2014年02月

一巡せしもの[富士山本宮]20

rj19富士t4u00

瓊瓊杵命は木花之佐久夜毘売命に求婚するも、その前に父の大山祇命から許しを得てくれと言われる。

さっそく瓊々杵命は使いを出して結婚を申し込んだところ、大山祇命は大喜び。

木花之佐久夜毘売命に山のような結納品を持たせ、ついでに姉の石長比売命(いはながひめのみこと)も一緒に添えて献上した。

ところが石長比売命は岩石の霊の化身であり、妹とは対照的な醜女(しこめ)…今で言うブス。

一目見るなり怖気づいた瓊瓊杵命は石長比売命だけを大山祇命のもとへ送り返し、妹とのみ寝床を共にした。

美女は優遇され、醜女は冷たくあしらわれる…神話の世界も今の世の中も変わらない“不変の真理”なのだろうか。

しかし、これを大山祇命は大いに恥じ、瓊々杵命に対して嘆き悲しんだ。

私が石長比売命を差し上げたのは岩石の精霊であるように、御子の命が雨が降ろうと風が吹こうと永久に盤石であるのを願ってのこと。

また、木花之佐久夜毘売命が木花の精霊であるように、桜花が咲き乱れるように栄えるのを願い、そう誓いを立てて差し上げたもの。

なのに姉だけ返されたのでは、天神の御子のお命といえども桜の花が散るごとく脆く儚くなるでしょう。

このため歴代天皇の寿命は長くないのだと、古事記は述べている。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]19

rj18富士t4u19

「竹取物語」の成立時期は定かではないが、概ね平安時代初期の10世紀半ばまでと推測される。

「富士浅間大菩薩事」が収録された「神道集」の成立は南北朝時代の14世紀ごろ。

木花之佐久夜毘売命が“富士の精霊”として定着したのは江戸時代後期というから18~19世紀ごろの話か。

つまり富士浅間大菩薩事が先で、木花之佐久夜毘売命が後と言えるのかも知れない。

本殿の左側には三之宮の小さな祠が、こじんまりと佇んでいる。

こちらも先出の七之宮と同様、一宮制のそれではなく十八摂社「浅間御子明神」の三宮に当たる。

祠の左側には円錐形の小さな砂山。

手前の看板には「富士山の浄砂(きよめすな)」と記されている。

三之宮の前にある西門を出、社殿の西に位置する祈祷殿の方へブラブラ歩く。

放し飼いにされた御神鶏が数羽、地中に嘴を差し込み餌を啄んでいる。

古事記によると高天原から降臨した天孫瓊瓊杵命が木花之佐久夜毘売命を見初めたのは「笠沙(かささ)の岬」でのこと。

「笠沙の岬」とは鹿児島県南さつま市笠沙町にある岬だと考察さられている。

薩摩川内市から薩摩半島を海岸沿いに南下していくと、南シナ海に向かって西にピョコンと飛び出た小さな岬だ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]18

rj20富士t4u17

これは神仏に関する説話を集めた南北朝時代の神話集「神道集」に拾遺された「富士浅間大菩薩事」に記された話。

雄略天皇の御代、駿河国富士郡に住む老夫婦が竹林で光る竹を発見した。

切ると中から見目麗しい女の子が出てきたので「赫野(かくや)姫」と名付けて大切に育てた。

美しい娘に成長した赫野姫は地元の国司から寵愛を受け、求婚を受ける。

ところが赫野姫は突然「私は富士山の仙女です」と宣言し、月ではなく仙宮(富士山頂)へ帰ってしまった。

別れの際、姫は国司に焚けば死者の姿が見える「反魂香(はんごんこう)」を与える。

だが、それでは我慢できない国司は姫を追って富士山の頂上へ向かう。

そこには池があり、中から立ちのぼる煙の中に姫の姿を見た国司は反魂香を懐に池へと飛び込んた。

その時、一面に立ち上った煙が今なお湧き続いているため、仙宮のことを「不死の煙」といった。

これをそのまま山に名付けて「富士の煙」と呼んだのが「富士山」という名の由来…これが「富士浅間大菩薩事」の説。

それから長い年月が過ぎた後、姫は富士浅間大菩薩となって山裾の人里に現れた。

人々からは「恋に悩む人は大菩薩を拝めば願いが叶う」と篤く信仰されたという。

「竹取物語」と「富士浅間大菩薩事」…富士山の由来として、どちらが正解なのかは分からない。

ただ、燃え盛る炎の中で御子を出産した“猛母”木花之佐久夜毘売命の神話とは別に、もうひとつの「物語」がある。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]17

rj17富士t4u18

湧玉池の畔を北へ向かって歩いていくと、水源の岩上に水屋神社が鎮座している。

さらにその奥には天神社が祀られ、道なりに進むと本殿の真裏に出た。

後ろ側から眺める本殿の楼閣もまた、なかなかに味わい深い。

二階の楼閣の遥か上空には、下弦の月がポッカリと浮かんでいる。

月といえば、かぐや姫の「竹取物語」。

実は富士山本宮浅間大社と「竹取物語」の間には深い関わりが存在するのだ。

かぐや姫は満月の夜、迎えにきた使者とともに月へ去っていく…というのが一般に知られるラストシーン。

そのクライマックスで帝からの求婚を断ったかぐや姫は、代わりに「不死の薬壷」を差し出す。

姫がいないのに不死になっても仕方ないと、帝は「不死の薬壷」を駿河国の山の頂で焼くよう部下に命じる。

士(つはもの)ども数多(あまた)具して山へのぼりけるよりなむ、その山を「ふじの山」とは名づける

数多の士が山頂に登ったから「士に富む」が故に「富士山」という名に…これが「竹取物語」による由来。

しかし本当は月ではなく、富士山の火口に去ったという説話もある。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]16

rj16富士t4u22

江戸時代には江戸から富士吉田まで健脚でも片道3日、吉田から頂上までは少なくとも往復2日。

好天に恵まれても最低8日間は必要で、車で五合目まで簡単に行ける現在からは想像もできない程の苦行だった。

こうした苦難の旅を助け、富士講の発展に大きく寄与したのは浅間神社に属する御師(おし)の存在だった。

御師は宿舎の提供だけでなく、教義の指導や祈祷、各種の取次業務など、富士信仰全般の世話役ともいえる。

年に一度は中部地方から東北地方にかけて各地を巡礼し、御札を配っては浅間信仰の布教に努めた。

例えば富士登山の拠点だった富士吉田には御師町が整備され、現在でも上吉田に存在している。

富士急富士山駅の東側、御師町の入口には境界を示す「金鳥居(かなどりい)」が聳立。

ここから南へ約1.5キロメートルの北口本宮富士浅間大社までの間に御師町は広がっている。

町並みの基本的な骨格は今も変わらず、現在も往時の面影を偲べるそうだ。

とはいえ御師として実際に富士講を迎えて活動している家は、今では僅か2軒だけになったとか。

それでも今なお古来の教えを継承し、祭典では御焚上や塩加持などの神事を、夏期には登拝行事を行っている。

こうした宗教的、歴史的な背景を全てカットし、単なるレジャー感覚だけで登って帰ってくるとは勿体無い話。

まだ富士山に登頂したことはないが、もし機会が来るのなら、こうした古(いにしえ)より伝わる作法を噛み締めながら登りたいものだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]15

rj15富士t4u00

山小屋には泊まらず夜間に五合目から出発し、山頂を目指し夜を徹して歩き通す。

山頂に着いたら即座に下山するため、別名「日帰り登山」とも言われている。

昨夏など下山者の約3割が弾丸登山だった…というデータすらある。

今や富士登山も温泉並みの扱いになったものだ。

しかし、それでもやはり富士山は日本の最高峰である。

一気の登山は身体が順応する余裕がないため、高山病にかかりやすく体調不良に陥りやすい。

また、夜間の登山は落石などのアクシデントに気づきにくく、事故に遭う危険性も高い。

高尾山にでも登るような気積りで富士登山に臨めば、痛い目に遭う確率は相当高いのは間違いない。

そもそも富士登山は平安時代末期、山岳仏教の影響から生まれたもの。

富士山頂には仏様がいるという教えに基づき、登山して修行するという考えが広まった。

それまでは火山を鎮めるために存在した神社が、ここで神仏習合による富士登山信仰へと変容。

室町時代になると修験者が押し寄せ、これが庶民の間に信仰登山を広める契機に。

決定的になったのが江戸時代半ば、江戸を中心に東国を中心に組まれた富士山信仰のための「富士講」。

「講」とは資金を集めて代表者を選び、皆の祈願を託して富士山へ送り出す仕組みのことだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]14

rj14富士t4u21

本殿を離れて社務所横の門から境内を東側に出ると、その先に広大な池が広がっている。

名を「湧玉池(わくたまいけ)」といい、国の特別天然記念物にも指定されている名所。

ここを坂上田村麿呂が遷座先に選んだのは、富士山の神水が湧くこの地こそ御神徳を宣揚するのに相応しいと判断したためではないかと考えられている。

そのバックボーンには「噴火を水によって鎮める」という観念が存在することも見逃せない。

富士山の雪解け水が幾重にも積層した溶岩の間を浸透して湧出するため、水質はミネラル分が豊富。

温度は13℃、湧水量は毎秒3.6リットルで、年間を通してほとんど変化がないとか。

ちなみに水汲み場が完備されているので、湧水はテイクアウトOKだ。

水汲み場には蛇口などなく、何本もの細い竹の筒から水がジャージャーと流れ落ちるがまま。

これだけでも富士山から湧玉池へ流れ出る雪解け水の量の膨大さが想像できそうだ。

昔は富士山へ向かう前にここの禊所で身を清め、六根清浄を唱えながら登るのが習わしだったという。

最近では富士登山もポピュラーになり、昔ながらのクライマーだけでなくカジュアルな観光気分で山頂へ向かう人も随分と増えた。

特に昨今では「弾丸登山」なる所業が隆盛を極めているそうだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]13

rj13富士t4u00

その構造は「浅間造り」という独特のもので、確かに他の神社では見たことのない形をしている。

一階の屋根の上に小さな楼閣が乗った二重の楼閣造りで、棟高は45尺(約13.6メートル)もあるそう。

一階は5間(約9メートル)四面葺卸(ふきおろし)の宝殿造り。

二階は間口3間(約5.5メートル)奥行2間(約3.6メートル)の流れ造り。

屋根は共に桧皮で葺かれていて、上にチョコンと突き出た楼閣の姿はとてもユーモラス。

富士山の雄大かつ壮麗なシルエットにも引けをとらないよう、あえて家康は重層にしたのだろうか?

と同時に、ここへ上がって霊峰富士を眺めることが、家康にとって特別な意味を持っていたことも想像に難くない。

ただ、気になるのは楼閣の屋根に据えられた千木。

主祭神の木花之佐久夜毘売命は言うまでもなく女神。

なのに千木の形状は男神を示す外削になっている。

一方の鰹木は四本の陰数で、女神であることをキチンと示している。

この違いに何か意味があるのか色々と調べてみたのだが、これといった理由は見つからなかった。

本殿の右側、つまり今いる場所から透塀を挟んだ向こう正面に小さな祠が立っている。

摂社「七之宮」で、祭神は「浅間第七御子神」。

これは富士山本宮に付随する十八摂社「浅間御子明神」の七番目という意味。

ヤマト王権下の一宮制度における七之宮というわけではないそうだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]12

rj12富士t4u00

本殿を鑑賞するため、拝殿から右側を通って裏手に回り込む。

すると、そこに枝垂れ桜が一本、冬枯れた姿で佇んでいる。

傍に立つ石碑には「信玄櫻」と刻まれている。

その名の通り武田信玄が自らの手で植栽した桜。

だが初代は既に滅失し、現在あるのは二代目とのこと。

武田信玄と勝頼の親子も浅間大神を篤く崇敬しており、神領の寄進や社殿の修造などを奉納したという。

ほかにも信玄の願状など武田家ゆかりの品が数多く遺され、崇敬の篤さを今に伝えているそうだ。

拝殿の横を奥へ進むと、本殿との間に幣殿が設けられている。

間口5間、奥行3間の両下造で、元は石畳だったが現在は床に改装されているそうだ。

幣殿から横に透塀が伸び、本殿の真横まで行き着くことができないため、斜め前から本殿の建屋を眺める。

丹塗りがオレンジ色の夕日を浴び、社殿全体が燃え上がるような朱一色に染まっている。

本殿もまた楼門や拝殿と同じ慶長9(1604)年、徳川家康によって造営された。

本殿は明治40(1907)年5月27日に古社寺保存法により特別保護建造物に指定。

本殿は国から、拝殿と楼門は県から、それぞれ重要文化財の指定を受けて特別に保護されている。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]11

rj11富士t4u16

拝殿の屋根は瓦ではなく檜皮で葺かれ、外壁は丹塗一色。

その中で向拝の下にある蟇股だけが極彩色を放っている。

建屋は入母屋造で、間口と奥行は共に5間(約9m)。

入口横から左右に向けて濡縁がグルリと巡らせてある。

拝殿の前に立ち、掲げられてた扁額を見る。

「浅間大社」とだけ記されたシンプルなもの。

御祭神は甲斐国一ノ宮の浅間神社と同じ「木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)」で、由緒も一緒。

ただ甲斐国一ノ宮と異なり、こちらは相殿神として瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と大山祇神(おおやまづみのかみ)も一緒に祀られている。

御神名「木花」から桜が御神木とされ、境内には500本もの桜樹が奉納されている。

春に桜の名所として賑わうことは流鏑馬のところで述べた通り。

木花之佐久夜毘売命は別称「浅間大神(あさまのおおかみ)」とも呼ばれている。

甲斐国一ノ宮のところで「あさま」は「火山」の古語に由来していると触れたように、もとは富士山大噴火により荒廃した世の中を鎮撫するために創建された神社だった。

それが鎌倉時代になると修験道と融合し、仏教風に「浅間大菩薩」と呼ばれるように。

その後、室町時代に木花之佐久夜毘売命が“富士の精霊”と見なされるようになり、江戸時代後期の寛政年間(1789~1801)頃に定着。

さらに明治政府の神仏分離令により仏教色が廃され、再び「浅間大神」に戻され現在に至っている。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]10

rj10富士t4u14

左右に随身像が安置されているので「随神門」じゃないかと思うのだが、あくまでも「楼門」と呼ばれている。

随身像の背銘には「慶長19年」と年号が記されている。

西暦に換算すると1614年、大阪冬の陣があった年である。

「富士山本宮」と記された扁額は文政2(1819)年製作で、揮毫は聖護院入道盈仁親王の御筆によるもの。

延喜元(901)年に醍醐天皇の勅願で、現在の静岡市内に浅間神社が分祀されて「富士新宮」が創建された。

それに対応する形で、こちらの浅間神社は「富士山本宮」と呼ばれるようになったそうだ。

なお、浅間“大社”となったのは昭和57(1982)年と比較的最近のことである。

楼門を抜けると正面には豪壮な社殿。

こちらもまた家康が寄造営したものだ。

というか家康は関ヶ原の戦勝御礼として社殿や楼門など30余棟を造営し、境内一円を整備。

駿河とは切っても切れない縁で結ばれただけあって、相当な寄進を行ったものである。

ただ、江戸時代の度重なる大地震により、往時の建物で現存するのは本殿、幣殿、拝殿、楼門だけという。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]09

rj09富士t4u15

それで橋の手前に流鏑馬の像があったのかと納得。

流鏑馬の起源は建久4(1193)年、源頼朝が富士山麓で行った巻狩り。

その折に参拝した際、奉納した流鏑馬が現在に伝えられているという。

馬場を渡ると短い石段があり、その真ん中に自然石が祀られている。

この石は「鉾立石」といって、明治初年まで行われていた「山宮御神幸」の際に神鉾を休め奉った場所だという。

「山宮御神幸」とは今を遡ること約1200年前に行われた故事に由来する神事のこと。

大同元(806)年、蝦夷征伐で有名な征夷大将軍、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が平城(へいぜい)天皇より奉勅。

現在の大宮の地に壮大な社殿を造営し、山宮から遷座した。史実か否かは定かではないが、この遷宮が「山宮御神幸」のルーツになっているそうだ。

石段を登り切ると、そこには2階立ての壮麗な楼門。

慶長9(1604)年に徳川家康が寄造営したものだ。

資料には間口4間(約7.25m)、奥行2間半(約4.5m)、高さ6間半(約12m)の入母屋造り…とある。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]08

rj08富士t4u13

古事記には襲われた場所が相武国(さがむのくに)と記されている。

しかし
相武国は今の神奈川県に当たり、草薙も焼津も駿河国にある。

1000年以上も昔のこと、ヤマト王権にとって遠い東国の地理状況がアヤフヤだったのか?

それに現在の草薙と焼津は20キロ近く離れており、とても同一視できる距離ではない。

それとも長い年月の中で地名だけがひとり歩きし、何の関係のない土地で定着するようになったのか?

その実相、今となっては見当も付かない。

ただ、滅ぼされた側の相武国造こそ寒川神社の御祭神ではないか? という説の存在を相模国一之宮のところで紹介した。

それも本当かどうかは分からないが、倭武命と敵対者の双方が富士山を挟んで東西に分かれ、今も睨み合っているかのような図式は甚だ興味深い。

三の鳥居を通り過ぎると池が左右に広がり、その中央を太鼓橋が跨いでいる。

名称は「鏡池」、メガネのような形状をしているので「眼鏡池」とも呼ばれているそうだ。

橋の右手前には巨大な馬の銅像が聳立している。

近寄って見ると「流鏑馬(やぶさめ)」の像とある。

橋を渡ると目の前に一直線の道が横たわり、左右両端には鳥居が立っている。

5月5日に神事「流鏑馬」式が行われる馬場で、春には桜の名所として大いに賑わうそうだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]07

rj07富士t4u10

山宮は社殿がなく古木や磐境(いわさか)を通して富士山を直接お祀りする、古代祭祀の原初形態を残す神社だ。

社記によると、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐で駿河国を通過した折、賊徒が放った野火(野原で四方から火攻めに遭うこと)に襲われた。

そこで尊は富士浅間大神を祈念して窮地を脱して、賊徒を征伐。

その後、尊は山宮において篤く浅間大神を祀られたと伝わっている。

これと似たような話は相模国一ノ宮、寒川神社のところでも出てきた。

古事記における景行天皇の御代、東国征伐に赴いた倭武命(やまとたけるのみこと)の話。

相武国造が倭武命を罠に嵌めて野原の中に追い込み、火を放って暗殺しようとした。

燃え盛る炎に取り囲まれた倭武命は絶体絶命のピンチ!

そのとき、腰に帯びていた草薙剣(くさなぎのつるぎ)がひとりでに鞘から抜け、周囲の草を刈り払った。

そして、叔母の倭比売命(やまとひめのみこと)から授かった火打ち石で内側から火を付けた。

外側から迫り来る炎は内側からの向火と相対して勢いが弱まり、やがて鎮火。

すんでのところで難を逃れた倭武命は相武国造一族を成敗し、この一帯を焼き払った。

そこで一帯のことを「焼遺(やきづ)」と言うようになり、それが現在の焼津市という地名の由来になったという。

もちろん草薙剣で刈り払った場所は現在の静岡市清水区「草薙」だろう。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]06


rj06富士t4uttl

純白の冠雪を頂く富士山と真紅の巨大な鳥居のコンビネーションが、日の本一の絶景であることは疑いない。

二ノ鳥居の右隣りには社号標が立っている。さらにその右隣りには、これまた巨大な「富士山大金剛杖」のレプリカ。

ちなみに同じ「浅間」でも甲斐一宮浅間神社は「あさまじんじゃ」、駿河一宮浅間大社は「せんげんたいしゃ」と読む。

社伝「富士本宮浅間社記」によると、創建は第11代垂仁天皇3(紀元前27)年。

第7代孝霊天皇の御代、富士山の大噴火で住民が逃げ去り、周囲は荒れ果てたまま放置されていた。

これを憂いた垂仁天皇は浅間大神を「山足の地」に祀り、富士の精霊を鎮魂。

これが富士山本宮浅間大社の起源だという。

また、富士山を鎮めるために初めて浅間大神を祀ったことから、全国に約1300社を数える浅間神社の総本山ともなっているそうだ。

二の鳥居をくぐると車道を一本はさんで参道が続き、突き当りには石造りの三の鳥居。

手前に大きな石灯籠、両脇には巨大な狛犬を従え、その間を通って先へ進む。

浅間大神が最初に祀られた「山足の地」とは特定の地名を指すものではなく、富士山麓の適した場所を選んで行なわれた“祭祀”そのものを示すと考えられている。

特定の場所へ祀られるようになったのは、ここから北北東約6キロにある山宮浅間神社へ鎮座して以降のことだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]05

rj05富士t4u07

西町商店街は県道414号線との交差点から、大社通り宮町と名を変える。

とはいえ、富士山本宮に近づいたからといって西町商店街より繁盛しているというわけでもない。

ただ、こちらはシャッター通りというより、むしろ空き地が目立つ。

営業を止めた商店が上屋を取り壊し、跡地を駐車場に転用しているのだ。

その空き地の上方に、富士の山頂がポッカリと顔を覗かせている。

商店街を取り巻く人の世の移り変わりなど、悠久の歴史を刻んできた霊峰富士から見れば“些細な出来事”同然に違いない。

やがて商店街の前方に小さな橋が見え、その手前左側に朱色も鮮やかな大燈籠が現れた。

そこから伸びる参道の奥を覗きこむと、朱色の巨大な鳥居が聳立している。

参道を進むと左手に観光案内所と物産品店が並んで立っていた。

向かって左側が観光案内所「寄って宮」、右側が物産品店「ここずらよ」。

店頭を覗くと、ここには富士宮の特産品がズラリと勢揃いしている。

「ここにズラリ」と、静岡の方言「ずら」を掛けあわせたのが店名の由来とのこと。

平日の夕刻とあってそれほど混んでおらず、興味も惹かれたが、参拝を優先して境内に向かった。

先ほど見た巨大な鳥居の前まで来る。

富士山本宮浅間大社の二ノ鳥居だ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]04

rj04富士t4u06

駅前には低層階のビルが立ち並んでいるが、寂れているというか廃れてるというか。

歩行者はおろか車道を通り過ぎる自動車すら稀という、あまり活気は感じられない静謐さだ。

西町商店街も歩道にアーケードがかかった立派な商店街ではあるが、紛うことなきシャッター通りと化している。

洋品店、酒屋、蕎麦屋…壁のようにシャッターが連なる間に、営業している商店がポツリポツリと“生きて”いる。

西町商店街が富士山本宮とともに発展してきたのは想像に難くない。

だが、今でも日曜日や祝日などは参拝客で賑わうのだろうか?

参拝客は社前へ車で直接乗り付けるのが一般的だろうし、このあたりで買い物することはなかろう。

鹿島神宮もそうだったが、門前町に依存していた商店街がモータリゼーションによって“殺されて”しまうのは全国共通の“宿痾”かも知れない。

だが、こういう商店街には、そこはかとない愛着が湧く。

アメリカのビジネスモデルを丸ごと移植した郊外型のショッピングモールに比べれば、よほど人間の匂いがする。

それに、地元の人々のため長きに亘って役立ってきた歴史を感じさせる姿に胸を打たれるのだ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]03

rj03富士t4u04

パンは肉、ワインは血…まるでキリスト教徒のようだ、日本の一ノ宮巡りをしている身なのに。

ワインは少々お高めだったがコップ付きで、しかもプレミアムワインを謳っている。

ワンコインの割に味わいもソコソコ、結果的にいい買い物ができた気がする。

車窓に映る富士川の流れを肴にワインを堪能するが、酔っ払うというより頭痛がしてきた。

十島駅で列車行き違いにより小休止し、次の稲子駅との間で甲斐と駿河の国境を超える。

富士川の水量は乏しく、茫漠と広がる河原の石礫が寂寥感を掻き立てる。

だが、寂しげな風景もこのあたりまで。

芝川駅から沼久保駅にかけて、富士山が車窓いっぱいに姿を現した。

ことに今日は天気が良いので非常にクリアに見える。

裾野の西側を通っている身延線の、しかも進行方向に向かって右(西)側の席に座っていたので本来なら見えるはずがない。

なのになぜ、富士山は車窓に姿を見せたのか?

身延線は芝川駅を過ぎると線路がグルリと180度向きを変え、南から北へ進む。

このため西富士宮駅の手前まで車窓から富士山が拝めることができた次第。。

15時03分、西富士宮駅に到着。

ここから西町商店街を東へ向かう。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]02

rj02富士t4u03

ダメもとで構内の駅弁屋を覗いてみると、500円のワンコインワインを発見!

これ幸いとばかりに手に取り、ついでに鳥もつ煮を探すも、こちらの姿はなかった。

仕方なく目についたワッフルを選び、ワインと一緒に会計しつつ思い出した。

先の「甲斐の味くらべ」に「鳥もつ煮ドロップ」なる代物があったことを。

このドロップを舐めながらワインを飲めば丁度いいかも…と考えたが、止めた。

先にワインがなくなり、大量のもつ煮込み味の飴だけが手元に残るという、あまり芳しくない状況が予想された。

甲州ワインで味わう鳥もつ煮は、また別の機会に…そんなことを思いながらホームへ向かった。

12時58分、富士駅行き普通電車は定刻通り甲府駅を出発した。

昼時とあってか車内は結構な混雑ぶりで、空いている座席も見当たらない。

テスト期間のせいか高校生が目立つ一方、老人たちの姿も多い。

市川大門駅で高校生たちが大挙して降り、鰍沢口駅で大半の乗客が下車し、下部温泉駅に老人たちが吸い込まれていった。

さらに身延駅を過ぎると、あれだけの賑いがウソのように車内はガラガラになった。

ようやくボックス席も空き、窓際に陣取って冬枯れた甲斐路の風景を眺めつつ、ワッフルを齧りながらワインを啜る。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[富士山本宮]01

rj01富士t4u02

石和温泉駅から中央本線に乗り、約10分ほどで甲府駅に着いた。

南口から駅前に出ると、甲斐国のシンボルともいえる武田信玄公の銅像が聳立している。

顔を覗きこむと、信玄公もカッ! と目を見開き、こちらを睨みつけてきた。

何も悪いことはしていないのに、ドキッとするのは何故だろう?

次の列車の時間が迫っていることもあり、ひと眺めしただけで駅ビル「エクラン」に引き返す。

昼食になりそうなものを物色しようと、まずはカップ葡萄酒を探しに2階のワインセラーへ。

しかし手頃な代物が見当たらず、残念ながら手ぶらで店を出ることに。

同じフロアにあった御当地ショップ「甲斐の味くらべ」を覗いてみる。

もちろん目当ては“B級グルメ”王者の甲府鳥もつ煮。

これを肴にして、身延線の車中でワンカップ甲州産赤ワインで一杯…というのが当方のササヤカな目論見である。

甲府鳥もつ煮、当然あるにはあったが、それらはお土産用のバカデカいものばかりで、こちらが欲しいタイプは皆無。

何の成果も得られないまま「エクラン」を後にし、取りあえず改札の中へ入る。

思い起こすのは石和温泉駅で見かけたカップ葡萄酒と甲府鳥もつ煮。

あー、あそこで買っておけば…と後悔至極、まさか甲斐の国府で入手できないとは想像もできなかった。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]22

rj22浅間t4u25

石和温泉駅の改札へと向かう途中、駅舎に併設してある土産物店兼軽飲食店を覗く。

食事している時間がないので、ここで何か買って車内で食べようかと思ったのだ。

見ればワインのワンカップがあれば、B-1グランプリで優勝した甲府鳥もつ煮もある。

これらが店内でもテイクアウトでもOKなのだから、なかなか魅力な組み合わせ。

しかし、最も肝心なものがない。

店員さんがいないのだ。

外から店内を覗きこんでいたら、背後から声が掛かった。

「開いてますよ、どうぞどうぞ!」

振り返ると、こちらへ駆け寄って来る中年女性の姿が。

とはいえ、電車の時間まで既に残り10分を切っている。

「すいません、電車を待つ間、冷やかしてただけなので」

そう言って店内への誘いを謝絶し、土産店のみ見学させてもらった。

後で思えば、この時にワンカップの赤ワインと鳥もつ煮を購っておけばよかったのだが。

そんな直近の未来に訪れる苦悩など露知らず、店員さんに礼を言って石和温泉駅の改札口へ向かったのだった。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]21

rj21浅間t4u26

間もなく石和温泉駅に着くというのに、またしても“逆方向”婆さんが「ここで降ろしてもらえんかね」。

近くに馴染みの床屋があり、どうやらそこへ行きたいらしい。

こうなると嫁にマイカーを運転させている姑と、なんら変わらない。

だがしかし、市営バスはマイカーではなく運転手も嫁ではないので、無情にもバスは止まることなく通過して行った。

浅間神社を出てから約30分ほど、11時47分にバスは石和温泉駅へ到着。

乗車時は遅延していたが、到着は定刻通りである。

それにしても“逆方向”婆さんのおかげで、とても愉快なバス旅になった。

やはり話し相手になってあげれば良かったかも…とまでは思わなかったが。

運転手が言っていた通り、駅前には足湯があった。

利用は無料で、湯船の上にあづま屋がかけてある。

ただ、お湯は掛け流しではなく溜め湯っぽく見える。

汚くはないのか…と不安を覚えるが、見れば学生っぽい女性3人が湯に足を浸けながら、おしゃべりに興じている。

いや、むしろこれなら溜め湯のほうがいいか…と邪念が湧くも。

間もなく乗車予定の電車が来るので、足湯はパスすることに。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]20

rj20浅間t4u00

2人のお婆さんは途中で1人降り、一宮温泉病院で残りの1人が降り、入れ替わりに老婆が3人乗ってきた。

車内は相変わらずお婆さんばかり。

乗降に時間がかかるため、バスが遅れるのもむべなるかな、である。

おまけに新たに乗ってきた3人のうち1人が、どうやら逆方向へ行きたい様子。

運転手に「ここで降ろしてもらえんかね」などと言っている。

とはいえ、この便が石和温泉駅で折り返して逆方向へ行くことになるので、ここで降りても意味は無い。

運転手も「駅で時間を潰して折り返しのバスに乗っても同じですよ」と言う。

「駅前の足湯に足でも突っ込んでれば1時間ぐらいアッという間」と言われ、そのまま乗り続けることにしたようだ。

それにしても、この“逆方向”婆さん、ひっきりなしにしゃべり続けている。

多分、誰かに話し相手になって欲しいのだろう。

とはいえ寝言に応答するのと一緒で、下手に相手をしたら際限なく話しかけられ続けるに違いない。

バスが笛吹川を渡ると車窓の情景は一変、大きな旅館やホテルが立ち並ぶ温泉街へ突入した。

石和温泉には旅館やホテルだけでなく、24時間営業のスパやクアハウスなども数軒あるそう。

浅間神社への参拝に石和温泉を組み合わせ、ここで丸1日使っても良かったかも知れない…と少し後悔。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]19

rj19浅間t4u23

バス停で震えながら待っていると、一台のワゴン車が姿を現した。

11時16分発の石和温泉駅行き一宮循環バス、5分ほどの遅延。

マイクロバスを予想していたので少々面食らったが。

自分でドアを開ける必要があるのかと思った刹那、自動で開いた。

しかも中からステップまで降りてきた。

車内に入ったら、その設備の必要性に納得。

乗客はお婆さんが2人。

お年寄りが乗降しやすいようにステップを設置してあるのだ。

運賃は全区間100円。

募金箱のような筒に小銭を投入する。

100円玉以外の小銭でもOKで、その大きさによって内部で分別される仕組み。

ちなみに500円玉や紙幣の場合、フタをパカッを開けて中から小銭を取り出してお釣りを渡すシステムだ。

ドライバーは恰幅のよい中年女性。

ハキハキしているが接客は丁寧だ。

バスは桃畑が広がる正に“桃源郷”の中を暫く走った後、日帰り入浴施設「ももの里温泉」に立ち寄った。

ここは笛吹市営の日帰り入浴施設で、正式な名前は「一宮金沢温泉」という天然温泉。

市営循環バスとは別に、石和温泉駅との送迎バスを独自に運行している。

時間的に余裕があれば間違いなくひとっ風呂浴びていたところだが、それは贅沢というものだ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]18

rj18浅間t4uttl

二の鳥居から境内の外に出ると、道を挟んた向かい側に銀行が立っており、その前に「中銀一宮支店前」という名のバス停がある。

笛吹市が運行している市営一宮循環バス。

山梨交通が勝沼と甲府を結ぶバス路線を廃止したため、住民の交通の便を慮った笛吹市が走らせているもの。

そのため一応は路線バスなのだが、あくまでもルートや時刻は地元住民の都合に沿った形で決定されている。

一応、日曜以外は毎日運行されているのだが、日によってルートが異なるうえ、1日に数えるほどしか便がない。

この日は1日4本しか便がなく、うち2便は早朝で、昼と夕方に1便ずつ。

なので、この昼の便に乗らないと石和温泉駅へ上手くたどり着けない。

それぐらい浅間神社は鉄道から隔絶された地にある。

今回の浅間神社参拝で一番の鍵を握ったのは、実はこの市営バス。

香取神宮参拝での帰路の件もあり、同じ轍を踏むことのないよう入念に調査したのだ。

停留所の看板には、まだ「一宮町町内循環バス」と記されている。

平成の大合併で一宮町が笛吹市になったことは先に触れたが、まだ町内の表示は合併前のままのところが多いようだ。

予算がなくて表示の切り替えができないのか?

それとも、合併はしたものの今だに「一宮町民」を誇りに思う住民が切り替えを許さないのか?

どちらなのかは…分からない。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]17

rj17浅間t4u19

ここから再び境内を通り抜け、随神門の方角へ。

すると突然、視界に「枕石」なる石が飛び込んできた。

地面から天空へ向けて太く長い石柱が伸び、先端には注連縄が張られ紙垂が差し込まれている。

根本には丸い石が二つ据えられ、その姿は男根そのもの。

先へ進むと、今度は拝殿と参道を挟んだ反対側に「子持石」なる石が鎮座していることに気がついた。

「紫の君」の参拝を待っていた時には、なぜか目に入らなかったが。

「枕石」と同様に男根の如き形状で根本の丸い石も一緒だが、こちらは紙垂の数が比べ物にならないほど多い。

どちらも長い歴史を経てきたと一目で分かるような威厳と風格を湛えている。

先に見た陰陽石と同様、子授け信仰に根差したモニュメントなのは間違いない。

昔は子供の出来ない嫁など、それだけで役立たず扱いで厄介払いされるような厳しい環境。

たとえ妊娠しても流産や死産、出産の失敗などで赤子が生まれなければ同じこと。

いつまでたっても子宝に恵まれない嫁にとって子授けや安産の神に対する信仰は、それ自体が自らの存在意義と直結していたと言える。

そうした信仰が子持石や枕石、陰陽石という“伝道者”に姿を変え、今の時代に“少子化”への危機感を伝えている。

騒ぎ立てる割には大して役に立たない政策しか打ち出せない政府の少子化対策担当者も浅間神社に来て、自らの存在意義を賭けて祈った嫁たちの“念”でも感じ取れば、少しはマシなアイデアが湧いてくるのではなかろうか。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]16

rj16浅間t4u18

さっそく干支の像にお参りした後、成就石の上に立って本殿の方角を向く。

心の中で「祓へ給え、清め給え、守り給え、幸へ給え」と3回唱えながら、二拝二拍手一拝。

これで願いが叶うかどうかは分からないが、なんとなく木花咲耶姫命とお近づきになれたような気はする。

近くには富士山を象った「富士石」が据えられ、木花開耶姫命が富士山の精霊であることを説明している。

その近くに置かれたタコのような形をした石「太陽神」、さらにはキノコの石像など、いまひとつ意味が分からないものも。

天津神の天孫信仰というより、土着の民間信仰に相応しいアイコンではある。

それらを眺めつつ、本殿裏と護国社の間をグルリと回り込むルートを通って再び神楽殿の前へ。

そのまま突っ切ると境内の北側へ抜ける門に出た。

境内と外界の境界には両部鳥居が聳立している。

木製で、一の鳥居や二の鳥居より古そうに見える。

それもそのはず、元は現在の一の鳥居の場所に在ったものを、この場所に移築したものだ。

両部鳥居は神仏習合の名残りと云われているが、浅間神社も平安時代には山岳仏教と習合していた。

修験道の行者から「浅間大菩薩」と呼ばれ、富士登山による修行の道場として信仰を集めていたという。

こうした往時の信仰形態が両部鳥居の形を取り、現世にまで残っているのだろう。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]15

rj15浅間t4u16

穀霊の子を産むことイコール「良い米を生産すること」に他ならない。

そこから大山祇命に「酒解神(サケトケノカミ)」、木花咲耶姫命に「酒解子神(サケトケコノカミ)」という別称が付き、父娘で酒造の神として崇められているわけだ。

しかし浅間神社に奉献されている酒の殆どは、米から作った日本酒ではなく葡萄から作ったワイン。

木花咲耶姫命、どのような顔をしてワイングラスを傾けているのだろう?

木花咲耶姫命を祀る浅間系の神社は全国に約1300社ほどあるそうだが、ここ甲斐国一之宮だけはローマ神話の酒神「バッカス」が一緒に祀られているのでは…そんな不思議な雰囲気を感じる。

拝殿の前から離れ、境内を北に向かう。

ちょうど参道の突き当りに位置するのが、貫禄のある神楽殿。

建立は明治36(1903)年というから、既に100年以上経過している。

とはいえ今でも現役で、舞台では年に数回神楽が奉納されるそうだ。

左隣りには神楽庫があり、神楽殿との間には「清め砂」がヒッソリと佇む。

神楽庫を更に奥へ進むと、くぐり抜ければ厄災が祓い落とされるという「祓門」。

その先には干支を象った「十二支石像」が立ち並ぶ。

案内板によれば、自分の干支と今年の干支にお参りした後、一番奥に位置する「成就石」で拝むと、運命は開き願いは叶う…そうだ。

[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]14

rj14浅間t4u14

木花咲耶姫命は玉前神社の御祭神、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)が産んだ神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)の祖母に当たるわけだ。

神倭伊波礼毘古命とは初代天皇神武帝のこと。

分かりやすく書くと、こうなるか。

木花咲耶姫命
 →日子火火出見命
  →鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)
   →神倭伊波礼毘古命(=神武天皇)

木花咲耶姫命は炎に包まれる中で無事に御子を産んだことから、「子授安産の霊徳神」と見做されるようになった次第。

参拝を終えて拝殿の横を見やれば、奉献酒の一升瓶がズラリと並んでいる。

しかし、瓶の色やラベルのデザインが、どこか違う。

近寄ってよく見れば、それらは清酒ではなく、ほぼ全てワイン。

いや、ここはワインというより「葡萄酒」と呼んだほうが相応しいかも知れない。

さすが甲斐国。奉献酒も他の国とは一味違う様子。

ただ、御祭神の御神徳とは少しズレている気がしないでもないが。

木花咲耶姫命、実は「酒造の守護神」でもある。

瓊瓊杵命の御子を産んだ折、父の大山祇命が卜占で選んだ稲田から収穫した神聖な米で、酒を醸して祝福した。

瓊瓊杵命の“ニニギ”とは、稲穂が“にぎにぎしく”生育することを意味している。

つまり、瓊瓊杵命とは天から降臨して地に種籾をもたらした“穀霊”なのだ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]13

rj13浅間t4u28

彼女も子宝に恵まれず、来る日も来る日も周囲から「赤ちゃんまだ?」なんて責められる毎日なのだろうか?

藁にもすがる思いで木花咲耶姫命にすがっていたのではなかったのか?

そこまで神様に頼み込む必要のある厄介事として、不妊は十分な理由になり得る。

そう思うと(いつまで拝んでんだよ!)などと立腹した自分が恥ずかしく思えてくる。

とは言っても「紫の君」が子授けを祈願していたのか否かは定かではないのだが。

“紫の君”の願掛けに必死さを感じたのは、木花咲耶姫命が「子授安産の霊徳神」ゆえに他ならない。

「古事記」によると、木花咲耶姫命は瓊瓊杵命との子を一夜にして孕んだとある。

しかし、瓊瓊杵命に「一夜で孕むなんて…本当に私の子なのか?」と怪しまれてしまった。

これに
憤怒した木花咲耶姫命は「天孫の御子ならば炎に焼かれても無事に生まれてくるでしょう!」。

そう言って産屋に入ると内から土で出口を塞ぎ、出産直前に自ら室内に火を放った。

猛火の中で木花咲耶姫命は三柱の御子…火照命(ホデリノミコト)、火須勢理命(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホオリノミコト)を産んだ。

火遠理命は別名を日子火火出見命(ヒコホホデミノミコト)という。

上総国一之宮玉前神社にも登場した、日本の昔話「海彦山彦」の弟、山彦のこと。

ここで玉前神社と浅間神社が繋がった。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]12

rj12浅間t4u13

一体それは如何なる厄介事なのか? 

興味が湧いた時“紫の君”は柏手を打ち、来た時と同様に随神門の方へツカツカと立ち去っていった。

その後ろ姿を眺めているうち、ふとあることを思い出した。

上総国一之宮の香取神宮で参拝しようとした丁度その時。

突然、どこからか作業服姿の兄ちゃん2人が現れ、同時に参拝することになった。

そして、ここ浅間神社では“紫の君”が現れた。

香取神宮の御祭神は“武門神”経津主命(フツヌシノミコト)。

浅間神社の御祭神は“子安神”木花咲耶姫命。

そうか、彼ら彼女は神が現世に遣わした使者だったのか! 

と思い至った途端、自分の行動が馬鹿げていたように思えてならなくなった。

今後は参拝しようとしたその時、不意に現れる人は神からの使者だと思って、一緒に素直に参拝することにしよう。

改めて、拝殿に正対する。

正面に掲げられた額面には「浅間神社」ではなく「第一宮」と記されている。

延寶2(1674)年、佐々木玄龍の筆によるものだ。

本殿に向かって頭を下げているとき、ふと“紫の君”のことが心に浮かんだ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]11

rj11浅間t4u22

境内をフラフラと彷徨っているうち、東南の隅まで行き着いてしまった。

そこには「陰陽石」が祀られていた。

「陰陽石」とは男女の生殖器の形をした石のことで、男根の形を陽石、女陰の形を陰石という。

全国各地に陰陽石は鎮座しているが、浅間神社のそれは小規模なほうだろうか。

安房国一之宮洲崎神社のところでも述べたが、西洋キリスト教文明に毒された昨今の日本は、「男根」「女陰」と目にすれば即座に「ポルノグラフィ」が連想される下衆な社会に堕してしまった。

しかし、陰陽道に支配された往古の日本社会に於いて「陰陽和合」は万物生成の源。

「男根」「女陰」の形状をした石が御神体として崇められるのは自然なことだった。

とりわけ木花咲耶姫命は民間信仰の「子安神」と直結し、子授けや安産、育児などの神として広く信仰されている。

いつまでたっても子供が産まれず、嫁ぎ先で肩身の狭い思いをしている女性にとっては今も昔も頼りになる“女神”。

この陰陽石もまた、昔から子宝に恵まれる日を待ちわびる夫婦から篤く信仰されてきたに違いない。

10分近くウロウロしたろうか? 

拝殿に戻ってみると、先ほどの“紫の君”がまだ両手を合わせて深々と拝礼している。

(まったく、いつまで拝んでんだよ!)と、少々立腹したものの。

逆に(そこまで神様に頼み込む必要があるなんて並大抵の厄介事ではあるまい)とも思えてくる。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]10

rj10浅間t4u20

境内の東側には遊具が設えられ、ちょっとした公園のようになっている。

そこに並ぶ歌碑や詩碑の中に明治維新の元勲、三条実美の歌碑を見つけた。

NHK大河ドラマ「八重の桜」では長州派の公家として悪役っぽく描かれていた三条公。

この歌碑を建立した明治21(1888)年3月から約2年後の同24(1891)年2月18日に薨去した。

これは武田信玄が奉納した短歌を後世に残すことを目的に、三条公が建立したもの。

うつし植る初瀬の花のしらゆふを
かけてそ祈る神のまにまに

この短歌をしたためた信玄公自詠の短冊は、笛吹市の有形文化財書跡に指定されている。

また、ここには第百五代後奈良天皇の御宸翰「般若心経」一軸が収められている。

後奈良天皇から下賜された信玄公が直筆の包装紙を添えて奉納したもので、国の重要文化財に指定されている。

さらに、信玄公は起請文(嘘偽りのないことを神仏に誓う文書)にも「一宮」という文言を多用していたそうだ。

貞観大噴火で木花咲耶姫命を祀った神社を新たに建立することになった際、甲斐国内の各所に浅間社が幾つか誕生した。

甚大な天災だったことは想像に難くないし、鎮めのために神社を数多く建立することも不自然ではない。

このため、他にも「甲斐国一之宮」を名乗る浅間神社が幾つかあり、どこが真の一之宮なのか今でも議論が続いている。

とはいえ、ここまで信玄公から篤く崇拝されていたことを考えれば、ここの浅間神社が真の甲斐国一之宮のようにも思えてくる。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]09

rj09浅間t4u12

現在の鎮座地一体はヤマト王権における甲斐国“地方政府”の中心部だった。

ここより西方、石和温泉の近くには「国府」、山梨県立博物館の近くには「国衙」という地名がある。

また、ここから南西に向かえば甲斐国の国分寺と国分尼寺の跡が残る。

ヤマト王権から「富士の怒りを鎮めよ」との司令を受けた甲斐国司は、山宮神社から“富士山の精霊”木花咲耶姫命だけを“抜擢”して国衙の中枢に据えた。

しかし山宮神社は主祭神が“山の神”大山祇命であり、本来は富士山だけでなく“山”そのものを祀った神社。

地元の人たちは神社が分割されることに、どうしても納得がいかなかったに違いない。

その腹いせに新たな社殿を建立する際、正面を富士山ではなく山宮神社の方角へ向けたのではなかろうか?

そんなことを想像するうち、木花咲耶姫命と父・大山祇命、夫・瓊瓊杵命…役人に引き裂かれた家族の絆が、社殿の配置から透けて見えるような気がしてきた。

さて、お参りしようと足を向けかけた時、紫色の服を着たお姉さんがタッタッタッと駆けてきて、拝殿の前で深々とお辞儀をして参拝を始めた。

できれば参拝は一人で行いたい質だけに、出鼻を挫かれた気がして、仕方なく境内を散策することにした。

境内はこじんまりとしていて、ゴテゴテとした建造物もなくスッキリとした印象。

鹿島神宮や香取神宮のように森林で囲まれているわけではないが、周囲が果樹園だけに風の通りがいいようだ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]08

rj08浅間t4u11

浅間神社は富士山から見て真北に位置している以上、富士の鎮という役割から南を向いていても不思議ではない。

しかも浅間神社の御祭神、木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)は「富士山の精霊」。

なのに何故、富士山にソッポを向いているのだろうか?

ここから東南へ2キロほどのところに、垂仁天皇8(紀元前22)年創建と伝わる摂社の山宮神社がある。

山宮川の水源が湧く神山の麓に鎮座し、周囲を鬱蒼とした樹海で覆われた山間の古社だ。

甲斐国一之宮は本来こちらが本宮で、今の浅間神社は里宮だったという。

往時、山宮神社には木花咲耶姫命、大山祇命(オオヤマヅミノミコト)、瓊瓊杵命(ニニギノミコト)の神様三柱が祀られていた。

木花咲耶姫命は大山祇命の娘であり、瓊瓊杵命の后。

三柱が一緒に祀られていたのは至極当然の話といえる。

それが貞観7(865)年12月、木花咲耶姫命だけを里宮である今の浅間神社に遷座した。

このため山宮神社には今でも大山祇命と瓊瓊杵命の二柱しか祀られていない“やもめ”状態。

ならば、なぜ木花咲耶姫命だけが里宮に遷座されたのか? 

その原因は前(貞観6)年に発生した富士山の大噴火にある。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]07

rj07浅間t4u10

一の鳥居から10分ほどで浅間神社の正門に到着した。

そこには石造りの二の鳥居と、旧国幣中社時代の社号標。

揮毫は鹿島神宮や香取神宮と同様、東郷平八郎元帥によるものだ。

甲斐国一之宮の浅間神社は「あさまじんじゃ」と読む。

ここより遥か北の上信国境でフツフツと滾っている活火山「浅間山」と同じ「あさま」だ。

一方、駿河国一之宮の「富士山本宮浅間大社」は「せんげんたいしゃ」と読む。

「あさま」の語源は古語の「火山」に由来している…という見方が一般的だという。

肥後国一之宮「阿蘇神社」の「あそ」もまた、同じ語源にルーツを持つと言われている。

「あさま」も「あそ」も火を噴く山を意味し、それらを鎮めるために祀られたのが甲斐と肥後の一之宮なのかも知れない。

鳥居をくぐると随神門、通り抜けると左側に社務所と参集殿。

その奥にトイレがあり、ちょっと拝借。

用を足しながら目の前にある窓を覗くと、視線の先には浅間神社が経営する保育園が広がっていた。

随神門から参道を奥へ進むと、突き当りではなく途中左手へ折れたところに拝殿が鎮座している。

境内の案内図を見ながら考えてみると、北向きの参道に対して左側に位置しているわけだから、社殿の正面は東を向いていることになる。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]06

rj06浅間t4u08

国道から側道に入り、桃畑の中を浅間神社へ向かって歩く。

さすが「日本一の桃の里」だけあって、見渡す限り桃林が広がる。

まだ蕾すら見当たらない冬木だが、春になれば桃の花で一面ピンク一色に染まることだろう。

桃の花を愛でつつ浅間神社に参拝するのなら、4月上旬が最適かも知れない。

桃畑から国道20号線へ戻り「一宮浅間神社入口」交差点に立つ一の鳥居と社号標を眺める。

普通の明神鳥居で、扁額には「第一宮」とだけあり非常にシンプル。

塗りは鮮やかな朱色ではなく、少々くすんだ赤錆っぽい色をしている。

ちなみに鳥居は道路全体ではなく、歩道にのみ架かっている。

その一の鳥居を通り抜け、表参道を進む。

少し先に鳥居と同じ色合いをした「さくら橋」があり、渡った先に天神様が祀られている。

白い鳥居と小さな祠、右側には実をつけたままの柿の木、後背の遥か彼方には南アルプスの峰々。

それらが絶妙なバランスを取りながら一体となって、一幅の絵画のような風景を描いている。

道の奥に白い鳥居が見える。

だが、沿道の両側には大きな神社の参道に有りがちな食べ物屋や土産物屋などは一切ない。

あるのは煙草屋と銀行ぐらいで、道の左側には古びた石碑が立ち並ぶ、ある意味“ストイック”な参道だ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]05

rj05浅間t4u05

その先で国道20号線は新笹子トンネルに入る。

こちらは吊り天井がないので落ちてくる心配はない。

笹子峠をトンネルで抜けると中央道が今度は左手に現れ、その向こう側には白い冠雪を頂いた南アルプスの峰々が聳立している。

一方、手前は一面の葡萄畑で、甲斐国に来たという実感を味わっているうちに勝沼へ到着。

それから間もない9時20分、国道20号線沿いにある一宮バス停に到着した。

時刻表では8時40分着の予定だったので、約40分の遅延。

しかし、あれだけ激しい渋滞に遭遇した割には、意外と早く着いたような気もする。

バスを降りて停留所の周りを見渡すと、すぐ近くに掲げられていた案内板を発見。

左上には「日本一桃の里」、右下には「一宮町役場」と記されている。

山梨県一宮町は平成16(2004)年に平成の大合併で笛吹(ふえふき)市となり、現在では存在していない。

国道20号を跨ぐ歩道橋を渡る。

好天には恵まれたが、空気が冷たい。

歩道橋の上からは南アルプスに連なる雄大な峰々が一望できた。

吹き抜ける風が塵を飛ばして空気が澄んでいるせいか、遠くの景色までクリアに望め、冠雪もクッキリ見える。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]04

rj04浅間t4u04

おかげで国道20号線は大渋滞。

これまで高速道を使っていたトラックなどが一斉に一般道へ押し寄せてきたのだから、当然といえば当然の話。

ただでさえ時間のかかる一般道の走行が、さらに輪をかけてノロノロ運転になっている。

それでもまだノロノロ運転は我慢できるが、交通量が激増した国道沿いの民家にとってはいい迷惑に違いない。

バスの車内がガラガラなのも、甲府ならJRの特急で行ったほうが例え運賃は高くても、バスとは比べ物にならないほど早く到着するからだろう。

それでもこのバスを利用したのは、ひとえに浅間神社へのアクセスが圧倒的に楽だからに過ぎない。

笹子川を挟んだ反対側の中央本線を、特急列車がスイスイ走っていく。

もし甲斐国一之宮が鉄道駅の近くにあるのなら、迷わずJRを使うのだが。

なかなか進まないバスは晴天の日差しを浴び、車内は気温が上がって生温い空気が充満。

そんな暖かい車内で微睡んでいたせいか、それほど渋滞にイラつくこともなく。

やがてバスは笹子トンネルの左下に差し掛かった。

さすがに微睡みも霧散する。

右側上部の入口付近には夥しい数の工事車両が並び、作業員用のプレハブ小屋が林立している。

このトンネルの中には、まだ救出されていない犠牲者がいる…それを思うと、やりきれなさを感じる。

亡くなられた方々の冥福を祈り、トンネルに向かって手を合わせ黙祷した。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]03

rj03浅間t4u03

実は甲斐国一之宮の浅間神社は、鉄道を利用すると非常に行きにくい場所に存在しているのだ。

乗車して運賃を支払う際に「甲斐一宮まで」と言うと、運転手から「通りません」という返答。

あれ? と首を傾げたら、追って「一宮バス停には止まります」との注釈。

それそれ! と納得し、相模湖→一宮の運賃850円を支払う。

ここで逆に「高速バスを利用するのなら始発の新宿から乗車すればよかったのでは?」という疑問も湧こうというもの。

実は今回の巡礼には「青春18きっぷ」を利用したので、高速バスと最も効率的に併用するため、相模湖までJRを利用した次第だ。

師走という時期と早朝という時間帯の割に、バスの車内は閑散としている。

というより、この時期にしては高速道を走るクルマの通行量そのものが著しく少ない。

乗客を疎らに積んだバスは、スカスカの中央道を西へ向かって順調に走っている。

しかし、バスは大月インターで中央道を降り、一般道の国道20号線に入った。

その理由も、車内が閑散としていた訳も、クルマの通行量が少なかった原因も、すべてここにある。

平成24(2012)年12月2日、笹子トンネル内で発生した天井板落下事故。

トンネル内に吊り下げられていたコンクリート製の天井板が、突如100メートル以上に亘って崩落。

走行中の車両が巻き込まれ、9名もの犠牲者が出た史上最悪のトンネル事故である。

まだ事故の発生から日も浅く、復旧工事は緒についたばかり。

このため全ての車両が大月インターで降ろされ、一般道の走行を強いられているのだ。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]02

rj02浅間t4u02

渡り切ると正面は斜面になっており、右前方に上へ向かう細い階段を発見。

行ってみると扉が付いていて、そこに「関係者以外立ち入り禁止」と表示されている。

左右を見渡したものの、上へ昇る道はこれしか見当たらない。

しかも扉に鍵がかかっている様子はなく、開けて鉄製の階段を昇ってみた。

階段脇には民家が二軒あり、その玄関脇をモロにすり抜ける格好。

登り切ると、またも扉。

この階段、やはり私有地だったらしい。

扉を付けたのは、駅から高速バス停へ“近道”する輩が後を絶たないからか。

だが斯く言う自分も、紛れも無く“輩”の一人。

心の中で“謝罪”と“感謝”、それと「見つかりませんように」との“願い”を呟いた。

階段を上り切ったところで、来た方角を振り返ってみると、朝陽を浴びた山並みが神々しく輝いている。

「鉄道」から「私有道」を経由して「一般道」の坂を登り、バス停へと続く階段を登って「高速道」に出た。

鉄道から高速バスへ乗り換えるだけなのに、こうして4種類もの「道」が体験できるとは有難いことだ。

7時55分、数分遅れで京王バス東の甲府行き高速バスが到着した。

甲府へ行くのなら中央本線で行けばいいものを、なぜ高速バスに乗り換える必要があったのか?


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[浅間神社]01

rj01浅間t4u00

早朝、御茶ノ水駅から乗り込んだ中央本線の下り各駅停車は、予想に反して結構な混み具合だった。

まだ朝の6時前にもかかわらずロングシートは埋め尽くされ、そのうえ結構な数の人が立っている。

今年も残すところ、あと10日。

年の瀬が押し迫っているのを実感する。

そのまま客足が途絶えることなく国分寺駅に到着。

そこで乗り換えた下りの特別快速も混雑している。

ようやく八王子駅で車内はガラガラになり、7時10分高尾駅に到着。

向かいのホームに停車していた1451M電車に乗り換えた1分後、すぐに発車。

車内の4人掛けクロスシートに旅情を感じる間もなく、電車は約10分ほどで相模湖駅に着いた。

相模湖は都心から気軽にアクセスできる観光地だけに、駅舎もそれっぽいデザインになっている。

とはいえ、こんな厳寒期の、しかも早朝に観光客の姿などあろうはずもなく、通勤通学客の姿がチラホラあるばかり。

ここから中央自動車道相模湖バス停まで歩く。

駅前のバスロータリーを通り抜けて線路沿いに歩き、跨線橋を北側へ渡る。

この橋、床が透けて下が丸見えなので非常に怖い。


[旅行日:2012年12月21日]

一巡せしもの[安房神社]18

rj18安房t4u31

最初は小母さんの接客に大いに戸惑ったものの、慣れてしまえば何てことはない。

要は一見客にとって非常に取っ付きにくい店ではあるが、魚料理のメニューも豊富だし、店の流儀さえ理解できれば再び足を運びたくなる店だと個人的には思える。

逆にファミレスやハンバーガーショップのようなステレオタイプの接客がなければ不満を口にする向きは、店の敷居を二度と跨がないことだろう。

でも、こうした“幼稚”な客が寄り付かないだけ、酒と魚を味わいたい身には居心地が良かったりする。

現に二本目の剣菱を注文した後、小母さんの態度が軟化したようにも見えたし…多少酔っ払っていたせいかも知れないが。

それに、大々的に宣伝しても品切れでありつけない「新・ご当地グルメ」よりは、ツッケンドンな接客でも美味い魚料理を食べられるほうがよほど有難い。

「有香」を出て、館山駅へ。

しかし次の東京行き電車まで、まだだいぶ時間がある。

そこで西口から一直線に伸びる大通りを海まで歩いてみた。

堤防に腰掛け、夜の海を眺める。

風もなく海面は静かで、対岸の光彩が遠くで瞬いている。

大人しく打ち寄せる波を見ながら、巡礼してきた一之宮の数々を思い返してみる。

結構な数を巡ってきたように思えたが、まだ旅は実際のところ始まったばかりなのだ。

電車の発車時刻が近づいてきたので駅へ戻る。

上空を見上げると、丸い月がポッカリと浮かんでいた。

「次は、いつ出かけようかな?」

そんなことを思いながら、駅の階段を上った。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]17

rj17安房t4u33

あえて剣菱以外の日本酒を置かないことへのこだわりも、こうしたツッケンドンな態度と何か繋がりがあるのかも知れない。

ほどなく「さんが焼き」が目の前に届いた。

見た目だけで言えば魚肉のハンバーグといったところか。

実際には「なめろう」を紫蘇の葉で巻いて焼いたもの。

「なめろう」とは、アジのタタキに刻んだ野菜や味噌と混ぜた房総半島の郷土料理のことだ。

その「さんが焼き」と剣菱の取り合わせが、なかなかハマっている。

そのうち「焼魚定食」が来た。

焼き魚は大きなニシン、ほかにサンマの煮物、こんにゃく、酢の物、お新香、それに御飯とアサリの味噌汁。

なぜ館山でニシンなのか分からないが、値段の割にボリュームがあるし、魚そのものも美味。

ニシンの焼き身を口に放り込み、続けざまに剣菱を流し込む。

淡白な白身が酒に溶け、魚の旨味が口腔いっぱいに広がる。

酢の物で口直ししてサンマの煮物を齧り、コンニャクで口直しし、再びニシンへ。

このローテーションを繰り返していたらアッという間に一本目の銚子が空に。

二本目の銚子が空く頃、おかずの姿はほとんど消失。

最後に御飯と味噌汁とお新香で締めくくり、掉尾を飾る晩餐は終了した。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]16

rj16安房t4u32

ビールと共に出てきた突出しは、塩辛。

これが、なかなかイケる味。

そこでビールから日本酒にスイッチしようと、件の小母さんに尋ねてみた。

「日本酒のメニューはありますか?」

「燗ですか? 冷ですか?」

予期しない返事に面食らい、思わず「ひ、冷で」と答えてしまった。

改めて品書きを見ると、日本酒は「剣菱」しか置いていない。

つまり「日本酒の品書きは無い」が故に、途中で有るべき「日本酒の品書きはありません」という一言が割愛され、短絡的に「燗か冷か」という問いへ至ったものと推測される。

こうした、客を小馬鹿にしたような接客態度を取られると憤慨する向きが圧倒的に多い…それが今の世の中だろう。

その気持ちは痛いほど分かるし、道理で店内に客の姿が疎らだったわけだ。

ただ、品書きに日本酒が「剣菱」しかないという事実を前にして、この店の姿勢が少し理解できた気もする。

「剣菱」は創業五百年を超える灘の名門酒蔵。

赤穂浪士が吉良邸討ち入りの前、蕎麦屋で出陣酒として喉に流し込んだのが剣菱だったとか。

坂本龍馬の脱藩を直談判に来た下戸の勝海舟に、山内容堂公が「この大盃の酒を飲み干したら認めよう」と突き付けたのが剣菱だったとか。

こうした歴史的な逸話に事欠かない銘酒、それが剣菱だ。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]15

rj15安房t4u00

とにかくも西口は験が悪いので、気を取り直して東口に向かう。

駅前の道を南に向かって歩いていると「有香」という海鮮料理の店を発見した。

外見は居酒屋というより、ちょっとした割烹料理店の雰囲気。隣が魚屋で、看板に「魚屋の作る店」と謳っている。

しかも入口のところに定食のメニューが掲げられており、酒より食事が有難い身には丁度よい。

中に入ってみると中央の通路から右側が座敷席、左側がカウンター席。

座敷では先客が4名ほど、既に出来上がっている。

カウンターに腰を落ち着け、とりあえずビールを頼み、食べ物のメニューを眺める。

それにしても、どこか店内には微妙な空気が漂っている。

なぜだろうと思ったら、その理由は程なく分かった。

カウンター内にいる小母さんの態度が、とてつもなくツッケンドンなのだ。

例えば、黒板の品書きにある「さんが焼き」について尋ねてみた。

すると木で鼻を括ったような答えしか返ってこず、どんな料理なのか具体的なイメージがサッパリ湧いてこない。

それでも実際に見れば分かるだろうと思い、焼魚定食と一緒に注文してみた。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]14

rj14安房t4u30

館山駅に行くと「館山炙り海鮮丼」「館山旬な八色丼」というチラシを発見。

これらは「新・ご当地グルメ」と呼ばれるもので、観光客へ向けて新たに開発されたメニューだと書いてある。

「館山炙り海鮮丼」は炙り海鮮、刺し身、花ちらし寿司が三段重ねになった丼もの。

「館山旬な八色丼」は南総里見八犬伝に因み、旬の地場産食材を8つの小丼で味わうもの。

どちらも日本酒に合いそうなメニューだが、特に「八色丼」は品数が豊富で格好の肴になりそう。

しかも丼に八犬伝ゆかりの八文字「仁義礼智忠信孝悌」が入っているのもいい。

しかし、ここで大きな問題がある。

駅近くで供しているのは2店だけで、うち1店はランチのみ。

残りの1軒も限定25食というから、売り切れは必至だろう。

それでもダメ元というか一種のリサーチ的な気分で、西口駅前の寿司屋に行ってみた。

すると案の定、昼食の時点で既に売り切れ。

ハナから期待していなかったので別段ガッカリもしなかったが。

駅に向かいながら再びチラシに視線を落とすと、こう記されている。

「全店予約可能 食数限定 全70食(1日)」

つまり「館山旬な八色丼」は市内5店舗で1日当たり合計70食しか提供しないということだ。

ちなみに「館山炙り海鮮丼」も同じ5店舗で1日当たり115食のみの提供。

つまり「予約しないと、まずありつけませんよ」と言っているようなものだ。

気軽に食べることのできないメニューを「新・ご当地グルメ」としてプッシュすることに、一体どんな意味があるのか良く分からない。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]13

rj13安房t4u29

帰路は安房神社前バス停ではなく、もう少し海寄りの相の浜バス停から乗車することに決めた。

なので来る時に通った正面の参道ではなく、一の鳥居を出てすぐに左へ曲がり、のどかな風景に囲まれた道を歩く。

20~30分ほど歩いたろうか、国道410号線に出、相の浜バスに到着。

次のバスまで少し時間があるので、周辺をブラついてみる。

すると、バス亭の脇から海の方角へ延びる細い坂道を発見。

先へ下っていくと「画家が愛した漁村の道」という案内標識を見つけた。

その下には周辺の案内地図が掲げてあったので、観光用に設えたのだろう。

漁村の佇まいを湛えた住宅街を5分ほど歩くと、正面に小さな漁港が姿を現した。

相浜漁港、又の名を富崎漁港。

漁船の群れが暮れていく夕日を浴びて静かに佇んでいた。

相の浜バス亭からJRバスに乗り、館山駅へ。

思えば此度の一之宮巡礼、昼食時に蕎麦とともにビールを嗜んだことはあったものの、一日が終わって酒場へ繰り出したことはない。

一之宮巡礼に目出度く一区切りついた今宵ぐらい、記念に一献やってもバチは当たらないのではなかろうか?


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]12

rj12安房t4u27

境内に広がる神池の東側に、下の宮と社務所を結ぶ細い道が通っている。

その細い道が尽きて参道とぶつかる位置に茶店の「あづち茶屋」が立っている。

平成25(2013)年2月20日に開店したばかりの真新しい一服処。

店名は現在の鎮座地「吾谷山」に由来するという。

それほど大きくない純和風建築で、境内の雰囲気に違和感なく溶けこんでいる。

ただし営業は金・土・日・月・祝日の10~16時。

既に17時を回った現在、残念ながら戸は閉ざされていた。

再び参道を一の鳥居へと歩く。

その右側に注連縄で囲まれた苗床を見かけた。

既に田植えのシーズンは終わっているが、苗床では真新しい苗が育っている。

これから御神田に植えられるのだろう。

反対の左側には「館山野鳥の森」が広がる。

道理で鳥の鳴き声が喧しかったわけだ。

年中無休だが営業時間は9~16時半。

当然ながら既に閉館している。

野鳥の鳴き声だけを聞きながら、安房神社を後にしたのだった。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]11

rj11安房t4u23

神饌所を更に右奥へ進むと、そこは「下の宮」の鎮座地。

養老元(717)年に安房神社が遷座された際、天富命を祀る摂社として創建されたことは既に触れた。

室町時代以降、下の宮は数百年間にわたって途絶えていたが大正時代に復活。

天太玉命が「日本産業の総祖神」と大仰なのに対し、孫の天富命は「房総開拓の神」と身近に感じられる神様だ。

また、下の宮には配神として天太玉命の弟神である天忍日命(アメノオシヒノミコト)が祀られている。

天孫降臨神話では弓矢や刀剣で武装し、邇邇芸命の先導役を務めたことから日本武道の祖神と崇められている。

ちなみに天太玉命と忌部氏の関係と同様、天忍日命は軍事を司った大伴氏の祖先神でもある。

下の宮を出て鳥居をくぐり、石段を下りたところに御神木の太い槙がひっそりと佇んでいた。

御神木といえば拝殿の前など目立つ場所にあるのが一般的だが、目立たない場所にあるのは意外と珍しい。

その先に続く坂を下っていくと、途中に古い社号標が立っていた。

表面が摩耗して文字が判然としないが「勲一等 安房座太神宮 御鎮座」と刻まれているようだ。

安房神社は延喜式に「安房坐(あわにます)神社」と記されていることから、この社号標は昔使われていたものを移設したのだろうか。

風化してはいるが、それが逆に歴史の重みを感じさせる。


[旅行日:2013年5月21日]
プロフィール

ramblejapan

カテゴリー
カテゴリ別アーカイブ
最新コメント
メッセージ

名前
メール
本文
記事検索
QRコード
QRコード











発刊!電子書籍

東海道諸国を巡礼したブログを電子書籍にまとめました。

下記リンクより一部500円にて販売中! ぜひご一読下さい!



一巡せしもの―
東海道・東国編

by 経堂 薫
forkN


一巡せしもの―
東海道・西国編

by 経堂 薫
forkN

福岡から大阪へ…御城と野球場を巡ったブログを電子書籍化!

下記リンクより一部500円にて販売中!  ぜひご一読下さい!



キャッスル&ボールパーク

by 経堂 薫
forkN



CLICK↓お願いします!















オーディオブック

耳で読むドラマ!


人気演劇集団キャラメルボックスとコラボした、舞台と同一キャストでのオーディオドラマ!


ドラマ化・映画化された書籍のオーディオブック。映像とは一味違った演出が魅力的!


耳で読む吉川英治の名作「三国志」!

  • ライブドアブログ