一巡せしもの[下鴨神社]27

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光琳の梅の左側に太鼓橋がかかっている。

ここでは「輪橋[そりはし]」と呼んでいるが、これは太鼓橋の一般的な別称でもある。

輪橋を渡った先には大きな明神鳥居。

その下をくぐって右へ向かうと細殿御所[ほそどのごしょ]、左に進むと御手洗池と御手洗社がある。

細殿御所は平安時代編纂の賀茂社『神殿記』にも「細殿」と記載されているほどの昔から存在していた。

歴代天皇の行幸時、法皇や上皇の御幸の際に行在所として用いられてきた。

天明8(1788)年に洛中の大火で京都御所が回禄(火災)に遭った際は、内侍所(賢所)の奉安所となった。

ちなみに内侍所(賢所)とは三種の神器「神鏡八咫鏡[やたのかがみ]」を安置している場所のこと。

文久年間(1861~64)の御所回禄では、後に明治天皇となる祐宮[さちのみや]の行在所に。

文久3(1863)年3月11日に孝明天皇が攘夷祈願のため行幸された際は徳川十四代将軍家茂の侍所[さむらいどころ]になるなど、幕末の動乱期には少なからぬ役割を果たしている。

現在の建物は舞殿や橋殿と同様、寛永五年の式年遷宮で造替されたものを21年ごとに解体修理を施し、維持されてきたものだ。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]26

4t下鴨031

橋殿の下を流れる川に沿って上流の方角へ向かう。

川の名は「御手洗川[みたらしがわ]」。

北にある宝ヶ池の辺りから細々と流れきて、糺の森の東端を下っていく川と同じ名称だ。

塀の内側から湧き出た御手洗川は橋殿の下を通って外側に出、もうひとつの御手洗川と合流した後、奈良の小川と泉川の2つの川に再び分裂する。

いつもは水が流れていない涸れ川だが、土用の丑の日が近づくと水がコンコンと湧き出るところから「京の七不思議」の一つとされていたそう。

ただ、目の前の川には豊かとはいえないまでも水流があるので、昔の話かも知れない。

土用の丑の日、ここ御手洗川では足を浸して疫病などの災い除けを祈願する「足つけ神事」が昔から行なわれている。

ひょっとしたら涸れ川のエピソード、この神事をPRするために拵えられたコマーシャルなのかも知れない。

川沿いの一角に正方形の小振りな石板が置かれている。

四隅には細い柱が立てられ、紙垂を下げた注連縄が巡らされている。

明らかに何らかの宗教的設備なのだが、近くの立て札に説明はない。

石板を持ち上げると下が井戸になっていて、底から湧き出る水で禊を行うのだろうか? 

石板の隣には燃えるような花を咲かせている紅梅の木。

「光琳の梅」と呼ばれている。

この辺りを尾形光琳が描いた国宝「紅白梅図屏風[こうはくばいずびょうぶ]」に由来するそうだ。

全面金地の中央に銀地で御手洗川の流れを描き、川を挟んで紅白の梅を左右に配する大胆な構図。

この光琳の最高傑作にして琳派様式の頂点ともいえる傑作は、静岡県熱海市にあるMOA美術館で鑑賞することができる。


[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]25

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今度は反対に舞殿の右側へ行ってみる。

川の上に橋が架けられ、その上に舞殿と良く似た建物が乗っている。

「橋殿」というそうだ。

入母屋造、檜皮葺、桁行四間、梁間三間とあるから、構造も大きさも舞殿とほぼ同じ。

現在の建物は寛永5年の式年遷宮で造替されたもの。

以降21年ごとに解体修理が行わてきたのも舞殿と一緒である。

ここは葵祭の前祭「御蔭祭[みかげまつり]で御神宝を奉安する御殿。

昔は御戸代会神事[みとしろえしんじ]が行われ、里神楽や泰楽、倭舞が演じられていた。

御戸代会神事とは田植えの後に害虫の予防を祈願をする神事のこと。

神への祈りの代わりに農薬を大量に散布してオシマイという現代では、すっかり廃れてしまった。

…かに思えるが、上賀茂神社では現在でも行われている。

もちろん害虫予防のためではなく、伝統神事の継承としてなのだろうが。

また、ここは天皇行幸の際、公卿や殿上人の控え場所と定められていた。

舞殿と橋殿、同じ構造・様式の社殿が2つ用意してあるのは、それだけ天皇や上皇と一緒に参詣する公家や殿上人の数が多く、とても一つの社殿に収まり切らなかったせいか?

しかも格上の方々は舞殿へ、格下の皆さんは橋殿に案内されたんじゃないか、そんな気がする。

川の上にある橋殿は暑い夏の盛りだと涼しくて結構だが、底冷えのする冬の最中には辛かったに違いない。

なお、現在では各月の管絃祭や正月神事といった年中催事の際、神事芸能の奉納に用いられているそうだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]24

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楼門をくぐると、すぐ正面に舞殿が立ちはだかる。

河合神社も同様だったし、他の一之宮でも時おり見かける配置。

現在の建物も楼門と同様、寛永5年の式年遷宮で造替されたもの。

以降21年ごとに解体修理されるのもまた、楼門と同じだ。

入母屋造で屋根は檜皮葺き。

横幅(梁間)3間、奥行(桁行)4間という長方形の形状をしている。

黒々とした屋根と白塗りの壁上、屋根を支える黒い柱と吹き抜けの殿上。

白と黒のコントラストが全体の印象をキリッと引き締めている。

小雨の中で眺めたこともまた、落ち着いた印象を受ける要因だろうか。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]23

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楼門の前に立ち、眺める。

朱塗りで高さが30メートルあるという二層の秀麗な建物だ。

現在の楼門は江戸時代の寛永五(1628)年に行われた遷宮造替の際に造営されたもの。

かつては式年遷宮の21年ごとに造替されてきたそうだが、この造替を最後に解体修理を重ねながら保存される方式に変わった。

楼門と左右に伸びる長い廻廊は古代の神社様式を現代に伝えていることから重要文化財に指定されている。

鹿島神宮(常陸国)や香取神宮(下総国)、氷川神社(武蔵国)といった東国の一之宮に比べると、どこか優しげな表情を浮かべているようだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]22

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二の鳥居…正式には南口鳥居をくぐって中へ。

朱塗りのシンプルな明神鳥居だが、両足の下部から真横に玉垣が伸びている。

両部鳥居で例えれば袖柱の位置に横へ伸びる柵がくっついているようなものだ。

目の前には楼門が聳立し、左側には社務所が控える。

授与所の隣に「連理の賢木」が生えている。

2本の木幹が途中から1本につながっている木で、ここだけでなく他の神社でもたまに見かける。

縁結びに御利益があると信仰を集めているせいか木の前には立派な鳥居が建てられている。

その隣には縁結びに御利益がある末社「相生社」が聳立している。

裏手にある棚には良縁を願う絵馬がビッシリ。

良縁に恵まれない不幸な女性が世の中こんなに溢れているのだろうか?

それとも大して太ってもいない女性が「痩せなきゃ!」と踊らされている昨今のダイエットブームのように、ソコソコの良縁に恵まれているのに「もっといい人がいるはず!」と欲を掻いているのだろうか?

どちらもアリだろうが、神が気を利かせるのは前者のような気がしてならない。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]21

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石橋を渡ると少し広めの空間が広がり、向こう側に二の鳥居が聳立している。

その広場の右手に大きめの手水舍があった。

中に据えられているのは木製の舟に載せられた横長の巨石。

内側がくり抜かれていて石鉢のようになっている。

この形状は賀茂建角身命の神話に登場する舟形磐座[いわくら]石に因んだもの。

上には屋根が架けられ、御手洗の反対側は透塀で仕切られている。

崇神天皇7年(紀元前90年ごろ)、糺の森に瑞垣の造替を賜った記録をもとに再現したという。

室町時代に編纂された「諸社根元記」には「浮島[うきしま]の里、直澄[ただす]」と記録されていて、これもまた「糺」の語源のひとつと考えられているそうだ。

二の鳥居の両脇に石が小山のように積み上げられている。

石の大きさは握り拳大から赤ちゃんの頭部大まで様々だ。

これらは式年遷宮に伴う「石拾神事」のために集められたもの。

本殿の周囲に敷かれる磐座の御石を3年間ここで清め、さらなる生命力アップを願い乞う行事。

最初に執行される行事で、本殿の周囲に氏子や崇敬者が清浄な御石を奉献するそうだ。

式年遷宮が終了すればこの石山も消滅するわけで、なかなか貴重なものを見ることができた。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]20

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ようやく二の鳥居の前まで来た。

瀬見の小川に小さな石橋が架かっており、その右手に看板が立っている。

この石橋から西側が瀬見の小川で、東側は奈良の小川と呼称が変わる。

看板には、奈良の小川とは上流にある楢の林から流れて来ることに由来していると記されている。

また別の看板によると、最近の発掘調査で発見された平安時代の流路の一部が現在の流路とは別に復元されたとある。

石橋の上から奈良の小川を眺める。

こちらも川よりせせらぎと呼ぶに相応しく、清らかな水面が風にサラサラと揺れていた。

ここまで来るのに参道は一本道だったが、まだ糺の森が広大だった時代は「烏の縄手[からすのなわて]」と呼ばれる参道が幾筋も通っていたそうだ。

烏とは祭神賀茂建角身命の別名「八咫烏[やたがらす]」に由来。

縄手とは細くて狭くて長い道のこと。

八咫烏の神様にお参りする人々の足跡が生んだ踏み分け道が次第に幾筋ものあぜ道に成長。

時代が下るにつれて「烏の縄手」と呼ばれるようになったのだろう。

あぜ道そのものは現存していないが、往時の姿が森の中で部分的に復元されている。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]19

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表参道をそぞろ歩くうち、遠い先に鳥居が見えてきた。

水の流れに恵まれた糺の森は夏の蒸し暑い京都でも涼しく、納涼の名所として京の都人たちから愛されてきた。

江戸時代には初夏の到来とともに団子や心太[ところてん]、真桑瓜[まくわうり]などを売る茶店が立ち並んだそうだ。

都人たちは涼しげな木陰に毛氈を敷き、日の出から日没まで花見ならぬ「納涼[すずしみ]」を楽しんでいたという。

周囲をグルリと見回してみる。

現在の糺の森も十分に広いのだが、屋台が林立するには狭い感じがする。

江戸時代は鴨川と高野川に挟まれた土地すべてが森だったに違いない。

木漏れ日がこぼれる森の中、涼しげなせせらぎの音色をBGMに賞味する心太や真桑瓜の味はいかばかりだったろう。

コンビニに行けばソコソコ美味いスイーツが簡単に手に入る現代ではあるが、贅沢という点では江戸時代に軍配が上がるようだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]18

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表参道の左側には瀬見の小川、右側には泉川が流れている。

ただ、瀬見の小川には川と呼べるほどの水量はなく、丹塗矢が流れて来れるとは到底思えない。

それもそのはず、現在の流れは平成6(1994)年に下鴨神社が世界遺産に登録されたのを機に整備されたものだ。

それまで川筋はあっても水は流れておらず、まさに「瀬見の水無川」状態だったそうだ。

現在の流路になったのは元禄7(1694)年、賀茂祭の儀式用に馬場が整備された時。

それ以前は現在ある馬場の西側を流れていたことが調査の結果判明しているという。

時代とともに瀬見の小川も流路を変遷させてきたのだ。

風土記の時代と今の流れが同じ位置にあるわけもない。

表参道から外れ、河原の落ち葉を踏み分けて泉川の畔へ近寄ってみる。

余程こちらのほうが水量豊かなのだが、丹塗矢が流れてきたのはこの川ではない。

というか、神話と現実を強引に結びつけようとする行為が野暮というものだろう。

賀茂川と高野川の合流点に位置する糺の森は、川が運んだ土砂の堆積した洲の上にある。

なので「糺」という地名は「只洲[ただす]」「蓼洲[たです]」に由来するのだとか。

ちなみに「糺」という字には「偽りを正す」という意味がある。

賀茂族を率いて初めて京都盆地に移住した賀茂建角身命は、ここで人々からの訴えを聞き、それぞれに審判を下したという伝説がある。

それで、いつしか「糺の森」は「偽りを正す神の坐す森」という信仰が集まることになった。

ちなみに目と鼻の先に京都家庭裁判所が立っているが、これは糺の森の「偽りを正す」信仰とは関係ない。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]17

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表参道の左側、馬場との間に「瀬見の小川」という名の細いせせらぎが流れている。

名付け親は賀茂建角身命だと山城国風土記逸文には記されているそうだ。

また、風土記には賀茂社の創建にまつわる重要な逸話がある。

いわゆる「丹塗矢[にぬりや]」の伝説だ。

玉依姫命が瀬見の小川で水遊びをしていると上流から綺麗な朱色の矢が流れてきた。

これを拾い上げた玉依姫命が寝床の近くに挿して飾っておいたところ、なぜか懐妊。

その矢、実は火雷神[ほのいかずちのかみ]の化身だったのだ。

火雷神は亡くなった伊弉冉尊[いざなみのみこと]が黄泉国で産んだ、雷を司る神。

そして生まれてきた男子は賀茂別雷命[かもわけいかずちのみこと]、賀茂別雷(上賀茂)神社の祭神である。

ところでこの逸話、どこかで聞いたことがあると思ったら古事記の中に似たような話があった。

大和国橿原で神倭伊波禮毘古命[かむやまといわれひこのみこと]が初代神武天皇として即位した時のこと。

大后候補を探していたところ、神の御子と言われている富登多多良伊須須岐比売[ほとたたらいすすきひめ]の噂を聞いた。

伊須須岐比売は大和国一之宮大神神社の祭神大物主神が、勢夜陀多良比売[せやだたらひめ]という美女に産ませた娘である。

勢夜陀多良比売の余りの美しさに恋い焦がれた大物主神は自身の姿を丹塗矢に変え、彼女が厠に入ったところを見計らって下から陰部[ほと]を突き上げるという荒技を繰り出した。

驚いた比売はオロオロし、右へ左へ走り回って大騒ぎ。

その丹塗矢を持ち帰って床に置いたところ、あら不思議。

丹塗矢はパッと偉丈夫の色男に変身し、やがて比売を妻に娶ることに。

偉丈夫たる大物主神と勢夜陀多良比売の間に生まれたのが伊須須岐比売であり、初代神武天皇とともに世を治める大后となったわけだ。

古事記と山城国風土記、それぞれ登場する神こそ違えど設定は大いに似通っているのが面白い。

しかも両記とも成立はほぼ同時期なので、どちらがどちらを真似したという話でもなさそうだ。

昔から伝承されていた説話を雛形にして、両記それぞれが独自に取り込んだのかも知れない。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]16

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河合神社の境内を出て表参道へ。

その手前、表参道とは別に鳥居の前から一本の道が北へスーッと伸びている。

この道は馬場で、葵祭の前に行われる儀式「流鏑馬神事」は毎年ここで行われるそうだ。

「糺の森」の中央を貫く表参道を二ノ鳥居へ向かって歩く。

鬱蒼とした大木が埋め尽くす森の中を、両脇に杉や檜の大木を従えた表参道が貫通する。

そうした風景の多い大きな神社の境内風景と「糺の森」のそれは全く趣が異なる。

なにせ紀元前3世紀ごろ山背[やましろ]原野の原生林を構成していたのと同じ植生が、今も大都市のド真ん中に残っているのだ。

欅、榎、椋木といった広葉樹を中心に樹齢600年から200年ほどの樹木が約600本も自生しているだけに、森林生態学や環境学といった学術分野の面でも非常に貴重な存在なのだ。

表参道を歩きながら左右を見渡せば、木々が疎らに群生し、悪く言えば単なる雑木林のようでもある。

しかし、それが針葉樹の多い他の大神社に比べれば、逆に優しげな雰囲気を醸している要因だろうか。

現在の広さは約3万6千坪程度だが往時は150万坪にも及んでいたそうだ。

上賀茂神社や宝ヶ池あたりもまた、糺の森の中にあったのだろう。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]15

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日野に結んだ方一丈の草庵で「方丈記」を執筆するわけだ。

一丈とは広さの単位で約3m四方、坪数だと約2.73、畳だと約5帖半ほどの広さ。

間口も奥行きも一丈四方なので「方丈」の名が付いた。

組み立て式で折り畳める構造になっており、大八車に積めばどこへなりとも移動できる。

現代でいうキャンピングカーみたいなものか。

大原から日野へと至る年月の間、長明が工夫を重ね「栖[すみか]」として仕上げたのだろう。

よく見ると柱の下に土台状のものが置かれている。

これは下鴨神社の本殿の構造「土居桁」と似ている。

下鴨神社もまた式年遷宮で21年ごとに社殿が造替される。

このため「土居桁」構造は建物の移動を念頭に置いた設計方式。

方丈は、この自在な建築様式をヒントにしたのではないかと推測されている。

建暦2(1212)年、長明は日野の方丈で「方丈記」と「無名抄」を執筆。

それから4年後の建保4(1216)年6月8日、62歳でこの世を去った。

高校の古典の授業で必ずといっていいほど学ぶ「方丈記」。

だが明るい未来が待ち受けている若い世代に、人生の儚さや諦念が詰め込まれた「方丈記」の世界など理解できないのではないか?

人生の辛苦を経て、長明が遁世したのと同じ50歳絡みになった頃合いに読んでこそ、そこに込められた世界の真髄が理解できるのではないか?

一見あばら家然としていながら、何物にも代え難い“自由”を具現化した建物を眺めつつ、そんなことを考えた。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]14

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それはさておき。

上皇の抜擢を受けてから数年後の元久元(1204)年。

長明は突然、一切を投げ捨てて大原に隠棲してしまった。

寄人の座はもちろん、勅命だった「新古今和歌集」の編纂作業も。

身内からの妨害という思いもよらぬ事態を前に、何もかも嫌になったのかも知れない。

当時、世間の人々は相当「なぜ?」と不思議がったそうだ。

賀茂社内での人事抗争など知らないから無理もなかろうけど。

ただ、上皇は長明の遁走に怒るどころか、手の内から逃げていった才能を惜しんでいた。

長明が放り出した新古今和歌集にも長明作の和歌十首が採録されている。

しかも上皇は賀茂社の摂社を官社に昇格させ、そこの禰宜に任じるから京に戻るよう伝えた。

しかしこうした破格の恩寵も、世の儚さを前に全てを悟った長明の前には無力だったようだ。

長明が隠棲したのは齢50の時、当時の平均寿命からすれば既に相当な老齢だったことになる。

その後、大原から方々を転々とした長明は承元2(1208)年、日野の外山へ落ち着いた。

現在の伏見区日野の辺りだから河合神社から見たら地の果てみたいな場所である。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]13

4t下鴨016

鏡絵馬の棚の前に簡素な庵がポツネンと佇んでいる。

棚から発せられる女たちの美への執念とは真逆で、欲望の象徴ともいえる一切の虚飾が剥ぎ取られている。

対照的な両者が間隔を空けずに対峙している光景は、なかなか興味深いものがある。

この草庵は名随筆「方丈記」でおなじみ、鴨長明の住まい「方丈の庵」を復元したものだ。

鴨長明は仁平3(1153)年、河合神社の禰宜[ねぎ]長継の次男として誕生。

幼少時から和歌や琵琶などの才能に恵まれ、その学才が後鳥羽上皇に見い出される。

上皇が設立した御和歌所[おうたどころ]の寄人[よりうど]に抜擢。

藤原定家らとともに宮廷歌人として活躍し、まさに出世街道を驀進する。

さらに長明が20歳のころ父長継が死去し、その跡を継いで河合神社の禰宜になることを決意。

後鳥羽上皇の内諾も取り付け、悲願が成就しようとしたその矢先、まさに好事魔多し。

賀茂社のトップで一族の祐兼[すけかね]から思いもよらぬ横槍が入る。

祐兼の言い分は「長明は歌人の活動を優先して賀茂社の仕事を疎かにしていたので禰宜になる資格なし」というもの。

まんざら現代の企業社会でもあり得ないことではない事例にも思える。

本業と無関係の分野で派手に立ち回ると、それが災いして出世の妨げになるとか。

現代なら「会社のPRになるから」という逃げ道もないことはなかろうが、それも程度によるだろう。

ただ長明のケースには裏があったようで、本当は祐兼が長男の祐頼[すけより]を禰宜に据えるのが目的だったらしい。

祐兼が賀茂大神の御神意まで持ち出す強引な運動のおかげで、祐頼は無事に“就職”が叶う。

社長がドラ息子を取締役に引き上げるため、有能な役員に難癖をつけて放逐する様子とどこか似ているような。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]12

4t下鴨015

しとしと降り続く小雨の中、ひっそりと佇む拝殿を眺める。

黒々とした檜皮葺(ひわだぶき)の屋根と白壁のコントラストが美しい。

奥に構える本殿は延宝7(1679)年の式年遷宮で造替された古殿舎を修理建造したもの。

拝殿の右端に視線を向けると、絵馬を奉納する木枠の棚があった。

ここの絵馬は一風変わった形状をしている。

円盤に取っ手を付けた形状は、まるで卓球のラケットのよう。

この手鏡の形をした絵馬は「鏡絵馬」と呼ばれ、女性の“美”に対する願いを叶えてくれるそう。

玉依姫命は縁結びに始まり月経、妊娠、出産、育児といった女性の心身にまつわる神秘的な作用を司る神といわれている。

それだけに女性からは「美人の神さま」として篤く信仰され、そうした美麗への祈願に応えるための鏡絵馬なのだ。

まずは円盤の表面に描かれた女性の顔に、いつも当人が使っている化粧品でメイク。
そして裏側に願いを書き入れ、奉納するという次第。

表面では外見的な美貌を、裏面では内面的な美しさを、この絵馬に模した「鏡」で磨きましょう…という意図が込められているそうだ。

鏡絵馬は表面だけ向けて並べられており、奉納した女性たちが裏面に記した「内面」は窺い知ることはできない。

神社に現世御利益ばかり求める風潮が吹き荒れている現代社会で、この「内面を磨く」行為がどれだけ認知されているのか測りかねるけど。

ただ、鏡絵馬に描かれた女性たちの表情をひとつひとつ眺めていると、美容とは縁が一切ない当方にも必死さが伝わってくるようだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]11

4t下鴨014

石碑を過ぎて表参道を奥へ向かう。

ここから先は世に言う「糺の森」だ。

少し先の左側に摂社が立っている。

だが、摂社にしてはやけに堂々とした風格。

社号標を見ると「河合神社」と記されていた。

なるほど、鴨川と高野川の二つの“河”が“合”うから河合神社なのかと思ったが、これは単なる思いつきだ。

隣の説明板によると今でこそ下鴨神社の摂社に甘んじているが、元は延喜式に名神大社として名を連ねるほど社格の高い神社だったとある。

社号標の横に明神鳥居が立っている。

ただ、その奥に社殿はなく、ちょうど境内の反対側に同じ形をした明神鳥居が立っている。

東西それぞれに出入口があり、中に入って北側を向けば楼門が待ち構える格好だ。

楼門をくぐって境内に入る。

目の前に舞殿、向こう側に拝殿、さらにその奥に本殿という並び。

河合神社の主祭神は多々須玉依姫命[ただすたまよりのみこと]。

玉依姫命とは特定の神号ではなく「霊(たま)の憑(よ)りつく巫女」を指す普通名詞とのこと。

これは民俗学者、柳田国男の解釈。

上総国一之宮玉前神社の祭神もまた、玉依姫命だった。

こちらは神武天皇の母として古事記と日本書紀にも登場している。

一方、河合神社のほうは記紀ではなく山城国風土記逸文に登場。

下鴨神社の祭神賀茂建角身命[かもたけつぬみのみこと]と丹波の伊古夜日売[いかこやひめ]の間に生まれた娘だ。

玉依姫命は“普通名詞”だけに、他と区別するため「多々須」という”冠詞”を付したのだろうか?

この多々須が変化して「糺」となった…かどうかは分からない。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]10

4t下鴨012

車止めを超えて鬱蒼とした緑に包まれた細い道を進んで行く。

せせらぎに架かる小さな石橋を渡ると先に広い通りが見える。

この御蔭通を渡ると「糺(ただす)の森」が口を開けて待っていた。

糺の森は下鴨神社の境内を含めた広大な森。

その面積は3万6000坪(約11万9000平方m)、東京ドームの約2.5倍にも及ぶ。

それでもまだ、時代が下がるにつれて狭まったのだとか。

往時は150万坪(約500万平方m弱)にも及んでいたというから、賀茂社の権勢が伺える。

入り口に一基の石碑が立っている。

そこに記されている文字は「世界文化遺産 賀茂御祖神社」。

ここ下鴨神社は平成6(1994)年「古都京都の文化財」として日本で5番目の世界遺産に登録された。

「古都京都の文化財」は京都府の京都市と宇治市、滋賀県大津市に散在する17か所の寺社から構成されている。

ちなみに神社は賀茂御祖神社と賀茂別雷神社、それに宇治上神社の3カ所しかない。

京都市内の神社は賀茂社だけで八坂神社も松尾大社も選ばれていない。

それだけ京都に於ける存在感の重さが際立っているということだろう。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]09

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社号標の左隣りに立つのは一の鳥居。

朱色も鮮やかなシンプルな明神鳥居。

思っていたほど大きくはない。

それどころか柱が道幅ギリギリに建てられ、貫と島木、笠置が隣接する建物の敷地にはみ出している。

これほど余裕のない建てられ方をした一の鳥居を初めて見た。

しかし、ここは千二百年余の歴史を誇る王城の地。

もともと鳥居が先にあって、後に市街地化が進んだ結果こうなったと考えれば不思議ではない。

鳥居をくぐって奥へ進む。

下鴨神社は朝廷から平安遷都にあたり国家鎮護の神社として崇敬を集め、11世紀初頭にはほぼ現在の構成に整えられた。

しかし、15世紀後半に勃発した応仁・文明の乱(1467~1477)の戦火に巻き込まれ、広大な糺の森の樹林ともどもほとんどの社殿群が焼亡。

その後は境内全体の整備が細々と進められ、百年以上が過ぎた天正9(1581)年に平安時代の構成が再び蘇ったそうだ。

せせらぎに小さな石橋が架かっている。

渡ったところに井桁の車止めが埋め込まれている。

この先、自動車は進入禁止だ。

こうした車止めの彩色は黄色と黒が一般的。

だが、ここは朱色と黒の組み合わせ。

単なる交通標識とはまた何か異なる“意志”を感じさせる。

進入を食い止めているのは自動車だけでなく、目に見えない“悪意”をも遮っているかのようだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]08

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出町橋を渡り切り、逆三角形の下端を経て河合橋を渡る。

橋の向こうには出町柳駅。

京阪本線と叡山電車が発着する大きなターミナル駅だ。

ホームは京阪線が地下、叡山電車が地上と分かれている。

叡山電車の本線は八瀬比叡山口が終着駅。

叡山ケーブルと叡山ロープウェイを乗り継げば比叡山の山頂へたどり着ける。

しかし叡山電車にもケーブルカーにもロープウェイにも乗ることなく、河合橋を引き返した。

河合橋を渡り切り右折する。

下鴨東通を進むと三叉路になっている。

突き当りには朱塗りの玉垣で囲まれた石灯籠。

その左側に社号標と、朱塗りの明神鳥居。

更に奥には濃い緑に包まれた深い森が顔を覗かせている。

大きな石造りの社号標には「賀茂御祖神社」と刻まれている。

読み方は「かもみおやじんじゃ」で、下鴨神社は通称である。

とはいえ「賀茂御祖神社」では少々堅苦しいので、ここでは原則として「下鴨神社」と呼び通したい。

また、下鴨神社と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両社を総じて一つの神社と見なす際は「賀茂社」と呼ぶことにしよう。

下鴨神社の創建時期は不明だが、崇神天皇2(紀元前90)年に瑞垣を修造した旨の記録が残っており、それ以前から祀られていたと思われる。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]07

4t下鴨006

築地塀が尽き、北東の角に行き当たった。

「猿ヶ辻」といって、ここだけ角が凹んでいる。

あえて鬼門の東北角を欠き、日吉山王社の神使“猿”が祀られている。

しかし金網で覆われ、あまりクッキリ見えない。

この猿が夜な夜な抜け出しては通行人に悪戯したため、金網で封じ込めたという。

そのまま北へ突き当たると中山邸跡と桂宮邸跡。

桂宮邸跡は築地塀で囲まれ、表門と勅使門の二つの門が残る。

しかし内部は非公開。

というのも内側に立っているのは宮邸ではなく宮内庁職員の公務員宿舎。

要は、ごく普通の平屋の家が立っているだけなのだ。

桂宮邸跡の右側を北へ抜け、今出川口から今出川通に出る。

通勤時間帯だけあって車道も歩道も前を向いて進んでいる人たちで一杯だ。

霧雨が舞う薄曇りの今出川通を歩くうち、先方に鴨川が姿を見せた。

賀茂大橋の手前で左手に折れ、上流に向かって緑地帯を歩く。

その少し先に2つの川が合流する地点がある。

西の賀茂川に架かるのが出町橋、東の高野川に架かるのが河合橋。

両橋の間にある三角形状の土地が賀茂社の社域ということになる。

出町橋の上から川面を眺める。

肌寒い初春、しかも朝方ということもあり、川縁を歩く人の姿はない。

その代わりというか。

緩やかに流れる川面の上を、鴉たちが我が庭のように舞っていた。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]06

4t下鴨005

真正面に立つ建礼門まで近寄り、築地塀に沿って反時計回りにグルリと歩いてみる。

東南の角を北へ向かうと、土塀の間に「建春門」という小ぶりな門が姿を現した。

道を挟んだ東側には「学習院跡」の石碑。

建春門と学習院跡の間の道を北側に歩いて行く。

御所の周辺明治維新までは約200軒もの公家屋敷が立ち並ぶ公家町だった。

明治2(1869)年、明治天皇の東京遷幸に伴って多くの公家達も東京に移住。

このため公家町は急速に荒廃していくこととなった。

明治10(1877)年、京都に還幸された明治天皇は荒れ果てた光景を悲嘆。

京都府に対して御所保存と旧観維持の御沙汰を下された。

この御沙汰に基づく「大内保存事業」で整備されたのが京都御所の始まり。

屋敷の撤去、外周石垣土塁工事、道路工事、樹木植栽などが行われ、明治16(1883)年に完了。

大正4(1915)年の「大正大礼」に際して改修工事が施され、ほぼ現在の姿に整ったという。

昭和22(1947)年の閣議決定で、京都御苑は新宿御苑、皇居外苑とともに国民公園になった。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]05

4t下鴨004

園内をフラフラ歩いているうち京都御所の正面、建礼門の前に出た。

歴史の教科書にある通り、桓武天皇が長岡京から平安京に遷都したのは延暦13(794)年のこと。

当時の内裏は現在の場所から約1.7kmほど西に位置していた。

何度か焼失を繰り返し、嘉禄3(1227)年の火災を最後に内裏の再建は途絶える。

その代わり摂政や関白などの館に仮の御所を置く「里内裏」が設けられることになった。

里内裏は何度か移転し、南北朝時代に土御門東洞院殿[つちみかどひがしのとういんどの]が光明天皇
の里内裏に。

代々の北朝天皇が居住し続け、南北朝が合体した明徳3(1392)年この地が正式に御所となった。

以降、明治維新で皇居が東京へ遷都するまでの約500年間、ここに歴代天皇が住まわれ、儀式や公務を執行していた。

当時の広さは約4500坪(1万5000平方m弱)。

現在の建造物で例えれば甲子園球場のグラウンドと同程度の広さだったようだ。

その後、足利幕府による敷地の拡大、応仁の乱を契機とした戦国時代の荒廃、織豊政権による復興、徳川幕府の造営…。

時代が下るにつれて御所は拡大整備されていく。

もちろん幾度も火災などで滅失し、現存する京都御所は嘉永7(1855)年の安政造営で再建されたものだ。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]04

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再び下立売通りに戻り東へ直進すると、突き当りには緑園が広がる。

京都御苑。

下立売御門から中へ入ってみる。

御苑の外周は石積の土塁で囲まれ、九門五口…9か所の御門と5か所の切通しが出入口になっている。

この九門は本瓦葺の四脚門で、江戸時代からの遺構。

明治16(1883)年まで続いた「大内保存事業」で、現在の位置に移設されている。

御門から中に入ると平日の早朝、しかも雨模様とあって散策する人の姿は殆ど見当たらない。

いるのは御苑を突っ切って行く通勤通学の人ぐらいなものだ。

御苑は北の今出川通から南の丸太町通まで約1300m、西の烏丸通から東の梨木通・寺町通まで約700mの範囲に及ぶ。

園内では弥生の季節に相応しく梅の木が花を咲かせている。

春とは名ばかりで底冷えする中、泥濘を避けつつ梅を愛でながら歩く。

梅林には白梅や紅梅など約200本の梅が植栽されているそうだ。

春は梅に始まり、桃と糸桜、山桜と続き、最後は里桜で締めくくるという。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]03

4t下鴨002

翌朝、生憎の雨模様。

宿を出て、下立売通を東へ向かう。

堀川通を過ぎると道が広くなり、やがて左手前方に京都府庁が姿を現した。

門が開いていたので立ち寄ってみる。

前庭には裸婦像など彫刻が立ち並び、細やかな春雨を浴びて艶かしく濡れている。

その奥にルネサンス時代の建物を思わせる巨大な洋館が佇んでいる。

京都府庁旧本館。

一段高い正面中央の屋根から左右へ対称に張り出した様式が特徴的だ。

近寄って、しげしげと眺める。

竣工は明治37(1904)年12月20日で、昭和46(1971)年までは現役の本館だった。

似たような存在に北海道庁旧本庁舎、通称「赤れんが庁舎」がある。

だが、京都の旧本館は現在でも執務室や会議室に使用されている点で異なる。

創建時の姿を留めた現役の官公庁建物としては日本最古なのだそうだ。

また、外観とは対照的に内部は和風の技術が随所に取り入れられているそう。

そのデザインは建築というより、むしろ工芸品と呼ぶに相応しい趣とか。

ただ、ちょっと立ち寄っただけなので、建物内には立ち寄らず府庁を後にした。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]02

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京阪電車の三条駅に着き、地下鉄の三条京阪駅に乗り換える。

三条京阪といっても京阪ではなく京都市営地下鉄東西線の駅。

レトロっぽかった淀屋橋駅とは対照的に真新しい駅だ。

二条城前駅で下車し、城郭の東側を北へ向かって歩く。

日の暮れた藍色の空にライトアップされた森の緑が浮かび上がる。

3月とはいえ風は冷たく、まさに「春は名のみの風の寒さ」だ。

交差点角のスーパーでミネラルウォーターを贖い、角を曲がって細い道に入る。

細い道に沿って低い家並みが延々と連なる中、目的の宿に着いた。

今宵はホテルでも旅館でもない、ドミトリーで一夜を明かすことになっている。

蚕棚のように仕切られ、カーテンで隔てられたベッドの上だけがプライベートな空間。

とはいえ室内(?)には電灯とコンセントが設えられ、特に不自由さは感じない。

もっとうるさいかと思っていたが、予想していたよりは静か。

しかも耳栓を貸してくれるので、あまり騒音も苦にならない。

ブルートレインのB寝台(開架)よりは快適かと思われる。

そんなことを考えているうち、ストンと眠りに落ちた。

[旅行日:2014年3月20日]

一巡せしもの[下鴨神社]01

本町駅から乗った地下鉄御堂筋線の電車は、わずか1分程度で隣の淀屋橋駅に着いた。

ここで乗り換えるべく、地下道を通って京阪電車の淀屋橋駅へ。

地下道を満たす少し古い感じの雰囲気が、大阪という街の歴史を感じさせてくれる。

淀屋橋駅と土佐堀川を挟んだ北側は大阪市の中枢、中之島。

図書館や公会堂といった国の重要文化財が立ち並んでいるだけに、歴史の香りが漂うのも当然か。

京阪淀屋橋駅のホームへ降り、出町柳駅行きの特急電車に乗車する。

夕方の帰宅ラッシュの時間帯なのだが、さほど混雑していない。

座席の配列は2-2のアブレストによる、いわゆる「ロマンスシート」。

京阪の特急電車には初めて乗車したが、なかなか心地良い。

東京の私鉄に例えれば京浜急行の、三浦半島へ向かう快特電車に似た清しい趣を感じる。

京橋を過ぎて大阪都心部を出たあたりまでは、まだ空いていたのだが。

枚方を過ぎた辺りからどんどん混み始め、京都府内に入ると著しい混雑状態となった。

帰宅ラッシュの時間帯と被ったから止むを得ないことではあるのだが。

それにしても、この混み様には驚かされる。

[旅行日:2014年3月20日]

再開のお知らせ

4t下鴨011*

いつもご愛読ありがとうございます、「RAMBLE JAPAN」管理人です。

1月28日からお休みしておりました「一巡せしもの」。

半年間のブランクを経て、明日から再開いたします。

参詣するのは京都の「山城国一之宮賀茂御祖神社」。

それでは変わらぬご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

一巡せしもの[坐摩神社]12

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その西横堀川は埋め立てられて高速道路が通り、すっかり「瀬戸物町」の面影は失われてしまった。

しかし阿波座から立売堀にかけての瀬戸物町筋には今も4軒の陶磁器問屋があり「瀬戸物町」の伝統を受け継いでいる。

阪神高速道の1号環状線と16号大阪港線が交差する十字路に出た。

船場は繊維の町として発展してきたのは、冒頭の「船場センタービル」のところでも触れた。

そのルーツは坐摩神社が大坂城築城を機に現在の西横堀川畔へ遷座してきたところまで遡る。

それに合わせて門前には参拝客目当ての物売りや見せ物小屋が立ち並ぶことに。

その中でも特に古着屋は「坐摩の前の古手屋」として名を馳せていたという。

中でも坐摩神社から程近い安堂寺橘通りに店を構えていた古手屋「大和屋」が有名だ。

天保元(1830)年、大和国の絹屋の息子である十合伊兵衛[そごういへえ]が創業した店。

明治5(1872)年に呉服店へ転換し、5年後に心斎橋筋へ移転、店名を「十合呉服店」と改称。

大正8(1919)年に業態を百貨店に転換、50年後の昭和44(1969)年に店名を「そごう」とした。

その後そごうは経営破綻を経て現在はセブン&アイ・ホールディングスの傘下に属している。

船場の繊維産業もアジア諸国からの格安な輸入品に押され、長いこと沈滞傾向が続いている。

しかし、船場の繊維産業も百貨店そごうも、まだ息の根が止まっているわけではない。

これもまた、縁[ゆかり]の深い坐摩神社の御神徳に与っている証なのだろうか。

夕陽を浴びてオレンジ色に染まった船場の高層ビル街を眺めつつ、そんなことを思った。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]11

rj11坐摩4t21

時代は下って昭和20(1945)年、空襲で坐摩神社もろとも丸焼けとなる。

昭和26(1951)年6月、陶器神社は坐摩神社の境内から遷座。

西横堀川西側(現在の江戸堀~新町)の瀬戸物町[せともんちょう]近くに再建される。

ところが昭和46(1971)年、今度は阪神高速道路の建設用地となり再び立ち退く憂き目に。

しかし、文字通り「捨てる神あれば拾う神あり」。

西横堀問屋街の陶器商からの寄付や全国の陶芸作家から賛同が寄せられ。

同年11月に坐摩神社の境内へ再び遷宮鎮座されることと相成った。

この際に寄贈された豪華な陶器の皿が20枚ほど、本殿の天井に取り付けられているそうだ。

ちなみに本殿内は原則非公開なので、残念ながら参拝客の目に触れる機会はない。

裏門の向かいにある高速道路の下に入り口があったので、試しに中へ入ってみた。

そこは商店街のような造りになっている。

しかしそこにはコンビニと立喰うどん屋があるだけで、どこかガランとしている。

しかも、うどん屋は店を開けているのに店員がいない。

午後の昼下がりというアイドルタイムだけに止むを得ない気もするが、それにしても老婆心ながら不用心過ぎる。

高架下から出て本町駅へ向かうと、高速道路が交差する十字路の下に陶器神社への案内看板を見かけた。

大阪における陶磁器商のルーツは肥前鍋島家の上屋敷に送られてきた伊万里焼を捌いた商人に端を発する。

後に尾張産の“瀬戸物”を扱うようになると市場が拡大し、西横堀川沿いに問屋街が形成されることに。

遂には延宝8(1680)年、西横堀川西岸が先述の「瀬戸物町」と呼ばれるまでに急成長を遂げる。

幕末から明治期にかけて、この一帯は200以上の陶器商が軒を連ねていたそうだ。


[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]10

rj10坐摩4t20

碑の前から右手の裏口方面へ歩いて行く。

その先に青絵付けの有田焼で出来た大きな燈籠が立っていた。

その背後に朱紅の社殿が鎮座している。

摂社の陶器神社である。

燈籠の淡麗な青色と社殿の鮮烈な朱色が妙玄なコントラストを描いている。

燈籠が立つ角を折れ、陶器神社の拝殿正面に出る。

祭神は大陶祇神[おおすえつみのかみ]と迦具突智神[かぐつちのかみ]。

大陶祇神は和泉国に伝わるというローカルな神様だ。

もともと陶器神社は靭南通一丁目、現在の靱公園の近くに鎮座していた。

起源は嘉永年間(1624~1645)、現在の靭本町近辺で「灰喜」を営んでいた山田喜八という石灰商。

七月の地蔵盆の折、自宅に祀っていた愛宕山将軍地蔵を川岸に安置し、一般に公開したのが始まりと伝わる。

将軍地蔵は火防信仰の総本社である愛宕神社の本地仏。

当時は陶磁器の梱包に燃えやすい藁[わら]が用いられていた。

このため火事を除けるのに神様…というか仏様
が必要だったのだ。

陶器神社から外へ向かって細い参道が続いている。

そこから外に出てみると入り口が鳥居の形をしていた。

鳥居を神社への出入口と割り切ったデザインともいえる。

道を挟んだすぐ目の前に高速道路の高架が立ちふさがっている。

市電の敷設と高速道路の建設で何度も移転を繰り返してきた陶器神社。

もし次に移転する機会があるとすれば、一体どのような理由故になるのだろう。

愛宕山勝軍地蔵は明治元(1868)年、新政府の神仏分離令により廃止された。

それが
明治6(1873)年、信濃橋の西側に火防陶器神社として復活。

ところが
明治40(1907)年、市電を敷設するため移転を余儀なくされ、坐摩神社に合祀される。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]09

rj09坐摩4t18

入り口には左右に看板が掛けられている。

右側には「坐摩神社社務所」、左側には「大阪府神社庁」。

つまり、このビル自体が大阪府神社庁のビルということか。

坐摩神社、まさしく現在の「大阪府一之宮」だったわけだ。

ちなみにお手洗いは神社の施設のレベルを超え、オフィスビル仕様の快適なそれだった。

社務所正面から右手に向かうと、そこに小さな碑が立っている。

黒色の石碑に白色で「上方落語寄席発祥の地」と刻まれている。

これは「上方落語中興の祖」初代桂文治の功績を讃えたものだ。

噺家として初代文治の評判が高まったのは寛政6(1794)年ごろ。

船場の南西にある新町遊郭で落語を演じていた時代のことだ。

同10(1798)年ごろ、境内に大阪初の寄席を建てて移ってきた。

従来の大道芸然としていた落語を専用の建物で演じるように。

現在のような興行形式が始まったのが「寄席発祥」の由来となったわけだ。

初代文治は道具や鳴物を用いた「芝居噺」が“名人”と称されるほど上手かったそう。

上方落語の定番「芝居噺」とは、歌舞伎の雰囲気を取り入れた賑やかな落語のことだ。

「文治」の名跡は三代目の時、上方と江戸に分裂することとなった。

上方の文治は五代目で途絶するも、東京で襲名した七代目が一度大阪へ戻ってきた。

文治の名跡は八代目から再び東京へ戻るが、七代目の弟子たちが上方で桂派の流れを受け継ぐ
ことに。

桂派は現在、人間国宝の桂米朝や上方落語協会会会長の桂文枝ら、上方落語の一大勢力となっている。

一方、東京の文治は現在十一代目が健在だ。


[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]08

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もともと坐摩神社は天満橋にほど近い石町[こくまち]に鎮座していた。

それが天正10(1582)年、豊臣秀吉の大阪築城に伴い替地を命ぜられる。

現在鎮座している住所は「大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号」。

この「渡辺」という地名は元の鎮座地石町から、そのまま移したものだ。

中世、石町近辺に「渡辺津」と呼ばれる港があり、地名として定着現在の鎮座地一帯も以前の町名は「渡辺町」だったのだが。

昭和63(1988)年の地名変更で消滅の危機に瀕する。

ところが全国の「渡辺さん」たちの間で、渡辺姓のルーツが消え去ることへの反対運動が勃発。

結局「久太郎町4丁目渡辺3号」と、なぜか番地に「渡辺」が残る不思議な住所となった。

一方、遷座前に鎮座していたと伝わる旧社地、石町には現在も行宮(御旅所)が鎮座している。

石町には摂津国の国府が置かれ、国府[こう]が訛って「こくまち」になったと言われている。

坐摩神社が一之宮になったのは摂津国府に近かったからなのだろうか?

ちなみに坐摩神社の神主家もまた、渡辺家というそうだ。

境内の北側に末社が横一列になって並んでいる。

手前には“拝殿”ともいうべき一つ屋根の細長い東屋。

前の玉垣を挟んだ向こう側に“本殿”が鎮座している。

一番左側、最奥に鎮座するひときわ大きいのが大江神社。

そこから繊維神社、大國主神社、天満神社、相殿神社と続く。

末社の周囲をグルリと巡ってみる。

大きな大江神社以外、本殿の形状は全て同じ。

鰹木はすべて3本、千木は内削ぎでも外削ぎでもない。

御朱印を賜るべく社務所へ向かうと、大きなビルディングの1階にあった。

境内の土地にオフィスビルを建て、賃貸収入を得ているのだろうか?

お手洗いを拝借しようと巫女さんに尋ねたところ。

ビルの中にあるので左側の入り口からどうぞ…とのこと。


[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]07

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中でも有力なのが神功皇后奉斎説。

神功皇后が新羅征伐から帰還した折、淀川南岸の田蓑島[たみののしま]に坐摩神を祀ったのが創祀という説だ。

この田蓑島が後に渡辺津となり、現在「行宮[あんぐう]」の鎮座する石町付近だと言われている。

この行宮には今でも「神功皇后の鎮座石」と伝わる巨石が祀られている。

つまり御神徳の「旅行安全」は神功皇后が無事の帰還を感謝し坐摩大神を祀ったところから来ているのだろう。

一方の「安産守護」は神功皇后が「安産の神様」として崇められていることに由来するのは間違いないところ。

古くは「万葉集」の中にも難波津から西国へ向かう防人が坐摩大社に行路の安全を祈願する歌が詠まれている。

にはなかの 阿須波のかみに こしばさし
あれはいははむ かへりくまでに
 [萬葉集4350]

最近では明治天皇ご生誕の砌に宮中から御祈願があったところ、秋季大祭当日(旧暦)に御降誕されたそうだ。

ちなみに御神紋の「鷺丸[さぎまる]」は、神功皇后が田蓑島の白鷺が群がる所を選んで奉斎されたことに由来するそうだ。


[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]06

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前の社殿は昭和11(1936)年に造営されたが、昭和20(1945)年の大阪大空襲で焼失。

戦後、往時の姿を再現したのが現在の社殿だ。

参道の横に由来書が掲げてあった。

祭神は以下の5柱で、総称して坐摩大神[いかすりのおおかみ]というそう。

  • 生井神[いくいのかみ]…井戸水の神
  • 福井神[さくいのかみ]…井戸水の神
  • 綱長井神[つながいのかみ]…井戸水の神
  • 阿須波神[あすはのかみ]…竃[かまど]神
  • 波比岐神[はひきのかみ]…竃[かまど]神

坐摩大神の起源は「古語拾遺」などによると神武天皇が即位された時まで遡る。

高皇産霊神と天照大神から御神勅を受け、内裏(宮中)に奉斎したのだそうだ。

5柱を見てみれば、すべて井戸水と竈の神様…つまり台所にまつわる神ばかり。

つまり坐摩大神とは皇居におけるキッチン関係を護る神様だったということか。

確かに昔の人々にとって“水”と“火”は日常生活の最低限の“生命線”だった。

水の入手が途絶えれば人は死に絶える。

火を粗略に扱えば火事で全てが灰になる。

水と火の神様を篤く祀ることは、最もプリミティブな祀り事だったに違いない。

その“水”で手を洗うための手水舎は、他の大きな神社と違って素っ気ない造作。

龍や兎や亀の口から水が流れ出るでもなく、前に立てば自動的に水が出てくる仕組みだ。

御神徳は「住居守護」「旅行安全」「安産守護」。

社号が土地や居住地を守る「いかしり」に由来するだけに「住居守護」のご利益は外せないものがある。

では他の2つについては、どのような経緯から御神徳になったのだろうか?

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]05

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もっと小さい神社を想像していたのだが、意外と大きい。

同一国内に一之宮が二社ある場合、これまでのケースだと一方は大きく、片方は小さいのが常。

ここ摂津国一之宮でも住吉大社の規模とは比ぶべくもないのは確かだが。

それを織り込んで見ても、坐摩神社の大きさは予想外だった。

鳥居の右前に立つ社号標は小さくてシンプル。

坐摩と書いて「いかすり」と読む。

だが、なかなか読むのは難しい。

なので一般的に「ざまじんじゃ」と読まれるケースが多いそう。

地元では通称「ざまさん」と呼ばれ、船場の氏神的存在だ。

「いかすり」の語源は諸説ある中、坐摩神社では土地や居住地を守るという意味の「居所知[いかしり]」が転じた説が有力としている。

鳥居は大和国一之宮大神神社でも登場した「三ツ鳥居[みつとりい]」。

中央の大きな明神鳥居の左右に小さな脇鳥居が付属。

鳥居が3つ横に並んだ珍しい形状をしている。

三ツ鳥居は大神神社がオリジナルなので「三輪鳥居[みわとりい]」とも呼ばれている。

ただ、大神神社の三輪鳥居は拝殿の奥に厳かに鎮座しているので、原則として非公開。

それが坐摩神社では壁と壁の間に、まるで入り口のような扱われ方をして立っている。

この彼我の違い、なかなか興味深い。

鳥居をくぐると真正面に拝殿が鎮座している。

現在の社殿は昭和34(1959)年に建造された鉄筋コンクリート製の建物。

いかにも「都会の神社」といった風情を感じさせてくれる。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]04

rj04坐摩4t05

店に入ると中に客はほとんどいない。

ランチタイムというより、むしろ夕方からの営業へ向けて仕込みの真っ最中といった感じ。

それでも、こんな時間外れの客にも丁寧に接客してくれるから有り難い。

注文した船場汁定食が眼前に運ばれてきた。

椀ではなく丼で供され予想以上に量が多い。

中身も鯖と大根のほか人参も入り、大根も銀杏切りではなく乱切りで大ぶり。

初めて船場汁を食べたが、鯖の塩味に醤油味がホンノリと絡む上品な味わい。

賄いなのにこんな美味い物を食べていたとは、さすが食い倒れの街だけある。

しかも600円でこれだけのボリューム…まず東京のオフィス街ではお目にかかれないだろう。

船場センタービルを後にし、地上へ出る。

周囲は高層ビルが立ち並び、その間を高速道路が縫うように走る。

まるで20世紀中庸に少年雑誌で描かれた“未来都市”のようだ。

地名「船場」の由来は読んで字の如く「運河の船着き場」に由来している。

舟運が主流だった江戸時代の物流を象徴するかのような地名だ。

ちなみに江戸時代、船場を囲んでいた四方の運河名と現在の状態は次の通り。

  • 東:東横堀川=阪神高速1号環状線(南行き)の下を流れる現役の川
  • 西:西横堀川=埋め立てられて阪神高速1号環状線(北行き)の高架
  • 南:長堀川=埋め立てられ現在は長堀通り
  • 北:土佐堀川=中之島で南北に分岐している旧淀川の南側の流れ

現在でも商社、銀行、問屋などが密集する大阪経済の中心地なのだが。

江戸時代に栄華を極めた風情を偲ぶ縁は今では姿を消してしまった。

地下街から中央大通へ上がる。

ビルの間を縫うように歩いているうち、坐摩神社の正面に出た。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]03

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せんば自由軒は自店も「自由軒」の系譜を受け継いでいると主張しているが。

難波の本家「自由軒」は具体的な店の名前こそ出さないものの。

せんば自由軒は無関係と頑なに主張している。

このあたり関東の人間にとって、なかなか区別するのは難しい。

どこか「餃子の王将」と「大阪王将」の併存を思い起こさせる。

それにしても「難波」と「船場」の争いが実在したとは!

これじゃまるで「船場の仇を難波で取る」ではないか!

しかし、せんば自由軒には立ち寄らず、もっと船場っぽい食事を探求。

純喫茶、中華、蕎麦…いろいろ目移りしているうち、一軒の店が目に止まった。

「せんばかつら亭」

入口前のテーブル一杯にサンプルが並べられ、そのカラフルさに目を奪われる。

値段も総じて600円前後からとリーズナブル。

高くて量が少ないランチでは舌の肥えた船場のサラリーマンからソッポを向かれるのだろう。

サンプルの中で視線は自ずと「船場汁[せんばじる]定食」に吸い寄せられた。

船場汁はその名の通り、ここ船場で生まれた謂わば“郷土料理”。

塩鯖の身や頭、中骨などと、輪切りの大根を鍋で一緒に煮た澄まし汁だ。

元は忙しい問屋街で生まれた従業員の賄い食だったという。

材料に単価の安い塩漬を用い、アラまで使うのでムダがなく、食べるのに時間もかからない。

鯖の塩味で調味するので余計な調味料も不要。

この実質本位ぶりには「さすが大阪商人!」と感心させられる。

現在も作り方は概ね同じだが、大根は銀杏切りにし、仕上げに少量の薄口醤油を加えるそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]02

rj02坐摩4t03

本町駅と直結しているのは10号館。

その1階商店街へ足を運んでみた。

立ち並ぶ店舗は悉く、いまひとつ垢抜けてない印象を受ける。

繊維問屋が密集しており、いわば船場は「ファッションの街」なのに。

このビルは「株式会社大阪市開発公社」という外郭団体が運営している。

そうした「殿様商売」が最先端で流行を牽引できるはずもない。

難波で我慢した昼食を船場で摂ることにした。

難波の仇を船場で取る…じゃないけど。

とっくにランチタイムは過ぎているが、開けている店が結構ある。

ここは巨大ビジネス街のド真ん中。

その活動時間帯に合わせて飲食店も昼休憩など取らないのだろう。

喫茶店や居酒屋から沖縄やインドの料理まで。

それにしても様々な飲食店が立ち並んでいる。

しかし、いまいちピンと来る店がなかったので、隣の9号館へ行ってみた。

するとここに、なぜかカレーの「自由軒」がある。

ルゥとライスをまぶした「インディアンカレー」でおなじみ、大阪の名物カレー屋さん。

しかし自由軒は確か難波千日前にあったはず。

それがなぜ船場にあるのか?

自分が船場と難波を勘違いしていたのか?

調べてみると難波と船場の自由軒、実は全く無関係の存在だった。

本家は難波のほうで、船場は支店ではなく暖簾分けで誕生した店。

センタービルの開業に合わせ、本家の許可を得て出店したという。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[坐摩神社]01

rj01坐摩4t01

南海難波駅に着いた時、既に陽は天頂から西へと傾いていた。

何か食べようかなぁと思ったものの、今は次の目的地へ行くのが先決。

地下街へ降りて御堂筋線に乗車し、凡そ3分ほどで本町駅に到着した。

直線距離にして約2km、歩いても30分ほどだろうか。

行政上の地名は本町だが、一般には広く「船場[せんば]」の名で知られている。

豊臣秀吉が大阪城を築城した折、家臣団をはじめ大勢の武士が大阪に移住してきた。

武器や武具、食料、生活用品といった物資の需要が必然的に拡大することとなる。

そこで秀吉は伏見や堺の商人を強制的に集め、商業地を人工的に形成した。

これが船場の始まりと伝わっている。

その後、周辺には船宿や料亭、両替商、呉服店、金物屋などが次々と誕生。

江戸時代は「天下の台所」として日本経済の中枢たる役割を担い、機能していた。

その折に形成された船場の都市基盤は現代まで受け継がれている。

例えば繊維街の本町、金融街の北浜、製薬会社の多い道修[どしょう]町などがそうだ。

駅から地上へ上がろうとすると通路が地下街へと続いている。

興味が湧いたので先へ進んでみると、そこにあったのは「船場センタービル」の表示。

市中心部のド真ん中を東西に貫く阪神高速の高架下に、1kmにも渡って連なるショッピングモールだった。

オープンしたのは、なんと大阪万博が開催された昭和45(1970)年。

既に40年以上も経過しており、やはり経年劣化は否めない。

船場センタービルは1号館から10号館まで分かれている。

ざっくり説明すると1~3号館はインポートマート中心の街。

4~9号館は繊維の卸問屋街、10号館は商店街といった構成。

また2~4号館と9~10号館の地下には飲食店が軒を連ねている。

市中心部の地下に長大なレストラン街が潜んでいるわけだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]16

rj16住吉4t37

路面電車なので改札口は当然ながら存在しないのだが。

無いのは改札だけではなく利用者の姿も見当たらない。

そもそもホームの照明が落とされて周囲は真っ暗闇だ。

ホームの入り口に、人の進入を阻むかのように立つ時刻表に張り紙がしてある。

「上記時刻以外 住吉鳥居前から ご乗車願います」

見れば電車が発着するのは朝7時台と8時台しかない。

しかも8時台は3本、7時台は平日2本で土休日1本。

これでは駅としての機能を殆ど果たしてないではないか!?

住吉公園駅は100年以上も前の大正2(1913)年に開業した。

最盛期だった昭和30年代には最短1分間隔で列車が発着。

当時は1日に約200本もの電車が運行されていたそうだ。

それが今では日に4~5本という体たらくである。

いつ廃止されても不思議ではなさそう。

だが、実は無くならない。

毎年正月三が日は住吉大社に参拝客を送迎する臨時列車のために大活躍しているのだ。

年に一度、スポットライトを浴びる古老の駅…なかなかロマンティックな話ではないか。

できれば駅全体を普段はチンチン電車の博物館みたいに活用して欲しい。

そして正月だけは参拝列車のため“生きている”駅として命を吹き込む。

これぞ住吉大社のために存在する駅らしい生き方のような気がする。

そんなことを考えながら、住吉大社駅の高架ホームへ続く階段を登っていった。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]15

rj15住吉4t36

誕生石を後にし、神馬舎の前を通り過ぎ、御神苑へ。

木立を貫く小径の両側にも巨大な石灯籠が延々と続いている。

ひとつづつ、礎石に刻まれた奉納主を眺めていく。

刻まれた名は海運業者や廻船問屋だけでない。

荷主である様々な業種が奉納していることが分かる。

レーダーやGPSといった航法装置など存在しなかった昔。

神や仏からの御加護こそ、現代科学技術の役割を担わされていたのだろう。

御神苑から鳥居をくぐり、境内から外に出る。

目の前を通り過ぎる阪堺電軌の路面電車を見遣りながら住吉大社駅へ。

高架橋の隣に「驛園公吉住」と掲げた小さな建物がある。

ここが阪堺電軌上町線の始発駅、住吉公園駅なのか。

駅名が右から左へ表記されているということは、戦前からこのままなのだろう。

小さな入口から中へ入ってみる。

狭い通路は左側にコインロッカーと、南海線住吉大社駅への連絡口。

右側は居酒屋と串揚げ屋が営業している。

真っ昼間から営業しているところが、なかなか大阪っぽい。

シャッターを降ろしている店が一軒ある。

夜ともなれば営業を始めるのだろうか?

それら店の前を突っ切って奥のプラットホームへ向かう。

このあたりの雰囲気、どこかで見たことがある。

東京に残る唯一の都電、荒川線の三ノ輪橋駅の雰囲気と似ているのだ。

三ノ輪橋駅もまた、梅沢写真会館という超レトロなビルの中を鳥居のようにくぐり、三ノ輪橋商店街を通り抜ける。

だが、三ノ輪橋の駅前のほうが規模は大きい。

むしろ駅の規模でいえば、同じ東京にあるもう一つの路面電車、東急世田谷線三軒茶屋駅。

その改装する前の駅舎のほうが似ているかもしれない。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]14

rj14住吉4t32

祈祷殿の前には自動車のお祓い所がある。

そこに立つ電話ボックスの屋根にも千木と鰹木が据えられている。

まるで社殿群の一部のように。

千木は外削ぎ、鰹木は三本。

どうやら“祭神”の公衆電話は男神のようだ。

そこから少し離れたところに「丸に十字」の提灯がぶら下がった一角を見つける。

石製の低い玉垣に囲まれたスペースの中央には、ラグビーボール大の石が幾つか寄せ集まっている。

正面入口の横にある標識には「誕生石」の文字。

「丸に十字」は薩摩藩島津家の紋所、なにか関わりがあるのだろうか?

入り口の門は固く閉ざされていて中に入れず、外から覗き込むしかない。

住吉大社の由緒に説明があった。

ここは源頼朝の寵愛を受けた丹後局[たんごのつぼね]が出産した場所という。

懐妊した丹後局は嫉妬深い北条政子に捕えられ、殺害されることになった。

家臣の本田次郎親経[ほんだじろうちかつね]に危ういところを救われ、逃亡。

摂津住吉の辺りまで来た時に日が暮れ、不幸にも雷雨に遭い前後不覚に陥った。

そこで不思議な出来事が起こる。数多の狐火が灯り、局らを住吉の松原まで導いて行ったのだ。

一行が住吉大社の社頭へ至った時、局が産気づいた。

本田次郎が住吉三神に安産を祈る中、局は傍らの大石を抱きながら男児を出産した。

このことを知った頼朝は本田次郎を褒賞。

男児は若君に成長した暁に薩摩と大隅の二か国を充てられた。

その子こそ薩摩藩島津家の始祖、島津忠久公だと伝えられている。

この故事から力石が存在する場所は島津氏発祥の地とされた。

島津氏は聖地「誕生石」を垣で囲み、代々にわたって篤く護持してきた。

現在でも「安産」にご利益があると、祈願する向きが絶えないそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]13

rj13住吉4t28

五所御前から各社殿の右側を通り抜け第四本宮の前に出た。

ここに翡翠[ひすい]で出来た撫でウサギの像が立っている。

手水舎のところで記した通り、ウサギは住吉大神のお使い。

像の五体を撫でれば無病息災の御利益に与れるそう。

ここぞとばかりに翡翠のウサギを撫で回した。

ウサギ像から視線を右側に向けると風格のある大きな門が目に入った。

近づいて見ると看板に「神館」と墨書されている。

神館[しんかん]は大正4(1945)年に建立された歴史的建造物。

中には南向きの玉座(天皇陛下がお控えになる部屋)が設えられている。

その造形美は木造建築の粋を極め、国から登録有形文化財に指定されているほど。

現在は小規模な宴会場として用いられている。

ただ、その姿は白壁に阻まれて伺うことは叶わない。

池の前に出、傍の小径を通って南側から北側へ向かう。

その小径には巨大な燈籠がズラリと立ち並んでいる。

優雅で大きな形をしたものが多く「池大雅灯籠」と呼ばれている。

燈籠は全国の様々な業者から海上守護の祈願を込めて奉納されたもので、その数は約600基。

広告塔としての意味合いも強く、題字は名筆家に刻字してもらったという。

社殿群の北側に巨大な和風建築群が立ち並んでいる。

祈祷殿、社務所、そして参集所だ。

住吉大神は伊邪那岐命が禊祓[みそぎはらい]をした際に現れた神様。

なので住吉大神は神道で最も大切な「祓[はらえ]」を司っている。

夏祭りの「住吉祭」が単に「おはらい」と呼ばれていることこそ、その証。

その御神威には摂河泉はもとより日本中を禊祓するだけの力があるわけだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]12

rj12住吉4t25

一方、末社は次の6社。
  • 侍者社[おもとしゃ]
  • 楠■(■=王偏+君)社[なんくんしゃ]
  • 種貸社
  • 大歳神社
  • 浅沢神社
  • 市戎大国社

うち、第一本宮の裏手にある楠■社に参拝した。

境内奥の樹齢千年を超える楠[くすのき]の大木を御神木とした稲荷社。

江戸時代、神秘的な霊力があるとされる楠に人々は祈りを捧げていた。

その後、根元に設けられていた社に稲荷神を祀るようになったのが創始という。

商売繁盛のご利益があり、現在では大阪はおろか全国の商人から篤く信仰を集めるているそう。

ちなみに、この楠は大阪市から保存樹に指定されている。

楠■社から再び住吉大社の社殿群へ戻る。

第一本宮の裏手に広がる木立の中に、二棟の建物が立っている。

板校倉造[いたあぜくらづくり]という工法を用いた「高庫」で、かつては御神宝が納められていた。

室町時代の建物と伝わり、現在では大阪府から文化財に指定されている。

板校倉造は地面から建物を持ち上げ、板を組み合わせて壁面を構成する工法。

保管に万全の注意を払うため、高床や板校倉を採用することで風雨や湿気からの被害を避けたものと思われる。

高庫から境内をグルリと回りこむと、第一本宮と若宮八幡宮の間に「五所御前」という場所がある。

石でできた玉垣の中に杉の木が立っている。

その昔、神功皇后が住吉大神を祀る土地を探していたら、この杉に3羽の白鷺が止まった。

住吉大神の御思召と感じた神宮皇后は、ここを鎮座地に定めたと伝わっているそうだ。

別名「高天原[たかまがはら]」とも呼ばれ、神霊を迎える御生[みあれ]所(神の来臨する場所)でもある。

玉垣内にある砂利の中に「五・大・力」と書かれた小石があり、これを探して集めてお守りにすると心願成就のご利益があるそうだ。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]11

rj11住吉4t23


社殿群の西側に「住吉文華館」がある。

所蔵する宝物や文化財を保護し、一般公開を通じて住吉大社の歴史や文化財への認識を深めるための施設。

しかし開館は毎週日曜日の午前10時~午後3時と“狭き門”なので見学することは叶わない。

ここで住吉三神に共通する“筒”という文字について考えてみた。

意味するところは諸説あるが有力な説は「津」…船が出入りする港湾を意味する。

三重県の県庁所在地「津」の由来が、まさにそう。

古事記では伊邪那岐命から生まれてきた住吉三神を「墨江之三前大神[すみのえのみまえのおおかみ]」と呼んでいる。

この神様、もとは「住吉津[すみのえつ]」の守護神として祀られていたと考えられている。

祀っていたのは住吉津を守る職務を以ってヤマト王権に仕えていた摂津の名族、津守氏。

天火明命[あめのほあかりのみこと]の子孫と伝わり、住吉大社の神主職を連綿と努めてきた。

日本書紀には遣唐使として派遣された旨の記録が残り、明治維新では男爵位を授与され華族となった。

それほどの長きにわたって家系が継承されてきたことに驚かされる。

また、津守氏第39代当主の国基[くにもと]が和歌の天才として名を馳せていた。

このことから住吉大社は「和歌の神」としての崇敬も集めるようになったという。

瑞垣に囲まれたエリアを裏口から出ると摂社末社が数多く鎮座している。

ひとつひとつお参りするが、沢山あり過ぎて個々に覚えてはいない。

由緒書によると摂社が4社(大海神社/船玉神社/若宮八幡宮/志賀神社)。

このうち大海神社は重要文化財に指定されている。

また、志賀神社には住吉三神と同時に生まれた三柱の海神「綿津見神」が祭神。

綿津見神とは次の三神の総称だ。
  • 底津少童命[そこつわだつみのみこと]
  • 中津少童命[なかつわだつみのみこと]
  • 表津少童命[うわつわだつみのみこと]

綿津見三神は住吉三神と一緒に生まれた神々なのだが、住吉三神のように後に古事記に再び現れることはない。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]10

rj10住吉4t22

建造されたのは全て文化7(1810)年というから、それほど古いものではない。

国宝指定は、代々にわたる遷宮を通じて住吉造の様式を後世へ忠実に伝えたことに対する評価だろう。

その住吉造は3つの特徴から構成されている。

1つ目は朱(丹)と白と黒の三色を中心に彩られた色彩。

柱、垂木、破風板は朱塗り、羽目板壁は白色の胡粉[ごふん]塗り。

そこへ黄金の金具を用いることでゴージャス感を演出している。

2つ目は檜皮葺(ひわだぶき=ヒノキの皮を敷き詰めたもの)の屋根。

切妻(屋根の端を切り揃えた形)が直線的な力強さを感じさせる。

3つ目は直線型妻入り式の出入り口。

屋根の両端(つま)が正面に向いているのが特徴的。

まるで開いた本を上からかぶせたようだ。

最後に最も奥に鎮座する第一本宮に参拝する。

祀られているのは底筒男命[そこつつのおのみこと]。

もちろん川の底で身体を濯いだ時に生まれたので“底”筒男命だ。

さすが第一本宮だけあって、拝殿前のスペースは他に比べて広め。

拝殿の大きさも他に比べると大きいように見える。

ここで、とある注意書きが目に入った。

「参拝は第一本宮から第四本宮へ向けて参拝すること」

にもかかわらす、第四本宮から参拝してしまったのだ。

予め知らなかったとはいえ、これは大失態!

ここから第四本宮へ向けて再度参拝したのは言うまでもない。

手前からではなく、真っ先に最奥の第一本宮へ!

住吉大社へ参ったら、この鉄則をお忘れなきよう。

ちなみに「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」とは筑前一宮住吉神社のことではないかとの推測もあるそう。

なので、住吉三神については筑前一宮住吉神社を参拝する折に改めて勉強したいと思う。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]09

rj09住吉4t21

左側にある第三本宮の前に立つ。

主祭神は表筒男命[うわつつのおのみこと]。

水面の上に出て身体を濯いだ時に生まれたので“表”筒男命の名が付いた。

参拝を終え、社殿の構造をジロジロ観察する。

社殿の構造は「住吉造」と呼ばれ、伊勢神宮の神明造り、出雲大社の大社造りと並ぶ神社建築史上最古の特殊な様式。

手前に拝殿があり本殿との間を幣殿がつないでいる。

拝殿の奥には木造で朱塗りの住吉鳥居が聳立しているのが見える。

本殿内部は2室に分かれ、正面から見て前部が外陣。

一段高くなっている後部の内陣に神座が設えてある。

また、本殿の周囲を巡る迴廊がない。

その代わりなのかどうか本殿の周囲は板玉垣で覆われ、更にその外側を荒忌垣が囲んでいる。

屋根には置千木と5本の堅魚木が据えてある。

千木は女神の神功皇后を祀った第四本宮のみ内削ぎで、あとはすべて外削ぎ。

堅魚木はよく見かける円筒状のものではなく、珍しい四角い形状。

第四本宮の堅魚木も他の社殿と同様5本である。

第三本殿の裏へ回り第二本宮へ。

ここは中筒男命[なかつつのおのみこと]を祀っている。

水の中で身体を濯いだ時に生まれたので“中”筒男命という。

そういえば伊勢一宮の都波岐奈加等神社には、なぜか中筒男命だけが祀られていた。

住吉三神をバラして一神のみ祀った神社は他にもあるのだろうか?

だとしても、なぜ表筒男命でも底筒男命でもなく中筒男命なのだろう?

その理由は…よく分からない。

話を住吉造の本殿に戻そう。

ここにある4つの本殿は昭和28(1953)年11月14日、国宝に指定されている。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]08

rj08住吉4t18

また、社殿は「拝殿-幣殿-本殿」で構成されている。

大きな神社だと本殿は玉垣で囲われ近づくことはできないが。

ここ住吉大社は本殿が剥き出しで容易に近づくことができる。

住吉大社に昔から慣れ親しんでいる地元の方々にとっては、ごく当たり前の光景かも知れない。

だが諸国の一之宮を巡礼して来た者の目には初めて見る社殿の配置と形状がどこか異様に映る。

これら本殿はすべて西…つまり大阪湾の方角を向いている。

この配置は航海する船団をイメージしたとも、兵法「三社の縦に進むは魚鱗の備え 一社のひらくは鶴翼の構えあり よって八陣の法をあらわす」に基づくとも伝えられている。

手前に横列で並ぶ社殿は右が第四本宮、左が第三本宮。

第四本宮には神功皇后が祀られている。

神功皇后、古事記では息長足姫命[おきながたらしひめのみこと]。

第十四代仲哀天皇の妃であるとともに第十五代応神天皇の母でもある。

応神天皇、又の名を誉田別命[ほんだわけのみこと]は八幡神として知られる。

なので誉田別命と神功皇后を母子セットで祀っている八幡神社が多い。

古事記と日本書紀には神功皇后の伝説が結構なスペースを割いて詳述されている。

三韓征伐に乗り出して新羅を平定した“武神”としての姿。

遠征中に産気づいたものの征伐が終わるまで出産を抑えた魔力。

筑紫へ帰還後に出産した御子(応神天皇)が八幡神へと成長していく過程など。

神功皇后は戦前こうした伝説を基に実在の人物として国家神道の喧伝に利用されていた。

戦後になると研究が進み、現在では実在の人物をモデルにした伝説上の人物との説が定着している。

ただ一之宮の住吉神社は長門国にもあるので、神功皇后についてはそちらで勉強することとしよう。

[旅行日:2014年3月19日]

一巡せしもの[住吉大社]07

rj07住吉4t17

反橋は午後9時までライトアップされ、夜景の名所としても名が知られているところ。

そのせいかどうかは分からないが、それにしても外国人観光客の数が多い。

特に白人の西洋系が目立ち、あまり東洋系外国人の姿は目立たない。

いつものことなのか? それとも、この日たまたま多いだけなのか?

そんなことを考えていたら、ブロンドの美女に声を掛けられた。

「エクスキューズ・ミー!」

そう言うとカメラを手渡され、撮影を頼まれる。

サングラスをかけ、長身でダイナミックなプロポーション。

そんなファッションモデルのような彼女が反橋の前でポーズをとる。

秀麗な橋のデザインと肉感的な彼女のボディが魅せる絶妙の調和。

ひょっとしたら神功皇后も彼女のようにダイナミックな女性だったのだろうか。

反橋を渡ると左側に手水舎が立っている。

水の注ぎ口は
石像のウサギ

神功皇后を祀った日が卯歳[うのとし]、卯月[うづき]、卯日[うのひ]だったことに因んだもの。

ウサギといえば大国主命の神話「因幡の白兎」で見るように国津神にまつわる動物かと思っていたら。

天津神の世界でも愛玩されていたわけだ。

石段を登ると四角い柱が特徴的な鳥居が立っている。

「角鳥居[かくとりい]」とも呼ばれ、四角い柱は古い様式で大変珍しいもの。

本殿と拝殿の間に建つ木造朱塗りの鳥居が原形という。

扁額は陶製で、揮毫は有栖川宮幟仁親王の筆による。

鳥居を通りぬけて幸寿門をくぐり境内に入る。

中には同じ大きさ、同じ形状の社殿が4棟。

手前に2棟が左右並列で並び、左側の社殿の後方に2棟が縦列で配置されている。

[旅行日:2014年3月19日]
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