2014年01月

一巡せしもの[安房神社]04

rj04安房t4u08

ようやく発車したバスは約20分弱で安房神社前に到着した。

この一帯、地名は「一宮」ではなく「大神宮」という。

無論、地名は安房神社に由来するものだろう。

社号は「神社」なのに地名が「神宮」なのは、それだけ地域からの崇敬の念が篤いということか。

国道410号線沿い、コメリと接骨院の間から山の方角へ延びる道が表参道。

接骨院の前に立つ案内標識に従って道を進み橋を渡ると、ずっと奥に白い鳥居が見えた。

しかし、道の両側は普通の住宅と農地が混在し、商店は数えるほどしかない。

大きな神社にあるような並木道でも、商店や飲食店が立ち並ぶ仲見世でもない。

大きな神社の参道にしては意外と地味な印象を受ける。

ただ、普通の住宅といっても一戸当たりの敷地は広く、建屋も大きい。

立派な生垣を眺めながら奥に見える鳥居の方向へ歩を進める。

と、途中で珍妙な張り紙が目に止まった。

大きな庭を持つ家の入口に掲げられていたもの。

題名に「当家の庭で不埒な行為を働いたもの」とあり、併せて男女の2ショット写真も載っている。

どこか警察の指名手配を思い起こさせるような写真だか、さすがに顔はモザイクで隠されている。

男と女が他人の家の庭先で如何なる「不埒な行為」を働いたのか、そこまで詳細に記されてはいない。

だが、家主に写真を撮られて晒されるほどの怒りを買ったというだけで、その内容が伺えようというものだ。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]03

rj03安房t4u04

他に乗客は誰もいないので一番前の席に堂々と陣取る。

座り心地は快適、視界も抜群だ。

路線バス扱いとはいえ運賃箱が付いているわけではないので、運賃は運転手に前払い。

安房白浜から安房神社前まで440円。

乗車時に乗車券が発行され、降車時に運転手に手渡すシステム。

なお房総半島の先端をカバーするJRバス関東の路線も、すべて「南房総フリー乗車券」のフリー区間に含まれているので運賃を払う必要はない。

なのはな44号は16時10分、安房白浜バスターミナルを出発した。

すると途中の停留所で一人のお婆さんが車内に乗り込むでもなく、運転手相手に延々と立ち話を始めた。

出入り口の直近に座っているので両者の会話が聞くともなしに聞こえてしまう。

どうやらお婆さんは前に乗ったバスに忘れ物をしたらしく、それを後続のこのバスに届けてもらったらしい。

それにしても年寄りは孤独なせいか、運転手相手に延々と話し続けている。

気付けば5~6分は経過していたのではないか?

次第にイライラしてくるが、邪険にするのも可哀想だし。

地方のバスも、なかなか大変だ。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]02

rj02安房t4u03

15時30分、バスは安房白浜に向けて発車した。

平日の昼下がりとあって車内は高校生や老人ばかり。

僅かばかりの客を乗せたバスは千倉の古い街並みを縫うように走り抜けて国道410号線、通称「フラワーライン」へ。

春まっさかりの南房総、車窓に広がる麗らかで風光明媚な景色を眺めているうち、ついウトウト。

バスは約30分ほどで安房白浜バスターミナルに到着した。

周囲には数多くのリゾートホテルが立ち並び、しかも源泉が湧いているので、どれも温泉宿。

だが、ここから見えるのは指呼の間にある「南国ホテル」ぐらい。

ほとんどのホテルや旅館は海沿いを通る国道410号線沿いに立ち並んでいるのだろう。

しかし乗り換え時間が僅かしかなく、わざわざ確認に出向く暇もない。

ここ安房白浜バスターミナルはJRバス関東の“駅”でもある。

立派な切符売り場を構え、職員も常在している。

外房線の小さな無人駅より、よほど風格がある。

そのうち1番乗り場に安房白浜発「なのはな44号」東京行が入線してきた。

高速路線バスなのだが、館山駅までは普通の路線バスとして運行されている。

なので座席はロングシートではなく、2×2のロマンスシートだ。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[安房神社]01

rj01安房t4u01

昼下がりの外房線。

平日ということも相俟って車内にはマッタリとした空気が流れている。

それにしても、まだ14時前だというのに高校生の姿が、やけに目につく。

安房鴨川駅で接続列車に乗り換え、15時前に千倉駅へ到着した。

ここで安房白浜行きの館山日東バスに乗り換えるのだが、約30分ほど時間がある。

千倉駅には最初の巡礼地である洲崎神社を参詣して以来、約半年ぶりの再訪。

あの時は洲崎神社から安房神社、そして玉前神社と巡る予定だった。

しかし洲崎神社を参拝した時点で日が暮れてしまい、撤収を余儀なくされた次第。

とはいえ、地方のバス路線網を甘く見ていたわけでは決してない。

計画が甘かっただけの話…というか、ほぼ思いつき同然で始めたようなものだ。

千倉の駅舎は真新しく、非常にモダン。

壁面に打ち放たれたコンクリート、屋根やベンチなどに多用された木目調の建材、ふんだんに用いられたガラス。

この三種の取り合わせが、関東最南端に位置する千倉駅の南国っぽい開放的な雰囲気を醸し出しているのだろう。

駅舎から外に出、バスの待合所に向かう。

安房白浜行きのバスは既に停留所で待機中だ。

ちなみに「南房総フリー乗車券」のフリー区間には館山日東バスの千倉/安房白浜間も含まれている。

このため乗車券を運転手に見せるだけでよく、改めて運賃を払う必要はない。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]18

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一宮町は歴史や文化遺産より、海山に近い利を活かした自然を観光の前面に押し出す戦略と見た。

駅の西南に広がる小高い丘はトレッキングに、駅から歩いて30分ほどの九十九里浜は海水浴に、それぞれ最適。

また、市街地には玉前神社や加納藩陣屋跡だけでなく、歴史ある寺や古い商家などが連なっている。

一宮町は自然と文化が絶妙に調和した町だと分かる。

「近くのお寿司屋さんは自前の田んぼで穫れた米を使ってるんですよ」

今日見て歩いた一宮町の姿など、まだ表層部分もいいところだったのだ。

それに、こうして観光案内所のお姉さん相手に長々とお話できたのも玉依姫命のご神威かも知れない。

それぐらい、この町には奥深い魅力がある。

だがしかし、残念ながら電車の時間が来てしまった。

「また来ますね」

そう言って、後ろ髪を引かれる思いで観光案内所を後にした。

駅のホームに立つと、看板に描かれた一宮町のゆるキャラ「一宮いっちゃん」と目が合った。

どことなく案内所の女性と似ているような…そんな錯覚に囚われる。

「さすが縁結びの神様だけあるなぁ…」

どことなく去りがたい気持ちを心の片隅に抱いたまま、到着した電車に乗り込んだ。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]17

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一宮加納藩は文政9(1826)年に伊勢八田藩主の加納久儔が移封して立藩。

二代藩主久徴は幕政の要職を歴任し、公武合体政策も積極的に推進。

このため皇女和宮が十四代将軍徳川家茂に降嫁の際、京から江戸までの警護役を務めた。

皇女和宮は功績を讃え、降嫁の際に乗った駕籠を加納家に下賜。

その駕籠は今、振武館の更に西にある東漸寺に所蔵されているという。

「すいませ~ん!」

駅へ着いて電車を待つ間、駅前で案内地図の看板を眺めていると、若い女性が駆け寄ってきた。

何かの勧誘かと思って身構えたらそうではなく、観光案内所の職員だった。

地図の前にボーッと突っ立ってたので、PRするのに丁度いいカモだと思われたのかも知れない。

「お一人でいらっしゃったんですか?」

小柄で眼鏡の奥の瞳がクリッとした、なかなかに可愛い女性。

次の電車まで時間に余裕があったので、案内所で話を聞くことにした。

案内所は駅舎の中にはなく、道を挟んだ向かい側にポツンと建っている小さな建物。

そこでパンフレットなどをドッサリ頂戴しつつ、一宮町の魅力についてタップリと講釈を受けることに。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]16

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店内に入れば、気の置けない町場の普通のお蕎麦屋さん。

お昼時とあって店内では近所で働く人たちが、日常の一部のように食事している。

メニューを見ると丼物などはもとよりラーメンまである。

門前蕎麦というより、地域の食堂的な役割を果たしているようだ。

ここで同店オススメの「季節の野菜かき揚げ天ざる」を注文してみる。

蕎麦は飛び切り美味いわけではなく、さりとて不味いわけでもない、普通の蕎麦屋の普通の蕎麦だった。

一方、かき揚げは揚げ過ぎといってもいいほどカリカリ。

だが、このぐらい揚げてもらったほうが天ざる蕎麦に合う気はする。

店を出てから、むしろラーメンのような蕎麦屋では珍しいメニューを頼んでみればよかったのかなと、少し思った

駅までの道すがら、上総一ノ宮の街並みを見て歩く。

ここは古い建物が数多く残る。

それもそのはず、一宮町は玉前神社の門前町というだけでなく、一宮藩加納家一万三千石の城下町でもあった。

とはいえ小藩ゆえ居城は陣屋、しかも往時の建物は残っていない。

なお、城跡には現在「振武館」という武道場が建っている。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]15

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玉前神社の境内に戻り、松尾芭蕉の句碑などを眺めつつ再び拝殿の前へ。

先ほど見た神楽殿と、その左横に立つ参集殿の間に石造りの小さな鳥居が立っている。

鳥居をくぐってみると貫禄のある石段が続いている。

こちらは十二神社のそれと対照的に年季が入っている。

左側に参集殿、右側に斎館と、巨大な建造物が立ち並ぶ間を下まで降り、振り返って鳥居を見上げてみる。

鳥居の台石と石段の両脇を通る石造りの側溝、その両者が一体化したデザインが秀逸だ。

石段を降りた先は小奇麗な路地。

神社側の生垣は綺麗に剪定され、向かい側の病院の生垣には薔薇が咲き乱れている。

上総國一之宮の御神域に住処を構える誇りを感じさせる風景だ。

再び一の鳥居前に戻り、来た道を引き返す。

途中、一軒の蕎麦屋があった。

名を『布袋庵』という。

寒川神社でも氷川神社でも、昼食は門前蕎麦。

玉前神社でも、やはり蕎麦にしよう。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]14

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さて、御例祭についての続き。

「上総十二社祭り」は千葉県の無形民俗文化財に指定されている。

玉依姫命と鵜草葺不合尊の間には、神武天皇を含めて四柱の御子が産まれたと先述した。

他の御子は五瀬命(イツセノミコト)、稲飯命(イナヒノミコト)、三毛入野命(ミケヌノミコト)の三柱。

御子たちは海までつながっていると伝えられる井戸から水路を通り、九十九里浜へ流れて行った。

「龍の如し」と云われるほど元気一杯の幼い神々は、海岸に着くや大はしゃぎで大暴れ。

そこで玉依姫命ら龍宮の神々一族は御子たちを諌めるべく九十九里浜へと向かった。

「上総十二社祭り」は、このような伝承に因んだものなのだそうだ。

「はだしの道」の更に左奥、境内の西端には「十二神社」が鎮座している。

かつて一宮町内にあった十二の社を一堂に合祀した摂末社だ。

社殿の前から玉前神社とは別の参道が西南へ伸び、鳥居を貫いて石段へ通じている。

石段は出来たばかりのようで真新しく、手すりもピカピカ。

試しに降りてみると、目の前に古い床屋さんが佇んでる。

建屋は19世紀中頃に建造された木造寄棟造妻入の平屋。

トタン屋根の下には茅葺屋根が潜んでいる。

建築された当初は「髪結い場」として地域の社交場になっていたそう。

大正時代に「吉村理容店」として床屋さんに転身し、今なお営業中だ。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]13

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縁結びに始まり、生理、妊娠、出産、育児…こうした女性の心身にまつわる神秘的な作用は、「月」を司る玉依姫命ご自身のお導きによるものと言われている。

また、縁結びの御利益は「男と女」に限ったものではなく、人と人の縁を結ぶ商売や事業に関わる祈願も多いそうだ。

さらに、鵜茅葺不合命の司る「旭日」は清新・発祥・開運・再生など物事の新しく始まる事象に御利益があり、それらは「月」を司る玉依姫命によって守護されている。

このように玉前神社は「太陽」と「月」に密接な関わりを持っている。

太陽と月が一列に並ぶ新月の1日と満月の15日は大潮になり、この日に月並祭が行われる習わしが現在でも続いている。

ただし15日に行われるはずの月並祭は、御例祭「上総十二社祭り」に倣って2日前の13日に行っているそうだ。

社殿の裏から左側へ回り込むと、そこには不思議な形状をした岩塊が鎮座していた。

下部を覆う土盛からは木々が伸び、その狭間には古めかしい石碑が幾つも聳立している。

岩塊の周囲には玉砂利が敷かれ、外側に注連縄が廻らされている。

注連縄が途切れている部分には竹製の鳥居が立っており、看板には「はだしの道」なる文字。

ここは靴を脱ぎ、玉砂利の上を裸足で歩いて一周するという場所らしい。

玉砂利の痛みを通じて大地のパワーを体感しようという意図か?

それとも人間の罪に対する神の罰として肉体へ苦痛を与えようという、キリスト教的な趣旨に基づくものか?

ちなみに「はだしの道」の体験歩行は遠慮させて頂いた。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]12

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山彦の子を身籠った豊玉姫命は夫を追って龍宮から上陸してきた。

そこでお産をすることになったのだが、豊玉姫命は山彦に出産中の姿を絶対に見ないよう約束する。

しかし、その言葉を不思議に思った山彦は約束を破り、コッソリ覗き見てしまった。

すると豊玉姫命は巨大なワニに姿を変え、腹這いになってのたうち回っていた。

ワニはサメとの説もあるが、いずれにせよ、その姿を見た山彦は驚きの余り即座に逃走。

一方の豊玉姫命も見られたことを恥ずかしく思い、御子の鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)を出産すると、妹の玉依姫命に養育を託して龍宮へ戻ってしまった。

玉依姫命は陰日向となって鵜茅葺不合命を育まれた後、なんと鵜茅葺不合命と結婚。

叔母の玉依姫命と甥の鵜茅葺不合命の間には四柱の御子が誕生した。

最後に生まれた末弟の神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコのミコト)こそ、初代天皇の神武帝である。

神武天皇の御母堂が主祭神だけあって、ここは「女性」にとって霊験あらたかな神社。

古くは北条政子も懐妊の際に安産を祈願したとの伝承もある。


つまり玉依姫命はキリスト教で例えれば聖母マリアの如き存在と言えるのかも知れない。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]11

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主祭神の玉依姫命が海神(わたつみ)の娘である豊玉姫命の妹であることは先に触れた。

豊玉姫命といえば日本の昔話「海彦山彦」の弟、山彦こと日子火火出見命(ヒコホホデノミコト)の妻。

昔話のあらすじをザックリたどってみる。

なお「日子火火出見命」は長いので、便宜上「山彦」と呼ぶことにする。

漁師の兄・海彦と狩人の弟・山彦は一度、互いの仕事を経験してみようと道具を交換。

ところが山彦は兄から借りた釣り針を海で失くしてしまい、途方に暮れていた。

そこへ潮路を司る神が現れ、海中の宮殿(龍宮)にある桂の木の上で待つようアドバイス。

言われた通り待っていると、そこへ豊玉姫命が現れて事情を聞いてくれることに。

海神は山彦を竜宮へ招き入れると、そのまま豊玉姫命と結婚させた。

海神のおかげで釣り針を取り戻した山彦は故郷へ戻り、釣り針を返したものの海彦の怒りは収まらない。

そこで山彦は海神から預かった、塩の干満をコントロールできる宝玉で海彦を懲らしめましたとさ…という話である。

この話には後日譚があり、そちらのほうが玉前神社に直結している。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]10

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参拝を終え、本殿を拝見するために拝殿の裏手へグルリと回り込むと、右手に神楽殿が立っているのが見えた。

玉前神社に伝承されている「上総神楽(かずさかぐら)」は、千葉県から無形民俗文化財に指定されている。

神楽面23面が相伝され、神主家の人達によって古くから伝承されていたが、永禄年間の戦火で途絶えたと思われていた。

記録では宝永7(1711)年、新たに神楽殿を造り土師流神楽が伝承されたとされている。

現在、その技は上総神楽保存会が口伝により継承し、春秋の祭礼をはじめ年に7度奉納されているそうだ。

拝殿の右横には「平成の大改修」へのご奉賛をお願いする看板が立っている。

今回の改修は平成18(2006)年に創始1200年を迎えたのを記念して行われるもの。

前回の大改修は大正12(1923)年というから約90年ぶりとなる。

建物の歪みや腐食、漆塗の激しい剥落、銅板葺き屋根の老朽化など、その間の経年劣化は著しいものがあったそうだ。

工事が終了した暁には再びピッカピカの社殿が姿を現すに違いない。

裏手に回るとシートで覆われていたのは拝殿と幣殿だけで、幸いにも本殿は無傷(?)。

お陰で黒漆塗りの美しくも珍しい様式を拝むことができた。


[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]09

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石段を昇り切ると正面に社殿が鎮座している。だが、残念ながら拝殿は改築中で外側がシートで覆われていた。

それでもシートの前には臨時の小さな拝所が設えてあり、そこで静かに手を合わせる。

玉前神社は永禄年間(1558~1570)の戦火によって社殿や宝物、文書の多くが焼失したため、創建の時期や年数、名称の由来などについては殆どが不詳となっている。

ただ、延長5(927)年にまとめられた「延喜式神名帳」に名神大社として名を連ねており、創建から少なくとも1000年以上経過しているのは間違いないところ。

また、毎年9月10~13日に行われる御例祭「上総十二社祭り」は大同2(807)年創始と伝えられており、このことから玉前神社には1200年以上の歴史があるとも見られている。

境内の説明板によると、社殿の造営は貞享4(1687)年。

棟札の表面には「奉造営 貞享四年三月十三日 大工棟梁大沼権兵衛」とあり、裏面には13カ村の名が記されている。

拝殿の建築様式は正面に向唐破風を付けた入母屋の流造りで、屋根は銅板葺き。

拝殿と本殿が幣殿を介してつながった権現造りでもある。

正面には左甚五郎の作とも言われる高砂の彫刻があるそうだが、残念ながら見ることは叶わず。

なお、これら社殿と棟札は千葉県から有形文化財に指定されているそうだ。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]08

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そのひとつに「汐汲みの翁」の話がある。

早朝、東風(こち)が吹いて波間に現れた12個の「明(あか)る玉」を持ち帰ったところ、夜になってピカピカ光を放つので慌てて玉前神社の神庫に納めたという。

もうひとつは「五兵衛兄弟」の話。

8月12日の晩に五兵衛という男に夢のお告げがあり、翌朝弟と海に行くと東風が吹かれて光る錦の袋が流れてきた。

兄弟は袋を拾い上げて家に持ち帰り中を見ると、光る珠が入っていたので神社を建てて珠を納めた。

五兵衛兄弟は「風袋(ふうたい)」姓を名乗り、12個の珠を納めた神社が玉前神社であったともいう。

そして風袋家の末裔は、今も玉前神社の社家として存続しているそうだ。

二の鳥居の右脇には24時間自由に採水できるご神水がある。

意匠が凝らされた送水柱とレトロな蛇口の取り合わせが「ご神水」の御利益を高めているかのようにも見える。

二の鳥居をくぐり右に曲がると正面に三の鳥居。

他の鳥居と異なり両部鳥居、しかも台輪と台石がある。

三の鳥居をくぐると目の前に短い石段。

両脇には漢字が五文字ずつ刻まれている。

左側には「徳一蹄民惟」(蹄は旧字)。

右側には「徳一祐神惟」(祐のネは示)。

それぞれの意味は…良く分からない。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]07

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徳川宗敬(むねよし)は水戸藩第十代藩主徳川慶篤の孫。

慶篤は“最後の将軍”徳川慶喜の同母兄に当たる。

宗敬の生誕は明治30(1897)年、逝去は平成元(1989)年と四つの時代を生きた人物である。

神職のほかにも林学者(緑化の父)、軍人(陸軍少尉)、政治家(貴族院副議長)、教育者(東大講師)など、多彩にして波瀾万丈の人生を送ってきた。

一の鳥居をくぐり、直進すると正面に二の鳥居。

右の柱には「文化三丙寅年八月」、左の柱には「式内大社當國一宮」と刻まれている。

文化三年は西暦に直すと1806年。

建立されてから200年余といったところか。

二の鳥居を見上げれば、扁額には「玉前神社」と記されている。

「玉前」という社号は、御祭神「玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)」に由来する説が有力だ。

他にも、玉依姫命の姉である豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)が海中の「龍宮」から、玉之浦(九十九里浜の古称)南端の太東崎に上陸したことから玉崎(前)になったという説もある。

九十九里浜地方には古来、海から流れ着いた石に霊力を感じ、これを光り輝く神として祀るという風習があった。

こうした石に因む話は「明(あか)る玉(珠)の伝説」として数多く伝承されている。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]06

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門前の参道は広々として、一之宮に相応しい構え。

道の両側には歴史的な建造物がボチボチと立ち並んでいる。

鳥居の手前右側にある蔵造りの建物は歴史的建造物の「高原家住宅」。

明治時代に建造されたものと推定されている。

「ニンベン」の屋号で椿香油の販売や鶏卵を東京へ卸す商売を行なっていたという。

外周を土蔵のように塗り込めた「店蔵」で、店内の太い柱と人見梁が特徴だ。

人見梁とは店先の上方に取付けてある化粧梁のことで、蔀戸(出入り口の戸)を昼は上げて収納しておき、夜は下ろして戸締りする仕組み。

「蔀(しとみ)」が訛って「人見(ひとみ)」になったという。

玉前神社の門前に到着。

上総一ノ宮駅から徒歩10~15分ほどか、意外と近い。

境内は、こじんまりとまとまったコンパクトな印象。

一の鳥居は朱に塗られた一般的な明神鳥居だ。

鳥居の右脇には社号標。

左横に「神社本廳統理 徳川宗敬謹書」と刻字されている。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]05

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車の往来が激しい県道を渡り、住宅街の中を縫う細々とした道に入る。

途端にどれが参道なのか、いまひとつ分からなくなった。

地図に見入りながら道を歩いていると、前方から高校生の一団がやって来た。

「こんにちわ」

誰かが誰かに挨拶をしている。

「こんにちわ」

また同じ声がする。

礼儀正しい奴だと思いながらフッと顔を上げると、一人の男子高校生がニコニコしながらこちらを向いている。

彼は見ず知らずの闖入者である私に対して挨拶をしていたのだ。

「こ、こんにちゎ…」

咄嗟のことだけに思わず声が上ずってしまう。

彼の挨拶に見合うだけの返礼ができなかった。

所持品からして野球部の選手のように見える。

誰であろうと道行く人に対してキチンと挨拶するよう、日頃から監督に指導を受けているのだろうか。

この出来事だけでも、玉前神社の御神域を包み込む清冽さが分かる。

挨拶は一高校生からではなく、玉前神社の御祭神からだと受け止めた。

しばらく細い道を進むと、正面に真っ赤な鳥居が見えてきた。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]04

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お昼前、上総一ノ宮駅に降り立つ。

天気は朝から変わらず薄曇りのまま。

暑くも寒くもない、丁度いい頃合い。

駅舎は昭和14(1939)年、隣町である睦沢町上市場の香焼(こうたき)氏により建設された。

資材には大正12(1923)年の鋼材が使用されているそう。

出入口横にある自動販売機の裏には当時の窓枠が残っている。

また、待合室のベンチや構内の跨線橋も当時のものだとか。

改札口を出ると正面の「名糖食堂」という食べ物屋さんの看板部分に、広告と案内図が掲げられていた。

食堂の名前、乳製品メーカーの「名糖」と何か関係があるのだろうか?

それにしてもフィルムを反転させた社殿の写真が斬新といえば斬新で、なかなか洒落っ気のある一之宮と見た。

その案内図に従い、玉前神社方面へ。

途中、見るからに古めかしい社号標を見かける。

しかし、なぜ境内でもないこの場所に立っているのか?

本物の社号標なのか? それとも、ただの記念碑か?

根元の部分に「参道」と記されているので、この道が表参道なのは確かなようだ。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]03

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翌朝、一階の食堂へ。

窓には外房の海が一面に広がっている。

昨夜は夜中に到着したので分からなかったが、ここまで海岸から至近距離に立地していたことに驚く。

朝食はバイキング。

それほど品数は多くないが、一品々々が凝っていて結構楽しめる。

食事を終えた後、ビーチに続く出入口から外に出てみた。

前庭の手前にプールがあり、垣根の向こう側は直ぐに砂浜。

ホテル内にはシャワーやロッカールームもあり、サマーシーズンには海水浴客で混雑するに違いない。

海では大勢のサーファーたちが波乗りに興じている。

薄曇りで肌寒い中、その様子をしばらく眺めていた。

今度は大雪が降っている日にでも来て、海に降る雪をボンヤリ見ながら燗酒でも舐めてみたいと思う。

ホテルを出て駅へ向かう道すがら、御宿の町をブラつく。

途中、国道が川を跨いだところの交差点に「月の沙漠記念館入口」と表示されている。

海へと続く道の先に、その記念館はある。

童謡「月の沙漠」は御宿を愛した詩人の加藤まさをが、大正12(1923)年に発表した作品。

歌詞に謡われている舞台はエジプトでもサウジアラビアでもなく、ここ御宿なのだそうだ。

加藤が砂漠を想った海岸にはラクダの像が立ち、すぐ近くに「月の沙漠記念館」はある。

とはいえ、先を急ぐ身に「月の沙漠」へ割けるだけの時間的余裕などなく、立ち寄ることなく御宿駅に向かった。

[旅行日:2013年5月21日]

一巡せしもの[玉前神社]02

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駅へ戻り、自動改札にフリー乗車券を差し入れ、南房総への旅がスタート。

総武線の“黄色い電車”で千葉へ行き、外房線の安房鴨川行きに乗り換える。

内陸部を走っていた電車は上総一ノ宮駅の辺りから外房の海岸線に出る。

今日は上総一ノ宮駅は素通りで明日、改めて訪れるつもりだ。

20時過ぎ、御宿駅に到着。

駅前から線路沿いに伸びる道を勝浦方面に向かってフラフラと歩き、途中コンビニで酒と肴を調達。

国道128号線を横切り、海へと続く道を降りた先に立つホテルが今宵の宿だ。

関東近辺の場合、帰れる距離にあるのなら普段は宿泊することもないのだが。

外壁工事中ということで宿泊料金がディスカウントされていたので、泊まってみることにした。

部屋はリゾートホテルらしく、ツインベッドで広い間取り。

もともとオフシーズンなので工事がなくても空いているのだろう。

遠くから海鳴りが聞こえる。

窓を開けて外を見てみる。

しかし外壁工事で足場が組まれており、景色を堪能するどころの話ではない。

道理で宿泊料金がディスカウントされているわけだ。

それでも海鳴りをBGMに傾ける酒盃というのもまた、なかなかに乙なものである。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[玉前神社]01

rj01玉前t4u00

雨雲と夕暮れの中で宵闇に包まれたJR東浦和駅。

帰宅する通勤通学客の雑踏を掻き分け、西船橋方面行きの電車に乗る。

乗る人は多いが降りる人も多いので、車内は思ったほど混雑していない。

武蔵野平野の真ん中を電車で40分ほど揺られ、西船橋駅に到着。

総武本線に乗り換え、さらに千葉駅から外房線に乗り換える予定なのだが。

思えば昼に大宮氷川神社門前の大村庵で蕎麦を食べて以来、何も口にしていない。

ここで一旦下車し、夕食を取ることにした。

しかし、ただ食事するためだけに下車したわけではない。

今回の上総と安房行きのために利用したのが「南房総フリー乗車券」。

外房線は茂原、内房線は木更津、両駅から房総半島の先にあるエリアの鉄道やバスが2日間乗り放題になるオトクなフリー乗車券だ。

東京都区内からだと4500円するが、千葉県内で買うと3000円で済む。

都内でも東側に在住ならとりあえずJRなり京成電鉄で市川なり舞浜まで行く。

そこで購入すれば現地までの往復運賃を差し引いても1000円は浮くのでオトク。

ただし、使用日の前日までに購入することが条件なので注意が必要だ。

今回のケースでは東浦和駅から西船橋駅までは武蔵野線の乗車券を購入。

西船橋駅から茂原駅までは南房総フリー乗車券の往路区間を利用することにしたのだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]16

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昭和57(1982)年、氷川女體神社と旧浦和市教育委員会により復元整備事業が行われ、現在の形になった。

衛星写真で上から見ると確かに遺跡は柄鏡の型をしていて、それが面白い。

平成13(2001)年には三市合併によるさいたま市発足を記念し、明治以来途絶えていた磐船祭が「祇園磐船竜神祭」として復活、毎年5月4日に祭礼が執り行われている。

四本の木の真ん中に立ち、空を見上げる。

朝から降り続いた小糠雨は結局、止みそうで一刻も止むことがなかった。

遺跡を後にし、バス通りまで歩きがてらツラツラと考える。

氷川女體神社は大宮の氷川神社に比べれば、その規模は比ぶべくもない。

だが、鬱蒼とした木々に囲まれた丘の上に佇む御社は、他のどの神社にもない独特な霊気を湛えている。

浦和や大宮といえば東京のベッドタウン的なイメージが強く、現に氷川女體神社の御神域も真新しい家々にグルリと取り囲まれていた。

しかし、金太郎飴の如き無個性な家が立ち並ぶ新興住宅街の中心に、古神道の雰囲気が横溢する古社が存在することこそ、まさに「現代の神話」に相応しい光景のように思われる。

夕暮れと雨天で一面がグレー一色に染まる中、ようやく停留所にたどり着いた。

そんな薄暮をヘッドライトの光彩で切り裂きながら到着したJR東浦和駅行きのバスに乗り込み、氷川女體神社に分かれを告げた。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]15

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毎年あるいは隔年の9月8日、御座船に乗せられた神輿が見沼を渡り、下山口新田の御旅所に渡御するというもの。

神輿を乗せた船を沼の最も深い所に繰り出し、四本の竹を立て祭祀場とし、沼の主である竜神様を祀った。

その跡は「女體宮道」の道標が建てられた大間木に程近い、下山口新田字四本竹にある。

発掘調査では約400年分に相当する量の竹が地面に立てられた状態で出土したという。

享保12(1727)年、第八代将軍徳川吉宗の政策で見沼は干拓され、一大米産地「見沼田んぼ」に変貌。

しかし沼から水が干上がってしまったため、従来の「御船祭」を継続することが不可能に。

そこで新たに祭礼場を造成し、御船祭の代わりに「磐船祭」という祭礼が行われることとなった。

新たな祭礼場は氷川女體神社前の干拓地に柄鏡(えかがみ)型の池を掘り、中心に土を盛って造成。

その昔は高台の境内から石段を降りて見沼代用水を渡った場所から陸橋が設えられ、祭礼場へ通じていたという。

祭礼場は直径30メートルの円形の島で、その中央には四本の竹で囲った斎場が設けられていた。

磐船祭は享保14(1729)年9月8日に初めて行われ、明治の初期頃まで行われていたそうだ。

その後、磐船祭は途絶えたものの祭礼場の跡はそのまま残されてきた。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]14

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氷川大神の祭神である須佐之男命といえば「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」伝説。

高天原を追われて出雲国肥川(こえかわ…現・斐伊川)上流の鳥髪(とりかみ…現・船通山)に下った須佐之男命。

八岐大蛇に食べられる定めという奇稲田姫命を妻にすることと引き換えに、この異形の怪物を成敗する神話だ。

この解釈として、八岐大蛇は水を支配する竜神、一方の奇稲田姫命はその名の通り“稲田”。

氾濫を繰り返す肥川に治水を施し、稲田を守ったことを伝承しているという見方がある。

見沼もまた氾濫を繰り返す“八岐大蛇”であり、それを鎮めるため中央部分を貫くように氷川三社が配置されたのではないか。

現に境内の社務所と参道を挟んだ向かい側には、竜伝説に因む竜神様を祀った摂社「見沼竜神社」が鎮座している。

橋を渡った先は見沼氷川公園として整備され、東側は「磐船祭祀跡遺跡」、西側は広大な原っぱ。

「御幸道」を突き当たると堀に小さな石橋が架かり、渡った先は鬱蒼とした木々が囲む円形の島。

外周には注連縄が巡らされ、中心には四本の木が植栽されている。

その昔、氷川女體神社では「御船祭」と呼ばれる、レーゾンデートルとも云うべき根本祭礼が行われていた。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]13

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本殿から更に裏手へ回り、「ふるさとの森」へと抜けてみる。

境内の摂末社は他の神社のように一つ所に合祀されているのではなく、個々が独立した小さな祠として、森の中に散在していた。

このような摂末社の祀られ方を見たのは初めてで、古神道本来の姿を見たような気がして、畏れにも似た感情が湧き上がってきた。

特にこの日は雨が降っていて周囲が薄暗かったため、どこか神秘的に見えたせいでもあるだろう。

晴天の日に改めて見たら、また違った印象を受けるのかも知れない。

ちなみに社叢「ふるさとの森」は暖地性植物が繁茂し、さいたま市から天然記念物に指定されている。

境内を離れて石段を降りる。

正面に架かる朱塗りの神橋を渡り、そのまま直進すると突き当りに「磐船祭祀跡遺跡」。

ここから遺跡までの一本道は「御幸道」と呼ばれている。

氷川三社の直線配列[高鼻男體社-中川簸王子社-三室女體社]は、自然歴として利用するためだと既に述べた。

しかし三社には、もうひとつ重大な役割が負わされていた。

それは灌漑用水であり、水害をもたらす元凶でもあった「見沼」の鎮護である。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]12

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御朱印を賜りに社務所へ立ち寄った。

中には誰もいなかったが「不在の時は押して下さい」と書かれた呼び鈴があったので、押してみる。

すると、中から眼鏡をかけた小太りのお爺さんがノッソリと姿を現した。

その姿にジブリ映画「となりのトトロ」の主人公(?)トトロがオーバーラップする。

御朱印帳を渡すと社号を墨書ではなく、なんとスタンプで押している。

これまで数々の神社で御朱印を賜ってきたがスタンプとは初めてで、日付のところのみ唯一、墨書で記入していた。

とはいえ、スタンプを力いっぱい押し付ける姿が何とも言えずユーモラス。

日本の神話というより西洋のおとぎ話を思い起こさせてくれた。

しばらくすると、御内儀が犬の散歩から帰って来た。

この古社を老夫婦二人で守っているのだろうか。

帰り際、社務所の玄関横に巫女人形が並んでいるのを見かけた。

氷川女體神社の象徴ともいうべき存在で、人形に願を掛けると巫女人形が神様に取り次いでくれる。

そして願い事が叶えば、巫女人形に着物を着せてお礼参りするという。

昭和40(1965)年に御神木の手作りから始まった、この巫女人形。

現在この習俗は全国で唯一ここだけで行われており、多くの崇敬者から信仰を集めているそうだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]11

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徳川家康は五十石の社領を寄進し、現在の建物は寛文7(1667)年に第四代将軍徳川家綱が忍城主阿部忠秋に命じて造営させたもの。

つまり将軍直々の命で造営された社殿を擁する、由緒正しき神社なのだ。

しかし、その後は男體社に比べて庇護の度合いが薄く、明治2(1869)年に屋根が葺替えられた程度で老朽化が著しく進んでいた。

そこで文化財保護や参拝者の安全といった観点から、平成14(2002)年に修復事業がスタート。

同19(2007)年には埼玉県有形文化財にも指定され、同25(2013)年1月に修復工事が完了。

それから4年後の平成29(2017)年には家綱の造営から350周年と節目の年を迎えることになる。

せっかく「武蔵野の正倉院」と称されるほどの宝物があるのに、もったいない話。

宝物殿を建立して有料で公開し、入場料で社殿を維持すればいいように思うのだが。

境内を散策している途中、「女體宮道」と刻まれた道標を発見した。

長き年月を経て丸みを帯びた石と相俟って、どこかエロティシズムを感じさせる。

幕末の弘化2(1845)年、南にある大間木水深の赤山街道に面して建立された案内道標とのこと。

大間木の地名は東浦和駅の付近一帯に今も残っている。

幕末こうした道標が設置されたのは、それぐらい参詣客が多かった証なのだろう。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]10

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拝殿の扁額にはシンプルに「武蔵國一宮」とだけ記されている。

横には「東都鳳岡関思恭拝書」と揮毫の主の名が墨書されている。

関思恭は元禄時代を生きた水戸藩出身の書家。

“草聖”と称されるほど草書に優れ、門人は五千余人に至ったという。

主祭神は奇稲田姫命であることは既に触れた。

だが、さすがに女體宮だけあって須佐之男命は祀られていない。

御配神は大己貴命(おほなむちのみこと)と、三穂津姫命(みほつひめのみこと)。

氷川神社にも中山神社にも祀られていなかった三穂津姫命は大己貴命の后。

須佐之男命の子が大己貴命だとすれば、姑と嫁が同居していることになるのか。

嫁姑問題にある女性方は、ここでお祓いすれば悩みが晴れるかも知れない。

拝殿の裏手に回り、本殿を玉垣の隙間から垣間見る。

三間社の流造りで、全面に朱の漆が塗られている。

拝殿とは相の間で結ばれ、形式的には権現造りに近い建造物といえそう。

氷川女體神社もまた中世以来、武門の崇敬を集めてきた。

鎌倉北条氏、岩槻太田氏、小田原北条氏などに縁ある書物や宝物を数多く所蔵しており「武蔵野の正倉院」とも称されているそうだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]09

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朝から降り続く霧雨は止む気配がなく、濡れて滑りやすくなった石段を一段づつ注意深く昇ってゆく。

鳥居には「武蔵國一宮 氷川女體神社」と記された扁額が掲げられている。

「名神大社氷川神社」は高鼻の氷川男體社、中川の簸王子社、そしてここ三室の氷川女體社の三社で、ひとつの広大な神域(結界)を形成していたことは先に触れた。

ここもまた紛れもない「武蔵國一之宮」なのだ。

鳥居は神域の外で見かけなかったので、これが唯一無二の鳥居かと思われる。

境内の案内板によると、ここから北西約400メートルの住宅地に石造の鳥居が聳立しているそうだ。

この鳥居は安政2(1855)年、馬場地区から参詣する人たちの便を考えて大門宿の石工に作らせ、氏子たちが奉納したものだという。

残念ながら実際に視認してはいないのだが、もし中山神社から歩いて来ていたら、ひょっとしたら見る機会があったかも知れない。

鳥居をくぐると正面に拝殿が鎮座している。

氷川神社の方角ではなく、日の出ずる東方を向いている。

氷川三社で自然暦を構成している証なのだろうか?

社伝「武州一ノ宮女體宮由緒書」によると、創建は今から2000年以上も昔。

第十代崇神天皇の御代に出雲杵築の大社を勧請したと記されている。

ただ、実際の建立時期は奈良時代(710~794)のようだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]08

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さいたま東営業所からバスに揺られること20分ほどで、朝日坂上というバス停に着いた。

しかし、この場所がどこなのか実のところサッパリ分からない。

ここへと至るバスルートはインターネットで検索を重ねた末に導き出したもので、確定するまで相当な手間がかかった。

もしバスの営業所で時間とルートをいちいち確認していたら、たぶん一日では終わらなかったろう。

朝日坂上バス停から緩やかな坂道を下って新興住宅地を抜けると、木々の緑が色濃く繁るこんもりとした丘が見えてきた。

周囲を畑と真新しい住宅に囲まれたこの森は、氷川女體神社の裏手に位置する公園「ふるさとの森」。

氷川神社で言えば大宮公園、小野神社で言えば小野神社公園…神社と公園はどこでも表裏一体だ。

ちなみに「ふるさとの森」とは埼玉県が自然保護のため条例で指定した緑地のこと。

その外周を時計回りにグルリと巡ると、正面に小川と橋が現れた。

右折して川に沿って歩くと「見沼たんぼの見所案内」という案内板を発見。

「見沼たんぼ」とはさいたま市の南北中央を帯状に占める大規模緑地空間で、総面積は約1260haにも及ぶ。

何かに例えたら、東京ディズニーリゾート(約100ha)12個分といったところか。

案内板の少し先に朱塗りの神橋と長い石段、その上に鳥居が聳立している。

ようやく氷川女體神社の入り口にたどり着いた。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]07

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境内を出て再び中山神社前停留所へ戻る。

バスを待つ間、氷川三社の自然歴について考えた。

黄泉の国から戻った伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が筑紫国で禊をした際、その体からから様々な神が生まれた。

最後に生まれたのが天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、そして須佐之男命の三柱。

伊邪那岐命は天照大御神に昼の国、月読命に夜の国、そして須佐之男命に海原を、それぞれ治めるよう命じた。

ここで注目したいのは須佐之男命が任された海原の支配という仕事について。

天照大御神の昼の国とは太陽を、月読命の夜の国とは月を、それぞれ意味していると解釈するとして。

須佐之男命が海原の支配を任された意味は、両天体の動きを基に暦を編み出すことだったのではないか?

だからこそ自然歴のメルクマールとして、須佐之男命を祀った神社が全国各地に建立されたのでは?

そんなことをボンヤリ考えていたら、バスが来た。

さいたま東営業所へ向かい、JR東浦和駅行きのバスに乗り換える。

日本国内でも埼玉は比較的、鉄道網が張り巡らされている県なのだが。

それでも、まだまだ鉄道網からこぼれている地域のほうが圧倒的に多い。

宅地開発のスピードが速すぎて、公共交通網はバスに頼らざるを得ないのが実情だろう。

これが首都圏でなければ、道路さえ整備しておけば住人が自家用車で勝手に移動してくれるのだろうが。

こうも人口が多いとマイカーだけでは交通網がパンクしてしまうのは必定。

かくして今日もまた埼玉県内を路線バスが網の目を縫うように走り続けているのだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]06

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現在の本殿は大正14(1925)年7月21日竣工と比較的新しい。

その裏手に、新造される以前の「旧社殿」が保存されている。

建造期は桃山時代と推定され、埼玉県内に現存する社殿でも古い型式に入る。

さいたま市内では最古で建築学上も貴重な資料だけに、同市からは文化財建造物に指定されている

旧社殿は細い角材を格子状に組んだ覆堂の中に鎮座している。

隙間から中を覗いてみると、悠遠の年月を経てきただけあって、さすがに建物そのものはガタガタ。

だが敢えて修繕せずそのままにしてあるところが、逆に歴史の重みを感じさせる。

覆堂の手前に説明板があり、設置者名が「大宮市教育委員会」になっている。

これもまた、歴史の重みを感じさせるための演出なのだろうか。

屋根は板葺きで、母屋前方部分の角度を変えて軒先より長くし反りを付した「流造(ながれづく)り」の二間社。

地上から階段を設えて板張り床の外陣に登れるようになっており、側面の床板には脇障子や欄干がついていた痕跡も見受けられるという。

ちなみに一間社で社殿正面の階段や脇障子のないものは「見せ棚造り」といって社殿の基になる型。

この旧社殿は簡素な板葺きの「見せ棚造り」が二間社となり、階段などを装飾して「流造り」に発展していく過渡期の建造物なのだとか。

そこが「建築学上も貴重な資料」たる由縁なのだろう。

豊臣秀吉の時代に建立された社殿が、21世紀の今こうして眼前に存在する不思議。

この世のすべては儚いようでいて、なかなかにシブトいようだ。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]05

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現在の社号は明治40(1907)年7月、付近一帯に祀られていた神社を合祀することとなり、従前の社号「氷川社」を「中山神社」と改称。

鎮座地中川の「中」と、江戸期の新田開発から氏子付き合いを続けてきた上山口新田の「山」を合わせたものだ。

参道を直進し、狛犬の間を抜けた辺りの右側に「御火塚」がある。

御火塚は毎年12月8日に行われる「鎮火祭」の重要な舞台。

鎮火祭は古くから伝わる重要な祭りで、御火塚の前に薪を積み火渡り神事が行われる。

素足で火渡りをすると火防けや無病息災などの御神徳に預かれると伝わり、祭日の境内は氏子をはじめ多くの参拝客で賑わうそう。

ちなみに鎮座地の「中川」という地名は旧社号「中氷川神社」の「氷」が「鎮火祭」の炎で溶けたもの…という説もある。

御火塚の横を通り、拝殿の前へと進む。

中山神社は氷川神社と氷川女體神社を結ぶ直線上の、ほぼ中間地点に位置していることは広く知られている。

中山神社から見て太陽は夏至に氷川神社方向の西北西に沈み、冬至には氷川女體神社方向の東南東から昇る。

氷川三社は、こうして太陽の公転を神社の配置に記録しておく「自然暦」でもあったのだ。

現代なら衛星写真を見れば一目で分かるが、航空機すら存在しない大昔よくそのような芸当ができたものだ。

いや、無いなら無いなりに知恵を絞り尽くし、あらゆる手段を駆使したのだろう。

なにしろ稲作にとって太陽の動きを把握することは必要不可欠。

しかし、誰が何時どのように三社の位置を決定したのか、その記録は詳らかでない。

大量の農民を動員して気の遠くなるような測量作業を地道に行ったのだろうか?

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]04

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参道は細く、両側は雑木林と住宅が入り組み、都会とも田舎ともつかない空間が広がる。

ランドセルを背負った小学生たちが互いにふざけ合いながら、目の前を駆けて行く。

まさに「村の鎮守の細道」そのままの光景だ。

大宮駅からバスで30分足らずなのに、駅前の喧騒からは想像できない長閑さだ。

思ったほど参道は長くなく、10分も歩かないうちに木製の明神鳥居が姿を見せた。

ここから先が中山神社の境内に当たる。

境内は玉垣で囲われておらず、外界と明確に区切られていない。

これはこれで、中山神社が地域社会に溶け込んでいる証なのだろう。

鳥居をくぐって境内に入ると、奥から一人の男性がこちらに向かって歩いて来る。

宮司さんかと思ったが、ここは不駐在のはず。

「こんにちわ!」

挨拶を交わして境内から出て行った彼に、小学生たちが駆け寄って行く。

子供たちの父兄か、それとも学校の先生か。

いずれにせよ、子どもたちから慕われていることは見るからに分かる。

社頭の解説板によると創建は人皇十代崇神天皇御代2年。

西暦に直せば紀元前96年、皇紀565年に当たる。

天正19(1591)年11月には、徳川家康から社領十五石の御朱印地を賜っている。

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]03

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横断歩道を渡り、中山神社とは全くの逆方向へ足を向けた。

しばらく歩くと、小振りで真っ赤な両部鳥居が姿を現した。

中山神社、一の鳥居。

触ってみると金属製で、塗装も剥げたところがなく丁寧に手入れされている。

ここから中山神社の参道が始まるわけだ。

さっそく鳥居をくぐり、今来た道を引き返す。

先ほどの交差点を渡り、標柱の案内に添って小径の奥へ。

標柱には氷川神社の神紋「八雲」があしらわれている。

社号に“氷川”を名乗らずとも氷川神社との関係性は疑いようもない。

八雲たつ いづもやへがき つまごみに 八重垣つくる そのやへがきを

神紋八雲は氷川神社の主祭神、須佐之男命が「須賀の宮」を営まれた折、御殿の周囲に七重八重と立ち込めた瑞雲を形象したもの。

「須賀の宮」とは出雲國…現在の島根県雲南市に鎮座する須我神社のこと。

須佐之男命が八岐大蛇を退治した後に建立した宮殿が神社になったものと伝えられている。

七重八重の雲の彼方に在す物語が、この見沼田んぼのド真ん中に中山神社を鎮座せしめた。

これもまた、一種の“神話”なのだろうか。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]02

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このバスに乗るのは、かれこれ約30年ぶりになろうか。

当時は駅から離れるにつれて沿道に畑ばかり連なっていた記憶があるが、今ではいつまでも住宅地が途切れることはない。

繁華街から住宅街、そして田園地帯と移り変わる車窓の景色を眺めながら揺られること30分弱、中山神社バス停に到着した。

バス停は幹線の県道1号線沿いにあり、周囲は完全に“自動車社会”に適化している。

中山神社は、ここ「中川地区」一帯の鎮守。

大宮区高鼻「氷川神社」と緑区宮本(三室)「氷川女體神社」の両社とは古くから関係が深かったことから「中氷川神社」「氷(簸)王子社」とも呼ばれていた。

これら「氷川三社」の主祭神は、家族のような構成になっている。

氷川神社が須佐之男命(すさのおのみこと)で男体宮。

氷川女体神社が妻神の奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)で女体宮。

中山神社が両神の子である大己貴命(おほなむちのみこと)で氷(簸)王子宮。

この三社を一社と見做して「延喜式」神名帳にある「名神大社氷川神社」だったとする説もあるそうだ。

バス停から程近い小径との交差点に案内用の標柱が立っており、その先に中山神社が鎮座している。

だが、小径へ入る前に立ち寄らねばならない場所がある。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川女體神社]01

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埼玉県の県庁所在地、さいたま市。

その中央駅たる大宮駅前から国際興業バスの中川循環系統に乗車。

ここからさいたま市内にあるもう一つの武蔵國一之宮、氷川女體神社へと向かう。

ただ、その前に1カ所、訪ねておきたい場所がある。

バスは高島屋デパートと中央デパートの間を通る県道を東へ向かい、氷川神社の参道と交差して郊外へ抜けていく。

もともと大宮の中心地は中山道の宿場として栄えていた側の東口にあった。

駅前には百貨店が立ち並び、麓には網を張るように商店街が四方へ伸び、埼玉県随一の商業都市として繁華を極めていた。

しかし東北・上越新幹線の開業と歩調を合わせるか如く、西口に大型商業店舗が立ち並ぶようになると、どこか東口はくすんで見えるようになった。

西暦2000年にはさいたま新都心が街開きし、未来都市のピカピカな光彩を浴びた旧市街地は影の中へ呑み込まれる…かに思われた。

が、今なお大宮駅の東口から人並みが途切れることはない。

むしろ駅前から伸びる路地の如き飲食店街は夜ともなると、美味し酒肴を求めて集い来る酔客で盛況を呈している。

鉄道路線が結節する“交通の要衝”、氷川神社の門前町、そして中山道の宿場町という歴史的三大要素の前には都市のスプロール化現象も太刀打ちできなかったようだ。


[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]22

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おまけに公正な競争を確保できなくなるとの理由から、第7レースそのものが中止される羽目に。

まだ車券を買う前だったので幸いなことに実害はなかったが。

しかし、次のレースを待っていられるほど時間に余裕はなく、残念ながら車券を買わず帰ることにした。

雨が降っていたため路面が滑りやすかったのは事実だが、A級といってもプロの選手なのだから展示走行中に落車とは有り得ない話だ。

結局、何しに来たのか分からないまま大宮競輪場を後にすることとなった。

それとも氷川神社の御祭神が「どうせ当たんないんだから止めとけ」と“啓示”してくれたのだろうか?

だとしたら、とても有難い話ではある。

競輪場のスタンドを出て、隣接する中学校をグルリと囲む道を歩いているうち、東武野田線大宮公園駅に着いた。

強いて言えば、ここが氷川神社の最寄り駅と言えなくもない。

少なくとも徒歩で来る場合の所要時間は大宮駅より断然短い。

駅舎は木造の平屋建て。こじんまりとした外観は、寒川神社の宮山駅や香取神宮の香取駅を思い起こさせる。

改札を抜けてホームのベンチに腰掛け、朝から雨が降り続く空を見上げる。

短い時間の中で様々な要素が凝縮された濃厚なひとときを過ごせたことを実感。

そのうち姿を見せた大宮駅行き電車に乗り込み、氷川大神に感謝を捧げつつ大宮公園を後にした。


(武蔵國一之宮「氷川神社」おわり)

[旅行日:2013年5月20日]

一巡せしもの[氷川神社]21

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その先には大きな池があり、畔には昔ながらの食堂が佇み、なかなか落ち着いた雰囲気。

晴天の休日などは、ここに数多くのボートが浮かび楽しく遊んでいるのだろう。

その風光明媚さは、公園そのものを目的に改めて来訪したい気持ちにさせられた。

池の隣には大きな建造物が立っている。昭和十四(1939)年に開場した「大宮公園陸上競技場兼双輪場」。

翌年開催予定だった東京五輪の自転車競技会場として建設されたが、五輪は第二次大戦のため中止。

それから10年後の同二十四(1949)年、「大宮競輪場」として東日本で最初に競輪の開催を始めた。

本日は競輪の開催日。どうりで公園内を多数の観客が歩いていたわけだ。

時間的に余裕はないものの折角ここまで来たのだから、運試しに立ち寄ってみることにした。

月曜の真っ昼間、しかもオールA級戦にもかかわらず場内なかなかの人出。

級戦といえば聞こえはいいが競輪は上位にS級があるので、野球に例えれば二軍戦みたいなもの。

しかし大宮は東日本で最初に競輪を始めた場だけに、その人出は伝統と格式(?)ならではといったところか。

時間がなかったこともあり、第7レースだけ車券を買ってみることにした。

競輪では本番レースの前に展示走行といって、出走する選手たちがバンクに出て顔見世代わりに走る。

その展示走行中、なんと選手同士が接触して2選手が落車!

そのままストレッチャーに乗せられ退場してしまった。

[旅行日:2013年5月20日]

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一巡せしもの[氷川神社]20

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よく日本代表戦で使用される埼玉スタジアム2002に比べたら、その大きさは牛丼大盛り用丼と味噌汁用椀ほどの差があるだろうか。

しかし、大宮はアルディージャの町。

そのハートランドに位置するサッカー場としては、これぐらいの規模のほうがサポーターの求心力を高め得るのに適しているかと思える。

その左側には埼玉県営大宮公園野球場。

昭和九(1934)年開業というから、かれこれ80年の歴史を数える。

同年のこけら落とし興行では「日米野球」が開催され、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグもプレーした老舗(?)の野球場だ。

現在でも埼玉西武ライオンズが年に数回、公式戦を開催している。

こちらも今日は何も催されていないが、同様に鉄格子から中を見てみる。

西武ドームに比べたら施設面では確かに見劣りするだろうが「ここは歴史遺産だ」と割り切れば、それなりに味わい深い野球観戦が楽しめるのではなかろうか。

野球場の隣には小さな遊園地。

小さな飛行機の遊具塔が聳え、古ぼけたアトラクションが昭和の雰囲気を色濃く醸し出している。

その奥には小さな動物園。

だが残念ながら今日は休園日。

中から動物の鳴き声が聞こえるもの、どのような動物がいるのかまでは分からない。


[旅行日:2013年5月20日]

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一巡せしもの[氷川神社]19

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その先では大宮公園の入口がお出迎え。

明治維新を迎えると太政官(新政府)は神社仏閣の領地の大部分を国有化。

その境内地など名所旧跡に公園を設定することを決定した。

そうした潮流の中で明治十八(1885)年、氷川神社の旧神領に「氷川公園」が誕生。

同三十一(1898)年からは埼玉県の管理下に置かれ、名称も「大宮公園」に変更された。

公園の広さは67.8ヘクタール。

1ha=1万平方メートル=約3000坪で換算すると…なんと約20万3400坪!

現在の氷川神社境内の約3万坪と比すと、約7倍もの広さを有することになる。

明治維新を迎えるまで、氷川神社の規模がどれほど大きかったことか。

さっそく大宮公園を散策してみる。

中に入ると姿を現したのは二つの巨大な競技場。

右側は「NACK5スタジアム大宮」こと、さいたま市大宮公園サッカー場。

昭和35(1960)年に開業した日本初のサッカー専用球技場で、現存するものとしては国内最古とか。

当時は野球一色だったので、専用サッカー場の建設そのものが非常に珍しかったと思える。

その後、全面的な改修を経て、現在はJリーグ大宮アルディージャがホームスタジアムに使用している。

もちろん今日は何の試合も行われていないが、近付いて閉ざされた鉄格子の隙間から中を覗き込む。

[旅行日:2013年5月20日]

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一巡せしもの[氷川神社]18

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こちらは参拝客で混雑する境内と違い、昼時でも先客が一人いるのみ。

平日で、しかも雨とあらば止むを得ないところか。

鴨汁蕎麦とグラスビールを注文。

蕎麦は国内産の蕎麦粉を石臼で挽き、手で捏ね、包丁切り…とある。

待つ間、店内を眺める。

窓から覗く和風の小庭越しに、氷川神社の緑が遠景に臨める。

静かに降り続く霧雨のせいか空気も澄み、緑の彩りが鮮やかだ。

その時、氷川神社の神職がお客さんを連れて店を訪ねてきた。

参詣客がお宮参りや七五三などの折に利用する機会は多かろうが、神社の関係者からも重宝されている模様。

神職は旅行業関係者と思しき数名と共に二階へ上がって行った。

やはり蕎麦だけに、神社とは長い付き合いなのだろう。

そうこうするうち、鴨汁蕎麦が目の前に来た。

挽きぐるみの黒い田舎蕎麦を予想していたが、意に反して更科系の白い蕎麦。

冷たい蕎麦と暖かいつけ汁の相性も絶妙で、これがまた冷えたビールによく合う。

蕎麦と鴨とビールのマリアージュを堪能し、大村庵を出て引き続き緩やかな勾配を下る。


[旅行日:2013年5月20日]

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一巡せしもの[氷川神社]17

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航空機時代の到来を待っていたかのように、氷川丸は同三十五(1960)年8月の航海を以って引退。

解体されスクラップにされるところを、神奈川県知事や横浜市長からの要請で山下公園に“静態保存”されることに。

船内は幾度目かの大改修を施され、修学旅行生の宿泊施設、あるいは結婚式場として静かな余生を送る。

平成18(2006)年には老朽化のため一時閉鎖されたものの、現在でも観光施設として健在。

船舶は20年経てば長寿といわれる中、建造から80年以上過ぎた氷川丸は正に“神”の領域だろう。

埼玉県には海がないので、氷川丸は海上の「飛び地」みたいなものかも知れない。

再び楼門を抜けて神橋を渡り、境内に出る。

一見すると手狭に思えるが、その敷地は約3万坪と実に広大だ。

隣接する大宮公園も元は神領で、その面積からも御神威の強大さが伺える。

三の鳥居を出て境内を辞し、氷川参道を引き返すのではなく、左側へと続く緩やかな勾配を下っていく。

すると「そば・うどん」と記された巨大な行灯を発見。

そこは門前蕎麦屋の大村庵。

やはり参拝したからには蕎麦で締めよというお告げか。

[旅行日:2013年5月20日]

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一巡せしもの[氷川神社]16

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周囲をグルリと取り囲む透塀に添って歩いていると、氷川丸との由来を記した展示に行き当たった。

現在、横浜港に係留されている氷川丸。

船名は無論、ここ氷川神社に由来する。

日本郵船が昭和五(1930)年に米シアトル航路へ就航させた1万2000トン級の巨大貨客船。

船内の神棚には氷川神社の御祭神が祀られ、船内の装飾にもご神紋の八雲が随所にあしらわれている。

歴代の船長以下乗組員は毎年大宮氷川神社へ参拝するのが習わしだったそうだ。

同16年までの11年間で太平洋を146回横断し、約1万人が乗船したという。

戦中は軍に徴用され病院船に改装。3年半で戦地から3万人もの傷病兵を内地へ収容。

三度の触雷にも敵機からの機銃掃射にも敵潜水艦との遭遇にも沈むこともなく。

氷川大神のお陰か“強運の舟”として戦後まで生き残ることに。

戦後は復員船として復員兵や引き揚げ邦人ら2万8000人を日本へ輸送。

その後は北海道航路で物資輸送に使われ、食糧難の時代を支えることに。

同二十五(1950)年、管理権がGHQから日本郵船に返され、再び外航航路へ。

同二十八(1953)年にシアトル航路へ復帰した氷川丸は、7年間にわたって約1万6000人もの乗客を運び続ける。


[旅行日:2013年5月20日]

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一巡せしもの[氷川神社]15

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後に改めて調べたところ「八度拝八開手」という、伊勢神宮独特の参拝形式だった。

それも一般の参拝者ではなく、神職が祭祀の時にのみ行う特殊な拝礼形式なのだとか。

特に無礼な振る舞いでなければ他人がどのような形式で参拝しようと、それはその人の信念に基づくものだから別に構わないとは思うが。

ただ、特定の修行を経た者だけが行える参拝形式を「自分は神道に深い知識がありますよ」的なアピールのために行うのは、むしろ逆効果なのでは?

それに神職でも何でもない一般人から、そのような形式で参詣されたところで須佐之男命は果たしてお喜びになろうか?

ご利益を賜りたいという心意気は伝わってくるが、かといって出過ぎた真似をするのは「過ぎたるは猶及ばざるが如し」のような気もする。

拝殿を後にして神札授与所へ立ち寄る。

本来は社殿の右側にあるべきはずなのだが、工事中で全体が白いテントで覆われている。

拝殿の左側に設置されている仮設の授与所で御朱印を頂戴した後、拝殿の前に差し掛かると先の女性が依然として祈祷を続けていた。

ここまで熱心にお祈りすれば、須佐之男命の元へ気持ちが
少しは届くだろうか?

それとも参拝の形式が違うから、それこそ“門前払い”にされるのだろうか?

その姿が多少狂気じみているだけに、お祈りが報われるかどうか他人事ながら気になるところではある。

一巡せしもの[氷川神社]14

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数度に及ぶ明治天皇の御親祭は、桓武天皇が平安遷都の折に山城國一之宮の賀茂社をお祀りした先例を踏まえたものと云われている。

その模様を謹写した山田衛居筆の氷川神社行幸絵巻物は、今も社宝として大切に保存されているそうだ。

拝殿の前に立って頭を垂れ、柏手を打って目を閉じ、手を合わせて深く息を吸い込む。

少しは須佐之男命の御魂と触れ合うことができただろうか?

氷川神社の社殿群は神話時代はさておき、現実的な歴史上でも幾度か造営が繰り返されてきた記録がある。

最も古い社殿造営の記録は治承四(1180)年、源頼朝が土肥次郎実平に命じて社殿を再建せしめたというもの。

文禄五(1595)年8月には徳川氏が伊奈備前守忠次を奉行に任じ、社頭一切を造営。

寛文七(1667)年3月にも阿部豊後守に命じて社頭の整備や社殿の建立などを行なっている。

明治時代にも「帝都守護の総鎮守」に相応しい偉容を整えるべく大規模に改築。

現在の社殿は昭和十五(1940)年6月に竣成したものだ。

参拝を終えてフッと横を見ると、第二指だけを立てて手を組み、頭を上げたまま拝んでいる女性を見かけた。

通常の「二拝二拍手一拝」とは明らかに異なる形式で、どうにも気になる。


[旅行日:2013年5月20日]

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一巡せしもの[氷川神社]13

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楼門をくぐり抜けると、まず目に飛び込んでくるのが舞殿。

元は例祭で雅楽の組曲「東游(あずまあそび)」を奉奏する建物だった。

現在は2月の節分祭「鳴弦(めいげん)の儀」、3月の郷神楽祭、4月の鎮花祭「花しづめの舞」、11月の新嘗祭などでの神楽奉奏に使用されているとのこと。

鶴岡八幡宮のように、ここで結婚式を行ったりしないのだろうか?

境内には雨の中、平日の午前中にも関わらず大勢の参拝客が訪れている。

やはり埼玉県きっての大神社だけに貫禄が違うといったところ。

小野神社のところでも触れたが、氷川神社は中世まで武蔵國三之宮だった。

中世に入り源頼朝が鎌倉幕府を開府すると、古代史のスーパーヒーロー須佐之男命を祀る氷川神社は武家政権から格別な扱いを受けた。

源氏の後も足利氏、後北条氏、そして徳川氏と尊仰の念は絶えることがなく、それに伴い氷川神社も“武蔵國一之宮”の地位を自ずと確立していくこととなる。

舞殿の横をクルリと回り込み、正面奥の拝殿へ向かう。

徳川幕府の消滅で武家政権の歴史は終焉したものの、氷川神社は明治維新を迎えて一層の発展を見せる。

明治天皇が御所を京都から江戸改め東京に遷されたことに伴い、明治元(1868)年10月28日に行幸され自ら祭儀を執り行い、武蔵国の鎮守勅祭の社に定められた。

更に同三(1871)年11月1日、再び行幸。

この時の行列は京都からの遷都と同様、非常に荘厳なものだったと伝わっている。

[旅行日:2013年5月20日]

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一巡せしもの[氷川神社]12

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氷川神社の御祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)の三柱。

稲田姫命は須佐之男命の御妃で、大己貴命は子。

江戸時代まで御祭神は須佐之男命のみで、稲田姫命は氷川女體神社に、大己貴命は簸王子社(氷王子社、中氷川神社)に、それそれ祀られていた。

ここへ他の二柱が祀られるようになったのは明治十五(1882)年のこと。

社記によると創立は今から約二千四百年以上も前、第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日。

この一帯に広がっていた巨大な沼「見沼」の水神を祀ったのが、その起源と伝われている。

第十二代景行天皇の御代には日本武尊(やまとたけるのみこと)が参詣し、東夷鎮定を祈願したという。

「氷川神社」という社号は第十三代成務天皇の御代、出雲族の兄多毛比命(えたもひのみこと)が武蔵国造に赴任してきたことに由来する。

この地に故郷出雲國の簸川(ひのかわ)上流にある出雲大社の分霊を移し祀ったところから「簸川神社」と命名し、後に転じて「氷川神社」となったと伝わっている。

「簸川」とは現在の島根県斐伊(ひい)川とされる。

須佐之男命が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した伝説で知られる出雲神話の川。

ただ、末社にはその逆もある。

例えば東京都文京区の「簸川神社」は大正時代、社号を「氷川神社」から元に戻したそうだ。

一巡せしもの[氷川神社]11

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その右隣りに位置するのは巫女神楽殿。毎月1日の月次祭と15日の献詠祭には神楽が奉納される。

往古から舞われていた「太々御神楽」の伝統は今も受け継がれているようだ。

さらに境内を奥に進むと、緑豊かな木立に囲まれた神池が広がる。

池の右から三分の二のあたりに神橋が架けられ、左側に浮かぶ島には宗像神社が祀られている。

ここ氷川神社の鎮座地は「さいたま市大宮区高鼻町」という。

この「高鼻」という地名は古来からのもの。

古地図によると縄文海進の名残であるとされる見沼(御沼)の縁に当たり、沼に突き出た台地だったそう。

その姿が「高い鼻」のように見えたのが由来とされている。

見沼の水害を鎮めるべく「高い鼻」に鎮座した氷川神社は古代、水と農耕の神として崇められていたのだ。

神橋を渡ると正面に聳えるのは朱も鮮やかな楼門。降り止まぬ霧雨の露に濡れ、朱の艷やかさが際立っている。

そこから左右に伸びる透塀の向こう側に社殿群が鎮まっている。

[旅行日:2013年5月20日]

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