一巡せしもの[寒川神社]13

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社務所を出、来た時の表参道ではなく、東側にある細い道を通って帰る。

寒川神社は何故か「視聴率祈願の神社」としてテレビ関係者からも篤く信仰され、新番組が開まる前には関係者一同こぞって参拝する姿を“拝める”そうだ。

ちなみに「水戸黄門」や「踊る大捜査線」がヒットしたのも、ここに参拝したお陰…という“伝説”もあるとかないとか。

その伝説の根拠がどこにあるのかは、いまひとつ良く分からないのだが。

また、寒川神社は宗教法人として総合病院も経営しており、地域一帯の医療や介護の中核を担っている。

地域住民のメンタルを神社が、フィジカルを病院が、それぞれケアしているということか。

私のような傍観者から見れば、神社と地域社会の理想的な姿にも見える。

西相模一帯で寒川大明神が長らく崇拝されてきた理由が、分かるような気がした。

昭和四(1929)年に創建された元の神門を移築したという南門を抜けると、そこは茶店が居並ぶ一角。

といっても蕎麦屋がトレーラーハウスだったり、団子屋がプレハブだったり、壮麗な社殿群に比べると建造物が貧相に見える。

腹が減っていたので何か食べようかと思う一方、それを思いとどまらせる何らかの作用が心のどこかで働いた。

多分、蕎麦の器が発泡スチロール製だったからだろう。“八方”除と言いつつ“発泡”スチロールなのに興醒めしたのかも知れない。

ただ、土産物を商う売店の建造物は立派。

しかし何も買わずに神池の方角へ向かう。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】そして日本経済が世界の希望になる』ポール・クルーグマン

一巡せしもの[寒川神社]12

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寒川神社と川勾神社が「神座」を意味する虎の皮を上座へ上座へと三度づつ敷き合い、互いに一之宮であることを主張。

「神座」の奪い合いは決着がつかず、前鳥神社や平塚八幡宮が案じている。

そこへ仲裁役である比々多神社の宮司が割って入り

「いずれ明年(みょうねん)まで」

の鶴の一声で円満解決、神事は終了するという。

ただこれだけでは、なぜ寒川神社が相模国一之宮となったのか、その理由が全く分からないのだが。

一緒に頂戴した社報「相模」の表紙に「座問答」の様子を撮影した写真が掲載されている。

確かに神職が虎の皮を両腕で抱え、前へ前へとにじり寄っている。

それにしても、なぜ虎なのだろう?

虎は“武”の象徴でもある。

今でこそ皮の運び合いに様式化されているが、千年以上も昔は本物の武力衝突があったのかもしれない…あくまで想像だけど。

皮の運び合いを三度も繰り返しているのは、両社の争いが長期戦だったことを象徴化しているのだろうか?

さらに「いづれ明年まで」という言葉は、毎年同じ文句を言い続けることで争いを永久に先送りしようという“神の知恵”なのかも知れない。

日本民族お得意の“先送り”は、こうして脈々と受け継がれてきたお家芸なのかも知れない。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】医者に殺されない47の心得 医療と薬を遠ざけて、元気に、長生きする方法』近藤誠

一巡せしもの[寒川神社]11

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社務所で御朱印を待つ間、書類差しにあった様々な資料を頂戴する。

その中に「相模国府祭(さがみこうのまち)六社めぐり」なるリーフレットが。

「相模国府祭」とは毎年5月5日に相模国の古社六社が大磯の祭場に集い、国家安泰・五穀豊穣・諸産業の繁栄を祈念するという相模国最大の祭典。

祭場のある神揃山(かみそりやま)は平安時代後期に相模国の国府が置かれたと伝わる場所だ。

その六社とは次の通り。
もちろん鶴岡八幡宮は含まれていない。

  • 一之宮 寒川神社
  • 二之宮 川勾神社(かわわじんじゃ)二宮町
  • 三之宮 比々多神社(ひびたじんじゃ)伊勢原市
  • 四之宮 前鳥神社(さきとりじんじゃ)平塚市
  • 五宮格 平塚八幡宮(ひらつかはちまんぐう)平塚市
  • 総社 六所神社(ろくしょじんじゃ)大磯町

相模国が相武国と磯長国に分かれていたことは先に触れた。

その両国が合併して相模国になるのだが、ここで大きな問題が発生。

相武国の寒川神社と磯長国の川勾神社、どちらが相模国一之宮になるかで大モメにモメたとか。

これを神事化したのが、神奈川県の無形民族文化財にも指定されている「座問答」(ざもんどう)という儀式。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】京都てくてくちょっと大人のはんなり散歩』伊藤まさこ

一巡せしもの[寒川神社]10

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神門を出、八方除祈祷を受け付ける客殿へ立ち寄ってみる。

全国でもここでしか受けられないとあって、広いフロアには参拝客が長い行列を為している。

これだけ参拝客が押し寄せれば神社の経営も裕福なはずだ。

楼門から社殿の隅々に至るまで、どこも真新しくピカピカだったのも頷ける。

客殿の南にある社務所へ御朱印を賜りに立ち寄る。

受付に人はおらず、呼び鈴を押すと中から出てきたのは神主さんでも巫女さんでもない。

Yシャツにネクタイ、スラックスという、普通の事務職の格好をした中肉中背で中年のおじさん。

御朱印帳をヒョイと受け取るや奥へ行ってパパッと押捺墨書し、御朱印帳を返却して初穂料300円を受け取るまで、一連の過程に余計な装飾がない。

神社なら少しは宗教的な装飾があっても良さそうなのに、まるで役所で印鑑登録証明書を発行してもらうかのよう。

一連のテキパキとした流れ、神社という宗教“施設”ではなく、宗教“法人”としての組織的な対応なら得心がいく。

それに、意外と嫌な感じがしない。

多分、一部上場企業の決算書でも見るかのように、曖昧なところがないせいだろう。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】カイシャ語 使える!大人のコトバ辞典』福田稔

一巡せしもの[寒川神社]9

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参拝を終えてフッと横を見ると、妙な形をしたモニュメントが目に止まった。

説明板には「方位盤(ほういばん)と渾天儀(こんてんぎ)」と銘打たれている。

モニュメントは「八方除」に因んだ三つの構造物「方位盤」「四神の彫刻」「渾天儀」により構成された記念碑。

方位盤は四正(東西南北)と四隅(東北/東南/西南/西北)の八方位と中央の九星・十干十二支を、八方には易の八卦を配置。

四神は四方の方角を司る霊獣で、東は青龍、南は朱雀、西は白虎、北は玄武を配置。

渾天儀とは本来、天体の位置を測定する器具だが、星の運行は国家の命運すら左右すると考えられていた往時には、単なる気象道具を超越した“神具”と見做されていた。

寒川神社は全国唯一「八方除」の守護神として知られ、全国各地から祈祷を受けるため参拝者が集う。

「八方除」とは凶となる方向を避けて克服する祈願のことで、御神徳は実に広大無辺とも言われている。

その方法は陰陽五行、十干十二支、九星八宮を配して、住居、方角、運勢などの吉凶を判断。

地相、家相、方位、日柄、厄年などに由来する一切の災禍を取り除き、福徳開運をもたらすというもの。

つまり、このモニュメントは寒川神社の象徴ともいうべき代物なのだ。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学』夏井睦

一巡せしもの[寒川神社]8

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千年の時を超えて世に姿を顕した寒川大明神…その正体は一体何者なのか?

紀元600~700年の飛鳥時代、ヤマト王権は地方支配のため全国に「国造」(くにのみやつこ)という現地雇用の役人を配置した。

当時の相模国は相武(さがむ)国と磯長(しなが)国に分かれており、寒川神社一帯の相模川流域は相武国造の支配下。

古事記には景行天皇の御代、東国征伐に赴いた倭武(ヤマトタケル)命を相武国造が罠に嵌めて暗殺しようとしたとある。

しかし、すんでのところで難を逃れた倭武命は相武国造一族を成敗し、この一帯を焼き払ったそうだ。

この相武国造こそ寒川比古命であり、その妻が寒川比女命ではないか? という説がある。

確かに倭武命に歯向かった人物が記紀に登場するはずはない。

それでも相模国では寒川大明神として崇められ続け、鎌倉に鶴岡八幡宮という日本政府そのもののような一之宮が誕生しても廃れることがなかったという事実は、よほど地元の人々から慕われていたのか。

相武国造、ヤマト王権に歯向かったため単に歴史上から抹殺されただけで、実は傑出した人物だったのかも知れない。

なぜか、急に無性に会ってみたい気がしてきた。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】東大物理学者が教える「考える力」の鍛え方 想定外の時代を生き抜くためのヒント』上田正仁

一巡せしもの[寒川神社]7

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神池を右手に見ながら前へ進むと正面に神門。

随神門ではない重層の門で、竣功は平成五(1993)年と完成からまだ20年しか経っていない。

神門をくぐって中に入ると広くて清廉な境内が広がる。

神門から本殿に向かって東西を廻廊でグルリと囲われている。

ちなみに境内の広さは約1万5000坪もあるそうだ。

真正面に立つ社殿は平成九(1997)年10月の竣功。

拝殿、幣殿、本殿のほか、あまり他の神社では見かけない翼殿が東西に伸びている。

このため社殿の印象は全体的に横長で、拝殿に張られた注連縄の長さがそれを象徴している。

拝殿の前で瞳を閉じて頭を垂れ、柏手を打ちスーッと息を吸い、手を合わせて息を止め、神と意識を“シンクロ”させる。

御祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)と寒川比女命(さむかわひめのみこと)で、二柱を以って「寒川大明神(または大神)」と奉称されている。

ただ両神とも古事記にも日本書紀にも登場せず、それどころか古くから御祭神は諸説あり一定ではなかったという。

古代では寒河神、近世では八幡神(応神天皇)、ほかにも菊理媛、素盞鳴尊、稲田姫命であるとも。

明治時代に入ると御祭神に寒川二柱が加えられ、大正時代になってようやく正式に定められた。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】君に友だちはいらない The Best Team Approach to Change the World』瀧本哲史

一巡せしもの[寒川神社]6

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やがて参道の先に、灯籠が据えられた三叉路が見えた。

右手が参道、左手は一般道と、道が二手に分かれている。

右の道を往くと、いよいよ寒川神社正門のお出まし。

手前には真新しく立派な神橋、その右側に社号標、そして奥には木製の三の鳥居。

神橋は老朽化のため平成二十三(2011)年に架け直され、「神池橋」と命名された。

鶴岡八幡宮では参拝客の渡橋を禁じていたが、ここでは堂々と渡ることができる。

三の鳥居は桧造りの明神鳥居。

平成二(1990)年に「紀元二六五〇年奉祝記念事業」として立て直されたものだ。

三の鳥居をくぐった先の右側に“先代”三の鳥居の“遺骸”が横たわっている。

元は寛政八(1796)年に建立されたものだが、安政二(1855)年の安政江戸地震、大正十二(1923)年の関東大震災と二度にわたり倒壊。

往時の大きさは高さ約3.3メートル、柱間約3メートル。

長いこと境内の門番を務めてきた鳥居を破棄するに忍びなく、往時を偲んで“安置”してあるそうだ。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】歴史の読み解き方 江戸期日本の危機管理に学ぶ』磯田道史

一巡せしもの[寒川神社]5

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その直後、二の鳥居が姿を見せた。

これはデカい!

一の鳥居も大きかったが、さらに輪をかけて大きい。

交差点でもなく、特に近くに何か宗教施設があるわけでもなく、唐突に現れた感がある。

かといって近くに何もないわけではなく、東側には大きな園芸店と果樹園がある。

二の鳥居をくぐって再び参道を進みながら、寒川神社について考えてみた。

寒川神社の創立は今から1500年以上も前の雄略天皇御代。

一方、鶴岡八幡宮は康平六(1063)年に源頼義が石清水八幡宮の八幡大神を勧請したのが始まり。

鶴岡八幡宮の創立は延喜式における一之宮制定の時期よりも相当遅く、その意味では元来の一之宮ではない。

また、伊勢國の都波岐奈加等神社や志摩國の伊射波神社のように、寒川神社と間違われて一之宮と伝わったわけでもない。

足利幕府や徳川幕府も源氏の流れを汲む武家政権である以上、後世になって源氏武士の象徴ともいうべき鶴岡八幡宮を一之宮として見做すようになったのは必然の理。

いずれにせよ、相模国の一之宮制度は他国に見られない珍しいケースではある。

そんなことをボンヤリ考えていたら、再び背後から自転車。

今度は馬鹿そうな日本人の若造である。

「スミマセーン!」もなく、何も言わず狭い歩道をスピードを出し、すぐ横を通り過ぎて行く。

思わず車道に蹴り出してやろうかと思ったが、神前なので自重した。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】わたしが正義について語るなら』やなせたかし

一巡せしもの[寒川神社]4


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そこには黒光りした巨大な鳥居がドンと聳立し、右横には石柱が立っている。

表面に「寒川神社表参道」と刻字されているから、これは社号標ではない。

ここが参道の入口であり、鳥居が一の鳥居であることを示しているわけだ。

さすが“大門”という地名だけあって、一の鳥居も堂々としたもの。

鳥居の下から寒川神社方面を眺めてみる。

入口から境内まで参道の長さは約1キロメートルほどか。

真ん中は一方通行で1車線の車道、両脇に細い歩道、その外側は一段高い土塁。

土塁には高い喬木と低い灌木が連なり、鬱蒼たる樹影で路面は陰っている。

歩道をトボトボ歩いていると、後ろから声が聞こえた。

「スミマセ~ン!」

振り返ると自転車が3~4台、連なって走ってきた。

全員が東南アジア系の青年で、荷台に大きな荷物を積んでいる。

何か仕事の途中だろうか? 不思議な光景だった。

新緑の梢から射し入る木漏れ日を肌に感じながら参道を歩く。

そのうち右側の土塁が途切れて車道が合流し、上下1車線ずつになった。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】劣化国家』ニーアル・ファーガソン/櫻井祐子

一巡せしもの[寒川神社]3

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北口から駅前に降り立ってみると、再開発されたせいか町並みがガランとしている。

駅前を道幅の広いロータリーがグルリと巡り、内側にはタクシープール、外側には幅広の歩道。

とはいえ乗降客も少なく、タクシーの運転手も手持ち無沙汰な様子でタクシープールに佇んでいる。

しかも背の高い建物がマンションぐらいしかなく、空が高く広く見える。

ただ、再開発以前の商店街は、やはり空洞化が進んでいたのだろう。

古い家並みを取り壊してビル化し、車が入りやすくなるよう道路を拡張する。

宅地化の進む郊外でよく見かける光景ではあるが。

いにしえの街角を愛する自分の目には非常につまらない所業と映る。

しかし、そこで生活している方々にとって町並みがキレイになるのは喜ばしいこと。

時代とともに古い家並みが消えていくのは、やむを得ないことだとも理解している。

それだけに、今まだ残されているいにしえの街角を、この目に焼き付けておきたいと思うのだ。

線路沿いの細い道を西へ向かう。

まだこの一帯に再開発の魔の手は及んでおらず、歩いていて気分が落ち着く。

県道46号線の跨線橋を超え、再び細い路地を抜けると大門踏切前なる交差点に出た。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】祈りの幕が下りる時』東野圭吾

一巡せしもの[寒川神社]2

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茅ヶ崎駅を電車で通過したり相模線に乗り換えたりしたことは何度もあるが、こうして改札を出るのは初めて。

頭の中にはサザンオールスターズのナンバーがリフレインする以外、具体的な街のイメージが浮かんでこない。

北口改札を出て駅ビルを抜け、ペデストリアンデッキを伝って駅の西側へと伸びる商店街へ行ってみた。

食事のできる店は散見されるが、どれも味気ないチェーン店ばかりで、いまひとつ食指が動かない。

さらに幾つか角を曲がって店を物色。

いい感じの店があるにはあるのだが。

日曜閉店やら昼時で満員やら、どうにもままならない。

結局、昼食は諦めて駅へ戻ることにした。

茅ヶ崎駅13時18分発、相模線1369F電車に乗り込む。

晴朗なる日曜の昼下がり、暖かい車内、乗客は疎ら。

適度に睡魔を誘う心地良い空間が醸しだされている。

しかしウトウトする間もなく13時27分、寒川駅に到着。

寒川神社だけにここが最寄り駅かというと、実はそうではない。

それどころか、ここから歩くと実は結構な時間を喰ってしまう。なら、なぜ下車したのか?

一の鳥居をくぐって表参道を行くのなら、むしろ寒川駅から向かったほうが都合がよいからである。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】グローバル化の憂鬱 管見妄語』藤原正彦

一巡せしもの[寒川神社]1

rj02鶴岡t4u00

江ノ電の小さな電車は、鎌倉の閑静な住宅街をゴトゴト走っていく。

通勤ラッシュ並みの乗客で車内はスシ詰め、車窓の景色を楽しむどころの話ではない。

だが、沿線には観光地が目白押し。

長谷駅、極楽寺駅、稲村ヶ崎駅と停車するたびに大勢の乗客が下車していく。

やがて国道134号線と寄り添うように並走を始めると、車窓には相模湾の海原が大写しになった。

その先に江の島が姿を現し、やがて沿線最大の観光地江ノ島駅に到着。

乗客がワンサと降車し、車内の人口密度は適度なレベルに落ち着いた。

電車は住宅街をユル~ッと走った後、12時35分、終点の江ノ電藤沢駅に到着した。

駅舎は頭端式のホームをカマボコ型の屋根が覆い、どこかヨーロッパの駅舎を彷彿とさせる。

改札を出て連絡橋を渡り、JR藤沢駅から12時40分発の東海道線下り電車に乗車。

乗り換え時間が5分しかなかったためJR駅の記憶は薄く、藤沢で印象に残っているのは江ノ電の駅だけ。

12時50分、乗車時間約10分で茅ヶ崎駅に到着。

次の相模線まで乗り換え時間が多少あるので、食事でもしようと駅前に出てみる。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】日本史の謎は「地形」で解ける』竹村公太郎

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]20

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石柱の近くに京急バスの停留所があり、お年寄りが何人か待っている。

自家用車など移動手段を持たない交通弱者にとって、一帯を走る路線バスは貴重な存在なのだ。

バスはここから鎌倉駅に向かうのだが、逆に鎌倉駅から直接ここに来る路線はない。

どこかで一度以上の乗り換えが必要なようだ。

もちろん自分はバスに乗らず鎌倉駅まで歩く。

由比若宮から再び住宅街の路地を通り、横須賀線の線路に沿った猫の通路のような道を抜け、約二十分ほどで鎌倉駅に到着。

ここから江ノ電に乗る。小さな電車は既に観光客でパンパンだ。

満員の車内に身を潜ませ、ジッと待つうちに発車。

日曜日で天気も晴朗とあって、国内外から訪れた老若男女の観光客でごった返す駅前を眺めながら鎌倉の町を後にした。


(相模國一之宮「鶴岡八幡宮」おわり)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】旅の賢人たちがつくった海外旅行最強ナビ丸山 ゴンザレス他

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]19

rj19鶴岡t4u31

義家は関東武者から絶大な信頼を勝ち取り、後々それが頼朝の幕府創建につながっていった。

一方、奥州の一大勢力だった清原氏が滅び、代わって奥州藤原氏の時代が幕を開けた。

どちらも「後三年の役」で挙げた源氏の功績である。

それから時が下ること百年余の文治三(1187)年、頼朝に負われた源義経が逃げ延びた先は奥州藤原氏だった。

その藤原氏も義経隠匿の咎を責められ、文治五(1189)年に頼朝の征伐を受け、滅亡した。

鎌倉幕府と奥州藤原氏、いずれも“八幡太郎”義家の功績で生まれたようなものなのに、皮肉な話だ。

由比若宮の境内を後にし、社号標が立っていたバス通りまで戻る。

鶴岡八幡宮と由比若宮、実は“自然暦”の関係にあるという。

太陽は由比若宮の方角から昇り、鶴岡八幡宮の方角に沈む。

日の出=始まり、出産であり、日の入=終わり、入滅である。

それゆえに元鶴岡八幡宮は“若宮”と呼ばれているのだろう。

今でこそ周囲を住宅やビルで覆われているため、どこから日が昇るのか分かりにくい。

だが周囲が田畑だった大昔、農民にとって両宮の位置関係が太陽の動きを察知するための重要なランドマークになっていたに違いない。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】だから荒野』桐野 夏生

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]18

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鳥居は二つあり、一の鳥居と二の鳥居の間隔は二十~三十メートルといったところ。

二の鳥居をくぐって社殿の前へ。周囲を覆う木々の緑の中に、朱色の玉垣で囲まれた流造の社殿が映える。

鶴岡八幡宮の由緒書にあったように、由比若宮の起源は頼朝の五代前、源頼義(よりよし)まで遡る。

康平六(1063)年、相模守だった頼義が奥羽(東北地方)での「前九年の役」に勝利し、帰京の途中で鎌倉に立ち寄った。

その節、頼義は源氏の守護神たる石清水八幡宮の祭神を勧請し、ここに祀った。

鎌倉と源氏が初めて縁を持った瞬間である。

それから二十年後の永保三(1083)年、またも奥州で戦乱「後三年の役」が勃発。

頼義の息子である源“八幡太郎”義家が進軍し、ここで野営した際に社殿を修復したという。

その折、義家が源氏の旗を立てかけたとされる松の木の遺構が境内にある。

高札風の看板には「旗立の松」と墨書されている。

一メートルほどの高さに切られた松の幹で、円周の長さは大人が両手を広げて二抱えほどもあるか。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】賢者は幸福ではなく信頼を選ぶ。』村上 龍

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]17

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そこに刻まれた文字は「元鶴岡八幡宮」。

鶴岡八幡宮に遥拝所のあった由比若宮、その参道入口である。

ただ、石畳が敷かれて参道っぽい感じに見えるが、この社号標がなければ何ら変哲のない道で、気づかず通りすぎてしまうかもしれない。

どっちにしても、本当に目立たない場所にヒッソリ佇んでいたことには違いない。

奥に進むと、ほどなくして木々の緑に囲まれた社殿が姿を現した。

住宅街の真ん中に開いたエアポケットに、とても小ぶりな社殿がこじんまりと佇んでいる観。

鶴岡八幡宮の境内と比較すれば、こちらの広さは旗上弁天社が鎮座する島程度といったところか。

とはいえ境内は綺麗に掃き清められ、氏子の信奉の篤さが伝わってくる。

鶴岡八幡宮が日本を代表する神社なのに対し、こちらは材木座の氏神様…といった趣きだ。

一の鳥居の手前に「文学案内板」が立っている。

大正時代、先の参道から北側一帯は別荘地で、ここで芥川龍之介も暮らしたことがあるそうだ。

その頃の様子は「或阿呆の一生-十五『彼等』」に描写されているという。

彼等は平和に生活した。大きい芭蕉の葉の広がつたかげに。
――彼等の家は東京から汽車でもたつぷり一時間かかる或海岸の町にあつたから。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】ビートルズから始まるロック名盤 増補・改訂版』中山 康樹

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]16

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「源平池」といって、北条政子が寿永元(1182)年に平氏滅亡を祈願して掘らせたもの。

三の鳥居から本殿に向かって右(東)側が源氏池、左(西)側が平家池。

源氏池には島が三つ浮かび、最も大きな島には「旗上弁天社」が鎮座している。

明治政府の神仏分離令で一度は破却されたのだが、戦後の昭和三十二(1956)年に再興。

さらに昭和五十五(1980)年、鶴岡八幡宮創建八百年を記念して江戸末期文政年間の古図に基づき、現在の社殿が復元された。

ちなみに弁天様は女神なので、カップルで参拝すると弁天様が嫉妬して二人を別れさせるとか、しないとか…。

源氏池に島が三つある理由は「三は産なり」で、源氏の繁栄が末永く続くことを祈って。

一方、平家池には島が四つ。

もちろん理由は「四は死なり」で、平家が一日も早く滅亡するように。

この故事からも北条政子、相当な女傑だったと見受けられる。

源氏が滅んでも北条家が執権として幕政を担えたわけだ。

鶴岡八幡宮の境内を出、若宮大路を再び由比ヶ浜方面に向かう。

既に時刻は正午近く、日曜日の鎌倉は観光客の群れで溢れかえり真っ直ぐ歩けないほど。

そんな喧騒を避けるかのように、横須賀線のガードに行き当たると左に折れる。

そのまま線路伝いに歩き、滑川に架かる橋を渡り、踏切を渡り、細い道を縫うように歩く。

かれこれ二十分ほど歩いたろうか。このあたりまで来ると何の変哲もない住宅地で、観光客らしき姿は露ほども見かけない。

住宅街の間をバスが行き交う通りに添って歩いているうち、古ぼけた小さな石柱に行き着いた。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】上流階級 富久丸百貨店外商部』高殿 円

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]15

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大石段を降りて左に折れると若宮(下宮)の社殿が姿を現した。

鶴岡八幡宮には本宮と若宮があり、どちらの社殿も国の重要文化財に指定されている。

若宮の祭神は応神天皇の御子、仁徳天皇ほか三柱の神様。

若宮の横には控室が併設されており、舞殿で式を挙げる御両家の親族が待機している。

現在行われている式が終わると「次の方どうぞ」といった具合に舞殿へと案内される次第。

若宮と道を挟んだ反対側には「由比若宮遥拝所」がある。

由比若宮とは先出の由緒書に登場した、材木座に鎮座している由比郷の八幡宮のこと。

つまり頼義が勧請し、頼朝が現地に奉遷した由比郷の八幡宮は、現在でも存在していることになる。

参道を三の鳥居へ向かうと、鳥居の手前の両側に大きな池が広がっている。

…はずなのだが、現在工事中で残念ながら水が干上がっていた。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】原発メルトダウンへの道 原子力政策研究会100時間の証言』NHK ETV特集取材班

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]14

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拝殿から左側へ回り込み、幣殿を挟んで本殿へとつながる社殿のフォルムを眺める。

八幡信仰は日本に大陸文化が最初に流入してきた北九州で生まれ、土着の信仰や外来の仏教を巻き込みながら拡大。

やがて源氏の氏神となり国家的宗教に発展、武家の守護神として各地に浸透していった。

現在でも八幡神を祀る神社は全国に三万社は下らず、分祀の数ではお稲荷様に次ぐ二位。

今や「八幡様」は日本全国津々浦々、どこでも見かけるお馴染みの神様である。

楼門を出、大石段を降りながら考える。

鶴岡八幡宮は一般に「三大八幡宮」のひとつに数えられている。

三大八幡とは、まず総本社の宇佐神宮(豊前国一之宮)と、京都府八幡市の石清水八幡宮。

それに筥崎宮(筑前国一之宮)か、鶴岡八幡宮のいずれかが入るという組み合わせ。

そのうち筥崎宮にも宇佐神宮にも参詣する機会があるだろう。

それまでに八幡神と応神天皇の関係について勉強しておきたいと思う。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】三島由紀夫「死後」論 三島由紀夫はなぜ死ぬのか』岳中 純郎

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]13

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随神門をくぐり、回廊に囲まれた内側へ。

なお、拝殿や本殿など回廊内の建物は写真の撮影が禁止されている。

随神門から拝殿までの距離はほとんどなく、すぐ目の前に立ちふさがる感覚。

二礼二拍手、手を合わせて目を閉じ、息をスゥーッと吸い込み、八幡神と意識をシンクロさせる…ように試みる。

鶴岡八幡宮の祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、比売神(ひめがみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)の三柱。

第十五代応神天皇は歴史的に実在した最初の天皇と目され、神道上は応神天皇イコール八幡神とされている。

なお、応神は諡号(しごう)であり、諱(いみな)の誉田別命(ほむだわけのみこと)のほうが一般的だ。

誉田別命は父の仲哀天皇が崩御した後、筑紫国(福岡県)にて生誕。

母は鶴岡八幡宮に一緒に祀られている“聖母神”神功皇后(じんぐうこうごう)。

その後、大和国(奈良県)に戻り、母の摂政のもとで皇太子に。

大和国軽島(奈良県橿原市大軽町)に明の宮を造営し、神功皇后の死後、第十五代天皇に即位。

四十一年に及ぶ治世下では百済(くだら)から受け入れた帰化人によって経典や典籍がもたらされたり、当時の中国から文芸や工芸などを積極的に導入したり、この時代に日本文化の基礎が築かれたと学問的にも評価されている。

その“人皇”応神が何故、死後に八幡神として崇められるようになったのか?

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】影を買う店』皆川 博子

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]12

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建久二(1191)年、大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝は直ちに再建に着手し大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の結構に整えた

「いいくにつくろう」の通り、学校では長きにわたり鎌倉幕府の開府を建久三(1192)年と教えてきた。

しかし、それより前に堂舎が数多く存在したということは、既に鶴岡八幡宮が源氏政権の中枢施設として機能していたことを意味する

あくまでも1192年は源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた年であり、最近では鎌倉幕府が実質的に成立したのは1185年だと教えているそうだ。

これからは「いいはこつくろう鎌倉幕府」とでも覚えるようになるのだろうか?

石段を登り切ると、そこには威風堂々たる社殿が偉容を呈している。

建物は文政十一(1828)年に徳川十一代将軍家斉が造営した流権現造り。

鎌倉時代というより江戸時代を代表する建築様式だ。

随神門の前に立ち、上を見上げる。掲げられた扁額は単に「八幡宮」としか記されていないシンプルさ。

しかも“八”の字は、二羽の鳩が向き合った絵で描かれている。

鳩サブレーの形状、この“八”の字の鳩から着想を得たのだそうだ。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】日本人はなぜ存在するか』與那覇 潤

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]11

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同年4月、倒伏した場所から蘖(ひこばえ=根元から生えてくる若芽)が芽吹き、現在では約2メートル程までに成長している。

また、倒伏した樹幹は再生可能な高さ4メートルに切断し、その横に据え置かれた。

蘖の「子イチョウ」は生育状態の良いものを選び「後継樹」として育成。

横に移された「親イチョウ」は再び大地に根を張ることが期待されている。

そして現在では双方とも「御神木」としてお祀りされている。

そのまま視線を上げ、若宮大路を由比ガ浜方面に望む。

朱塗りの鳥居が二つと、その先に白い鳥居が一つ。

空気の澄んだ快晴の日には水平線や、更には伊豆大島まで眺めることが出来るそうだ。

さて、先出の由緒書の続き。

治承四(1180)年、源氏再興の旗を挙げた源頼朝は父祖由縁の地鎌倉へ入ると、由比郷の八幡宮を『祖宗を崇めんが為』に小林郷北山(現在地)へ奉遷し、京に於ける内裏(京都御所)に相当する位置に据えて諸整備に努めた

もともと由比ヶ浜から近い場所にあった八幡宮を『祖宗を崇めんが為』ここへ移した。

そして鎌倉の街を京の都に比肩する規模に構築し、若宮大路を平安京の朱雀大路に模して整備したということか。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】アフターアクションマーケティングのすすめ』辻井 良一

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]10

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結婚式が厳かに続く舞殿を回り込むと、本殿へと続く大石段が続き、その左側には大銀杏…の跡。

昭和三十(1955)年に神奈川県天然記念物に指定された、鶴岡八幡宮の象徴ともいうべき大銀杏。

建保七年(1219)一月二十七日、鎌倉二代将軍頼家の猶子で八幡宮別当の僧侶公暁(くぎょう)が、この大銀杏に隠れて三代将軍実朝を待ち伏せ暗殺したという。

この歴史の教科書にも載っている、源氏将軍家三代の息の根を止めた「隠れ銀杏」事件の舞台にもなったところだ。

その大銀杏が雪混じりの強風によって倒伏したのは、平成二十二(2010)年三月十日未明のこと。

樹齢千年ともいわれており、「いいくにつくろう鎌倉幕府」の1192年よりも前から、この地に根を張っていたことになる。

高さは推定30メートル、幹の太さは約7メートル。燃え上がるような黄色い葉を身に纏った大銀杏は、朱塗りの社殿と絶妙なコントラストを描いていた。

石段の途中で足を止め、大銀杏の根本を見下ろす。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】初歩からの世界経済』日本経済新聞社

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]9

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参道を進むと、まず突き当たるのが舞殿。

又の名を「下拝殿」ともいう。

日曜日でもありお日柄も良いせいか、舞殿では結婚式が執り行われていた。

こうした衆人環視の中で行われる結婚式というのも、なかなかシビアなものだと思う。

永遠の愛を誓う相手は八幡様ではなく、グルリと取り囲んで見物している“参拝客”という名の赤の他人なのかも知れない。

いるかいないか分からない存在の神様より、赤の他人(それも女性)の熱視線のほうが、よほど新郎に「新婦を裏切れないなぁ」と思わせる効果があるのではなかろうか。

この舞殿で有名なのが源義経の愛妾、静御前の“伝説の演舞”だ。

追われる身だった静御前が囚われ、頼朝の前へと引き出された。

そこで頼朝と北条政子に所望され、やむなく静は「白拍子」を演舞。

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

追討の発令者たる自分の前ですら義経を慕う歌を詠む静御前に、頼朝は烈火のごとく激怒。

刀に手をかける頼朝を政子は「主を思う女心は女にしか分からないもの」と諌め、静は命を救われることに。

静御前が白拍子を舞った「若宮廻廊」の跡に、この舞殿は建立されている。

ここで祝言を挙げる夫婦が愛を誓う真の相手は八幡神でも参拝客でもなく、本当は北条政子と静御前なのかも知れない。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】ミツバチの会議 なぜ常に最良の意思決定ができるのか』トーマス・シーリー

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]8

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というわけで段葛にも終わりが見え、代わって三の鳥居が姿を現してきた。

二と三の鳥居も一の鳥居と同様、寛文八(1668)年に四代将軍家綱が寄進したもの。

しかし関東大震災は一の鳥居だけでなく、すべての鳥居を倒壊させた。

一の鳥居は先述の通り一部新材を補って復旧されたが、二と三の鳥居は朱塗りの鉄筋コンクリート製に新造された。

スクランブル交差点を渡って境内へ。
既に日も高く、周囲は内外の観光客で混雑している

三の鳥居をくぐると目の前には神橋が架かっている。
しかし封鎖され渡ることはできない。

神橋を渡るなど畏れ多いからか?
それとも古くて危険だからだろうか?

神橋の脇を通り過ぎようとしたとき、該社の由緒書が目に止まった。

それによると鶴岡八幡宮は「源頼義が前九年の役平定後、康平六(1063)年に奉賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる」という。

鎌倉幕府が開府する百年以上も前、この地には既に八幡様が鎮座していたことになる


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】ルールを変える思考法』川上 量生

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]7

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大正七(1918)年に鎌倉町青年会が建立した石碑には、こうある。

其の土石は北條時政を始め源家の諸将の是が運搬に従える所のものなり。

農民や町民を徴用したのではなく、武士たちが自らの手で造成したわけだ。

明治の初年に至り二ノ鳥居以南其の形を失えリ。

つまり江戸時代には二の鳥居と一の鳥居の間にも段葛があったということか。

さっそく段葛を歩いてみる。

道幅は思ったほど狭くなく、両側は奥行きのある花壇と植栽された並木により車道から隔離されているため、自動車を気にせず歩くことができる。

ただ、段葛は二の鳥居から鶴岡八幡宮に向けて道幅が徐々に狭くなるよう作られている。

このため遠近法が作用し、実際の距離よりも長く見えるよう工夫されているそうだ。

二の鳥居から少し北進した左側に、白亜の殿堂の如き立派な建物が立っている。

鎌倉銘菓「鳩サブレー」でおなじみ豊島屋本店。

この「鳩サブレー」もまた、鶴岡八幡宮とは縁が深い洋菓子だ。

更に段葛を北進すると今度は右側に、十字架をテッペンに乗せた尖塔が目に止まった。

名を「カトリック雪ノ下教会」という、とても大きな教会。

それにしても源氏の守護たる八幡神の門前に南蛮寺とは!

と、鎌倉武士が見たら憤慨するのではなかろうか?

いや、まだ鎌倉時代にキリスト教は伝来していないか。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】デジタル写真の色を極める!』桐生 彩希

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]6

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歩道橋を降り、横須賀線のガードをくぐり、鎌倉駅前を横切り、鎌倉警察署の前を過ぎると、二の鳥居が姿を現した。

鳥居横には社号標。

揮毫は東郷平八郎元帥の筆によるもの。

それにしても東郷元帥、日本中の社号標で健筆を振るっておられる。

ちなみに鶴岡八幡宮で社号標があるのはここ、二の鳥居の前のみ。

二の鳥居から若宮大路の中央は、車道より一段高い土盛りの歩道となる。

世に名高い「段葛(だんかずら)」だ。

頼朝が幕府を開くと多くの武将たちも鎌倉に住むようになった。

しかし、もともと鎌倉は平地が少なく、山を削って屋敷地を造成した。

このため山の保水力が低下し、雨が降るたび若宮大路に水や土砂が流入。

それでは道が泥濘んで歩きにくいため、平地から一段高い道を建設した。

それが「段葛」の起源である。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】『内向型人間がもつ秘めたる影響力 あなたを取り巻く世界が変わる6つの力の伸ばし方』ジェニファー・B.カーンウェイラー

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]5

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再び若宮大路を一の鳥居方面へ引き返す。

途中で鎌倉女学院前の歩道橋に上り、鶴岡八幡宮方面を見やる。

どん突きに八幡宮の社殿が、緑に包まれた小高い丘を背に聳立している。

若宮大路は寿永元(1182)年、頼朝が妻政子の安産を祈願して鶴岡八幡宮の社頭から由比ヶ浜まで建設した参道。

当時の若宮大路は両側溝と路肩を含めた総幅が36.6メートル、道路幅員は約30メートルと伝わっている。

現在の全幅も約30メートルあり、頼朝は八百年前から既に今ある規模の道路を造成していたことになるわけだ。

頼朝の幕府開府以来、若宮大路は神聖な道であり、武家屋敷は基本的に大路に背を向けて造られていた。

大路は側溝と武家屋敷の塀で囲われた格好となり、戦の際は防衛線の役割を担っていたとも言われている。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】『光のうつしえ 廣島 ヒロシマ 広島』朽木 祥

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]4

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大鳥居から海岸線に向けて再び歩く。

かれこれ五百メートルは有るだろうか。

そのうち左側に川が寄り添ってきた。

滑川といって、それほど幅は広くない。

突き当りを東西に走る国道134号線を超え、海に到着。

滑川から西側を由比ヶ浜、東側を材木座海岸と呼ぶ。

由比ヶ浜にはサーファー、犬と散歩する人、寄り添う恋人たちと、海辺で日曜の朝を満喫する人たちの姿が。

一方の材木座海岸にはステージが組まれ、テントが立ち、白いプラスティック樹脂製の椅子とテーブルが並んでいる。

川ひとつ挟んだだけなのに、それぞれの海岸が見せる表情の違いが興味深い。

鎌倉は海に面しているだけあり、往時は海上交易が盛んだった。

由比ヶ浜には数百隻の舟が行き来し“首都”の経済を支えたという。

貞永元(1232)年に和賀江嶋(わかえじま)の築港が完成し、鎌倉幕府の海上交易はピークを迎えた。

和賀江嶋は材木座海岸を東へ向かい、砂浜が途切れるあたりの沖合に浮かぶ小さな人工島。

現存する最古の港湾施設で国史跡にも指定されているが、満潮時には全島が海面下に水没する“幻の島”でもある。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】顔のない独裁者 「自由革命」「新自由主義」との戦い』さかき 漣/三橋 貴明

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]3

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海岸から程近くに聳立している一の鳥居「浜の大鳥居」。

花崗岩製で高さは8.5メートル、柱の太さは92センチ。

最初の鳥居は源頼朝の時代、治承四(1180)年十二月に建造が始まり、寿永元(1182)年に完成した。

現存の鳥居は寛文八(1668)年に徳川四代将軍家綱が寄進したもの。

二代将軍秀忠の御台崇源院が世継の家光を懐妊した時、鶴岡八幡宮に安産を祈願し、無事に出産。

その霊験から鶴岡八幡宮への崇敬を篤くした崇源院に、八幡大神が夢の中で「備前国犬島の奇石で大鳥居を建立し給ふべし」というお告げを下した。

崇源院は家光に必ずお告げを実行するよう頼んで他界。

それが実現されたのは次の代である家綱の時代だったという話。

ちなみに一の鳥居が石造りになったのは、この時だとか。

その後は長らく国内で石鳥居が建立される際のモデルとなり、明治三十七(1904)年八月には国宝に指定される。

大鳥居の真下へ行き、空を見上げる。

石造りの巨大な明神鳥居で、支柱には折れた跡が残る。

手前の銘板によると、大正十二(1923)年に関東大震災で柱下部を残し崩落。

崩落前の姿を忠実に復元するため、新しい建築技術ではなく古法に則って再建に着手。

崩落した旧材を出来る限り使い、足りない部分は犬島まで石材を調達しに行ったそうだ。

両側の柱の上部や笠木の中央部など、ヒビの入っている部分が該当するのだろう。

かくして昭和十一(1936)年八月に浜の大鳥居は再興なり、美しき旧観を取り戻すに至る。

安易に新たな鳥居を建立することなく、壊れた鳥居を復元して後世に遺そうとする昭和人の意気に感服する。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】やっぱり、嵯峨野に行こう』瀬戸内 寂聴

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]2

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772Fは横浜駅を過ぎ、やがて武蔵国から相模国に入った。

車内は部活に向かう学生生徒や行楽客が目立ち、日曜日ならではの華やいだ雰囲気が漂う。

やはり海に向かう列車には、どこか心を浮足立たせるものがある。

08時44分、鎌倉駅に到着。

まだ朝早いのに駅の周辺は観光客で一杯。

さすがは国内屈指の観光地だ。

鶴岡八幡宮へ向かう前に、取り敢えず由比ヶ浜へ行ってみる。

西口を出て案内標識に従い、南の方角へ向かった。

途中、江ノ電の踏切で電車が通り過ぎるのを待つ。

この小さな車両を見ると、鎌倉に来た実感が湧く。

適当に歩いているうち、松並木が美しい幅広の道路に出た。

道は海に向かって一直線に伸び、その先には大きな鳥居がデンと構えている。


(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】犬になった王子 チベットの民話』君島 久子/後藤 仁

一巡せしもの[鶴岡八幡宮]1

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錦糸町駅発午前07時40分、JR横須賀線772F列車。

日曜の朝とあって車内は空いており、快適な列車旅が楽しめそうだ。

両国駅から地下へ潜った772Fは品川駅の手前で地上に顔を出す。

車窓から皐月晴れの陽光が差し込み、暗かった車内が一気にパッと明るくなった。

これから、鎌倉へ行こうと思う。目的は相模国一之宮の巡礼。

相模国に一之宮は二つある。

ひとつは鎌倉の鶴岡八幡宮。

もうひとつは相模西部の寒川神社。

しかし鶴岡八幡宮は元来の意味での“一之宮”ではない。

平安時代の法典、延喜式における相模国一之宮は寒川神社であり、鶴ヶ岡八幡宮の名は存在しない。

それもそのはず、延喜式が成立したのは延長五(927)年。

一方、鶴岡八幡宮が創建されたのは建久二(1191)年。

つまり鎌倉幕府のゴリ推しで一之宮になったようなものだ。

それでも寒川神社は一之宮の座を明け渡さず、その地位を今なおキープしているのだから凄い。

(つづく)

[旅行日:2013年5月19日]

【話題の本棚】『ニッポンの「たたき台」 その手があったか!』フォーラム21・梅下村塾「あるべき、この国のかたち」を考える会

一巡せしもの[香取神宮]21

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少しの間ボーッとした後、佐原駅へ向けて再び歩き出す。

ここから駅方面は謂わば新市街地なのだが、なぜかこちら側のほうが古臭く感じる。

昭和の時代に建てられた建物が多く、古くもなければ新しくもない中途半端な時代感が漂っているせいだろう。

また、駐車場が多く空き地が目立つ点も、中途半端感を増幅している要因かもしれない。

駅近くには閉店した地元百貨店の清見屋が、亡霊のように空き店舗を晒している。

そこから駅へ向かう道に入ると突き当たりはT字路になっており、向こう側には空き地が広がっている。

もう一つの大型店だった十字屋が閉店し、解体された跡地とのことだ。

駅近辺は道が入り組んでいて自動車では来にくく、郊外の大型ショッピングモールから客を奪還するのは最早不可能だろう。

駅近エリアの商店街は“昭和レトロ”で統一し、重伝建地区の“明治大正レトロ”と複眼的なコンセプトのもとで、鉄道による集客戦略を立てでもしないと空洞化は止まるまい。

その突き当りを右に曲がると、JR佐原駅が姿を見せた。

重伝建地区の町並みと意匠を揃えた駅舎は外観を江戸時代の商家のように見せつつ、内側にはコンビニなど現代的な機能を備えている。

そのコンビニで缶ハイボールを1本購い、千葉行きの電車に乗り込んだ。

自家用車を使わず巡礼することが、これほど大変なことだとは!

動き出した電車の中で流れ行く車窓の景色を眺めつつ、ハイボールをゴクリと飲み下しながら、そう思った。

(下総国「香取神宮」おわり)

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]20

rj13香取t4u25

しかし、全て後の祭り。

それに、こうして実際に訪ねて気が付いたことなので、事前に察するには一層に調査が必要だったろう。

そもそも東京から高速バスで往復するのと、自家用車で行き来するのと、一体どこに違いがあるのか?

むしろ香取神宮からの帰路が遥遠なればこそ、参拝の有り難みも増すというもの。

帰路に徒歩を選び、却って良かった…と自らに言い聞かせながら夜道を歩くこと2時間弱。

県道16号線と交わる香取神宮入口の交差点を超えると、次第に家並みが古色を帯びてきた。

そのうち本当に古い建物がズラリと居並ぶようになり、目を奪われているうち小さな川へと行き当たる。

川の名は小野川、架かる橋は忠敬橋。ようやく佐原の旧市街地に到着した。

ここは文化庁から関東で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されたところ。

そのレトロな街並みは非常に趣があり、小野川に沿って暫し散策。

川っぺりのベンチに腰掛け、ライトアップの中に浮かび上がった古(いにしえ)の町並みを眺める。

とはいえ疲労困憊の身にとって、懐古的な味わいを存分に堪能するだけの余力は既にゼロ。

かねてから一度は訪れてみたかった街なのに…無念。

路線バスが運行されている土日祝、佐原の町並みを鑑賞した後で香取神宮を参拝する

…これがベストなのかも知れない。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]19

rj12香取t4u24

そんな思い付きを頭の中でボンヤリ巡らせながら県道55号線を歩くこと、かれこれ1時間弱。

突然、目の前に巨大な鳥居が姿を現した。横には社号標が立っており、一の鳥居なのは間違いない。

ここまで二の鳥居から道なりに約1.6キロ。ロクな歩道もなくクルマの量も多い香取神宮の表参道、まさに受難の道だ。

一の鳥居は二の鳥居、三の鳥居と比べても巨大な代物で、装飾を一切省いた典型的な明神鳥居。

唯一、島木に勅祭社の証である菊の御紋が三つ、あしらわれているのみ。

ちなみに勅使の御参向は6年に一度、子年と午年に遣わされるそうだ。

鳥居は朱塗りでもなく、石造りのようだが夜目にはコンクリート製にも見える。

比較的新しいようにも見えるが、明治時代には既に建立されており意外と古い。

こうして一の鳥居と出合っても気疲れのせいか、さしたる感慨も沸かず佐原駅へ向かって歩き続ける。

とはいえ、これなら香取駅へ引き返したほうがよかったと後悔至極。

それ以前に、出立の段階で選択肢を間違えたと痛感。

鹿島神宮行ではなく香取神宮行の直通高速バスに乗車すればよかったのだ。

バスは東京駅から1時間に1本の割合で出ている。

鹿島神宮行の本数に比べれば少ないが、需要がないだけに乗客も少ないはず。

香取神宮から香取駅まで歩き、JRで鹿島神宮駅へ移動し、そこから高速バスで東京駅まで帰ってこれたわけだし。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]18

rj11香取t4u21

ここからだと距離は約2キロ強。

洲崎神社参拝の際に歩いたフラワーロードを思えば、まあ何てことないだろう。

そう腹をくくって県道55号(山田佐原)線に足を踏み出したのだが…。

県道と参道が交差する少し先に、雰囲気のいい食堂があった。名を「川口園食堂」という。

建物は昔ながらの二階建て日本家屋で、庇の上には横長の大きな看板。

その下では真っ白な暖簾が客を手招きしているかのように風に揺れている。

この佇まい、食堂として見るからに「ストライク」。

ここで夕飯を済ませてから行こうか…心が揺らぐ。

しかし佐原駅までどれほど時間がかかるのか見当もつかない現状下では、先を急ぐ他ない。

県道55号線はフラワーラインとは真逆の意味で、最悪の道路だった。

まず歩道のない部分が圧倒的に多い割にクルマの通行量が多く、しかもスピードが速いので危険極まりない。

クルマだけに目が向き、歩行者のことを全くといっていいほど考慮していない県道…まさに“ボーソー半島”である。

でも、こんなところをクルマじゃなくポクポク歩いている人のほうこそ、よほど変わり者かも知れないが。

ただ歩くだけというのも退屈なので、香取と鹿島の二神の関係について考えてみた。

「常陸国風土記」で鹿島神は「香島天之大神」と記されており、奈良時代に鹿島は「香島」と呼ばれていたことが分かる。

ならば香取は実は「香鳥」で、利根川を挟んだ向こう側の香島と対になっていたのではなかろうか?

利根川の手前が香鳥で、向こう側が香島。

鳥なら川を飛び越えて簡単に島へ渡れる。

香取の語源は「舵(楫)取り」が詰まったものと言われているから、あくまで「香鳥」説は何の根拠もない妄想だけど。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]17

rj10香取t4u00

仲見世を抜けると、そこには広大な駐車場が広がり、その片隅にバス停が佇む。

停留所の掲示を見ると東京駅との間に直通の高速バスが運行されている。

しかし最終便は16時過ぎに出発済みで、もはやアウト。

別の停留所があったので掲示を見ると、幸いなことに佐原駅と結ぶ循環バスが運行されている。

次の便は17時5分発と、まだ多少の時間がある。

それまで仲見世の団子屋でコーヒーでも飲みながら待つか。

そんなノンキなことを考えていたら、恐るべし一文が目に止まった。

「運行日 土曜・日曜・祝日運行」

あいにく今日は平日で、まったくのヌカ喜び。

その下には、こうも記されている。

「※運休日 年末年始(12月29日~1月3日)」

「なんで正月の書き入れ時に休んでんだよ!」

腹立ち紛れに悪態をつくが、かといってバスが来るわけでもない。

香取駅まで歩くのも手だが、来た道を単純に引き返すのも芸の無い話、そういうことはしたくない。

それに完全に日が暮れている今、あの道を通りたくはない。

しかも近くの道標には「佐原の古い町並みコチラ」とある。

ここは迷わず、佐原駅まで歩くことに決めた。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]16

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長威斎の墓所を辞して表参道へ戻り“表玄関”へ。

ようやく朱塗りの大鳥居と社号標に“邂逅”した。

ここ参道正面に聳立する大鳥居は二の鳥居だと、参拝の栞に明記されている。

なら、どこに一の鳥居は存在するのだろう? 少なくとも津宮浜鳥居が違うのだけは確かだが。

大鳥居をくぐって境内を出ると、昔ながらの仲見世が続いていた。

食事処や和菓子屋、土産物屋などが軒を並べ、大きな神社ならではの風情が横溢している。

ただ、まだ17時前だというのに既に日が暮れて周囲は薄暗く、ほとんどの店が閉店間際。

結局どこにも寄らずに通りぬけたものの、何が名物なのか抜け目なくチェック。

団子、蕎麦といった神社の定番メニューに加え、何故かコーヒーを売りにしている店が目に付く。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]15

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香取神宮には不思議な神威があると直感した長威斎は、経津主命に千日千夜の大願を起こす。

昼は梅の木に向かって木刀を振り続け、夜は社殿で祈る毎日。

やがて3年の月日が流れ千日千夜を終えるころ、一心不乱に祈る長威斎の脳裏に経津主命の霊言が舞い降りた。

「兵法は平法なり。敵に勝つ者を上とし、敵を討つ者はこれに次ぐ」

兵法とは平和の法。大事なのは敵と戦って討つことではなく、敵と戦わずして勝つ方法を考えること、と悟る。

剣法の奥義を極めた長威斎は梅木山を下り、香取神宮で開眼したことから「天真正伝香取神道流」と命名し、近くに武術道場を開設した。

この話、鹿島新道流開祖の塚原卜伝と鹿島神宮の逸話とどこか似ている。

それもそのはず。卜伝は長威斎の門弟だったと言われているのだ。

長威斎は晩年、生家に近い香取郡飯篠村(現多古町)に如意山地福寺を創建。

それから2年後の長享2(1488)年、102歳で大往生を遂げたという。

墓所は小高い塚で、真ん中に上部が斜めに欠損した石板の碑が立っている。

そして塚のあるこの場所こそ、長威斎が修行に打ち込んだ梅木山だった。

石段下に立つ説明板によると、石碑の高さは90センチ強、幅は50センチ弱。

小さな石碑を眺めていると、長威斎は決して屈強な偉丈夫ではなかったような、そんな気がしてきた。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]14

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その目と鼻の先、香取神宮にも鹿島神宮と同様に要石がある。

なぜ両神宮に要石が存在するのか?

ここ香取の地も昔から地震が多く、その原因は地中に住み着いた大鯰が荒れ騒いでいるからで、その点では鹿島神宮と同じ。

そこで香取と鹿島の両大神は両側から地中幾十尺もの深さに石棒を突き刺し、大鯰の頭から尻尾まで貫通させた。

地上に顕れたその両端が要石だと伝わっている。ちなみに香取神宮が凸形、鹿島神宮は凹形だ。

それと、ここでも水戸の黄門様が貞享元(1684)年に参詣された折、要石を掘らせたという。

だが鹿島神宮と同様、やはり根元を見ることは叶わなかったそうだ。

更にその奥で「剣聖飯篠長威斎之墓」と墨書された看柱を見つける。

「神徳館」のところで登場した飯篠長威斎家直は室町時代中期に生まれた剣豪で、元は守護大名千葉胤直(ちばたねなお)の家臣。

ところが、お家騒動で主家が身内同士で殺し合い、無辜の民が戦に巻き込まれて犠牲になるのを目の当たりにし、武芸を以って生きることに絶望。

一時は足利八代将軍義政に仕官したこともあるほど有能だった長威斎だが、千葉家が断絶したのを機に仕官の道をキッパリ捨て去った。

そして世間から逃れるかのように、奥宮に近い梅木山へ隠居して神仏の道を志すことに。

そんな折、聖水が湧く神井戸を穢した人にバチが当たって即死したのを見た。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]13

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表参道を通って二の鳥居へ。

両側には石灯籠が整然と並んでいる。

東日本大震災で崩落の被害を受けたそうだが、現在ほぼ現状復帰しているように見える。

石灯籠の後ろ側は木々が鬱蒼と生い茂り、ただでさえ日没で薄暗い参道の闇を更に濃くしている。

公式サイトには「桜や楓が植えられており春の桜花・秋の紅葉は見事」とある。

だが、その光景は昼間の晴天時のものだろう。

今は真冬で、しかも逢う魔が時。

タイミングが“見事”なほどに真逆だ。

参道の途中で小路を右折し、経津主命の荒御魂を祀る奥宮に参詣する。

現在の社殿は昭和48(1973)年、伊勢神宮式年遷宮の折の古材を以って造営されたもの。

社殿は玉垣で覆われ全体像を拝むことはできないのだが、隙間から覗き見た御姿からは小さいながらも霊力を湛えた力強さを感じる。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]12

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拝殿の前に戻り、楼門と総門をくぐって再び表参道前へ。

総門を出ると右手にある古風な木造建築が目に入った。

道場「神徳館」。

“武神”香取神宮の“魂”とも言うべき建物。

門は閉ざされ中の様子は伺えないが、木造の門塀からは長きにわたって風雪に耐えてきた様子が伺える。

時代劇を見ていると、道場の床の間には必ずといっていいほど「香取大明神」の掛け軸が吊るされている。

「布都御魂剣」の神霊を祀る香取神宮が武道場の象徴として崇拝されるのは当然の理。

また、ここ香取神宮は飯篠長威斎家直(いいざさ ちょういさい いえなお)が創始した現存最古の武術流儀「天真正伝 香取神道流(てんしんしょうでん かとりしんとうりゅう)」が生まれたところ。

600年にわたって伝承されてきた香取神道流は念流、陰流と並ぶ兵法三大源流のひとつ神道流の元祖。

香取神宮が武道の象徴として崇拝されているのは布都御魂剣だけでなく、香取神道流の存在も大きいのだ。

それまで決まった「型」のなかった武術の世界に、長威斎は太刀、小太刀、長刀、居合抜刀、二刀流、棒術、薙刀、槍、鎖鎌、柔術、築城術など百般にも及ぶ武道の原型を作り上げた。

それらの「型」は昭和35(1960)年に千葉県無形文化財に指定され、その大半は「蜻蛉(とんぼ)伝書」と呼ばれる極意書とともに、長威斎の子孫である宗家二十代目の飯篠快貞氏によって確実に継承されている。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]11

それは「布都御魂剣」の神霊を、別々の有力氏族が守護神として崇め祀っていたからだという。

常総地方は中臣鎌足の出身地で、中臣氏=後の藤原氏が氏神様として祀っていたのが鹿島神。

一方の経津主命は、それ以前に物部氏との関わりが深かった。

しかし、物部氏は用明天皇2(西暦587)年に蘇我氏との抗争に破れて没落。

その後、物部氏は姓を石上氏(いそのかみうじ)に改め、こちらが宗家となった。

大和国石上神宮に「布都御魂剣」が祀られていると古事記に記されているのも、物部氏と石上氏の関係を知れば納得できる。

大国主命に対する国譲り神話で、本来なら経津主命が主役になってもおかしくないはずなのに。

例えば「出雲国風土記」に経津主命は「布都怒志命」として登場するが、武甕槌命は登場しない。

日本書紀には経津主命と武甕槌命の二神が揃って登場。

だが、古事記では武甕槌命しか登場せず、経津主命は出てこない。

なぜ、どれも同時代に編纂された歴史書なのに、両神の扱いが不統一なのか?

たぶん、オリジナルの神話では経津主命だけが天降って大国主命と国譲りを折衝したのだろう。

ところがヤマト王権が神話を再構成する段になると、王権内では藤原氏の勢力が著しく拡大していた。

藤原氏に気を使った編纂者は国譲り神話の主役を経津主命から、藤原氏の氏神様である武甕槌命に挿げ替えた。

このため、経津主命ではなく武甕槌命が前面に押し出されるようになった…という筋書きのようだ。

歴史上、敗者の弁は勝者の美談に押しやられ、深淵なる時の狭間に埋もれ、なかなか陽の目を見ることはない。

だからこそ、こうして想像力を逞しく働かせ、様々な推論を楽しむことができるというもの。

これはこれで有難い話だ。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]10

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本殿と末社の桜大刀自神社の間を通り、白いベールに覆われた本殿の後ろ側を眺めつつ進むと、正面には摂社の匝瑳神社。

隣に神饌殿、向かい側に三本杉。その中心に円錐形の砂山が盛られ、周囲に注連縄が張られ、紙垂が下がっている。

この盛砂は「立砂(たてすな)」と呼ばれる一種の神籬(かもろぎ)、つまり神様が降りられる憑代(よりしろ)だ。

立砂を眺めつつ、武甕槌命と経津主命の関係について再び考えてみた。

両命は由来が酷似していることから、元は同じ神が時代の経過とともに二分したかのように見える。

しかし、奈良時代の養老5(721)年に成立した「常陸国風土記」では鹿島と香取それぞれに記述がある。

「普都(ふつ)大神と名乗る神が降りて」という記述から、もともと香取神は常総地方土着の守護神だったものと思われる。

一方では鹿島神が船で陸と海を自在に往来し、同神を祀る社に武具が奉納されたと記述されている。

武甕槌命と経津主命は、それぞれ全く別の神々だったのは確かな模様。

なのになぜ、鹿島と香取の両神は同一神と見做されるほど親しい関係にあるのだろう?

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]09


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御神木を見やりつつ拝殿の右側から裏手に回り、空高く組まれた足場の隙間から本殿を眺める。

本殿も楼門と同様に元禄13(1700)年の造営で、現存する三間社流造の中では最も大きい。

こちらは昭和52(1977)年に国の重要文化財に指定されている。

現在の工事は平成25(2013)年4月に斎行される式年大祭へ向けた屋根の葺き替えと漆塗りの補修とのこと。

本殿の裏手から更に奥へ。

樹齢を幾年も重ねてきた大木の森を抜けると、そこにあるのは茶店「寒香亭」。

店先にはこまごまとした土産物が並び、奥にはストーブが赤々と燃え、品書きには、おでんに団子と甘酒にところてん。

まさに神社の茶店を絵に書いたような佇まい。

こういう茶店が好きで堪らない。

だが今回は日没が迫っており、立ち寄ることなく再び境内へと引き返す。

今度は「参拝の栞」の境内見取り図を見ながら、来た道とは反対側へグルリと回ってみる。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]08

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そういえば神武天皇が熊野で悪神の毒気で大ピンチに陥った際、武甕槌命が自らの代わりに送った神剣の名は「布都御魂剣」(ふつのみたまのつるぎ)。

この「ふつ」という音は古代、刀剣が物を切り裂くことを意味していた。

「ふつぬしのみこと」が神剣「ふつのみたまのつるぎ」を神格化したのは間違いないところだろう。

こうした事柄を合わせて考えるに「武甕槌命と経津主命は同じ神だったのではなかろうか?」なる思いが湧いてくる。

拝殿を正面にして右側を向けば、そこには祈祷殿が構えている。

以前は拝殿だった建物で、今の拝殿が昭和15(1940)年に建造されたのを機に移築されたもの。

現在の拝殿より小ぶりだが端正で落ち着いた佇まいからは、古社への信仰を長らく受け止め続けてきた矜持が感じられる。

祈祷殿と拝殿の間に、見るからに霊験あらたかな巨木が聳立している。

樹齢約1000年とも伝わる御神木で、両腕を広げて取り囲んだなら5人は必要だろうと思われる太さ。

幹の周径は10メートルを超えているものと思われる。

もちろん抱擁できるまで近づくことはできないが。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]07

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現在の拝殿は昭和15(1940)年に造営されたもので、檜皮葺き屋根の権現造り。

全体に渋い黒漆塗りで、鮮やかな朱色の楼門とのコントラストが対照的だ。

庇の下を左右に貫く長押(なげし)の上には極彩色の蟇股(かえるまた)が据えられている。

蟇股とはカエルが足を広げた形に似た装飾材。

股の間に設えられた禽獣花鳥の彫刻が美しい。

拝殿の前で頭を垂れて瞳を閉じ、柏手を打ち両胸の前で手を合わせる。

香取神宮が創建されたのは神武天皇18年、西暦にすると紀元前643年のこと。

御祭神の経津主命は別名「伊波比主命(いはひぬしのみこと)」又は「斎主神(いはひぬしのかみ)」とも。

つまり伊波比主とは斎主、すなわち祭祀者のことを指しているという説もあるそうだ。

果たして何を祭祀している者だったのか?

経津主命もまた鹿島神宮の御祭神である武甕槌命と同様の“武神”。

しかも伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)の首を切り落とした際、剣から滴る血が固まって生まれた剣の神という“誕生譚”も一緒。

さらには天照大神の国譲り戦略でも、武甕槌命と共に大国主命から地上統治権を奪取する功績を挙げたと伝わている。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]06

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その鳥居をくぐり、横に長い石段を上がり総門を通り抜け、クランク状になった参道を右に進むと、左側に朱塗りの壮麗な楼門が姿を見せた。

造営は元禄13(1700)年というから、徳川五代将軍綱吉の治世下。

昭和58(1983)年には国の重要文化財に指定されている。

楼門を通る前に顔を上げ、扁額を見やる。

香取神宮の扁額もまた鹿島神宮と同様、東郷平八郎元帥の揮毫によるものだ。

楼門を抜けると重厚な社殿がドンと待ち構えている…と思いきや。

こちらも鹿島神宮と同様、ただいま「平成の大修理」真っ最中。

拝殿のファザードだけが顔を出し、後方の幣殿と本殿は薄いヴェールと作業用の足場で覆われている。

社殿の全体像を拝見できないのは残念だが、こうした不断の手入れが重要文化財を後世に伝えることにつながるのだ、我慢しよう。

[旅行日:2012年12月18日]

一巡せしもの[香取神宮]05

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香取神宮の境内に入る少し手前で、小さな池の中に立つ小さな鳥居に出合う。

背後の山から流れ落ちる伏水を祀ったのだろうか。

池を包む木々の緑と、渋く赤錆びた鳥居の織りなすコントラストが美しい。

香取交差点から30分は優に歩いたろうか。

坂を登り切ると大きな道に行き当たった。

交差点の中央に「雨乞塚」が佇んでいる。

それを見ながら左折して直進すると、唐突に境内へ出た。

裏道から来た格好なので社号標のある二の鳥居をくぐらず、いきなり社殿の前に出てしまった格好。

それでは具合が悪いので、正面からキチンと参拝するため境内を右側へと回りこむ。

やがて巨大な鳥居が姿を現し、総門の前に出た。

石造りの巨大な鳥居で、後々調べたところでは三の鳥居に当たるらしい。

しかし裏からヒョイと出てきた身には、何番目の鳥居かは知る由もない。

[旅行日:2012年12月18日]
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