2013年12月

今年もお世話になりましたm(_ _ )m

こんにちわ。

ブログ「RAMBLE JAPAN」管理人の経堂薫です。

今年の10月から始めた旅行記「一巡せしもの」。

昨日で小野神社編が終わり、これまで計6社の参詣紀をアップいたしました。

ご愛読ありがとうございます。

m(_ _ )m

もちろん「一巡せしもの」には正月休みなどありません!

7社目「氷川神社」は2日午前1時からスタートします。

来年も本年同様、皆さんのご愛顧ご愛読を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

一巡せしもの[小野神社]20

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帰路は再び神南せせらぎ通りを歩く。

“せせらぎ”とは名ばかりで単なる側溝だと思っていたのだが、幼い姉弟が中に入って小魚を追いかけている姿を見かけた。

想像以上に綺麗な“せせらぎ”のようだ。

途中、スナックを見かけた。

その名を「古里」という。

店前では巨大な狸の置物がお出迎え。

だとしたら「ふるさと」ではなく「こり」と読むのだろうか?

中に入れば狐や狸に化かされて…でも、楽しかったらそれも良しか。

フィルムを逆再生するかのように、往路を辿って聖蹟桜ヶ丘駅へ戻ってきた。

武蔵國一之宮として由緒正しき歴史を誇りながらも、時代の趨勢に翻弄され落魄の境遇に甘んじる小野神社。

その存在そのものが、人生の歩み方に何らかのサジェスチョンを与えてくれたようにも思える。

そんなことを考えながら改札口に足を向けた。

(武蔵國一之宮「小野神社」おわり)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]19

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ベンチに腰掛け、背後から境内を見渡す。

来る時に降っていた雨はすっかり上がっていた。

西の空に広がる夕焼けのオレンジ色に、本殿の朱色が映える。

小野神社は現在の府中市にあった武蔵国府に近く、国司が参詣し易いことから一之宮になったものと思われる。

だが、二之宮以下の各神社は見事なまでに武蔵国の外周に位置している。

六社の位置は武蔵七党など武士団の分布に起因するもので、国司の参詣を考慮して配置されたわけではない。

一之宮から各社を順に巡るのは交通手段が発達した今でも大変なのだから、さぞ当時は苦労したに違いない。

その六社をまとめて祭祀し易いよう合祀した武蔵総社の六所宮が国府内に建立されたのも頷ける話だ。

これで国司はわざわざ多摩川を渡って小野神社まで参詣に行く必要がなくなったため大助かり。

一方、国司の参詣が途絶えた小野神社は名ばかりの“一之宮”となり、次第に衰微していった。

それに対し、もともと格上の式内大社だった氷川神社は武蔵国一帯に次々と分社を建立し勢力を拡大。

室町時代から戦国時代にかけて、氷川神社が名実ともに武蔵国一之宮として見做されるようになった。

鶴岡八幡宮が落下傘の如く降ってきても、一之宮の座が決して揺るがなかった寒川神社。

氷川神社に下から突き上げられ、実質的に一之宮の座を追われた小野神社。

会社から無茶な人事を押し付けられても人望の厚さから周囲の協力を得て難局を乗り切ったサラリーマン。

派閥のお陰で出世したものの派閥そのものが影響力を失ったため左遷させられたサラリーマン。

それぞれの会社員人生のように、両社のたどってきた歴史は対照的だ。

それでも小野神社は多摩川のほとりで一之宮としての矜持を保っている。

左遷させられたらされたで今度は派閥の力に頼ることなく、新たな職場で地味な仕事を自分の力だけで着実にこなしているサラリーマンのよう。

小さな本殿の背中を眺めながら、そんなことを想った。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]18

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正門から境内を出、駅の方角へは戻らず、さらに外周道を先に進んでみる。

境内と域外を分ける玉垣が延々と続き、神域の広さを伺わせる。

明治十年代に描かれた古図を見ると玉垣はなく、域外との境は曖昧な様子。

というか周囲には田畑しかなく、無理に境内と分ける必要もなかったのだろう。

そのまま本殿の後ろ側へ回り、小野神社公園に出るはずだと思いつつ先へ進んだが行き止まりのドンツキになった。

アパートや一戸建て住宅が密集する一角の隙間から、朱色の本殿が垣間見える。

小野神社は昭和三十九(1964)年に風致林を整備して社殿を移し、境内を広げたと書いた。

この時もし広げていなければ風致林は宅地として開発され、境内は猫の額ほどのままだった可能性もある。

境内と域外を玉垣で厳然と仕切らなければならなかったのは、この“宅地開発”という名の恐ろしき怪物から身を護るためだったようにも思えてくる。

ドンツキから引き返し、正門の方には向かわず住宅街の中を散策しているうちに小野神社公園へ至った。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]17

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「こんにちわ。今日は?」

見ればまだ若い宮司さんで三十代前半、ひょっとしたらまだ二十代かもしれない。

「御朱印を頂ければと思いまして」

「そうですか」

宮司さんは玄関の戸をカラリと開け、社務所の中に入っていった。

社務所の玄関脇には小さいながらも授与所があり、中には御守りや御札などが並んでいる。

そこへ宮司さんが再び姿を現し、ガラス戸を開けて顔を覗かせた。

朱印帳に御朱印を押印してもらい、初穂料を尋ねると「お気持ち」とだけ仰る。

五百円を渡して二百円のお釣りを待つが、宮司さんは済まし顔で座ったまま。

そう、あくまでも初穂料は「お気持ち」であり、金額など決まっていないのだ。

これまで訪れた神社は初穂料が全て三百円だったので、てっきり全国的に統一された料金だと勘違いしていたらしい。

こうした固定観念に囚われ過ぎていた自分に気付き、それを恥じる。

「ありがとうございました」

若い宮司さんに頭を垂れ、社務所を後にする。

普段は宮司さん不在の神社だけに、そもそも会えただけでも奇跡的なのだ。

日本の各神社は現在、神社本庁の下に全国的なネットワークを形成してはいる。

だが個々の神社は御祭神も違えば、しきたりも異なる。

巨大なスーパーマーケットやハンバーガーチェーンとは違うのだ。

それに、個々に違いでもないければ一之宮を巡る意味がないだろう。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]16

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往時は「武蔵国府祭」と呼ばれていたというから、やはり「相模国府祭」に比肩する祭礼と思われる。

「くらやみ祭り」では大國魂神社の境内に祀られている一之宮から六之宮の神輿が出御する。

これは、かつて六つの神社が六所宮に集結した様子を今に残しているそうだ。

昭和三十四(1959)年に廃止されるまでは、小野神社の神輿も「一ノ宮渡御」の記念碑があった場所から多摩川を渡ったのだろう。

再び社殿の横を通り抜け、社務所の前を通りかかると室内に明かりが灯っている。

小野神社は宮司さん不駐在と聞いていたので半信半疑のまま訪ねてみた。

玄関の扉を開けて中に声をかけるが誰も出てこない。というか、人のいる気配がない。

5~6分ほど玄関近辺をウロウロしていたら、遠くから呼ばわる声が聞こえてきた。

どこからだろう? 

周囲を見渡すと本殿の方角に宮司さんの姿が。

どうやら社殿の戸締りに回っていたらしい。

今日は何やら祭事があったらしく、日曜日に訪れたのが幸いした格好。ズバリ勘が当たった。

これ幸いとばかりに御朱印を賜る。もし雨を前に参詣を諦めていたら、宮司さんに会えることもなかったろう。

これもまた、天ノ下春命の思し召しなのだろうか? いや、単なる牽強付会だろうけど。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]15

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拝殿から裏手に回り、本殿へ向かう。瑞垣に囲まれた小ぶりな流造で、屋根以外は朱一色に塗られている。

その小さな社殿からは一之宮という仰々しさより、地域の鎮守様がピッタリといった雰囲気を感じる。

ここへ来る途中、X字型の交差点で見かけた三つ巴の紋章が刻まれた記念碑。

手前の解説板には、こう記されていた。

一ノ宮の神楽は、近世後期以降、大国魂神社の祭礼「くらやみ祭り」に渡御参加しており、道路事情により取りやめになる昭和三十四年まで続いていました。

大國魂神社は府中市にある東京都下最大の神社。

武蔵国も相模国と同様に古社が六社あり、大國魂神社は一之宮から六之宮までが祀られた総社である。

  • 一之宮 小野神社
  • 二之宮 小河神社(現・二宮神社)あきる野市
  • 三之宮 氷川神社(ひかわじんじゃ)さいたま市大宮区
  • 四之宮 秩父神社(ちちぶじんじゃ)埼玉県秩父市
  • 五之宮 金鑚神社(かなさなじんじゃ)埼玉県神川村
  • 六之宮 杉山神社(すぎやまじんじゃ)横浜市緑区
  • 総社 大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)府中市

寒川神社のところで、相模国で古社六社が集う「相模国府祭」なる祭礼を紹介した。

これに武蔵国で相当するのが毎年五月初頭に行われる「くらやみ祭り」。

武蔵国府が府中に存在した昔から今なお続く都下最大の祭礼だ。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]14

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ではなぜ、ここに天乃下春命が“降臨”してきたのだろう?

天乃下春命は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)天孫降臨の際、警護した三十二神の一神…とある。

天岩戸神話や国譲り神話で活躍した知恵の神、八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)の御子神。

八意思兼命から数えて十世の孫である知知夫彦命が第十代崇神天皇の御代、知知夫(秩父)国の初代国造に任命された。

知知夫彦命が祖神を祀って創建したのが、知知夫国一之宮たる秩父神社。

このため八意思兼命と知知夫彦命の二柱は秩父神社の御祭神なのだが、昔は天ノ下春命も祀られていたという説もある。

天ノ下春命は八意思兼命の子だから秩父神社の御祭神でも何ら不思議じゃないが、現在は御祭神に名を連ねていない。

かつて知知夫国は一個の独立国として存在していたが、大化の改新の後に无邪志(むざし)国、胸刺(むなさし)国と合併して武蔵国に。

武蔵国府は今の東京都府中市に置かれたが、秩父神社を武蔵国一之宮にするには遠過ぎる。

そこで国府の近くに鎮座していた小野神社を武蔵国一之宮に仕立てようとしたが、御祭神が瀬織津姫命ではヤマト王権との関係が希薄過ぎる。

ならばと、秩父神社から天ノ下春命を小野神社に“遷座”させ、御祭神としたのではなかろうか?

秩父神社は一之宮ではなくなったものの、父の八意思兼命を御祭神に残したことで小野神社への優位性を保ち、バランスを取ったような印象も受ける。

とはいえ今から千年以上も前の出来事だし、憶測の域を出ない話だが。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]13

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拝殿に向かって両手を合わせ、目を閉じて深く息を吸い込む。

一応、東京都内にある唯一の一之宮なのだが、境内の空間は静寂で満たされている。

繁華街から離れているせいか、あるいは日曜日の夕方だからかだろうか。

小野神社の主祭神は天乃下春命(あめのしたばるのみこと)と、瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)の二柱。

寒川神社のように夫婦そろって御祭神になっているケースは結構多いが、両神にそのような“姻戚”はない。

もとは瀬織津姫命だけが祀られていたところへ天乃下春命が“降臨”した…とも伝わっている。

瀬織津姫命は滝や川の流れなど水流の穢れを清める治水女神で、祀られている神社は日本中に存在する。

往古の時代は暴れ川だった多摩川を鎮めるため、瀬織津姫命を祀ったのが小野神社の起源だったのか。

しかも、多摩川を挟んた反対側の府中市にも小野神社が存在する。

一之宮として認定されているのは多摩市側のみ、しかも府中市側の規模は小さいが御祭神などは全く同じ。

もともと一社だったものが多摩川の氾濫で遷座を繰り返すうち、両側に一社ずつ残ったのだそう。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]12

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それによると二体あるうち古い方は元応元(1319)年、因幡法橋応円や権律師丞源らにより奉納されたもの。

その後、寛永五(1628)年に相州鎌倉の仏師大弐宗慶法印によって補修された際、新しい像が新調された。

昭和四十九(1974)年には随身倚像を同門内に安置し、現在に至っている。

随神門をくぐって境内に入る。想像していたより広い。

もちろん鹿島神宮や香取神宮に比べたら狭いのだが。

もっと小さな神社を想定していたので、いい意味で予想を裏切られた。

境内は清廉に掃き清められ、さすがに一之宮としての風格を感じさせる。

参道を直進すると、突き当りに拝殿が鎮座する。

戦乱や氾濫で荒れ果てた小野神社を造営再興したのは、徳川二代将軍秀忠だった。

その記録が棟札に残されている。

一宮正一位小野神社造営再興
慶長十四(1609)年十二月廿六日
当将軍源朝臣秀忠公

それから遥かに時代が下った大正十五(1926)年3月30日。

近隣の失火による貰い火事で御神体と一部の神宝、鳥居を除く神殿などをことごとく焼失。

しかし、早くも翌年には本殿と拝殿が再建されている。

戦後の昭和三十九(1964)年、今より随身門寄りにあった本殿と拝殿を後方に遷座し、境内を拡大して現在の姿に至る。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]11

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正門の前に立ち、周囲を三六〇度グルリと見渡してみる。

参道は先ほど通ってきた神南せせらぎ通りぐらいなもの。

門前には牛乳屋ぐらいしかなく、それもシャッターをビシッと降ろして営業している気配はない。

その先に伸びる道も単なる住宅地の街路で、参道っぽさなど微塵も感じられない。

今日は鶴岡八幡宮や寒川神社といった立派な参道を歩いてきたので、ギャップがそう思わせるのだろう。

手前に立つ社号標と狛犬像は真新しく、ごく最近建立されたことが伺える。

その奥に立つ大鳥居を下から見上げる。

石造りで、朱塗りではなく笠木のみグレーの真っ白な明神鳥居。

なお、鳥居はここと先程の南門にしかなく、境内の外には一基も存在しない。

しかし、この立派な大鳥居を見れば、氏子から寄せられる信仰の篤さが分かる。

その内側に立つ随神門は、逆にいささか古寂びている。建立は昭和三十九(1964)年というから古いことは古い。

随神門内に鎮座している木像の随身倚像は都の有形文化財に指定されている。

小野神社は鎌倉時代末から戦国時代にかけて度重なる戦乱や多摩川の氾濫に見舞われてきた。

このため古来からの諸資料が散逸し、現在では殆ど残されていない状態。

そんな中で昭和四十九(1974)年、この随身倚像に墨書銘があることが発見された。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]10

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小野神社の創建は安寧天皇18年というから皇紀130年、西暦に直せば紀元前531年。

いずれにせよムチャクチャ昔からある古社であることは間違いない。

境内には木々が疎らに立ち並び、下の空間を灌木が埋めている。

さらには平屋の町内集会所もあり、宗教的な聖地というより地域の社交場のような雰囲気。

やがて、鳥居と随神門が現れた。

事前にインターネットで入手した境内マップによると、こちらは正門ではなく南門であるらしい。

鳥居は石造りの真っ白な明神鳥居。見るからにまっさらで、最近建てられたとしか思えないほど。

対照的に左隣りの社号標は見るからに古く、側面には寄付者の名前が刻まれている。

南多摩郡図師町と豆州君澤郡三島町の地名があるから、たぶん江戸時代に造られたものだろう。

鳥居の奥には古寂びた随神門。欄干には技巧を凝らした彫刻が施され、いかにも歴史を感じさせる。

せせらぎ通りを先へ進むと、南門より一回り大きな鳥居と随神門、社号標が登場した。

こちらが正門なのは境内マップを見るまでもなく明らか。

なぜなら南門には狛犬が鎮座していない。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]9

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また、聖蹟桜ヶ丘駅周辺はスタジオジブリのアニメ映画「耳をすませば」の舞台として描かれていることでも知られる。

いわば実写映画の“ロケ地”みたいなもので、駅前には案内板も設置されているそう。

だが小糠雨と日没のダブルダッチに右往左往していた身にとって、それに気付く余裕など有ろうはずもない。

「神南せせらぎ通り」の沿道は普通の一戸建て住宅や小さなアパートが立ち並んでいる。

その一方で鳥居や灯籠などは見当たらず、とても神社の参道には見えない。

駅から30分近く歩いたろうか? ようやく雨が上がった。

前方右手に小さな公園を発見。入口横の銘板には「多摩市立一ノ宮児童館 小野神社公園」と刻まれている。

小野神社公園は、公園というより児童館の前庭といったほうが相応しい風情。

ふと左側を見ると、灌木の向こう側に真紅の神殿建築物がこちらに背を向けて佇んでいる。

これは、どこから見ても小野神社の本殿に相違ない。

なんと唐突な登場の仕方!

まさか泥棒のように裏口からコソコソお邪魔するわけにもいかないので一旦公園を出、神社の玉垣に添って先へ進む。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]8

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一角に三つ巴の紋章が刻まれた記念碑が立っている。

石柱には「一ノ宮渡し」の文字。その横には連理の御神木が聳立している。

普通の街角にニョキッと生えた、ありふれた街路樹のようにも見える。

だが、木々の間に渡された注連縄が、ここが御神域だと訴えかけているかのようだ。

この一角、それほど広くはない。それでも小野神社が武蔵国一之宮だと主張する声は十二分に聞こえてくる。

記念碑と道を挟んだ反対側に「神南せせらぎ通り」と記された石柱が立つ。

その先には石畳が敷き詰められた小奇麗な小道が伸びる。小野神社への参道に違いない。

道の傍らにはせせらぎ…というか側溝が流れ、道との間には石灯籠が設えてある。

日が落ちて周囲が闇に包まれれば、石灯籠の仄かな灯りが独特の雰囲気を醸し出すことだろう。

幸か不幸かまだ陽のある内だったので、そうしたファンタジックな光景はお目にかかれなかったが。

“聖蹟”とはいかにも武蔵国一之宮に相応しい地名だが、これは天皇行幸地の一般的な呼称のことで小野神社と直接の関係はない。

ちなみに、ここの“聖蹟”は明治天皇の行幸を記念して昭和五(1930)年十一月に作られた「旧多摩聖蹟記念館」に由来している。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]7

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とはいえ急場凌ぎ用の傘を一本買うには巨大過ぎる聖蹟桜ヶ丘のショッピングモール。

駅直結の京王百貨店と京王ストア、ファッションビルのOPA、ショッピングセンターのザ・スクエアと、こんなに。

それでいて視界にコンビニが一軒も見当たらない、とてもバランスを欠いた巨艦主義的な商業地域でもある。

百貨店やスーパー、ファッションビルに安価な傘を求めるのは期待薄と判断し、まずはザ・スクエアへ。

だが傘を置いている店は有るも安くなかったり女性用のみだったりと、なかなか要望が叶わない。

それに、あまり傘探しに時間を割き過ぎ、日が暮れてしまっては元も子もない。

焦る気持ちを抑えつつ一階から地下へ移動し、なおもフロアをウロウロしていると、捨てる神あれば拾う神あり。

100円ショップの店内を覗いてみたら、幸いなことに折りたたみ傘が何と105円(税込)で売っていた。

廉価の割にはキチンと作られており、急場凌ぎには十分過ぎる。

事ここに至るまで30分ほど、ようやく小野神社への第一歩を踏み出すことができた。

ザ・スクエアの裏手へ回り、西へ向かう。

霧雨に毛の生えた程度の雨だが、傘の存在感は絶大だ。

駅前から一歩裏側に入れば、そこは駐車場が点在するごく普通の住宅地。

間もなくX字型に交差した十字路に出た。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]6

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ところが1分と歩かないうちに雨粒がハラハラと落ち始め、屋根のある場所へアタフタと戻る羽目に。

雲天を恨めしく見上げるも、雨が止みそうな気配はない。

幸い雨脚は弱く、無理すれば小野神社へ行けなくもなさそうではある。

かといって、向かう途中で本降りになったりでもしたら目も当てられない。

時刻は夕方、間もなく陽も落ちるだろう。

たとえ雨が止んだとしても日が暮れてしまっては元も子もない。

今日は参拝を諦め、また日を改めて訪れればいいではないか。

そう心に決めて聖蹟桜ヶ丘駅へ戻り、切符の自動販売機に小銭を入れてボタンを押しかけたその時、ふと我に返った。

せっかく小野神社が目の前にあるのに、なぜ帰る必要があるのか?

それに、ここで帰ってしまったら後々のスケジュールも狂うことにもなるし、電車賃も余計にかかる。

しかも、今日は日曜日。

普段は宮司さんが常駐していない小野神社でも、地域の行事でいるかも知れない。

ここは傘を買って是が非でも行くべきではないか?

そう思い返して自動販売機の返金ボタンをプッシュ。

聖蹟桜ヶ丘駅を再び離れ、安い傘を売っていそうな店を探すことにした。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]5

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改札を出て西口から外に出る。

真冬ならとっくに日が暮れているのだろうが、夏至も近い昨今、すっかり日も長くなって大助かり。

喜び勇んで大通りへ飛び出すも、どうやら喜んでばかりもいられないようだ。

どうにも雲行きが怪しく、いつ雨が降ってきてもおかしくない空模様である。

朝方は天気が良かったので、生憎と傘を持ちあわせていない。

長距離を歩く分は苦にならないのだが、雨だけは勘弁して欲しい。

御朱印帳や頂戴した資料が水に濡れて台無しになってしまう恐れがあるから。

いくら防水性を高めても水はどんな場所からでも進入してくるもの。100%大丈夫なんて保証、どこにもないのだ。

駅はデパートやショッピングセンター、高層マンションに囲まれ、どっちがどっちやら方向感覚が掴めない。

取り敢えず地図で当たりを付け、それらしき方角へ歩き出してみる。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]4

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アイロードを歩いている途中、雨粒がパラパラと落ちてきた。

まだ本降りではないものの、イヤな予感がする。

歩いて10分ほど過ぎた頃、右手前方に大きなビルが見えてきた。

京王八王子ショッピングセンター、これも略称は「K-8」。

京八駅は、その地下にある。利用するのは初めてだ。

地下化されたのは平成元(1989)年だから、前に訪れたのは昭和の時代になるのか。

エスカレーターを乗継ぎ地下ホームへ。

島式で1面2線しかなく意外と小ぶり。

頭端式なのがターミナルっぽいが江ノ電藤沢駅ほどの旅情感はなく、むしろ通勤駅としての使命感に溢れている。

15時54分発の新宿行き特急列車に乗る。日曜日の夕方に新宿まで行こうと考える人は少ないようで、乗客は疎ら。

ただ今日は東京競馬場の開催日なので、この時間だと府中駅から競馬帰りの客が大挙乗り込んで来るものと思われる。

京八を出た電車は北野、高幡不動と停車し、乗車時間わずか10分余り、16時06分に聖蹟桜ヶ丘駅へ到着した。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]3

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この道を前に歩いたのは何時だったやら? まだ京八は地上にあり、その上には大空が広がっていた時代のことである。

ちなみに駅から駅へ市街地を斜めに貫くこの通り、名を「アイロード」と呼ぶ。

日曜日の夕方だからか結構な人出で賑わっている。

中でも学生っぽい若年層が多いように見える。

八王子はバブル期の前後に都心から大学が大挙移転し、大勢の学生が闊歩する学園都市。

ただ、少子化による学生数の減少で都心部のキャンパスに余裕が出来たため、どちらかというと現在では都心への回帰傾向にある模様。

それと、キャンパスは「八王子」より「都心」と謳ったほうが、受験生に対する印象が良いという事情もある様子。

少子化で減り続ける受験生の奪い合いに「八王子」という看板が邪魔になってきたということか。

それでも街角に若い人の姿が多いということは、まだ学生の数が目に見えて減っているというわけでもなさそうだ。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]2

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テレビの情報番組にしょっちゅう登場する海老名サービスエリアは相模線から遠く離れた場所にあるため無縁の存在。

というかクルマじゃないと行けない場所なので、そもそも相模線とは無縁というより無関係だ。

米軍座間キャンプは相武台下駅から目と鼻の先だが、勝手に立ち入るとトンデモないことになるので観光には不向き。

クルマ社会の陰に埋もれて日の当たらない相模線。だが、旅人自身が沿線を掘り起こせば、意外な観光資源に掘り当らるかも知れない。

終点の橋本駅で横浜線に乗り換え、10分強で八王子駅に到着。

久しぶりに来た八王子の駅舎は、別にSLが走っているわけでもないのに、どこか煤けて見えた。

駅ビルに入っていたそごう百貨店が撤退したから、そう見えるのだろうか。

かつては絹繊維産業の集積地として、甲州街道の宿場町として、栄華を極めた八王子。

三多摩地区の中心都市として商業施設が栄えていたのも今は昔。

数駅隣りの立川駅周辺に林立する大型店舗に客足を奪われ、八王子駅近辺の大型店は次々に撤退していった。

北口から外に出る。もっと駅前が寂れているかと思いきや、意外とそうでもない。

そごう撤退のネガティヴなイメージに囚われ過ぎたのか?

大型店の撤退は単なるマーケティング上の戦略によるもので、八王子市の活力そのものは衰えていないのだろう。

ここから北東五百メートル程の京王八王子駅…略して「京八」まで歩く。

余りに離れ過ぎているので“乗り換え”とは言い難いが。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[小野神社]1

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宮山駅14時30分発の相模線1481F電車は日曜の昼下がりとあってか、椅子は埋まっているが立ってる人もチラホラという適度な混み具合。

相模線は相模川に沿って走っている筈なのだが、その間に高速道路が立ち塞がり姿は見えない。

結構大規模な道路で、後で調べたら「首都圏連絡中央自動車道」というそう。

この名称だと耳に馴染みがなく「ん?」となるが、略称の「圏央道」だと聞き覚えがあるので「おー!」となる。

東北方面と東海方面を結ぶ長距離トラックは首都高を経由していたが、圏央道が完成すると都心を通る必要がなくなるため渋滞の緩和が期待されている。

その一方で大規模な建設工事による環境破壊の問題も喚起されたりして、必ずしもいいことばかりではない。

それにしても高速道路の高架橋はバカでかく威圧的で、すぐ下の地べたを走る相模線の地味で控え目な単線の線路とは対照的だ。

車窓に流れる郊外の風景を見ているうち、天気晴朗で暖かくもあり、ついウトウト。

相模線沿線には東名高速道路のサービスエリアで有名な海老名や、米軍基地のある厚木や座間といったおなじみの場所があるのだが、全く気が付くことなく通過していた。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]18

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案内板と道を挟んだ向かい側にコンビニがあり、その横から路地に入る。

突き当りに佇む、こじんまりとした宮山駅駅舎。

諸国一之宮の最寄り駅でも、飛び抜けて小さいのではなかろうか?

駅前に食堂や土産物店などはなく、米屋が一軒だけ健気に店を開けている。

むしろこの光景のほうこそ、宮山駅には似合っている気がする。

壮麗ではあるが決して華美ではない寒川神社の結構と、どこか相通じるものを感じたからだ。

てっきり無人駅かと思っていたら、ちゃんと駅員が常駐していた。さすが首都圏の近郊区間だけある。

やがて橋本行きの電車がゆっくりと姿を現し、適度に混雑している車内に身を滑らせ、寒川神社を後にした。


(相模國一之宮「寒川神社」おわり)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]17

rj091寒川t4u23

帰路は寒川駅ではなく、北隣の宮山駅へ向かう。参拝前、三叉路で二手に分かれた左側の一般道へ。

寒川大橋を渡り住宅街の細い道に入ると、JR相模線の線路が擦り寄ってきた。

その刹那、轟音を立てて電車が通り抜けていく。

これが秘境駅なら電車を追って駆け出すところだが、相模線は運転間隔が短いので焦ることはないだろう。

駅へ近づくと、道端に寒川神社への案内板を発見。

距離的には寒川駅より宮山駅のほうが圧倒的に近い。

ただ、参拝するからには、やはり一の鳥居をくぐって表参道の入口からキチンと訪ねたい。

そうしないと、心から参拝した気にはなれないのだ。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]16

rj082寒川t4u21

蕎麦をズルズル啜りながら、再びリーフレットに目を落とす。

公開期間は三月上旬から十二月上旬まで。

祝祭日を除く毎月曜は休苑。

入苑料は無料…無料!? しかも茶屋「和楽亭」では季節の菓子と抹茶の接待も受けられる…とある。

さすが裕福なだけあってサービスも太っ腹。

食事が終わったら早速行ってみないと。

そして案内文は最後、こう締めくくられていた。

「入苑は御本殿で御祈祷を受けられた方に限ります。」



なるほど、世の中そんなに甘くはない。

とはいえ、祈祷料は一件につき三千円。

これで全ての悪事災難が祓い除かれ、しかも寒川神社の起源にも接することができるのだから、思ったほど高くはない。

ただ、今から祈祷をお願いしても長蛇の列の最後尾だし、入苑時間に間に合うかどうか定かではない。

なので神嶽山神苑は諦め、あおばでの食事も終了。

蕎麦の値段は売店のそれを遥かに凌駕したが、接客は丁寧だし、その価値は間違いなく倍以上かと思われる。

売店ではなくこちらの蕎麦を選んだのは、寒川大神の思し召しなのだろうか?

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]15

rj081寒川t4u20

原料は麦芽とホップのみで丹沢山系の伏流水を使用。

ドイツの伝統的製法に則った無濾過無ろ過、非加熱処理で醸造されている。

湘南ビールにはピルスナー、シュヴァルツ、アルトと三種類あるが、出てきたのはピルスナー。

黄金色をして飲み口が軽い、日本で最も飲まれているビールのタイプと説明すればよいか。

三種類の中で最も軽目で飲みやすいはずだが、それでもホップの苦味が効いてコクのある地ビールならではの味わい。

そのピルスナーを飲みながら暫し蕎麦を待つ間、社務所で頂いた資料をパラパラ眺めていると一葉のリーフレットに目が止まった。

表紙には「神嶽山神苑」(かんたけやましんえん)とある。

本殿北側に広がる裏山を整備し、平成二十一(2009)年に開苑した庭園だ。

「神嶽山」とは、寒川神社の起源に深い関わりを持つ聖泉「難波の小池」(なんばのこいけ)を懐に抱く神聖な森。

苑内には池泉回遊式の日本庭園が広がり、難波の小池や神嶽山遥拝所の他にも、茶屋や茶室、石舞台などが設えてある。

ここには八方除に関する資料を集めた「方徳資料館」もあり、寒川神社の歴史や方除信仰の根源についても学べるそうだ。

ここで天ざる蕎麦が到着。

専門店でもないレストランのいちメニューだし門前蕎麦ということもあり、味わいについてはこだわらないつもりだった。

とはいえ揚げたての天ぷらが湘南ビールの味わいとマッチし、意外と(言っては失礼だが)美味。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]14

rj072寒川t4u19

神池はそれほど広くなく、ベンチなどが配置され、むしろ憩いの場として整備されたかのよう。

先の売店で蕎麦を贖い、ここで食べようかとも思ったが結局は気が進まなかった。

三の鳥居を出て神橋を渡り境内の外へ出ると、右手に巨大な建物が。

寒川神社の参集殿。

結婚式や七五三、お宮参りなど人生儀礼の祝宴が催される非常に目出度い宴会施設だ。

一階に「あおば」というレストランが営業中だったので寄ってみる。

ごく普通のファミリーレストランながら接客が丁寧で、さすが寒川神社の経営だけあると感心。

メニューは中華、和食、洋食なんでもござれ。松花堂弁当の「にぎわい膳」など酒の肴(あて)に持って来いだろう。

しかし、先ほどの発泡スチロール蕎麦の記憶が脳裏に滞留していたせいか、ここは「天ざる蕎麦」を注文。

さらに「湘南ビール」も合わせてオーダーする。

読んで字のごとく、湘南の地ビールだ。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]13

rj071寒川t4u18

社務所を出、来た時の表参道ではなく、東側にある細い道を通って帰る。

寒川神社は何故か「視聴率祈願の神社」としてテレビ関係者からも篤く信仰され、新番組が開まる前には関係者一同こぞって参拝する姿を“拝める”そうだ。

ちなみに「水戸黄門」や「踊る大捜査線」がヒットしたのも、ここに参拝したお陰…という“伝説”もあるとかないとか。

その伝説の根拠がどこにあるのかは、いまひとつ良く分からないのだが。

また、寒川神社は宗教法人として総合病院も経営しており、地域一帯の医療や介護の中核を担っている。

地域住民のメンタルを神社が、フィジカルを病院が、それぞれケアしているということか。

私のような傍観者から見れば、神社と地域社会の理想的な姿にも見える。

西相模一帯で寒川大明神が長らく崇拝されてきた理由が、分かるような気がした。

昭和四(1929)年に創建された元の神門を移築したという南門を抜けると、そこは茶店が居並ぶ一角。

といっても蕎麦屋がトレーラーハウスだったり、団子屋がプレハブだったり、壮麗な社殿群に比べると建造物が貧相に見える。

腹が減っていたので何か食べようかと思う一方、それを思いとどまらせる何らかの作用が心のどこかで働いた。

多分、蕎麦の器が発泡スチロール製だったからだろう。“八方”除と言いつつ“発泡”スチロールなのに興醒めしたのかも知れない。

ただ、土産物を商う売店の建造物は立派。

しかし何も買わずに神池の方角へ向かう。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]12

rj062寒川t4u00

寒川神社と川勾神社が「神座」を意味する虎の皮を上座へ上座へと三度づつ敷き合い、互いに一之宮であることを主張。

「神座」の奪い合いは決着がつかず、前鳥神社や平塚八幡宮が案じている。

そこへ仲裁役である比々多神社の宮司が割って入り

「いずれ明年(みょうねん)まで」

の鶴の一声で円満解決、神事は終了するという。

ただこれだけでは、なぜ寒川神社が相模国一之宮となったのか、その理由が全く分からないのだが。

一緒に頂戴した社報「相模」の表紙に「座問答」の様子を撮影した写真が掲載されている。

確かに神職が虎の皮を両腕で抱え、前へ前へとにじり寄っている。

それにしても、なぜ虎なのだろう?

虎は“武”の象徴でもある。

今でこそ皮の運び合いに様式化されているが、千年以上も昔は本物の武力衝突があったのかもしれない…あくまで想像だけど。

皮の運び合いを三度も繰り返しているのは、両社の争いが長期戦だったことを象徴化しているのだろうか?

さらに「いづれ明年まで」という言葉は、毎年同じ文句を言い続けることで争いを永久に先送りしようという“神の知恵”なのか?

日本民族お得意の“先送り”は、こうして脈々と受け継がれてきたお家芸なのかも知れない。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]11

rj042寒川t4u11

社務所で御朱印を待つ間、書類差しにあった様々な資料を頂戴する。

その中に「相模国府祭(さがみこうのまち)六社めぐり」なるリーフレットが。

「相模国府祭」とは毎年5月5日に相模国の古社六社が大磯の祭場に集い、国家安泰・五穀豊穣・諸産業の繁栄を祈念するという相模国最大の祭典。

祭場のある神揃山(かみそりやま)は平安時代後期に相模国の国府が置かれたと伝わる場所だ。

その六社とは次の通り。
もちろん鶴岡八幡宮は含まれていない。

  • 一之宮 寒川神社
  • 二之宮 川勾神社(かわわじんじゃ)二宮町
  • 三之宮 比々多神社(ひびたじんじゃ)伊勢原市
  • 四之宮 前鳥神社(さきとりじんじゃ)平塚市
  • 五宮格 平塚八幡宮(ひらつかはちまんぐう)平塚市
  • 総社 六所神社(ろくしょじんじゃ)大磯町

相模国が相武国と磯長国に分かれていたことは先に触れた。

その両国が合併して相模国になるのだが、ここで大きな問題が発生。

相武国の寒川神社と磯長国の川勾神社、どちらが相模国一之宮になるかで大モメにモメたとか。

これを神事化したのが、神奈川県の無形民族文化財にも指定されている「座問答」(ざもんどう)という儀式。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]10

rj061寒川t4u16

神門を出、八方除祈祷を受け付ける客殿へ立ち寄ってみる。

全国でもここでしか受けられないとあって、広いフロアには参拝客が長い行列を為している。

これだけ参拝客が押し寄せれば神社の経営も裕福なはずだ。

楼門から社殿の隅々に至るまで、どこも真新しくピカピカだったのも頷ける。

客殿の南にある社務所へ御朱印を賜りに立ち寄る。

受付に人はおらず、呼び鈴を押すと中から出てきたのは神主さんでも巫女さんでもない。

Yシャツにネクタイ、スラックスという、普通の事務職の格好をした中肉中背で中年のおじさん。

御朱印帳をヒョイと受け取るや奥へ行ってパパッと押捺墨書し、御朱印帳を返却して初穂料300円を受け取るまで、一連の過程に余計な装飾がない。

神社なら少しは宗教的な装飾があっても良さそうなのに、まるで役所で印鑑登録証明書を発行してもらうかのよう。

一連のテキパキとした流れ、神社という宗教“施設”ではなく、宗教“法人”としての組織的な対応なら得心がいく。

それに、意外と嫌な感じがしない。

多分、一部上場企業の決算書でも見るかのように、曖昧なところがないせいだろう。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]9

rj052寒川t4u15

参拝を終えてフッと横を見ると、妙な形をしたモニュメントが目に止まった。

説明板には「方位盤(ほういばん)と渾天儀(こんてんぎ)」と銘打たれている。

モニュメントは「八方除」に因んだ三つの構造物「方位盤」「四神の彫刻」「渾天儀」により構成された記念碑。

方位盤は四正(東西南北)と四隅(東北/東南/西南/西北)の八方位と中央の九星・十干十二支を、八方には易の八卦を配置。

四神は四方の方角を司る霊獣で、東は青龍、南は朱雀、西は白虎、北は玄武を配置。

渾天儀とは本来、天体の位置を測定する器具だが、星の運行は国家の命運すら左右すると考えられていた往時には、単なる気象道具を超越した“神具”と見做されていた。

寒川神社は全国唯一「八方除」の守護神として知られ、全国各地から祈祷を受けるため参拝者が集う。

「八方除」とは凶となる方向を避けて克服する祈願のことで、御神徳は実に広大無辺とも言われている。

その方法は陰陽五行、十干十二支、九星八宮を配して、住居、方角、運勢などの吉凶を判断。

地相、家相、方位、日柄、厄年などに由来する一切の災禍を取り除き、福徳開運をもたらすというもの。

つまり、このモニュメントは寒川神社の象徴ともいうべき代物なのだ。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]8

rj051寒川t4u12

千年の時を超えて世に姿を顕した寒川大明神…その正体は一体何者なのか?

紀元600~700年の飛鳥時代、ヤマト王権は地方支配のため全国に「国造」(くにのみやつこ)という現地雇用の役人を配置した。

当時の相模国は相武(さがむ)国と磯長(しなが)国に分かれており、寒川神社一帯の相模川流域は相武国造の支配下。

古事記には景行天皇の御代、東国征伐に赴いた倭武(ヤマトタケル)命を相武国造が罠に嵌めて暗殺しようとしたとある。

しかし、すんでのところで難を逃れた倭武命は相武国造一族を成敗し、この一帯を焼き払ったそうだ。

この相武国造こそ寒川比古命であり、その妻が寒川比女命ではないか? という説がある。

確かに倭武命に歯向かった人物が記紀に登場するはずはない。

それでも相模国では寒川大明神として崇められ続け、鎌倉に鶴岡八幡宮という日本政府そのもののような一之宮が誕生しても廃れることがなかったという事実は、よほど地元の人々から慕われていたのか。

相武国造、ヤマト王権に歯向かったため単に歴史上から抹殺されただけで、実は傑出した人物だったのかも知れない。

なぜか、急に無性に会ってみたい気がしてきた。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]7

rj041寒川t4u10

神池を右手に見ながら前へ進むと正面に神門。

随神門ではない重層の門で、竣功は平成五(1993)年と完成からまだ20年しか経っていない。

神門をくぐって中に入ると広くて清廉な境内が広がる。

神門から本殿に向かって東西を廻廊でグルリと囲われている。

ちなみに境内の広さは約1万5000坪もあるそうだ。

真正面に立つ社殿は平成九(1997)年10月の竣功。

拝殿、幣殿、本殿のほか、あまり他の神社では見かけない翼殿が東西に伸びている。

このため社殿の印象は全体的に横長で、拝殿に張られた注連縄の長さがそれを象徴している。

拝殿の前で瞳を閉じて頭を垂れ、柏手を打ちスーッと息を吸い、手を合わせて息を止め、神と意識を“シンクロ”させる。

御祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわひめのみこと)で、二柱を以って「寒川大明神(または大神)」と奉称されている。

ただ両神とも古事記にも日本書紀にも登場せず、それどころか古くから御祭神は諸説あり一定ではなかったという。

古代では寒河神、近世では八幡神(応神天皇)、ほかにも菊理媛、素盞鳴尊、稲田姫命であるとも。

明治時代に入ると御祭神に寒川二柱が加えられ、大正時代になってようやく正式に定められた。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]6

rj031寒川t4u06

やがて参道の先に、灯籠が据えられた三叉路が見えた。

右手が参道、左手は一般道と、道が二手に分かれている。

右の道を往くと、いよいよ寒川神社正門のお出まし。

手前には真新しく立派な神橋、その右側に社号標、そして奥には木製の三の鳥居。

神橋は老朽化のため平成二十三(2011)年に架け直され、「神池橋」と命名された。

鶴岡八幡宮では参拝客の渡橋を禁じていたが、ここでは堂々と渡ることができる。

三の鳥居は桧造りの明神鳥居。

平成二(1990)年に「紀元二六五〇年奉祝記念事業」として立て直されたものだ。

三の鳥居をくぐった先の右側に“先代”三の鳥居の“遺骸”が横たわっている。

元は寛政八(1796)年に建立されたものだが、安政二(1855)年の安政江戸地震、大正十二(1923)年の関東大震災と二度にわたり倒壊。

往時の大きさは高さ約3.3メートル、柱間約3メートル。

長いこと境内の門番を務めてきた鳥居を破棄するに忍びなく、往時を偲んで“安置”してあるそうだ。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】歴史の読み解き方 江戸期日本の危機管理に学ぶ』磯田道史

一巡せしもの[寒川神社]5

rj022寒川t4u05

その直後、二の鳥居が姿を見せた。

これはデカい!

一の鳥居も大きかったが、さらに輪をかけて大きい。

交差点でもなく、特に近くに何か宗教施設があるわけでもなく、唐突に現れた感がある。

かといって近くに何もないわけではなく、東側には大きな園芸店と果樹園がある。

二の鳥居をくぐって再び参道を進みながら、寒川神社について考えてみた。

寒川神社の創立は今から1500年以上も前の雄略天皇御代。

一方、鶴岡八幡宮は康平六(1063)年に源頼義が石清水八幡宮の八幡大神を勧請したのが始まり。

鶴岡八幡宮の創立は延喜式における一之宮制定の時期よりも相当遅く、その意味では元来の一之宮ではない。

また、伊勢國の都波岐奈加等神社や志摩國の伊射波神社のように、寒川神社と間違われて一之宮と伝わったわけでもない。

足利幕府や徳川幕府も源氏の流れを汲む武家政権である以上、後世になって源氏武士の象徴ともいうべき鶴岡八幡宮を一之宮として見做すようになったのは必然の理。

いずれにせよ、相模国の一之宮制度は他国に見られない珍しいケースではある。

そんなことをボンヤリ考えていたら、再び背後から自転車。

今度は馬鹿そうな日本人の若造である。

「スミマセーン!」もなく、何も言わず狭い歩道をスピードを出し、すぐ横を通り過ぎて行く。

思わず車道に蹴り出してやろうかと思ったが、神前なので自重した。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]4


rj012寒川t4u03

そこには黒光りした巨大な鳥居がドンと聳立し、右横には石柱が立っている。

表面に「寒川神社表参道」と刻字されているから、これは社号標ではない。

ここが参道の入口であり、鳥居が一の鳥居であることを示しているわけだ。

さすが“大門”という地名だけあって、一の鳥居も堂々としたもの。

鳥居の下から寒川神社方面を眺めてみる。

入口から境内まで参道の長さは約1キロメートルほどか。

真ん中は一方通行で1車線の車道、両脇に細い歩道、その外側は一段高い土塁。

土塁には高い喬木と低い灌木が連なり、鬱蒼たる樹影で路面は陰っている。

歩道をトボトボ歩いていると、後ろから声が聞こえた。

「スミマセ~ン!」

振り返ると自転車が3~4台、連なって走ってきた。

全員が東南アジア系の青年で、荷台に大きな荷物を積んでいる。

何か仕事の途中だろうか? 不思議な光景だった。

新緑の梢から射し入る木漏れ日を肌に感じながら参道を歩く。

そのうち右側の土塁が途切れて車道が合流し、上下1車線ずつになった。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]3

rj011寒川t4u01

北口から駅前に降り立ってみると、再開発されたせいか町並みがガランとしている。

駅前を道幅の広いロータリーがグルリと巡り、内側にはタクシープール、外側には幅広の歩道。

とはいえ乗降客も少なく、タクシーの運転手も手持ち無沙汰な様子でタクシープールに佇んでいる。

しかも背の高い建物がマンションぐらいしかなく、空が高く広く見える。

ただ、再開発以前の商店街は、やはり空洞化が進んでいたのだろう。

古い家並みを取り壊してビル化し、車が入りやすくなるよう道路を拡張する。

宅地化の進む郊外でよく見かける光景ではあるが。

いにしえの街角を愛する自分の目には非常につまらない所業と映る。

しかし、そこで生活している方々にとって町並みがキレイになるのは喜ばしいこと。

時代とともに古い家並みが消えていくのは、やむを得ないことだとも理解している。

それだけに、今まだ残されているいにしえの街角を、この目に焼き付けておきたいと思うのだ。

線路沿いの細い道を西へ向かう。

まだこの一帯に再開発の魔の手は及んでおらず、歩いていて気分が落ち着く。

県道46号線の跨線橋を超え、再び細い路地を抜けると大門踏切前なる交差点に出た。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]2

rj011寒川t4u00

茅ヶ崎駅を電車で通過したり相模線に乗り換えたりしたことは何度もあるが、こうして改札を出るのは初めて。

頭の中にはサザンオールスターズのナンバーがリフレインする以外、具体的な街のイメージが浮かんでこない。

北口改札を出て駅ビルを抜け、ペデストリアンデッキを伝って駅の西側へと伸びる商店街へ行ってみた。

食事のできる店は散見されるが、どれも味気ないチェーン店ばかりで、いまひとつ食指が動かない。

さらに幾つか角を曲がって店を物色。

いい感じの店があるにはあるのだが。

日曜閉店やら昼時で満員やら、どうにもままならない。

結局、昼食は諦めて駅へ戻ることにした。

茅ヶ崎駅13時18分発、相模線1369F電車に乗り込む。

晴朗なる日曜の昼下がり、暖かい車内、乗客は疎ら。

適度に睡魔を誘う心地良い空間が醸しだされている。

しかしウトウトする間もなく13時27分、寒川駅に到着。

寒川神社だけにここが最寄り駅かというと、実はそうではない。

それどころか、ここから歩くと実は結構な時間を喰ってしまう。なら、なぜ下車したのか?

一の鳥居をくぐって表参道を行くのなら、むしろ寒川駅から向かったほうが都合がよいからである。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[寒川神社]1

rj02鶴岡t4u00

江ノ電の小さな電車は、鎌倉の閑静な住宅街をゴトゴト走っていく。

通勤ラッシュ並みの乗客で車内はスシ詰め、車窓の景色を楽しむどころの話ではない。

だが、沿線には観光地が目白押し。

長谷駅、極楽寺駅、稲村ヶ崎駅と停車するたびに大勢の乗客が下車していく。

やがて国道134号線と寄り添うように並走を始めると、車窓には相模湾の海原が大写しになった。

その先に江の島が姿を現し、やがて沿線最大の観光地江ノ島駅に到着。

乗客がワンサと降車し、車内の人口密度は適度なレベルに落ち着いた。

電車は住宅街をユル~ッと走った後、12時35分、終点の江ノ電藤沢駅に到着した。

駅舎は頭端式のホームをカマボコ型の屋根が覆い、どこかヨーロッパの駅舎を彷彿とさせる。

改札を出て連絡橋を渡り、JR藤沢駅から12時40分発の東海道線下り電車に乗車。

乗り換え時間が5分しかなかったためJR駅の記憶は薄く、藤沢で印象に残っているのは江ノ電の駅だけ。

12時50分、乗車時間約10分で茅ヶ崎駅に到着。

次の相模線まで乗り換え時間が多少あるので、食事でもしようと駅前に出てみる。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]20

rj10鶴岡t4u33

石柱の近くに京急バスの停留所があり、お年寄りが何人か待っている。

自家用車など移動手段を持たない交通弱者にとって、一帯を走る路線バスは貴重な存在なのだ。

バスはここから鎌倉駅に向かうのだが、逆に鎌倉駅から直接ここに来る路線はない。

どこかで一度以上の乗り換えが必要なようだ。

もちろん自分はバスに乗らず鎌倉駅まで歩く。

由比若宮から再び住宅街の路地を通り、横須賀線の線路に沿った猫の通路のような道を抜け、約二十分ほどで鎌倉駅に到着。

ここから江ノ電に乗る。小さな電車は既に観光客でパンパンだ。

満員の車内に身を潜ませ、ジッと待つうちに発車。

日曜日で天気も晴朗とあって、国内外から訪れた老若男女の観光客でごった返す駅前を眺めながら鎌倉の町を後にした。


(相模國一之宮「鶴岡八幡宮」おわり)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]19

rj19鶴岡t4u31

義家は関東武者から絶大な信頼を勝ち取り、後々それが頼朝の幕府創建につながっていった。

一方、奥州の一大勢力だった清原氏が滅び、代わって奥州藤原氏の時代が幕を開けた。

どちらも「後三年の役」で挙げた源氏の功績である。

それから時が下ること百年余の文治三(1187)年、頼朝に負われた源義経が逃げ延びた先は奥州藤原氏だった。

その藤原氏も義経隠匿の咎を責められ、文治五(1189)年に頼朝の征伐を受け、滅亡した。

鎌倉幕府と奥州藤原氏、いずれも“八幡太郎”義家の功績で生まれたようなものなのに、皮肉な話だ。

由比若宮の境内を後にし、社号標が立っていたバス通りまで戻る。

鶴岡八幡宮と由比若宮、実は“自然暦”の関係にあるという。

太陽は由比若宮の方角から昇り、鶴岡八幡宮の方角に沈む。

日の出=始まり、出産であり、日の入=終わり、入滅である。

それゆえに元鶴岡八幡宮は“若宮”と呼ばれているのだろう。

今でこそ周囲を住宅やビルで覆われているため、どこから日が昇るのか分かりにくい。

だが周囲が田畑だった大昔、農民にとって両宮の位置関係が太陽の動きを察知するための重要なランドマークになっていたに違いない。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]18

rj18鶴岡t4u29

鳥居は二つあり、一の鳥居と二の鳥居の間隔は二十~三十メートルといったところ。

二の鳥居をくぐって社殿の前へ。周囲を覆う木々の緑の中に、朱色の玉垣で囲まれた流造の社殿が映える。

鶴岡八幡宮の由緒書にあったように、由比若宮の起源は頼朝の五代前、源頼義(よりよし)まで遡る。

康平六(1063)年、相模守だった頼義が奥羽(東北地方)での「前九年の役」に勝利し、帰京の途中で鎌倉に立ち寄った。

その節、頼義は源氏の守護神たる石清水八幡宮の祭神を勧請し、ここに祀った。

鎌倉と源氏が初めて縁を持った瞬間である。

それから二十年後の永保三(1083)年、またも奥州で戦乱「後三年の役」が勃発。

頼義の息子である源“八幡太郎”義家が進軍し、ここで野営した際に社殿を修復したという。

その折、義家が源氏の旗を立てかけたとされる松の木の遺構が境内にある。

高札風の看板には「旗立の松」と墨書されている。

一メートルほどの高さに切られた松の幹で、円周の長さは大人が両手を広げて二抱えほどもあるか。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]17

rj17鶴岡t4u27

そこに刻まれた文字は「元鶴岡八幡宮」。

鶴岡八幡宮に遥拝所のあった由比若宮、その参道入口である。

ただ、石畳が敷かれて参道っぽい感じに見えるが、この社号標がなければ何ら変哲のない道で、気づかず通りすぎてしまうかもしれない。

どっちにしても、本当に目立たない場所にヒッソリ佇んでいたことには違いない。

奥に進むと、ほどなくして木々の緑に囲まれた社殿が姿を現した。

住宅街の真ん中に開いたエアポケットに、とても小ぶりな社殿がこじんまりと佇んでいる観。

鶴岡八幡宮の境内と比較すれば、こちらの広さは旗上弁天社が鎮座する島程度といったところか。

とはいえ境内は綺麗に掃き清められ、氏子の信奉の篤さが伝わってくる。

鶴岡八幡宮が日本を代表する神社なのに対し、こちらは材木座の氏神様…といった趣きだ。

一の鳥居の手前に「文学案内板」が立っている。

大正時代、先の参道から北側一帯は別荘地で、ここで芥川龍之介も暮らしたことがあるそうだ。

その頃の様子は「或阿呆の一生-十五『彼等』」に描写されているという。

彼等は平和に生活した。大きい芭蕉の葉の広がつたかげに。
――彼等の家は東京から汽車でもたつぷり一時間かかる或海岸の町にあつたから。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]16

rj16鶴岡t4u25

「源平池」といって、北条政子が寿永元(1182)年に平氏滅亡を祈願して掘らせたもの。

三の鳥居から本殿に向かって右(東)側が源氏池、左(西)側が平家池。

源氏池には島が三つ浮かび、最も大きな島には「旗上弁天社」が鎮座している。

明治政府の神仏分離令で一度は破却されたのだが、戦後の昭和三十二(1956)年に再興。

さらに昭和五十五(1980)年、鶴岡八幡宮創建八百年を記念して江戸末期文政年間の古図に基づき、現在の社殿が復元された。

ちなみに弁天様は女神なので、カップルで参拝すると弁天様が嫉妬して二人を別れさせるとか、しないとか…。

源氏池に島が三つある理由は「三は産なり」で、源氏の繁栄が末永く続くことを祈って。

一方、平家池には島が四つ。

もちろん理由は「四は死なり」で、平家が一日も早く滅亡するように。

この故事からも北条政子、相当な女傑だったと見受けられる。

源氏が滅んでも北条家が執権として幕政を担えたわけだ。

鶴岡八幡宮の境内を出、若宮大路を再び由比ヶ浜方面に向かう。

既に時刻は正午近く、日曜日の鎌倉は観光客の群れで溢れかえり真っ直ぐ歩けないほど。

そんな喧騒を避けるかのように、横須賀線のガードに行き当たると左に折れる。

そのまま線路伝いに歩き、滑川に架かる橋を渡り、踏切を渡り、細い道を縫うように歩く。

かれこれ二十分ほど歩いたろうか。このあたりまで来ると何の変哲もない住宅地で、観光客らしき姿は露ほども見かけない。

住宅街の間をバスが行き交う通りに添って歩いているうち、古ぼけた小さな石柱に行き着いた。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]15

rj15鶴岡t4u22

大石段を降りて左に折れると若宮(下宮)の社殿が姿を現した。

鶴岡八幡宮には本宮と若宮があり、どちらの社殿も国の重要文化財に指定されている。

若宮の祭神は応神天皇の御子、仁徳天皇ほか三柱の神様。

若宮の横には控室が併設されており、舞殿で式を挙げる御両家の親族が待機している。

現在行われている式が終わると「次の方どうぞ」といった具合に舞殿へと案内される次第。

若宮と道を挟んだ反対側には「由比若宮遥拝所」がある。

由比若宮とは先出の由緒書に登場した、材木座に鎮座している由比郷の八幡宮のこと。

つまり頼義が勧請し、頼朝が現地に奉遷した由比郷の八幡宮は、現在でも存在していることになる。

参道を三の鳥居へ向かうと、鳥居の手前の両側に大きな池が広がっている。

…はずなのだが、現在工事中で残念ながら水が干上がっていた。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]14

rj14鶴岡t4u20

拝殿から左側へ回り込み、幣殿を挟んで本殿へとつながる社殿のフォルムを眺める。

八幡信仰は日本に大陸文化が最初に流入してきた北九州で生まれ、土着の信仰や外来の仏教を巻き込みながら拡大。

やがて源氏の氏神となり国家的宗教に発展、武家の守護神として各地に浸透していった。

現在でも八幡神を祀る神社は全国に三万社は下らず、分祀の数ではお稲荷様に次ぐ二位。

今や「八幡様」は日本全国津々浦々、どこでも見かけるお馴染みの神様である。

楼門を出、大石段を降りながら考える。

鶴岡八幡宮は一般に「三大八幡宮」のひとつに数えられている。

三大八幡とは、まず総本社の宇佐神宮(豊前国一之宮)と、京都府八幡市の石清水八幡宮。

それに筥崎宮(筑前国一之宮)か、鶴岡八幡宮のいずれかが入るという組み合わせ。

そのうち筥崎宮にも宇佐神宮にも参詣する機会があるだろう。

それまでに八幡神と応神天皇の関係について勉強しておきたいと思う。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]13

rj13鶴岡t4uttl

随神門をくぐり、回廊に囲まれた内側へ。

なお、拝殿や本殿など回廊内の建物は写真の撮影が禁止されている。

随神門から拝殿までの距離はほとんどなく、すぐ目の前に立ちふさがる感覚。

二礼二拍手、手を合わせて目を閉じ、息をスゥーッと吸い込み、八幡神と意識をシンクロさせる…ように試みる。

鶴岡八幡宮の祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、比売神(ひめがみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)の三柱。

第十五代応神天皇は歴史的に実在した最初の天皇と目され、神道上は応神天皇イコール八幡神とされている。

なお、応神は諡号(しごう)であり、諱(いみな)の誉田別命(ほむだわけのみこと)のほうが一般的だ。

誉田別命は父の仲哀天皇が崩御した後、筑紫国(福岡県)にて生誕。

母は鶴岡八幡宮に一緒に祀られている“聖母神”神功皇后(じんぐうこうごう)。

その後、大和国(奈良県)に戻り、母の摂政のもとで皇太子に。

大和国軽島(奈良県橿原市大軽町)に明の宮を造営し、神功皇后の死後、第十五代天皇に即位。

四十一年に及ぶ治世下では百済(くだら)から受け入れた帰化人によって経典や典籍がもたらされたり、当時の中国から文芸や工芸などを積極的に導入したり、この時代に日本文化の基礎が築かれたと学問的にも評価されている。

その“人皇”応神が何故、死後に八幡神として崇められるようになったのか?

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]12

rj12鶴岡t4u21

建久二(1191)年、大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝は直ちに再建に着手し大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の結構に整えた

「いいくにつくろう」の通り、学校では長きにわたり鎌倉幕府の開府を建久三(1192)年と教えてきた。

しかし、それより前に堂舎が数多く存在したということは、既に鶴岡八幡宮が源氏政権の中枢施設として機能していたことを意味する

あくまでも1192年は源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた年であり、最近では鎌倉幕府が実質的に成立したのは1185年だと教えているそうだ。

これからは「いいはこつくろう鎌倉幕府」とでも覚えるようになるのだろうか?

石段を登り切ると、そこには威風堂々たる社殿が偉容を呈している。

建物は文政十一(1828)年に徳川十一代将軍家斉が造営した流権現造り。

鎌倉時代というより江戸時代を代表する建築様式だ。

随神門の前に立ち、上を見上げる。掲げられた扁額は単に「八幡宮」としか記されていないシンプルさ。

しかも“八”の字は、二羽の鳩が向き合った絵で描かれている。

鳩サブレーの形状、この“八”の字の鳩から着想を得たのだそうだ。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]11

rj11鶴岡t4u18

同年4月、倒伏した場所から蘖(ひこばえ=根元から生えてくる若芽)が芽吹き、現在では約2メートル程までに成長している。

また、倒伏した樹幹は再生可能な高さ4メートルに切断し、その横に据え置かれた。

蘖の「子イチョウ」は生育状態の良いものを選び「後継樹」として育成。

横に移された「親イチョウ」は再び大地に根を張ることが期待されている。

そして現在では双方とも「御神木」としてお祀りされている。

そのまま視線を上げ、若宮大路を由比ガ浜方面に望む。

朱塗りの鳥居が二つと、その先に白い鳥居が一つ。

空気の澄んだ快晴の日には水平線や、更には伊豆大島まで眺めることが出来るそうだ。

さて、先出の由緒書の続き。

治承四(1180)年、源氏再興の旗を挙げた源頼朝は父祖由縁の地鎌倉へ入ると、由比郷の八幡宮を『祖宗を崇めんが為』に小林郷北山(現在地)へ奉遷し、京に於ける内裏(京都御所)に相当する位置に据えて諸整備に努めた

もともと由比ヶ浜から近い場所にあった八幡宮を『祖宗を崇めんが為』ここへ移した。

そして鎌倉の街を京の都に比肩する規模に構築し、若宮大路を平安京の朱雀大路に模して整備したということか。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]10

rj10鶴岡t4u17

結婚式が厳かに続く舞殿を回り込むと、本殿へと続く大石段が続き、その左側には大銀杏…の跡。

昭和三十(1955)年に神奈川県天然記念物に指定された、鶴岡八幡宮の象徴ともいうべき大銀杏。

建保七年(1219)一月二十七日、鎌倉二代将軍頼家の猶子で八幡宮別当の僧侶公暁(くぎょう)が、この大銀杏に隠れて三代将軍実朝を待ち伏せ暗殺したという。

この歴史の教科書にも載っている、源氏将軍家三代の息の根を止めた「隠れ銀杏」事件の舞台にもなったところだ。

その大銀杏が雪混じりの強風によって倒伏したのは、平成二十二(2010)年三月十日未明のこと。

樹齢千年ともいわれており、「いいくにつくろう鎌倉幕府」の1192年よりも前から、この地に根を張っていたことになる。

高さは推定30メートル、幹の太さは約7メートル。燃え上がるような黄色い葉を身に纏った大銀杏は、朱塗りの社殿と絶妙なコントラストを描いていた。

石段の途中で足を止め、大銀杏の根本を見下ろす。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]
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