いて2~3分のところにあるビジネスホテルに宿泊することにした。

素泊まりながらネット予約限定の特別価格で、新幹線を利用するより安上がりで済む。

チェックインして客室に入ると、ビジネスホテルとして可もなく不可もないといった印象。

思えば夕刻、富士山本宮浅間大社門前のお宮横丁で富士宮やきそば一皿を食べたきり。

なにか食べようかと思いホテルから外へ出ようとしたところ、ロビーの隅にある地下への階段が目に止まった。

なんだろう? と興味が湧き、階段を降りて短い地下道を抜け、再び階段を登ると、そこには全く別の世界が。

ホテルの隣に別の建物が立っており、そこと地下道でつながっていた。

こちらの建物は本館の旅館棟とある。

元々このホテルは旅館だったようで、ホテル棟のビルは後に建て増しされた別館になっている。

旅館棟にもフロントの痕跡などが見受けられる。ホテル棟が建つ前は、こちらだけで営業していたのだろう。

また、旅館棟の最上階(5階)には大浴場があり、ホテルの宿泊客も利用できるそう。

とはいえ、いったん別館から出て本館に移動し、さらにエレベーターで上がる必要がある。

客室にはユニットバスが完備されているし、移動するのも面倒臭いので利用することは結局なかったが。

[旅行日:2012年12月20日]

一巡せしもの[三嶋大社]02

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既に時刻は19時前だが社務所の開いている可能性は高いと踏み、駄目で元々の覚悟で来た次第。

閉じられた拝殿に向かって参拝した後、社務所へ向かった。

軒先の外灯は消えていたが、部屋の奥から明かりが漏れている。

扉を開けて中に入り、奥に向かって声を掛けてみた。

「ごめんくださーい」

応答がないので、もう一度声を掛けた。

「はーい」

返事がし、奥から神職さんが姿を現した。

「御朱印お願いしたいんですけど」

「いいですよ、どうぞどうぞ」

御朱印帳を手渡して待つこと暫し。

奥に引っ込んでいた神職が戻ってきた。

「すいません、こんな遅くに」

「いえいえ、ご参拝頂きありがとうございました」

社務所を出ると、既に辺りは真っ暗。

夜の神社というのも、なかなかに不気味だ。

こんな遅くに…とは言うものの、まだ午後7時を回ったぐらい。

これが夏なら、まだ日も暮れてすらいない時間だろう。

とはいえ、ここまで日が暮れてしまっては境内の散策も単なる肝試し的なものに終わってしまう。

とりあえず三嶋大社を後にし、来た道を駅へ向かって戻る。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[三嶋大社]01

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富士宮駅から乗車した身延線の電車は17時55分、富士駅に到着した。

18時1分発の東海道線448M電車に乗り換え、同29分に三島駅へ。

外に出ると既に日はトップリと暮れ、駅内外は通勤通学客の群れでごった返している。

駅前に出ればアフターファイブへの期待感が喧騒となって渦巻いている。

そうした人混みに抗うように、駅前から続く緩やかな下り坂のアーケード商店街を急ぐ。

勾配の尽きた辺りから横道に入ると、その先で川に行き当たった。

名を桜川というが、川というよりせせらぎと呼ぶのが相応しい小ささ。

向こう側には大きな公園が広がり、夜陰に風光明媚な光景が浮かび上がっている。

やがて川沿いの歩道が行き止まりとなり、小さな橋を渡って対岸へ。

対岸には民家が並び、コンクリート製の小さな橋が川を跨いで歩道と結んでいる。

家一軒につき橋一本といった感じで、無数の橋が川面に架かる風景は圧巻だ。

歩道と車道の境目には「三島 水辺の文学碑」という石碑が点々と立ち並んでいる。

とはいえ周囲は既に暗く、しかも先を急ぐ身なので、じっくり鑑賞することなく通り過ぎる。

20分ほど歩いた頃、桜川が尽きて暗渠になったところで左側から来た道と合流して一本の道になった。

その先に小さな鳥居と社号標。

三嶋大社に到着した。
 
[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]28

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マイロード本町から駅前通り商店街を抜けて富士宮駅へ。

駅前にはペデストリアンデッキが巡らされ、駅舎の全景を眺めることはできない。

近くまで寄って見ると駅舎自体は、こじまんりとしているのだが、そこから伸びるホームが不釣合いなほど大きい。

いや、既にホームとしての役割は終えて現在では駐車場になっている。

それでも昔は実際に使われていたことを考えれば、やはり大き過ぎるように思える。

身延線西富士宮駅と東海道線富士駅の間は、都市近郊ということもあってか運行本数が圧倒的に多い。

ホームに降りて富士駅行きの各駅停車を待つ間、先ほど見た駐車場の方角を見る。

今いる2番線ホームとの間にもう一本、明かり一つ灯っていないプラットホームが凍りついたように横たわっていた。

島式ホームの真ん中を金網で仕切り、手前側が1番線、向こう側が駐車場になっている。

1番線は団体列車専用のホームで、日蓮正宗大本山大石寺へ参拝する信徒教団のために設えられたもの。

しかし大本山と教団が決別した今となっては滅多に使われることもない様子で、乗り換え用の跨線橋は金網で封鎖されていた。

そんなガランとした空間に横溢する暗闇を切り裂くように、富士行きの電車が入線してきた。

富士山の持つ霊力は古来より、その裾野に様々な宗教団体を引き寄せ続けてきたし、今も続いている。

一方、レジャー感覚で気軽に山頂へ向かう富士登山もポピュラーになりつつある。

この先、日本人にとって富士山の価値は何処へ向かうのだろうか?

そんなことをボンヤリ考えつつ、明るい光に満ちた電車へと乗り込んだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]27

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お宮横丁を浅間大社とは反対側に通り抜けて神田川沿いに進むと、駐車場が居並ぶ広いスペースに出た。

その奥に大きな鳥居が聳立している。

これこそ浅間大社の一の鳥居だった。

こちらの扁額には「富士山本宮」と記されている。

鳥居の横には「せせらぎ広場」と刻まれた石碑が立っている。

広場という言葉から公園のような印象を受けるが、実質的には無料の駐車場だ。

夕暮れの中に浮かび上がる一の鳥居の黒いシルエット。

その中に、どこかの工場からだろうか白い煙が立ち上っている。

まさに赫野姫が仙宮に残した「富士の煙」の伝説に相応しい風景が見送ってくれた。

浅間大社を後にし、アーケード商店街「マイロード本町」を通って富士宮駅へ。

ただ、マイロード本町もまた衰退の気配が著しく、あまり通行人を見かけない。

地元の人たちは車で駅の向こう側にあるショッピングモールにでも行くのだろう。

車でのアクセスが面倒な旧市街地の商店街が衰退の道を辿るのは全国共通の現象。

もはや地元の消費者をアテにした商売は難しいのではないだろうか。

浅間大社の参拝客相手に特化するなど営業形態に特徴を持たせないと、商店街の生き残りは難しいようにも思える。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]26

rj26富士t4u27

「富士宮やきそば」を名乗るためには、概ね次の条件を満たすことが必要とのこと。
  1. 富士宮市内の4製麺業者の蒸し麺を使用
  2. 炒め油はラード(中には植物油を使う店も)
  3. ラードを絞った後の「肉かす」を加える
  4. イワシの「削り粉(だし粉)」を振りかける
  5. 富士宮の高原キャベツを使用
  6. 水は富士山の湧水を使用
  7. 調理には厚くて大きい鉄板を使用
ソースには特に決まりがなく、各店が独自にブレンドして個性を競っている。

3の「肉かす」とはラードを搾った後に残った豚の脂身を油で揚げたもの。

単に「かす」とも呼ばれ、麺と並ぶ特徴となっている。

エコといえばエコだが、ヘルシーとも言えない。

ただ、こうした「下衆い」食材を用いるが故に「B級」なのであり、「かす」抜きだと富士宮やきそばになり得ない。

ただ「すぎ本」のやきそばの具材は「かす」ではなくイカだったけど。

東京にも富士宮やきそばを提供する店は何軒かあるので、今回初めて食べたわけではない。

しかし、こうしたご当地名物は現地で食してこそ真価が計られるのではないか。

やはり浅間大社の門前で食べるだけでも東京での味わいとは違っているように思えたりする。

甲府の鳥もつ煮を食べそびれたのは惜しかったと改めて痛感したりする。

やきそばは量が多いわけでもなく意外に早く平らげてしまい、目の前にいた少年も気が付けば既に姿を消していた。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]25

rj25富士t4u26

平日の夕方だったので客の姿は少なかったが、休日には大いに賑わうのではなかろうか。

ここで遅めの夕食を取ることにした。

しかし「富士宮やきそば学会」は少々混雑気味だったので、ここは「すぎ本」を選択。

「すぎ本」は昭和23(1948)年創業という、富士宮やきそばを出す店では最古の老舗「鉄板焼すぎ本」の出張店。

その本店は西富士宮駅からここへ来る途中、西町商店街の裏手にあった。

ここ出張店の営業時間は17時30分までなので既に店じまいモード。

店内に席はなく、横丁の中央に設えられたテーブルで食べる。要はフードコートのスタイルだ。

やきそばを受け取りテーブル席に就くと、なぜか目の前に小学生の男の子が一人座ってゲームをしていた。

ゲームの手を止め、やきそばの皿を珍しそうに見ている。

いくら「Bー1グランプリ」絶対王者とはいえ、地元の人たちは日常的に食べているわけではないのだろうか?

かと言って何か話しかけてくるわけでもないので、放っといて目の前のやきそばを眺める。

黒々としたソースをまとった太い麺に魚粉が振りかけられ、紅しょうがの赤い色と鮮やかなコントラストを描いている。

さっそく麺を口へ運ぶ。

よくある中華料理店の焼きそばに比べてコシがあり、その歯ごたえが楽しい。

この独特な麺のコシこそ富士宮やきそばの特徴。

麺を蒸した後に茹でず、冷やした後で表面を油で覆うというユニークな製法によるもの。

このため麺に水分が少なく、それが独特のコシを生んでいるそうだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]24

rj24富士t4u25

富士山頂の土地は大社の所有にはなったものの、静岡県と山梨県の県境が未確定のため土地表示がなく未だに登記できていないのだ。

このため大社側の要請を優先し、先に譲与手続きを済ませたのだという。

裁判では「日本のシンボルを私有地化するのは国民感情に反する」との議論もあったそうだが。

国か浅間大社か土地の所有権を決めるより、静岡県と山梨県の県境を策定する作業のほうが余程の難題と見える。

二ノ鳥居と富士山に背を向け、浅間大社に別れを告げる。

参道入口と道を挟んだ南側に、こじんまりとした門前町が佇んでいる。

その名は「お宮横丁」。

猫の額ほどのスペースに富士宮の名産品を扱う店舗が9軒ほど庇を連ねている。

一番手前にはB級グルメの王「富士宮やきそば」の総本山、富士宮やきそば学会のアンテナショップ。

奥へ伸びる中央の細い参道を挟んで団子やぜんざい、富士宮溶岩焼き、静岡おでん、ジェラートなどの店が並ぶ。

その中に「お~それ宮」という、特産のニジマスを使用したハンバーガーや漬け丼を出す店がある。

富士宮市のニジマス年間生産量は約1500トンと全国トップ。

ちなみに全国合計の生産量は約1万1000トンなので、その1割以上が富士宮産ということになる。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]23

rj23富士t4u11

ふれあい広場を通りぬけ、再び二ノ鳥居の前へ。

門前の「寄って宮」と「ここずらよ」は既に店じまいしていた。

既に影は長く伸び、間もなく日が暮れることを知らせてくれる。

その前にもう一度、富士の山容を目に焼き付けておこうと二ノ鳥居越しに眺めてみた。

明治政府は太政官布告などによって、浅間大社の境内地だった八合目以上の土地を国有地に編入。

しかし明治時代の国家神道下では、国有化されても浅間大社の境内地に変わりはなかった。

ところが第二次世界大戦が終わり、政教分離を明記した新憲法が昭和22(1947)年5月3日に施行。

それに伴い昭和27(1952)年に突然、境内地だった八合目以上の土地が国に召し上げられた。

宗教活動に必要な土地のみ無償で譲与されたものの、あくまでも一部に過ぎなかったため、大社側は同32(1957)年に名古屋地裁へ提訴。

それから争うこと17年、一審・二審とも大社側の勝訴で迎えた同49(1974)年、最高裁で大社側の勝訴が確定した。

無償譲与されたのは山頂の土地約400万平方メートルのうち、富士山測候所跡や登山道などを除いた約385万平方メートル。

ところが財務省から大社側に土地を譲与する通知書が交付されたのは、更に30年後の平成16(2004)年のことだった。

これほど譲渡に時間がかかったのは、実は大きな問題の存在がある。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]22

rj22富士t4u00

現在の奥宮社殿は明治35(1902)年に造営されたもの。

富士山内で強力(ごうりき)によって担ぎ上げられた建造物は現在この奥宮のみ。

それだけに非常に文化的価値の高い貴重な建造物なのだそうだ。

しかし、平成23(2011)年3月15日に発生した静岡県東部を震源とする震度6強の地震により著しく損壊。

そこで翌年から改築工事に着手したものの、なにせ富士山頂での作業だけに資材の運搬費など莫大な経費が必要なのだとか。

重機でラクラク運べる現在に比べて人力でコツコツ運ばなければならない往時のほうが、確かに運搬作業そのものは大変だったろう。

だが運搬作業を金銭で丸ごと賄える現在より、それだけの重労働を苦にしないほど信仰心が篤かった往時の建造物だからこそ、奥宮の文化的価値が伝わってくる。

といっても奥宮の改築工事に税金が投入されるわけではなく、すべて奉賛者からの協賛金によって賄われる。

頂戴したパンフレット「霊峰富士」には500弱に及ぶ個人と法人の名が列挙されている。

それも地元静岡県だけでなく、北は札幌から南は九州まで全国各地から満遍なく。

日本人にとって富士山の存在感が、いかに重きを為しているか分かるようだ。

慶長14(1609)年、徳川家康は富士山本宮浅間大社に富士山頂の支配を認めた。

さらに安永8(1779)年、寺社奉行の裁定により八合目以上が境内地として寄進された。

その面積は約120万坪(400万平方メートル)にも達するという。

敷地内には噴火口の大内院(幽宮)を含め、幾つもの霊場行場が存在しているそうだ。

山頂まで行ったことがないから良く分からないが。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]21

rj21富士t4u09*

また、日本書紀では大山祇命ではなく磐長姫(石長比売)自身が直接語っている。

唾を吐きながら泣いて悲しみ、呪いの言葉を紡ぎ出す。

この世に生きとし生ける人間たちは、木に咲く花のように移ろいやすく、すぐに散ってしまうことでしょう。

瓊瓊杵命は長寿の神より短命の神を選んだ。

それ故に人間の寿命は短いのだという。

この神話に如何なる教訓が含まれているのか…。

それは「死の起源」をも解き明かす崇高な教え。

しかし自分のような思慮の足りない者には「醜女を粗略に扱うな」。

ひいては「人を見かけで判断するな」程度の教訓しか導き出せないのが残念だ。

桜の馬場を西から東へ通り抜け、参道の東側へ。

そこは「ふれあい広場」という公園になっていて、その右隣りを神田川と県道が並んで通っている。

このため視界を遮るものがなく、富士山の勇姿を丸ごとを眺めることができる。

山の頂に白雪が神々しく輝き、山肌を白い雲が取り巻いている。

その山頂には富士山本宮浅間大社の奥宮が鎮座している。

奥宮の起源は12世紀中頃に末代上人が建立した「大日寺」。

後に「大日堂」と名を改め、明治政府の神仏分離令により奥宮とされた。


[旅行日:2012年12月21日]
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