一巡せしもの[鶴岡八幡宮]15

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大石段を降りて左に折れると若宮(下宮)の社殿が姿を現した。

鶴岡八幡宮には本宮と若宮があり、どちらの社殿も国の重要文化財に指定されている。

若宮の祭神は応神天皇の御子、仁徳天皇ほか三柱の神様。

若宮の横には控室が併設されており、舞殿で式を挙げる御両家の親族が待機している。

現在行われている式が終わると「次の方どうぞ」といった具合に舞殿へと案内される次第。

若宮と道を挟んだ反対側には「由比若宮遥拝所」がある。

由比若宮とは先出の由緒書に登場した、材木座に鎮座している由比郷の八幡宮のこと。

つまり頼義が勧請し、頼朝が現地に奉遷した由比郷の八幡宮は、現在でも存在していることになる。

参道を三の鳥居へ向かうと、鳥居の手前の両側に大きな池が広がっている。

…はずなのだが、現在工事中で残念ながら水が干上がっていた。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]14

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拝殿から左側へ回り込み、幣殿を挟んで本殿へとつながる社殿のフォルムを眺める。

八幡信仰は日本に大陸文化が最初に流入してきた北九州で生まれ、土着の信仰や外来の仏教を巻き込みながら拡大。

やがて源氏の氏神となり国家的宗教に発展、武家の守護神として各地に浸透していった。

現在でも八幡神を祀る神社は全国に三万社は下らず、分祀の数ではお稲荷様に次ぐ二位。

今や「八幡様」は日本全国津々浦々、どこでも見かけるお馴染みの神様である。

楼門を出、大石段を降りながら考える。

鶴岡八幡宮は一般に「三大八幡宮」のひとつに数えられている。

三大八幡とは、まず総本社の宇佐神宮(豊前国一之宮)と、京都府八幡市の石清水八幡宮。

それに筥崎宮(筑前国一之宮)か、鶴岡八幡宮のいずれかが入るという組み合わせ。

そのうち筥崎宮にも宇佐神宮にも参詣する機会があるだろう。

それまでに八幡神と応神天皇の関係について勉強しておきたいと思う。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]13

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随神門をくぐり、回廊に囲まれた内側へ。

なお、拝殿や本殿など回廊内の建物は写真の撮影が禁止されている。

随神門から拝殿までの距離はほとんどなく、すぐ目の前に立ちふさがる感覚。

二礼二拍手、手を合わせて目を閉じ、息をスゥーッと吸い込み、八幡神と意識をシンクロさせる…ように試みる。

鶴岡八幡宮の祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、比売神(ひめがみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)の三柱。

第十五代応神天皇は歴史的に実在した最初の天皇と目され、神道上は応神天皇イコール八幡神とされている。

なお、応神は諡号(しごう)であり、諱(いみな)の誉田別命(ほむだわけのみこと)のほうが一般的だ。

誉田別命は父の仲哀天皇が崩御した後、筑紫国(福岡県)にて生誕。

母は鶴岡八幡宮に一緒に祀られている“聖母神”神功皇后(じんぐうこうごう)。

その後、大和国(奈良県)に戻り、母の摂政のもとで皇太子に。

大和国軽島(奈良県橿原市大軽町)に明の宮を造営し、神功皇后の死後、第十五代天皇に即位。

四十一年に及ぶ治世下では百済(くだら)から受け入れた帰化人によって経典や典籍がもたらされたり、当時の中国から文芸や工芸などを積極的に導入したり、この時代に日本文化の基礎が築かれたと学問的にも評価されている。

その“人皇”応神が何故、死後に八幡神として崇められるようになったのか?

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]12

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建久二(1191)年、大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝は直ちに再建に着手し大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の結構に整えた

「いいくにつくろう」の通り、学校では長きにわたり鎌倉幕府の開府を建久三(1192)年と教えてきた。

しかし、それより前に堂舎が数多く存在したということは、既に鶴岡八幡宮が源氏政権の中枢施設として機能していたことを意味する

あくまでも1192年は源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた年であり、最近では鎌倉幕府が実質的に成立したのは1185年だと教えているそうだ。

これからは「いいはこつくろう鎌倉幕府」とでも覚えるようになるのだろうか?

石段を登り切ると、そこには威風堂々たる社殿が偉容を呈している。

建物は文政十一(1828)年に徳川十一代将軍家斉が造営した流権現造り。

鎌倉時代というより江戸時代を代表する建築様式だ。

随神門の前に立ち、上を見上げる。掲げられた扁額は単に「八幡宮」としか記されていないシンプルさ。

しかも“八”の字は、二羽の鳩が向き合った絵で描かれている。

鳩サブレーの形状、この“八”の字の鳩から着想を得たのだそうだ。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]11

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同年4月、倒伏した場所から蘖(ひこばえ=根元から生えてくる若芽)が芽吹き、現在では約2メートル程までに成長している。

また、倒伏した樹幹は再生可能な高さ4メートルに切断し、その横に据え置かれた。

蘖の「子イチョウ」は生育状態の良いものを選び「後継樹」として育成。

横に移された「親イチョウ」は再び大地に根を張ることが期待されている。

そして現在では双方とも「御神木」としてお祀りされている。

そのまま視線を上げ、若宮大路を由比ガ浜方面に望む。

朱塗りの鳥居が二つと、その先に白い鳥居が一つ。

空気の澄んだ快晴の日には水平線や、更には伊豆大島まで眺めることが出来るそうだ。

さて、先出の由緒書の続き。

治承四(1180)年、源氏再興の旗を挙げた源頼朝は父祖由縁の地鎌倉へ入ると、由比郷の八幡宮を『祖宗を崇めんが為』に小林郷北山(現在地)へ奉遷し、京に於ける内裏(京都御所)に相当する位置に据えて諸整備に努めた

もともと由比ヶ浜から近い場所にあった八幡宮を『祖宗を崇めんが為』ここへ移した。

そして鎌倉の街を京の都に比肩する規模に構築し、若宮大路を平安京の朱雀大路に模して整備したということか。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]10

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結婚式が厳かに続く舞殿を回り込むと、本殿へと続く大石段が続き、その左側には大銀杏…の跡。

昭和三十(1955)年に神奈川県天然記念物に指定された、鶴岡八幡宮の象徴ともいうべき大銀杏。

建保七年(1219)一月二十七日、鎌倉二代将軍頼家の猶子で八幡宮別当の僧侶公暁(くぎょう)が、この大銀杏に隠れて三代将軍実朝を待ち伏せ暗殺したという。

この歴史の教科書にも載っている、源氏将軍家三代の息の根を止めた「隠れ銀杏」事件の舞台にもなったところだ。

その大銀杏が雪混じりの強風によって倒伏したのは、平成二十二(2010)年三月十日未明のこと。

樹齢千年ともいわれており、「いいくにつくろう鎌倉幕府」の1192年よりも前から、この地に根を張っていたことになる。

高さは推定30メートル、幹の太さは約7メートル。燃え上がるような黄色い葉を身に纏った大銀杏は、朱塗りの社殿と絶妙なコントラストを描いていた。

石段の途中で足を止め、大銀杏の根本を見下ろす。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]9

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参道を進むと、まず突き当たるのが舞殿。

又の名を「下拝殿」ともいう。

日曜日でもありお日柄も良いせいか、舞殿では結婚式が執り行われていた。

こうした衆人環視の中で行われる結婚式というのも、なかなかシビアなものだと思う。

永遠の愛を誓う相手は八幡様ではなく、グルリと取り囲んで見物している“参拝客”という名の赤の他人なのかも知れない。

いるかいないか分からない存在の神様より、赤の他人(それも女性)の熱視線のほうが、よほど新郎に「新婦を裏切れないなぁ」と思わせる効果があるのではなかろうか。

この舞殿で有名なのが源義経の愛妾、静御前の“伝説の演舞”だ。

追われる身だった静御前が囚われ、頼朝の前へと引き出された。

そこで頼朝と北条政子に所望され、やむなく静は「白拍子」を演舞。

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

追討の発令者たる自分の前ですら義経を慕う歌を詠む静御前に、頼朝は烈火のごとく激怒。

刀に手をかける頼朝を政子は「主を思う女心は女にしか分からないもの」と諌め、静は命を救われることに。

静御前が白拍子を舞った「若宮廻廊」の跡に、この舞殿は建立されている。

ここで祝言を挙げる夫婦が愛を誓う真の相手は八幡神でも参拝客でもなく、本当は北条政子と静御前なのかも知れない。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]8

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というわけで段葛にも終わりが見え、代わって三の鳥居が姿を現してきた。

二と三の鳥居も一の鳥居と同様、寛文八(1668)年に四代将軍家綱が寄進したもの。

しかし関東大震災は一の鳥居だけでなく、すべての鳥居を倒壊させた。

一の鳥居は先述の通り一部新材を補って復旧されたが、二と三の鳥居は朱塗りの鉄筋コンクリート製に新造された。

スクランブル交差点を渡って境内へ。
既に日も高く、周囲は内外の観光客で混雑している

三の鳥居をくぐると目の前には神橋が架かっている。
しかし封鎖され渡ることはできない。

神橋を渡るなど畏れ多いからか?
それとも古くて危険だからだろうか?

神橋の脇を通り過ぎようとしたとき、該社の由緒書が目に止まった。

それによると鶴岡八幡宮は「源頼義が前九年の役平定後、康平六(1063)年に奉賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる」という。

鎌倉幕府が開府する百年以上も前、この地には既に八幡様が鎮座していたことになる


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]7

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大正七(1918)年に鎌倉町青年会が建立した石碑には、こうある。

其の土石は北條時政を始め源家の諸将の是が運搬に従える所のものなり。

農民や町民を徴用したのではなく、武士たちが自らの手で造成したわけだ。

明治の初年に至り二ノ鳥居以南其の形を失えリ。

つまり江戸時代には二の鳥居と一の鳥居の間にも段葛があったということか。

さっそく段葛を歩いてみる。

道幅は思ったほど狭くなく、両側は奥行きのある花壇と植栽された並木により車道から隔離されているため、自動車を気にせず歩くことができる。

ただ、段葛は二の鳥居から鶴岡八幡宮に向けて道幅が徐々に狭くなるよう作られている。

このため遠近法が作用し、実際の距離よりも長く見えるよう工夫されているそうだ。

二の鳥居から少し北進した左側に、白亜の殿堂の如き立派な建物が立っている。

鎌倉銘菓「鳩サブレー」でおなじみ豊島屋本店。

この「鳩サブレー」もまた、鶴岡八幡宮とは縁が深い洋菓子だ。

更に段葛を北進すると今度は右側に、十字架をテッペンに乗せた尖塔が目に止まった。

名を「カトリック雪ノ下教会」という、とても大きな教会。

それにしても源氏の守護たる八幡神の門前に南蛮寺とは!

と、鎌倉武士が見たら憤慨するのではなかろうか?

いや、まだ鎌倉時代にキリスト教は伝来していないか。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】デジタル写真の色を極める!』桐生 彩希

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]6

rj06鶴岡t4u07

歩道橋を降り、横須賀線のガードをくぐり、鎌倉駅前を横切り、鎌倉警察署の前を過ぎると、二の鳥居が姿を現した。

鳥居横には社号標。

揮毫は東郷平八郎元帥の筆によるもの。

それにしても東郷元帥、日本中の社号標で健筆を振るっておられる。

ちなみに鶴岡八幡宮で社号標があるのはここ、二の鳥居の前のみ。

二の鳥居から若宮大路の中央は、車道より一段高い土盛りの歩道となる。

世に名高い「段葛(だんかずら)」だ。

頼朝が幕府を開くと多くの武将たちも鎌倉に住むようになった。

しかし、もともと鎌倉は平地が少なく、山を削って屋敷地を造成した。

このため山の保水力が低下し、雨が降るたび若宮大路に水や土砂が流入。

それでは道が泥濘んで歩きにくいため、平地から一段高い道を建設した。

それが「段葛」の起源である。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]5

t4u鶴岡05

再び若宮大路を一の鳥居方面へ引き返す。

途中で鎌倉女学院前の歩道橋に上り、鶴岡八幡宮方面を見やる。

どん突きに八幡宮の社殿が、緑に包まれた小高い丘を背に聳立している。

若宮大路は寿永元(1182)年、頼朝が妻政子の安産を祈願して鶴岡八幡宮の社頭から由比ヶ浜まで建設した参道。

当時の若宮大路は両側溝と路肩を含めた総幅が36.6メートル、道路幅員は約30メートルと伝わっている。

現在の全幅も約30メートルあり、頼朝は八百年前から既に今ある規模の道路を造成していたことになるわけだ。

頼朝の幕府開府以来、若宮大路は神聖な道であり、武家屋敷は基本的に大路に背を向けて造られていた。

大路は側溝と武家屋敷の塀で囲われた格好となり、戦の際は防衛線の役割を担っていたとも言われている。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]4

rj04鶴岡t4u00

大鳥居から海岸線に向けて再び歩く。

かれこれ五百メートルは有るだろうか。

そのうち左側に川が寄り添ってきた。

滑川といって、それほど幅は広くない。

突き当りを東西に走る国道134号線を超え、海に到着。

滑川から西側を由比ヶ浜、東側を材木座海岸と呼ぶ。

由比ヶ浜にはサーファー、犬と散歩する人、寄り添う恋人たちと、海辺で日曜の朝を満喫する人たちの姿が。

一方の材木座海岸にはステージが組まれ、テントが立ち、白いプラスティック樹脂製の椅子とテーブルが並んでいる。

川ひとつ挟んだだけなのに、それぞれの海岸が見せる表情の違いが興味深い。

鎌倉は海に面しているだけあり、往時は海上交易が盛んだった。

由比ヶ浜には数百隻の舟が行き来し“首都”の経済を支えたという。

貞永元(1232)年に和賀江嶋(わかえじま)の築港が完成し、鎌倉幕府の海上交易はピークを迎えた。

和賀江嶋は材木座海岸を東へ向かい、砂浜が途切れるあたりの沖合に浮かぶ小さな人工島。

現存する最古の港湾施設で国史跡にも指定されているが、満潮時には全島が海面下に水没する“幻の島”でもある。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]3

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海岸から程近くに聳立している一の鳥居「浜の大鳥居」。

花崗岩製で高さは8.5メートル、柱の太さは92センチ。

最初の鳥居は源頼朝の時代、治承四(1180)年十二月に建造が始まり、寿永元(1182)年に完成した。

現存の鳥居は寛文八(1668)年に徳川四代将軍家綱が寄進したもの。

二代将軍秀忠の御台崇源院が世継の家光を懐妊した時、鶴岡八幡宮に安産を祈願し、無事に出産。

その霊験から鶴岡八幡宮への崇敬を篤くした崇源院に、八幡大神が夢の中で「備前国犬島の奇石で大鳥居を建立し給ふべし」というお告げを下した。

崇源院は家光に必ずお告げを実行するよう頼んで他界。

それが実現されたのは次の代である家綱の時代だったという話。

ちなみに一の鳥居が石造りになったのは、この時だとか。

その後は長らく国内で石鳥居が建立される際のモデルとなり、明治三十七(1904)年八月には国宝に指定される。

大鳥居の真下へ行き、空を見上げる。

石造りの巨大な明神鳥居で、支柱には折れた跡が残る。

手前の銘板によると、大正十二(1923)年に関東大震災で柱下部を残し崩落。

崩落前の姿を忠実に復元するため、新しい建築技術ではなく古法に則って再建に着手。

崩落した旧材を出来る限り使い、足りない部分は犬島まで石材を調達しに行ったそうだ。

両側の柱の上部や笠木の中央部など、ヒビの入っている部分が該当するのだろう。

かくして昭和十一(1936)年八月に浜の大鳥居は再興なり、美しき旧観を取り戻すに至る。

安易に新たな鳥居を建立することなく、壊れた鳥居を復元して後世に遺そうとする昭和人の意気に感服する。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]2

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772Fは横浜駅を過ぎ、やがて武蔵国から相模国に入った。

車内は部活に向かう学生生徒や行楽客が目立ち、日曜日ならではの華やいだ雰囲気が漂う。

やはり海に向かう列車には、どこか心を浮足立たせるものがある。

08時44分、鎌倉駅に到着。

まだ朝早いのに駅の周辺は観光客で一杯。

さすがは国内屈指の観光地だ。

鶴岡八幡宮へ向かう前に、取り敢えず由比ヶ浜へ行ってみる。

西口を出て案内標識に従い、南の方角へ向かった。

途中、江ノ電の踏切で電車が通り過ぎるのを待つ。

この小さな車両を見ると、鎌倉に来た実感が湧く。

適当に歩いているうち、松並木が美しい幅広の道路に出た。

道は海に向かって一直線に伸び、その先には大きな鳥居がデンと構えている。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]1

rj01鶴岡t4u01

錦糸町駅発午前07時40分、JR横須賀線772F列車。

日曜の朝とあって車内は空いており、快適な列車旅が楽しめそうだ。

両国駅から地下へ潜った772Fは品川駅の手前で地上に顔を出す。

車窓から皐月晴れの陽光が差し込み、暗かった車内が一気にパッと明るくなった。

これから、鎌倉へ行こうと思う。目的は相模国一之宮の巡礼。

相模国に一之宮は二つある。

ひとつは鎌倉の鶴岡八幡宮。

もうひとつは相模西部の寒川神社。

しかし鶴岡八幡宮は元来の意味での“一之宮”ではない。

平安時代の法典、延喜式における相模国一之宮は寒川神社であり、鶴ヶ岡八幡宮の名は存在しない。

それもそのはず、延喜式が成立したのは延長五(927)年。

一方、鶴岡八幡宮が創建されたのは建久二(1191)年。

つまり鎌倉幕府のゴリ推しで一之宮になったようなものだ。

それでも寒川神社は一之宮の座を明け渡さず、その地位を今なおキープしているのだから凄い。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日

一巡せしもの[香取神宮]21

rj132香取t4u00

少しの間ボーッとした後、佐原駅へ向けて再び歩き出す。

ここから駅方面は謂わば新市街地なのだが、なぜかこちら側のほうが古臭く感じる。

昭和の時代に建てられた建物が多く、古くもなければ新しくもない中途半端な時代感が漂っているせいだろう。

また、駐車場が多く空き地が目立つ点も、中途半端感を増幅している要因かもしれない。

駅近くには閉店した地元百貨店の清見屋が、亡霊のように空き店舗を晒している。

そこから駅へ向かう道に入ると突き当たりはT字路になっており、向こう側には空き地が広がっている。

もう一つの大型店だった十字屋が閉店し、解体された跡地とのことだ。

駅近辺は道が入り組んでいて自動車では来にくく、郊外の大型ショッピングモールから客を奪還するのは最早不可能だろう。

駅近エリアの商店街は“昭和レトロ”で統一し、重伝建地区の“明治大正レトロ”と複眼的なコンセプトのもとで、鉄道による集客戦略を立てでもしないと空洞化は止まるまい。

その突き当りを右に曲がると、JR佐原駅が姿を見せた。

重伝建地区の町並みと意匠を揃えた駅舎は外観を江戸時代の商家のように見せつつ、内側にはコンビニなど現代的な機能を備えている。

そのコンビニで缶ハイボールを1本購い、千葉行きの電車に乗り込んだ。

自家用車を使わず巡礼することが、これほど大変なことだとは!

動き出した電車の中で流れ行く車窓の景色を眺めつつ、ハイボールをゴクリと飲み下しながら、そう思った。

(下総国「香取神宮」おわり)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]20

rj13香取t4u25

しかし、全て後の祭り。

それに、こうして実際に訪ねて気が付いたことなので、事前に察するには一層に調査が必要だったろう。

そもそも東京から高速バスで往復するのと、自家用車で行き来するのと、一体どこに違いがあるのか?

むしろ香取神宮からの帰路が遥遠なればこそ、参拝の有り難みも増すというもの。

帰路に徒歩を選び、却って良かった…と自らに言い聞かせながら夜道を歩くこと2時間弱。

県道16号線と交わる香取神宮入口の交差点を超えると、次第に家並みが古色を帯びてきた。

そのうち本当に古い建物がズラリと居並ぶようになり、目を奪われているうち小さな川へと行き当たる。

川の名は小野川、架かる橋は忠敬橋。ようやく佐原の旧市街地に到着した。

ここは文化庁から関東で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されたところ。

そのレトロな街並みは非常に趣があり、小野川に沿って暫し散策。

川っぺりのベンチに腰掛け、ライトアップの中に浮かび上がった古(いにしえ)の町並みを眺める。

とはいえ疲労困憊の身にとって、懐古的な味わいを存分に堪能するだけの余力は既にゼロ。

かねてから一度は訪れてみたかった街なのに…無念。

路線バスが運行されている土日祝、佐原の町並みを鑑賞した後で香取神宮を参拝する

…これがベストなのかも知れない。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]19

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そんな思い付きを頭の中でボンヤリ巡らせながら県道55号線を歩くこと、かれこれ1時間弱。

突然、目の前に巨大な鳥居が姿を現した。横には社号標が立っており、一の鳥居なのは間違いない。

ここまで二の鳥居から道なりに約1.6キロ。ロクな歩道もなくクルマの量も多い香取神宮の表参道、まさに受難の道だ。

一の鳥居は二の鳥居、三の鳥居と比べても巨大な代物で、装飾を一切省いた典型的な明神鳥居。

唯一、島木に勅祭社の証である菊の御紋が三つ、あしらわれているのみ。

ちなみに勅使の御参向は6年に一度、子年と午年に遣わされるそうだ。

鳥居は朱塗りでもなく、石造りのようだが夜目にはコンクリート製にも見える。

比較的新しいようにも見えるが、明治時代には既に建立されており意外と古い。

こうして一の鳥居と出合っても気疲れのせいか、さしたる感慨も沸かず佐原駅へ向かって歩き続ける。

とはいえ、これなら香取駅へ引き返したほうがよかったと後悔至極。

それ以前に、出立の段階で選択肢を間違えたと痛感。

鹿島神宮行ではなく香取神宮行の直通高速バスに乗車すればよかったのだ。

バスは東京駅から1時間に1本の割合で出ている。

鹿島神宮行の本数に比べれば少ないが、需要がないだけに乗客も少ないはず。

香取神宮から香取駅まで歩き、JRで鹿島神宮駅へ移動し、そこから高速バスで東京駅まで帰ってこれたわけだし。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]18

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ここからだと距離は約2キロ強。

洲崎神社参拝の際に歩いたフラワーロードを思えば、まあ何てことないだろう。

そう腹をくくって県道55号(山田佐原)線に足を踏み出したのだが…。

県道と参道が交差する少し先に、雰囲気のいい食堂があった。名を「川口園食堂」という。

建物は昔ながらの二階建て日本家屋で、庇の上には横長の大きな看板。

その下では真っ白な暖簾が客を手招きしているかのように風に揺れている。

この佇まい、食堂として見るからに「ストライク」。

ここで夕飯を済ませてから行こうか…心が揺らぐ。

しかし佐原駅までどれほど時間がかかるのか見当もつかない現状下では、先を急ぐ他ない。

県道55号線はフラワーラインとは真逆の意味で、最悪の道路だった。

まず歩道のない部分が圧倒的に多い割にクルマの通行量が多く、しかもスピードが速いので危険極まりない。

クルマだけに目が向き、歩行者のことを全くといっていいほど考慮していない県道…まさに“ボーソー半島”である。

でも、こんなところをクルマじゃなくポクポク歩いている人のほうこそ、よほど変わり者かも知れないが。

ただ歩くだけというのも退屈なので、香取と鹿島の二神の関係について考えてみた。

「常陸国風土記」で鹿島神は「香島天之大神」と記されており、奈良時代に鹿島は「香島」と呼ばれていたことが分かる。

ならば香取は実は「香鳥」で、利根川を挟んだ向こう側の香島と対になっていたのではなかろうか?

利根川の手前が香鳥で、向こう側が香島。

鳥なら川を飛び越えて簡単に島へ渡れる。

香取の語源は「舵(楫)取り」が詰まったものと言われているから、あくまで「香鳥」説は何の根拠もない妄想だけど。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]17

rj10香取t4u00

仲見世を抜けると、そこには広大な駐車場が広がり、その片隅にバス停が佇む。

停留所の掲示を見ると東京駅との間に直通の高速バスが運行されている。

しかし最終便は16時過ぎに出発済みで、もはやアウト。

別の停留所があったので掲示を見ると、幸いなことに佐原駅と結ぶ循環バスが運行されている。

次の便は17時5分発と、まだ多少の時間がある。

それまで仲見世の団子屋でコーヒーでも飲みながら待つか。

そんなノンキなことを考えていたら、恐るべし一文が目に止まった。

「運行日 土曜・日曜・祝日運行」

あいにく今日は平日で、まったくのヌカ喜び。

その下には、こうも記されている。

「※運休日 年末年始(12月29日~1月3日)」

「なんで正月の書き入れ時に休んでんだよ!」

腹立ち紛れに悪態をつくが、かといってバスが来るわけでもない。

香取駅まで歩くのも手だが、来た道を単純に引き返すのも芸の無い話、そういうことはしたくない。

それに完全に日が暮れている今、あの道を通りたくはない。

しかも近くの道標には「佐原の古い町並みコチラ」とある。

ここは迷わず、佐原駅まで歩くことに決めた。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]16

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長威斎の墓所を辞して表参道へ戻り“表玄関”へ。

ようやく朱塗りの大鳥居と社号標に“邂逅”した。

ここ参道正面に聳立する大鳥居は二の鳥居だと、参拝の栞に明記されている。

なら、どこに一の鳥居は存在するのだろう? 少なくとも津宮浜鳥居が違うのだけは確かだが。

大鳥居をくぐって境内を出ると、昔ながらの仲見世が続いていた。

食事処や和菓子屋、土産物屋などが軒を並べ、大きな神社ならではの風情が横溢している。

ただ、まだ17時前だというのに既に日が暮れて周囲は薄暗く、ほとんどの店が閉店間際。

結局どこにも寄らずに通りぬけたものの、何が名物なのか抜け目なくチェック。

団子、蕎麦といった神社の定番メニューに加え、何故かコーヒーを売りにしている店が目に付く。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]15

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香取神宮には不思議な神威があると直感した長威斎は、経津主命に千日千夜の大願を起こす。

昼は梅の木に向かって木刀を振り続け、夜は社殿で祈る毎日。

やがて3年の月日が流れ千日千夜を終えるころ、一心不乱に祈る長威斎の脳裏に経津主命の霊言が舞い降りた。

「兵法は平法なり。敵に勝つ者を上とし、敵を討つ者はこれに次ぐ」

兵法とは平和の法。大事なのは敵と戦って討つことではなく、敵と戦わずして勝つ方法を考えること、と悟る。

剣法の奥義を極めた長威斎は梅木山を下り、香取神宮で開眼したことから「天真正伝香取神道流」と命名し、近くに武術道場を開設した。

この話、鹿島新道流開祖の塚原卜伝と鹿島神宮の逸話とどこか似ている。

それもそのはず。卜伝は長威斎の門弟だったと言われているのだ。

長威斎は晩年、生家に近い香取郡飯篠村(現多古町)に如意山地福寺を創建。

それから2年後の長享2(1488)年、102歳で大往生を遂げたという。

墓所は小高い塚で、真ん中に上部が斜めに欠損した石板の碑が立っている。

そして塚のあるこの場所こそ、長威斎が修行に打ち込んだ梅木山だった。

石段下に立つ説明板によると、石碑の高さは90センチ強、幅は50センチ弱。

小さな石碑を眺めていると、長威斎は決して屈強な偉丈夫ではなかったような、そんな気がしてきた。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]14

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その目と鼻の先、香取神宮にも鹿島神宮と同様に要石がある。

なぜ両神宮に要石が存在するのか?

ここ香取の地も昔から地震が多く、その原因は地中に住み着いた大鯰が荒れ騒いでいるからで、その点では鹿島神宮と同じ。

そこで香取と鹿島の両大神は両側から地中幾十尺もの深さに石棒を突き刺し、大鯰の頭から尻尾まで貫通させた。

地上に顕れたその両端が要石だと伝わっている。ちなみに香取神宮が凸形、鹿島神宮は凹形だ。

それと、ここでも水戸の黄門様が貞享元(1684)年に参詣された折、要石を掘らせたという。

だが鹿島神宮と同様、やはり根元を見ることは叶わなかったそうだ。

更にその奥で「剣聖飯篠長威斎之墓」と墨書された看柱を見つける。

「神徳館」のところで登場した飯篠長威斎家直は室町時代中期に生まれた剣豪で、元は守護大名千葉胤直(ちばたねなお)の家臣。

ところが、お家騒動で主家が身内同士で殺し合い、無辜の民が戦に巻き込まれて犠牲になるのを目の当たりにし、武芸を以って生きることに絶望。

一時は足利八代将軍義政に仕官したこともあるほど有能だった長威斎だが、千葉家が断絶したのを機に仕官の道をキッパリ捨て去った。

そして世間から逃れるかのように、奥宮に近い梅木山へ隠居して神仏の道を志すことに。

そんな折、聖水が湧く神井戸を穢した人にバチが当たって即死したのを見た。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]13

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表参道を通って二の鳥居へ。

両側には石灯籠が整然と並んでいる。

東日本大震災で崩落の被害を受けたそうだが、現在ほぼ現状復帰しているように見える。

石灯籠の後ろ側は木々が鬱蒼と生い茂り、ただでさえ日没で薄暗い参道の闇を更に濃くしている。

公式サイトには「桜や楓が植えられており春の桜花・秋の紅葉は見事」とある。

だが、その光景は昼間の晴天時のものだろう。

今は真冬で、しかも逢う魔が時。

タイミングが“見事”なほどに真逆だ。

参道の途中で小路を右折し、経津主命の荒御魂を祀る奥宮に参詣する。

現在の社殿は昭和48(1973)年、伊勢神宮式年遷宮の折の古材を以って造営されたもの。

社殿は玉垣で覆われ全体像を拝むことはできないのだが、隙間から覗き見た御姿からは小さいながらも霊力を湛えた力強さを感じる。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]12

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拝殿の前に戻り、楼門と総門をくぐって再び表参道前へ。

総門を出ると右手にある古風な木造建築が目に入った。

道場「神徳館」。

“武神”香取神宮の“魂”とも言うべき建物。

門は閉ざされ中の様子は伺えないが、木造の門塀からは長きにわたって風雪に耐えてきた様子が伺える。

時代劇を見ていると、道場の床の間には必ずといっていいほど「香取大明神」の掛け軸が吊るされている。

「布都御魂剣」の神霊を祀る香取神宮が武道場の象徴として崇拝されるのは当然の理。

また、ここ香取神宮は飯篠長威斎家直(いいざさ ちょういさい いえなお)が創始した現存最古の武術流儀「天真正伝 香取神道流(てんしんしょうでん かとりしんとうりゅう)」が生まれたところ。

600年にわたって伝承されてきた香取神道流は念流、陰流と並ぶ兵法三大源流のひとつ神道流の元祖。

香取神宮が武道の象徴として崇拝されているのは布都御魂剣だけでなく、香取神道流の存在も大きいのだ。

それまで決まった「型」のなかった武術の世界に、長威斎は太刀、小太刀、長刀、居合抜刀、二刀流、棒術、薙刀、槍、鎖鎌、柔術、築城術など百般にも及ぶ武道の原型を作り上げた。

それらの「型」は昭和35(1960)年に千葉県無形文化財に指定され、その大半は「蜻蛉(とんぼ)伝書」と呼ばれる極意書とともに、長威斎の子孫である宗家二十代目の飯篠快貞氏によって確実に継承されている。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]11

それは「布都御魂剣」の神霊を、別々の有力氏族が守護神として崇め祀っていたからだという。

常総地方は中臣鎌足の出身地で、中臣氏=後の藤原氏が氏神様として祀っていたのが鹿島神。

一方の経津主命は、それ以前に物部氏との関わりが深かった。

しかし、物部氏は用明天皇2(西暦587)年に蘇我氏との抗争に破れて没落。

その後、物部氏は姓を石上氏(いそのかみうじ)に改め、こちらが宗家となった。

大和国石上神宮に「布都御魂剣」が祀られていると古事記に記されているのも、物部氏と石上氏の関係を知れば納得できる。

大国主命に対する国譲り神話で、本来なら経津主命が主役になってもおかしくないはずなのに。

例えば「出雲国風土記」に経津主命は「布都怒志命」として登場するが、武甕槌命は登場しない。

日本書紀には経津主命と武甕槌命の二神が揃って登場。

だが、古事記では武甕槌命しか登場せず、経津主命は出てこない。

なぜ、どれも同時代に編纂された歴史書なのに、両神の扱いが不統一なのか?

たぶん、オリジナルの神話では経津主命だけが天降って大国主命と国譲りを折衝したのだろう。

ところがヤマト王権が神話を再構成する段になると、王権内では藤原氏の勢力が著しく拡大していた。

藤原氏に気を使った編纂者は国譲り神話の主役を経津主命から、藤原氏の氏神様である武甕槌命に挿げ替えた。

このため、経津主命ではなく武甕槌命が前面に押し出されるようになった…という筋書きのようだ。

歴史上、敗者の弁は勝者の美談に押しやられ、深淵なる時の狭間に埋もれ、なかなか陽の目を見ることはない。

だからこそ、こうして想像力を逞しく働かせ、様々な推論を楽しむことができるというもの。

これはこれで有難い話だ。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]10

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本殿と末社の桜大刀自神社の間を通り、白いベールに覆われた本殿の後ろ側を眺めつつ進むと、正面には摂社の匝瑳神社。

隣に神饌殿、向かい側に三本杉。その中心に円錐形の砂山が盛られ、周囲に注連縄が張られ、紙垂が下がっている。

この盛砂は「立砂(たてすな)」と呼ばれる一種の神籬(かもろぎ)、つまり神様が降りられる憑代(よりしろ)だ。

立砂を眺めつつ、武甕槌命と経津主命の関係について再び考えてみた。

両命は由来が酷似していることから、元は同じ神が時代の経過とともに二分したかのように見える。

しかし、奈良時代の養老5(721)年に成立した「常陸国風土記」では鹿島と香取それぞれに記述がある。

「普都(ふつ)大神と名乗る神が降りて」という記述から、もともと香取神は常総地方土着の守護神だったものと思われる。

一方では鹿島神が船で陸と海を自在に往来し、同神を祀る社に武具が奉納されたと記述されている。

武甕槌命と経津主命は、それぞれ全く別の神々だったのは確かな模様。

なのになぜ、鹿島と香取の両神は同一神と見做されるほど親しい関係にあるのだろう?

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]09


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御神木を見やりつつ拝殿の右側から裏手に回り、空高く組まれた足場の隙間から本殿を眺める。

本殿も楼門と同様に元禄13(1700)年の造営で、現存する三間社流造の中では最も大きい。

こちらは昭和52(1977)年に国の重要文化財に指定されている。

現在の工事は平成25(2013)年4月に斎行される式年大祭へ向けた屋根の葺き替えと漆塗りの補修とのこと。

本殿の裏手から更に奥へ。

樹齢を幾年も重ねてきた大木の森を抜けると、そこにあるのは茶店「寒香亭」。

店先にはこまごまとした土産物が並び、奥にはストーブが赤々と燃え、品書きには、おでんに団子と甘酒にところてん。

まさに神社の茶店を絵に書いたような佇まい。

こういう茶店が好きで堪らない。

だが今回は日没が迫っており、立ち寄ることなく再び境内へと引き返す。

今度は「参拝の栞」の境内見取り図を見ながら、来た道とは反対側へグルリと回ってみる。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]08

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そういえば神武天皇が熊野で悪神の毒気で大ピンチに陥った際、武甕槌命が自らの代わりに送った神剣の名は「布都御魂剣」(ふつのみたまのつるぎ)。

この「ふつ」という音は古代、刀剣が物を切り裂くことを意味していた。

「ふつぬしのみこと」が神剣「ふつのみたまのつるぎ」を神格化したのは間違いないところだろう。

こうした事柄を合わせて考えるに「武甕槌命と経津主命は同じ神だったのではなかろうか?」なる思いが湧いてくる。

拝殿を正面にして右側を向けば、そこには祈祷殿が構えている。

以前は拝殿だった建物で、今の拝殿が昭和15(1940)年に建造されたのを機に移築されたもの。

現在の拝殿より小ぶりだが端正で落ち着いた佇まいからは、古社への信仰を長らく受け止め続けてきた矜持が感じられる。

祈祷殿と拝殿の間に、見るからに霊験あらたかな巨木が聳立している。

樹齢約1000年とも伝わる御神木で、両腕を広げて取り囲んだなら5人は必要だろうと思われる太さ。

幹の周径は10メートルを超えているものと思われる。

もちろん抱擁できるまで近づくことはできないが。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]07

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現在の拝殿は昭和15(1940)年に造営されたもので、檜皮葺き屋根の権現造り。

全体に渋い黒漆塗りで、鮮やかな朱色の楼門とのコントラストが対照的だ。

庇の下を左右に貫く長押(なげし)の上には極彩色の蟇股(かえるまた)が据えられている。

蟇股とはカエルが足を広げた形に似た装飾材。

股の間に設えられた禽獣花鳥の彫刻が美しい。

拝殿の前で頭を垂れて瞳を閉じ、柏手を打ち両胸の前で手を合わせる。

香取神宮が創建されたのは神武天皇18年、西暦にすると紀元前643年のこと。

御祭神の経津主命は別名「伊波比主命(いはひぬしのみこと)」又は「斎主神(いはひぬしのかみ)」とも。

つまり伊波比主とは斎主、すなわち祭祀者のことを指しているという説もあるそうだ。

果たして何を祭祀している者だったのか?

経津主命もまた鹿島神宮の御祭神である武甕槌命と同様の“武神”。

しかも伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の首を切り落とした際、剣から滴る血が固まって生まれた剣の神という“誕生譚”も一緒。

さらには天照大神の国譲り戦略でも、武甕槌命と共に大国主命から地上統治権を奪取する功績を挙げたと伝わている。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]06

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その鳥居をくぐり、横に長い石段を上がり総門を通り抜け、クランク状になった参道を右に進むと、左側に朱塗りの壮麗な楼門が姿を見せた。

造営は元禄13(1700)年というから、徳川五代将軍綱吉の治世下。

昭和58(1983)年には国の重要文化財に指定されている。

楼門を通る前に顔を上げ、扁額を見やる。

香取神宮の扁額もまた鹿島神宮と同様、東郷平八郎元帥の揮毫によるものだ。

楼門を抜けると重厚な社殿がドンと待ち構えている…と思いきや。

こちらも鹿島神宮と同様、ただいま「平成の大修理」真っ最中。

拝殿のファザードだけが顔を出し、後方の幣殿と本殿は薄いヴェールと作業用の足場で覆われている。

社殿の全体像を拝見できないのは残念だが、こうした不断の手入れが重要文化財を後世に伝えることにつながるのだ、我慢しよう。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]05

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香取神宮の境内に入る少し手前で、小さな池の中に立つ小さな鳥居に出合う。

背後の山から流れ落ちる伏水を祀ったのだろうか。

池を包む木々の緑と、渋く赤錆びた鳥居の織りなすコントラストが美しい。

香取交差点から30分は優に歩いたろうか。

坂を登り切ると大きな道に行き当たった。

交差点の中央に「雨乞塚」が佇んでいる。

それを見ながら左折して直進すると、唐突に境内へ出た。

裏道から来た格好なので社号標のある二の鳥居をくぐらず、いきなり社殿の前に出てしまった格好。

それでは具合が悪いので、正面からキチンと参拝するため境内を右側へと回りこむ。

やがて巨大な鳥居が姿を現し、総門の前に出た。

石造りの巨大な鳥居で、後々調べたところでは三の鳥居に当たるらしい。

しかし裏からヒョイと出てきた身には、何番目の鳥居かは知る由もない。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]04

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鹿島と香取の両神宮は古代ヤマト王権の対蝦夷戦略で、共に最重要前線基地として機能していた。

平安中期の律令施行細則「延喜式」でも、伊勢神宮に準じて「神宮」を称することが許されたのは両神宮だけだったことからも、その重要性が伺える。

2000年近くも昔の政治的なパラダイムが今なお盛大な祭りの中で息づいていることに、歴史のロマンを感じる。

再び香取神宮方面への道程へと戻る。

途中、刈り入れの終わった田圃で稲干しを見かけた。

なぜか稲穂が赤い。

近づいてよく見ると、米ではなく唐辛子だった。

それにしても案内板にあった「日本の原風景に出逢えるまち」そのままの景色。

都心から電車でわずか2時間程度で、このような原風景に出逢えるとは千葉県も懐が深い。

香取交差点を渡って県道253線を過ぎると、道が二手に分かれる。

直進は太い道、左折すると細い道。徒歩旅行者としては細い道を進むのが正解ではないかと直感。

迷わず左折すると道は更に細くなり、両側に密生する木々の梢が頭上を覆い、まるで緑のトンネルのよう。

人里と神の領域を結ぶ一筋の坂道をウネウネと登っていく。

途中、茅葺き屋根の大きな屋敷を見かける。

このあたりから神領の雰囲気が濃厚に漂う。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]03

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12年に一度、午年の4月15~16日に行われる「式年神幸祭」では津宮浜鳥居から御神輿をのせた御座船が大利根を遡っていく。

香取神宮でも創建からしばらくは伊勢神宮と同様、20年に一度「式年遷宮大祭」が行われていた。

しかし戦国時代以降は途絶えてしまい、その代わり行われるようになったのが式年神幸祭。

同時に利根川の対岸、北浦湖畔にある鹿島神宮の一の鳥居からも神楽を乗せた御座船が出航。

航行の途上、佐原の沖合で鹿島神宮の出迎え船が待ち構え、河上で御迎祭が行われる。

15日に佐原の河口で上陸し、市街にある御旅所で御駐泊。

翌16日は市内を巡幸した後、今度は陸路を通って香取神宮まで還御するそうだ。

一方の鹿島神宮でも同様に12年に一度、午年の9月1~2日に「式年大祭御船祭」が行われる。

1日は皇室勅使の参向例大祭が斎行され、翌2日早朝は御神輿が一の鳥居の大船津河岸へ。

そこから御神輿を奉戴した御座船が数多の供奉船を従えて佐原市の加藤洲に渡る。

そこで香取神宮の御迎祭を受けた後、再び同じ水路をたどって戻るという。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]02

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道を確認しようと駅前の案内板を見れば「香取神宮まで徒歩約30分」と表示されている。

鹿島神宮駅から香取駅より、香取駅から香取神宮までの所用時間のほうが長かったわけだ。

駅舎を左手に回りこみ、成田線の踏切を越え、内陸に向けて歩き出す。

小川を渡り、住宅と田圃が混在する長閑な風景の中を進む。

高層建築物がないので遠くまで見晴らしがいい。

しばらく歩くとT字路に行き当たった。

正面には鳥居の連なる小道が小高い丘の上へと続いている。

先の案内板によると、この丘は神道山古墳。

その頂きには桝原稲荷神社が鎮座している。

ただ、入り口から境内までは「急傾斜地崩壊危険区域」に指定されており、参拝も命がけ。

古墳とあっても香取神宮には関係を記した古文書などの類は残されておらず、直接的な関係はなさそうだ。

神道山古墳のT字路を左折し、田圃の中をテクテク歩く。

もし、このT字路を逆方向の右へ曲がると、どこに道はつながっているのか?

道は利根川に向かって一直線に続いている。

行き着く先は利根川とぶつかる河畔。

そこには津宮浜鳥居(つのみやはまとりい)が聳立している。

香取神宮の御祭神、経津主命(ふつぬしのみこと)が海路ここから上陸したと伝わる場所で、往時の表参道口に当たる。

つまり津宮浜鳥居から続いている、今歩いているこの道こそ太古の昔は表参道だったわけだ。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]01

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鹿島神宮駅を発ったJR成田線536M列車は、潮来の水郷地帯を突っ切って行く。

長大な利根川の鉄橋を渡り、常陸(ひたち)国から下総(しもうさ)国へ。

千葉県の旧国名は北から南へ下総国、上総(かずさ)国、安房国の順で並んでいる。

なので地図を見ると下総国が“上”に、上総国が“下”に、それぞれ位置する形。

これではアベコベではないか?
実はこの「上下」、「南北」の意味ではない。

五畿七道が制定された古代、都から位置的に近いほうに「上」、遠い方に「下」と名付けられた。

例えば京都から近い群馬県は「上野(こうずけ)国」、遠い栃木県は「下野(しもつけ)国」といった具合。

当時、畿内から房総半島へは海路を船で渡っており、上陸する南側に位置するほうが都に近いため「上総国」になったという次第。

536Mは14時53分、香取駅に定刻通り到着した。

鹿島神宮駅から香取駅まで実は4駅しか離れておらず、乗車時間にして20分弱といったところ。

香取駅は小さな無人駅で、朱色を基調とした外観の意匠は香取神宮をモチーフにしているのが一目瞭然。

かといって、ここが香取市の中央駅かといえばそうではなく、香取神宮まで路線バスの便もなければ駅前でタクシーが待っているわけでもない。

香取神宮の公式サイトでも「香取駅からはタクシー・バスなど出ておりませんので、佐原駅をご利用いただいた方が便利です」と、ご丁寧に注意を喚起しているほどだ。

こじんまりとした駅舎を通り抜け、駅前に出る。

特にこれといって何があるでもなく、ごく普通の住宅街といった印象。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]18

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「鹿島の太刀」の極意を悟った卜伝は、流派名を神示に沿った「鹿島新当流」と改める。

その後、卜伝は2度の廻国修行に出、足利将軍家や伊勢北畠家、甲斐武田家などに剣術を指導。

その足跡は全国各地に及び、今でも日本中に卜伝の“聖蹟”が散在しているという。

旅を終えて鹿島の地に帰ってきた卜伝は元亀二(1571)年、ト伝は83歳の生涯を閉じる。

といった卜伝の生涯を、折しもNHKが堺雅人主演でドラマ化。

ちょうどオンエア中ということもあって、鹿島の街中がドラマのPRだらけだった。

卜伝像に別れを告げ、再び坂を下る。

やがて、正面にオレンジ色の外壁も鮮やかなJR鹿島神宮駅が姿を現した。

かつては東京駅との間に特急列車が走るなど鹿島の交通の拠点で、駅舎の規模からもその重要性が伺える。

しかし高速バスが主流となった現在では、各駅停車が1時間に1~2本程度発着するだけのローカル駅になってしまった。

とはいえ、クルマがひしめき合い排ガスが充満する国道124号線沿いに比べたら、閑散としている駅舎周辺のほうがよほど心が落ち着き、神宮に相応しい空間だとも思える。

14時36分、香取行き普通列車は鹿島神宮駅を出発した。

車内にはパラパラと高校生がいるだけで、鹿島工業地帯から帰京する出張族など匂いすら感じられない。

やがて車窓には潮来水郷の風景が広がった。

それを眺めているうち、心の底から思えてきた。

一宮巡礼の旅には自動車ではなく、やはり鉄道が似合っているなぁと。

(常陸國一之宮「鹿島神宮」おわり)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]17

t4u28鹿島rj23「よしのや」を出て大町通りを鹿島神宮駅の方角へ向かって歩く。

駅に下る坂との交差点に、サッカーJリーグ鹿島アントラーズのモニュメントが立っていた。

サッカーボールの意匠を象った円形の石造りで、正面にアントラーズのエンブレムが刻まれている。

「アントラー(antler)」とは英語で「鹿の角」という意味で、チーム名も鹿島神宮に由来しているわけだ。

併設されている「栄光の碑」には、アントラーズの歴史が刻まれている。

ただ、設置された時期が古いので、最近の“栄光”までには記述が及んでいないのだが。

ちなみにアントラーズはJ1リーグで最も多く優勝し、2000年に国内3大タイトル(リーグ戦・カップ戦・天皇杯)を全て制覇する“三冠”を達成し、一度もJ2に降格していない唯一のチームでもある。

このあたりも“武神”鹿島神宮の御神徳なのだろうか?

交差点から駅へと続く緩やかな坂道を下っていく途中、左手に大きな看板が目に止まった。

「塚原卜伝生誕之地」

そう大書きされている。

看板の裏手は大きな広場で、奥では駅の方角を向いた大きな銅像が周囲を睥睨している。

塚原卜伝は鹿島が生んだ剣聖。

戦国時代の延徳元(1489)年生まれで、この銅像は生誕五百年を記念して建立されたもの。

卜伝は鹿島神宮とも縁が深い。

父親は神官「祝部(はふりべ)」を務めた卜部覚賢(うらべあきたか)。

塚原姓は幼少時に養子へ出た先の家の姓だ。

卜伝は幼少から鹿島中古流の太刀を学び、16歳の時に最初の廻国修行の旅へ。

この武者修行は約15年の長きに及び、数多の真剣勝負や合戦に臨み、かつ一度も負傷しなかったという伝説を残している。

ただ、この修行は戦乱真っ只中の京都で積み重ねられたもの。

数多の人死を目の当たりにし、世の虚しさに心を病み、故郷の鹿島へ戻ってきたという。

そこで卜伝は荒れた心を落ち着かせ、自己の剣に磨きをかけるため、鹿島神宮で一千日の参籠祈願を行うことに。

3年にも及ぶ修行の末、ついに鹿島大神から「心新たにして事に当たれ」との神示を授かることに。

(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]16

t4u28鹿島rj22壁の目立つところに大きな一枚板を切り抜いて描いた「流鏑馬(やぶさめ)」の板絵が掲げてある。

毎年5月1日に行われる神事で、説明書には約150年前に拝領したとある。

別の説明書きには、江戸時代までは「宿長」という名の旅籠だったそうで、蕎麦屋に転じたのは明治以降のこと。

往時には鹿島神宮に参拝する講中(参拝者の団体)の本陣として大いに賑わったそう。

件の板絵も旅籠時代に鹿島神宮から下賜されたものなのだろうか。

そんなことをボンヤリ考えているうち、天ざるが来た。

とびきり美味いわけではないが、手打ちの九割蕎麦と謳ってるだけあって、さほど不味くもない

そんな中庸な味わいの蕎麦をズルズルすすりながら顔を上げると、今度は幕末の「天狗党事件」縁の店と手書きされた由緒書きが目に入った。

天狗党とは幕末の水戸藩で藩主徳川“烈公”斉昭の藩政改革を機に結成された尊王攘夷の急進派のこと。

天狗党は元治元(1864)年、幕府に攘夷の実行を促すため筑波山で挙兵。

しかし藩内保守派との内戦に破れ、京都にいた一橋慶喜を頼り上洛。

その途中、諸藩の討伐軍に敗れ、越前で加賀藩に降伏。

諸幹部をはじめ党員の大半が処刑され、残りは遠島・追放などの処分を受け、天狗党は消滅した。

もう少し蜂起が遅ければ薩長の維新勢とタイミングが合い、新政府への参画もあり得たのだろうか?

そうなれば天狗党が一橋慶喜と薩長の橋渡し役となり、慶喜が新政府の一員にもなり得たのだろうか?

そもそも、天狗党は徳川幕府を倒して朝廷中心の国家を打ち立てるビジョンを持っていたのだろうか?

それ以前に、天狗党は何をしたかったのだろうか?

蕎麦猪口に蕎麦湯を満たしてズズッとすすりながら、食後のひとときを天狗党への思索に費やした。

(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]15

t4u27鹿島rj20御手洗池の前には藤棚があり、その向こう側に茶店が2軒。

うち一軒はシャッターを下ろし、営業しているのは「一休(ひとやすみ)」のみ。

ちょうど昼食時だったので店前を覗く。

名物は「元祖みたらし焼きだんご」に「手打ち蕎麦」、「湧水コーヒー」と水郷潮来の地酒。

鹿島神宮はみたらし団子発祥の地であり、その名称は御手洗池に由来する…とある。

ただ、世間では山城国一之宮「賀茂御祖神社(下鴨神社)」の御手洗川に由来するという説が一般的。

大昔の関東地方で「みたらし団子」は、遠くの下鴨神社由縁ではなく、鹿島神宮発祥として広まっていったのかも知れない。

また、手打ちの「湧水そば」は茨城県産の蕎麦粉を湧水で打った二八蕎麦…とある。

地酒の猪口を傾けながら湧水そばをたぐり、締めにみたらし焼きだんご…これぞ旅の醍醐味!

とは思ったが、これはグルメツアーではなく諸国一之宮を参詣する巡礼の旅。

ここで美食の誘惑に負けるわけにはいかない! と、「一休」に入ることなく御手洗池を後にした。

逆回転の映像を見るかのように楼門のところまで戻り、境内を出たところで思わず空腹を覚えた。

鹿島到着から3時間ほど。そろそろ昼食でも…と思えども。

午後2時過ぎということもあって開いてる店がなかなか見当たらない。

さっきの「一休」で「湧水そば」を食べておけばよかった…と早速、後悔する。

門前から延びる大町商店街を行き来しつつ店を探しているうち、ふと一軒の蕎麦屋の前で足が止まった。

何気なくショーウィンドウを眺めていると、いきなり扉が開き、「いらっしゃいませ~!」の声とともに中へと引きずり込まれてしまった。

蕎麦屋の名は「よしのや」。

店前に「創業室町時代」という看板が掲げてある。

店内に入ると、よく街角で見かけるごく普通のお蕎麦屋さん。

天ざるを注文し、お茶を啜って一息ついたところで店内を見渡す。

平日の昼下がりということもあって、他に客はいない。

こうした状況下でショーウインドーを覗きこんでいる人間なんて、鴨以外の何者でもないな…と思う

どうせなら鴨南蛮でも頼めばよかったかも。

(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]14

t4u25鹿島rj18園内を通り抜けて出入口へ。

案内図には記載されていないが、さしずめ“裏参道”に当たるのだろう。

入り口の両側に周囲を注連縄で囲われた立砂の円錐があるのを見かけた。

表参道大鳥居の跡にあったのと同じ形状をしている。

やはり大震災で石造りの鳥居が倒壊したため、その跡に盛られたものだ。

神道的な感覚からすれば、表裏両参道の入り口に立つ双方の鳥居が身を挺して地震から社殿を守ったかのように見える。

一方、物理学的な観点からすれば巨大な振動に木造建築物は強く、石造のそれは脆弱に過ぎなかっただけかもしれない。

しかし、神宮周辺でも倒壊した木造建築物は多々あった。

伝統の技巧を持った宮大工が腕によりをかけて作り上げた社殿群だからこそ、被害は軽微だったのではないか?

鳥居は大きいが故に尊からず。

適宜な規模の鳥居を木造で、地震に耐え得る“伝統の技巧”を用いて立てればよいのだ。

実際その方向で大鳥居が再建される方向にあるようで何より。

要石のご神徳による地震除けが鹿島神宮のご利益。

次は地震でも絶対!絶対に倒壊しない大鳥居を建立して欲しいと思う。

ここから帰路には就かず、来た道を表参道まで引き返す。

(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]13

t4u20鹿島rj16神職はともかく、今では御手洗池で潔斎を済ませてから参詣する参拝者など皆無のはず。

そんな中、毎年1月に御手洗池で行われる大寒禊では、大勢の参加者が中に入って心身を清めているそうだ。

真冬の冷水に体を浸さないと「鹿島の七不思議」を確かめられないのなら、謎は謎のままにしておいたほうがいいのかも知れない。

御手洗池を北に向かうと先に公園が広がる。

名称は「みたらし公園」と、さすがにひらがな。

池から流れ出るせせらぎに沿って公園へ向かうと、反対側にも細い道が通っているのに気付いた。

「なんだろう?」

そう思って反対側に回り奥へ進むと、小さな祠があった。

頂戴した案内図で確認すると、そこはなんと「大黒社」。

武甕槌命の恫喝(?)に屈して国を譲った大国主命が、こんな目立たない片隅にヒッソリと祀られている。

この祠、いつからあるのだろう?
そして何のためにあるのだろう?

御手洗池側が表参道たった時代から存在していたのなら、武甕槌命をお参りに来た参拝客を大黒様が出迎え、そして見送ってきたことになる。

自分が従わせた神様に“グリーター”をさせるとは、なかなかに神世も辛辣だ。

(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]12

t4u17鹿島rj15要石は見かけこそ小さいものの実際は地中深くまで続いている巨岩で、地上の部分は氷山の一角。

その昔、水戸の黄門様が要石の大きさを確かめるため、七日七晩この石の周りを掘るよう命じたそうな。

ところが翌朝には掘った穴が元に戻ってしまい、確かめることできなかった。

しかもケガ人が続出したため、結局は掘ることを諦めた…という逸話が残っている。

要石から再び奥宮へ引き返し、社殿の前を通り抜け、茶屋の前から下りの石段を降る。

両側を木々で囲まれたウネウネと続く薄暗い細道を進んでいくと、パッと視界が開けた。

そこにあったのは御手洗池(みたらしのいけ)。

古来より神職や参拝者が潔斎するための池である。

大昔、鹿島神宮の参道は御手洗池が起点で、ここで身を清めてから参拝していたのが「御手洗」の由来。

神代の昔、鹿島神が天曲弓(アメノマガユミ)で穿ったとも、宮造りの折に一夜にして湧出したとも伝わっている。

端に近づき、池の中をのぞき込む。

エメラルドグリーンの池水は見るからに清廉。

今でもお茶を立てるときの水に使いたいと汲みに来る人が絶えないのも頷ける。

池の周囲をグルリと歩いてみる。

中央には鳥居が聳立し、その両脇から玉垣が伸びて池を横に二分している。

池そのものは人工的に造られたもので、そこへ湧水口から湧き出る霊泉を導いている。

森から枝と呼ぶには大きすぎる巨木が池の真上まで伸び、支える添え木の下に隠れるように湧水口がある。

その巨木に頭をぶつけないよう、湧水口に近づいてみる。

鹿島の古老によると神代より枯れたことがなく、旱魃(かんばつ)にも干上がることがなかった。

湧出量は1日400キロリットルを超え、今なおコンコンと湧き続けている。

池の周囲をグルリと回って、再び鳥居を正面に臨む位置に戻ってきた。

それほど水深があるようにも見えないが、実は誰が入っても同じ深さ。

つまり、大人が入っても子供が入っても水面は乳の高さを超えることがないそう。

池の深さが変わらない謎は「鹿島の七不思議」のひとつにも数えられている。

でも、これなら黄門様の要石掘り出しと違って、誰でも簡単に確認できそうだ。(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]11

t4u11鹿島rj14高速バス「かしま号」の中で「藤原氏がヤマト王権の中枢で権勢を振るうようになったことで鹿島神とヤマト王権が結着」したと学んだ。

奈良に平城京が造営された折、その藤原(中臣)氏が鹿島神宮から武甕槌命を勧請して創建したのが春日大社の始まり。

鹿が春日大社の象徴的存在なのもうなずける話だ。

そんな“神の使い”たちに見送られながら、参道を更に奥へと進む。

道の両側は高い木立が連なり、森の木々が齎すフレッシュな酸素を冬の寒気が包み込み、凛とした空気が周囲を包み込む。

奥参道の突き当たりに売店が見える。

しかし看板建築が景観的にミスマッチで残念。 

できれば屋根を茅葺きか藁葺きにして欲しいところだが、それは贅沢というものか。

そこから道が左右に分かれ、左手は下りの石段。

右側には古寂びた社殿が佇んでいる。

こちらも国の重要文化財「奥宮(おくのみや)」。

徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した御礼として慶長10(1605)年に奉納したものだ。

当初は本殿として奉納されたが、現在の社殿が造営された元和5(1615)年に現在の場所へ引き移されたもの。

奥宮は安土桃山風の小ぶりな建物だ。江戸幕府の開府直後だけに、財政面からも社殿の小ささは止むを得なかったところ。

ひょっとしたら家康は仮普請のつもりで寄進し、秀忠に後で建て替えるよう申し送っていたのかも知れない。

奥宮から先へ延びる細い参道を進む。

聞こえるのは梢が擦れ合う音と鳥のさえずりぐらい。

まさに静謐の深淵だ。

途中、大鯰の碑を経て要石(かなめいし)に至った。

わずかに頭頂部だけが露出している霊石で、鹿島神が降臨した御座と伝わっている。

また、地震を起こす地底の大鯰の頭を押さえている鎮石とも言われており、そのおかげで鹿島地方には大きな地震がないと言い伝えられてきた。

東日本大震災では大鳥居など石造りの構造物が被害を受けたが、国宝や重要文化財などは概ね無傷。

本殿も屋根の千木が外れる程度で、上屋そのものは大きな被害を免れている。

これらもまた、要石の御神徳なのだろうか?

(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]10

t4u10鹿島rj12社殿と参道を挟んだ反対側には社務所と宝物館。

その宝物殿が所蔵する国宝に「直刀-金銅漆塗平文拵附刀唐櫃」がある。

出土品ではなく伝世品で、かつては御神体のひとつとして本殿内に祀られていたもの。

鍛刀(たんとう)されたのは今から約1300年前と推定されている。

現存する直刀の中では日本最大最古で、柄(つか)と鞘(さや)を含めた全長は2.71メートル、刃長は2.24メートルにも及ぶ。

この直刀は常陸国風土記には、慶雲元(704)年に常陸国の国司らが鹿島神宮の神山の砂鉄で鍛刀したと記されている。

また、直刀の名は神剣「布都御魂剣」「?霊剣」と伝わっていると「参拝のしおり」にある。

ただ、常陸国風土記が編纂されたのは奈良時代、国宝の長刀が鍛刀されたのは平安時代なので、両者は同一のものではない。

しかも「布都御魂剣」そのものは大和国石上神宮に祀られていると古事記にもある。

この直刀は石上神宮に伝わる「十掬剣」を模して鍛刀された、今で言う“レプリカ”なのかも知れない。

参詣を済ませて奥参道へ歩を進め、しばらくすると左手に鹿園が現れた。

「鹿島神宮」である以上、神の使いである鹿の存在は欠かせないところ。

では、なぜ鹿が神の使いなのか?

先述した天照大神の国譲り作戦で、武甕槌命に出雲派遣の打診を伝えたのが“鹿の神様”天迦久神(あめのかくのかみ)だった。

入り口の説明板によると三十数頭の鹿がいるはずだが、金網の中でマッタリまどろんでいるのは数頭だけ。

ふと目線を先に送ると、木の柵越しにエサをあげている参拝客の姿が。

鹿園にある売店でエサを購入した参拝客だけが、園内の鹿と直に触れ合えるそうな。

そこまでして触れ合いたいとも思わない自分は、金網の外から鹿たちと見つめ合えれば、それで十分。

奈良の春日大社なら金網越しなんかじゃなく、鹿の方から鹿せんべいを求めて擦り寄って来るのに。

その春日大社、鹿島神宮との間に深い関わりがある。

(つづく)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]09

t4u09鹿島rj11

鹿島神宮の御祭神は武甕槌命(タケミカヅチノミコト)。

伊邪那岐命(イザナギノミコト)が火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)の首を切り落とした際、ほとばしる血から生まれた剣の神とされている。

国譲り戦略で大国主命(オオクニヌシノミコト)相手に失敗が続いていた天照大神(アマテラスオオミカミ)は、最後の切り札として“武神”武甕槌命を出雲に派遣。

出雲の伊那佐浜にやって来た武甕槌命は、長さが十握(とつかみ)もある「十掬剣(とつかつるぎ)」をスラリと引き抜くや、波涛の中に柄の部分をズボリと突き差し、天を向いた刃の切先の上に胡座(あぐら)をかいて座った。

そして大国主命に対し地上統治権の譲渡を上から目線で迫った挙句、それを承諾させたという。

楼門から社殿へは、参道を東に向かって歩いてきた。その自分から社殿が右手に見えるということは、本殿の正面が北を向いていることになる。

鹿島神宮は大和朝廷が北方(蝦夷)からの脅威に対する防衛拠点として築いたものであり、そのため本殿は北を向いているのだと伝えられている。

神倭伊波礼毘古命(かむやまといはれびこのみこと)-後に諡(おくりな)され神武天皇-が日向国高千穂から東国へ進軍した“神武東征”神話。

神武天皇は進軍の途上、紀伊国熊野で禍々しい霊力を持った悪神の権化である巨大な熊の毒気に当てられ正気を失ってしまった。

毒気で部下たちも次々と昏睡状態に陥り、東征軍は壊滅の大ピンチ!

そこへ地元熊野の高倉下(タカクラジ)なる者が、一振の剣を手に神武天皇の寝所へと現れた。

聞けば夢の中で、天照大神が神武天皇の窮地を救うために武甕槌命を派遣しようとしたところ、武甕槌命は大国主命を平伏させた剣を自らの代わりに降下させた…そんなやりとりを見たと言う。

高倉下が持参した霊剣の功徳によって神武天皇は「あーあ、よく寝た」と呟きながら正気を取り戻し、昏睡状態だった部下たちも続々と目を覚ました。

その神剣の名は「布都御魂剣」、別名「韴霊剣」。どちらも「ふつのみたまのつるぎ」と読む。

しかも剣を振るうまでもなく熊野の悪神は成敗され、神武東征軍は壊滅の危機を逃れることができた。

これに感謝した神武天皇は即位の年、常陸国に勅使を派遣して武甕槌命を祀ったのが鹿島神宮の始まりとも言われている。


[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]08

t4u05鹿島rj08

本来あるはずの“エアー鳥居”をくぐり境内へ。

参道の両脇に立っている石灯籠約60基もまた大鳥居と同様、地震で倒壊。

無論、現在では元の姿に修復されている。

参道の正面には朱塗りの楼門が壮麗な姿で聳立している。

寛永11(1634)年に水戸藩初代藩主徳川頼房(よりふさ)が奉納したもので、現在は国の重要文化財に指定されている。

ちなみに頼房は「水戸黄門」こと徳川光圀の父親だ。

この楼門、筥崎宮(筑前国一宮)、阿蘇神社(肥後国一宮)とともに「日本三大楼門」に数えられている。

東郷平八郎元帥の揮毫による扁額の下を通り抜けると、右手に社殿が姿を現す。

現在の社殿は元和5(1615)年に徳川二代将軍秀忠が奉納されたもの。

本殿、拝殿、石間(いしのま)、幣殿の四棟で構成された権現造り。

これら社殿四棟もまた楼門と同様、国の重要文化財に指定されている。

拝殿の後ろにある本殿は補修工事中で、残念ながらその姿を拝むことは叶わなかった。


[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]07

t4u03鹿島rj07

スナックの色褪せた看板の下をすり抜け、細い裏路地から出ると、不意に社号標が目の前に現れた。

そこが鹿島神宮の表参道入り口だった。

しかし、どこか違和感がある。

何かが違う。 

正面から入り口の全景を隈なく見ていたら、ハタと気がついた。

大鳥居が見当たらないのだ。

ちなみにこの大鳥居は二の鳥居で、一の鳥居は先述の通り西へ2キロほど離れた北浦湖畔にある。

その大鳥居、平成23(2011)年3月11日の東日本大震災で倒壊してしまった。

石造りの鳥居としては日本最大を誇っていたが、その大きさが逆に仇となった格好。

もしこれが木造の鳥居だったら、倒壊は免れたろうか?

誰もが同じことを考えるようで、本来の姿である木製鹿島鳥居型の大鳥居を境内のご神木を用いて再建し、2014年に完成予定という。


[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]06

t4u02鹿島rj06

停留所でバスから降りると目の前に広がる鄙びた風景にタイムスリップしたような錯覚を憶えた。

潮来で高速道路を下りてからこのかた、高層ホテルや超大型店舗などロードサイドならではの風景を見てきた。

その目の前に突然現れた古ぼけた商店や飲食店が立ち並ぶ街角は、まさに過去への時間旅行そのもの。

もともと神宮の門前町として栄えてきた町域が旧市街で、ここまでバスで通り過ぎてきたロードサイドが新市街。

モータライゼーション全盛の昨今、鉄道駅を中心とした旧市街は寂れ、自動車での移動を前提とした新市街へ繁華は移行…こうした傾向は全国共通だ。

空き店舗や空き地が居並ぶ門前の町域を歩く。

営業しているのも個人商店ばかりで、巨大な建造物が林立していたロードサイドとは規模の点で比べるべくもない。

だが、人には人の丈に見合ったサイズがある。
こうして歩きながら見て回るには最適な規模。

こうした昔ながらの商店街には、目的が“消費”しかないショッピングモールとは違う、もっと人間性に根差した“何か”を感じる。

それは商店街が長年ここで培ってきた「人対人」の商いに対する想いが、一種の“念”に姿を変えて漂っているからかも知れない。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[鹿島神宮]05

t4u26鹿島rj05

ここから一般道を神栖市の中心部にハンドルを切り、鹿島セントラルホテルへ。

国道124号線を経由して鹿嶋市内に入り、地域経済の中核である新日鉄住金鹿島製鉄所に到着。

フェンスの向こう側には巨大な工場群が立ち並んでいるはずだが、内側に植えられた林木で遮られ様子を伺うことは叶わない。

かしま号は隣の鹿島宇宙技術センターを経て11時16分、鹿島神宮駅のひとつ手前、鹿島神宮バス停に到着した。

ここまで東京駅から運賃は1780円。
この金額は高いのか? 安いのか?

先に洲崎神社へ参詣した折、館山駅から千倉駅まで乗ったJRバスと館山日東バスの運賃合計額は1750円だった。

確かにコストパフォーマンスで見れば、かしま号のほうが圧倒的に安い。

ただ、乗客らしい乗客のいない路線バスと、高速バス界のドル箱路線とでは比較にはなるまい。

JRバス関東はかしま号で稼いだ黒字で、南房総の先端を結ぶ路線バスの赤字を補填しているのだろう。

鹿島神宮バス停は国道50号線沿いにあり、参道の入り口から少し離れているため少しばかり歩く。


[旅行日:2012年12月18日]
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